一年後。
駅から遠く――しかし静かな片田舎では逆に列車の音は街中に響くという事で、田園風景が広がりつつもさりとて田舎でもない――そんな街、緑川市に引っ越すこととした。
笑わない少女が産まれて4年目に突入した出来事。
少女の物語はそこから始まる。
緑川市はスポーツ振興のために小さいながらも新しい野球場があった。
笑わない少女には姉がいる。
名前を夏輝(なつき)。
年は5歳、来年には小学生。
少し男の子っぽい名前と性格。
この少女は夏の太陽のように明るくとても妹想いの良姉だった。
彼女は少しでも妹に笑顔が戻って欲しいと引っ越したばかりの新天地で探検と称し妹を連れだす。
その妹の様子がおかしくなったのは野球場の前での事だった――
(うじうじしたまま1年経っちまった……。女々しいにも程があるぜ――あ、今女だっけ)
かつてはプロ入りを確実視されていた剛腕投手、堂島闘矢――が前世である少女。
名前は
初め雲母をうんもと読んでいたら違っていたという恥ずかしい過去を持つ。
次いで雲母が名前だと勘違いしていた事もある。
それは兎も角。
基本、お気楽者な彼も怪我で1年以上鬱屈した想いを抱いたせいか踏ん切りはつかなかった。
しかし人間の3大欲求に野球欲をプラスする闘矢にとっては何もしないという選択肢も無理。
軽く運動をしつつ、今度は怪我しにくい肉体に改造してやろうと密かに企んでいた。
だがある事実に気付いた途端モチベーションが富士山からノーバンジーで落ちたくらい急降下した。
その事実とは――
「高野連、頭固い。甲子園、絶望的……」
「どーしたのー?」
「なんでも、ない」
表出性言語障害――のせいか分からないが日本語覚えたての外国人よろしく、片言しか喋れない雪那。
彼――以降、彼女としよう――は気付いてしまった。
女性は甲子園に出場出来ないと。
それは彼女にとっては重大な問題だった。
女子プロ野球は存在する。
日本女子プロ野球機構(通称:JWBL)は2009年設立。
2010年から開始された。
以降の動きは知らないが確かに存在する。
しかし、彼女にとって無念なのは甲子園。
長い人生の中でたった3年間しか出場機会の無い甲子園の舞台に立つ――高校球児なら誰もが憧れるあの大舞台のマウンドに立つのが彼の夢だった。
夢にでも出てくるくらいの熱い想い。
それが叶えられないのが悔しくてたまらない。
甲子園は医学上男子でないと出場は出来ない。
野球部には所属できるし、過去数人の女性が野球部に所属していた事実もある。
しかしかつて高知県の知事が女性を出場させて欲しいという願いを出したが高野連が拒否したとう過去があり、彼女も知っていた。
ただの1個人である雪那にはどうしようもなかった。
(いっそ今から、出場させろーって運動でもしてみるか? 子供の戯言で済まされるかな、やっぱ。
あー運動は少しずつしてるけど、野球……してえな)
1年間ただ悩んだのではない。
少しずつではあるが体を鍛え始めてはいる。
とはいっても線路前絶叫事件以降、両親は雪那に対して過保護な面がある。
室内でストレッチをしたり、鏡の前でフォームチェックをしたりなど高校時代に比べたら温いの一言。
必ず外出する時は両親どちらか同伴。
今日も母、都が付いて来ていたのだがやんちゃ盛りの夏輝が「大冒険」と称してこっそり雪那を伴って逃走していたのだった。
父譲りの赤髪に八重歯を覗かせる夏輝は元気娘そのもの。
母譲りの蒼髪と静かに落ち着いた雰囲気を持つ雪那とは姉妹とは思えない程対象的だった。
「ねーねー次はあっち行こう!」
「……うん」
悩み中でぼーっとしている雪那を夏輝は手を引いて歩いている。
細い路地裏を通り、塀の上の猫に強襲したり……。
姉、夏輝は雪のように真っ白で静かに歩く妹を振り向かせようとあれこれと街を連れ歩く。
すると、ピタッ雪那が立ち止る。
手を繋いだままだった夏輝はたたらを踏みつつ愛妹を見やと、
「聞こえる」
「せーちゃんどーしたの?」
「金属音、グローブのキャッチ音、砂を滑る音」
「せーちゃん……?」
「こっちだ」
いきなり手を振りほどく雪那。
緑色の塀が長く続くこの場所は野球場だった。
目を白黒させる夏輝を置いてきぼりにし彼女はひた走る。
1年間我慢していたのだ。
家ではTVをあまり見ていなかった。
見たら野球がやりたいという想いが爆発しそうで――でもあとで甲子園に出場できないという事実に絶望しそうで――そんな葛藤から中途半端なスタンスを取る。
つまりとりあえず体は鍛えておこう、と。
でも駄目だった。
雪那には確かに感じる。
カキン!
鋭く響く快音、続くザリッと土を踏みしめる音――ああノックの練習だ。
パン、パン、パン。
軽いキャッチ音――ああキャッチボールの練習だ。
「ふぁいおーふぁいおー!」男にしては高い声だが掛け声がしている声――ああランニングだろうな。
「あった!」
長く続く塀。太陽が西に傾き影を作るこの場所は薄暗い。
また小さい自分では覗く事が出来ない。
しかし中に入る入口はあるはずだと走り回ったところ発見したのは金網の扉。
幸い鍵は掛かっておらず、キィ! という甲高い音を響かせつつ敷地内に侵入する。
先の道は野球場より低い位置にあったせいか階段が上へと続く。
雪那は逸る気持ちを落ちつけようとせず階段を一気に駆け上がる。
「野球! 野球!」
急にダッシュしたせいもありバクバク心臓は高鳴っている。
だがその心音には高揚感という音も混じっていた。
とことん野球バカなんだな俺、などと思いつつ一段一段進む。
うす暗い階段の先は光が溢れてよく見えない。
そして最後の一段を踏みしめ光の中へと飛び込む。
その先に広がっていた光景は――
(え? こいつらは――?)
目の前には土のグラウンド。
各々がノックやキャッチボールをしている。
ボールは遠目からわかる白球――おそらく軟球だろう。
だからこそ気づく違和感。
それは、
「全員、女子?」
ざっと30名。
長い髪、膨らんだ胸。
まさしく女性。
そうグラウンドで統一された赤いユニフォームを着た全員が女性であり、使用しているボールからソフトボールではない事は容易に察せられた。
「女子、野球?」
未だと止まらない胸の鼓動。
ドクドクと全身に命の活力を送っている。
雪那の息はすでに整っていた。