人類は壁の向こうに衰退しましたが、人魚はよく釣れます。(完結) 作:ダブルパン
ある麗らかな昼下がり。
貴族の相手にも飽き、暇を持て余したピクシス司令は共の者も連れずに視察がてら釣竿を引っ提げて壁にやってきた。
壁の見張りがてらに欠伸をしながら縁に座り、のんびり釣竿を垂らしていた兵士たちはもちろん驚いた。司令の姿を見るや否やすぐさま立ち上がり、心臓を捧げる敬礼姿勢を取る。
「いや、構わん。釣りを続けてなさい」
にこやかに片手を上げ、釣竿を肩に当ててのらりくらりと壁の上を歩むピクシス司令。しかし、兵士の前を通り過ぎた直後にふと振り返る。
「そうじゃ、巨人面魚どもの様子はどうかね?」
「はっ、今日も奴らは海の中を泳いていて、こちらに向かってくる様子は全くありません」
「そりゃそうじゃろうな。結構結構。海に落ちんよう気を付けてな」
はっはっはと笑いながら、ぽかんとしている兵士から視線をそらし、ピクシス司令は壁の上をのんびり歩いて行った。
☆ ☆ ☆
「どれ、この辺りかの」
見張りの兵士も少ないこの壁の上で、司令はどっかりと腰を下ろすとベルトにぶら下げたスキットルを手に取りぐいっと中身を煽る。
強い酒の香りが喉の奥へと滑り込み、高い度数のアルコールが粘膜を焼く独特の熱間が通り過ぎる。と、頭がぽうっと熱くなり、視界がいっしゅんぐにゃりと歪んだ。司令としては、壁の上で飲むこいつが堪らない。側近の部下からは危ないから壁の上ではあまり飲むなと窘められるが、ダテや酔狂で駐屯兵団の南部司令官をやっているわけではない。この程度で壁から落ちる訳が無いのだ。
今日は大小の雲がのんびりと流れていく良い天気。
人類の天敵たる巨人はどこかに消え失せ、代わりに出現した巨人面魚も調査兵団との共同調査の結果、陸上では生活出来ない事が判明している。本日も今日とて天下泰平。駐屯兵団は絶賛暇を持て余していた。
「よっし、今日は大物を狙うとするかの」
スキットルの中身を飲み干し、良い具合に体が暖かくなってきた所で持ってきた収納式の釣竿をするすると伸ばす。先端に糸と釣針を付け、そして先ほど壁の下で買ってきた釣り餌のイソメを針に取り付けようとすると――。
「あのー。その大きさじゃ、針に対して虫エサが小さすぎますよ」
ピクシス指令が顔を上げると、そこにはまだ年の若い少年が壁の上に座り、釣竿を片手に釣りをしていた。
ツンツン頭にラフなパーカー姿。見ない顔だが、新兵だろうか。しかしそれにしても兵団服を着ていないのはどうにもおかしい。一般市民だろうか。ならば、兵士しか登れぬこの壁を一体どうやって登って来たのだろう。見張りが賄賂でも貰ったのだろうか。だが、金持ちそうには全く見えない。
司令はアルコールに茹った頭で考えるが、どの理由もおかしい気がする。
「あの……どうしました?」
しばらく考えてみて、ふと気づいた。少年からは悪意や敵意のようなものは感じない。
それならば、まぁ良いか。
アバウトな決断をしたピクシス司令は軽く頭を掻くと、釣りをしているその少年の横へ移動する。
「ふむ、実は釣りは最近初めたばかりでな。虫を付けるのもあまりやったことがないのだ。少年、お主ならばどうやる?」
ぶはーっと司令が酒臭い息を吐くと、少年はあからさまに嫌そうな顔をした。
「お爺さん、酒臭いですよ。釣りをする前にこういう海でお酒を飲むとマジで落ちますよ?」
「良いんじゃ良いんじゃ。壁の上は慣れてるからの」
「そういうふうに、慣れてるって言う人が一番危ないんですよ」
「むむ、なかなか手厳しいのう」
はっはっは、と笑う司令に少年は呆れたように息をつくと立ち上がった。そしてピクシス司令の持ってきた釣竿を手に取ると、大ぶりのイソメを釣針に取り付けていく。
「随分慣れた手つきじゃのう」
「まぁ、ガキの頃からやってますしね。こうやって、虫で針を隠す様に刺すんです。はい完成」
「お、有難い」
イソメのついた釣竿を渡された司令はヒュンと海の中に糸を垂らす。と、隣に居た少年もまた壁に座り込み、再び釣り糸を海に垂らした。
「お、きたきた」
少年の方の釣竿に当たりが来たようだ。少年は竿につけられた糸巻器のようなものをグルグルと回し、海からザバァっと音を立ててあげられたのは中々に大振りのカツオだ。
「おお!! 大物だの!!」
「いやいや、このあたりならまだまだ大きいのが狙えますよ!!」
「大物と言うと、例えば人魚とかかな?」
ニヤリ、と司令が笑うと、少年はギクリとする。
「やはりお前さん、むろみ嬢の知り合いか?」
ピクシス司令が問い詰めれば、少年は解りやすくも困った顔で頬を掻く。
「いや……まぁ……うーん、やっぱり解っちゃいます?」
「解るも何も、お主みたいな少年は普通この壁の上には来れんよ」
はっはっはと笑う司令に、少年は「敵わないなぁ……」とぼやいた。
「あの、むろみさんってこっちの人と仲良くやってます?」
「んむ。毎日どこかの竿に引っかかってはどこぞの兵士と毎晩飲み歩いとるぞ」
「あー……やっぱりまだ飲んでるんスね。しかもそっちの人に迷惑かけてるっぽくて、何か済みません……」
「良いんじゃ。この壁の中が今こんなにも明るいのは、彼女たち人魚が居てくれるおかげじゃ。特にむろみ嬢はな。一緒に酒を飲むくらい、こちらからお願いしたいくらいじゃよ」
笑う司令に、困った顔の少年は苦笑いをする。
「でもまぁ、むろみさんが元気そうで安心しましたよ」
そして、少年はその場を立ち上がる。
「なんじゃ、もう行くのか?」
「ええ。時間が来たんでそろそろ行きますよ。そういえばお爺さんの竿、先ほどから魚がかかってますよ」
少年が指を示すと、確かに司令の竿がピクピクと動き当たりを示していた。
「おお!? これは中々に!?」
その場に立ち上がったピクシス司令が巨大な魚に負けまいと竿を引っ張ると、ザバァっと海からむろみさんが釣れた。
「イソメうまかっちゃん!!」
「おお、噂をすればむろみ嬢ではないか!!」
「何なに? アタシの噂話? いやーんアタシってば超モテモテやん!? で、誰と?」
「それは、そこの少年とだな……おや?」
壁の上に立ったむろみさんに、隣に居た少年を指差そうとしてピクシス司令は不思議そうな顔をした。
「どこにもおらんやん」
その通り、先ほどまで居たはずの少年は、どこにも居なかった。
「おかしいのう。さっきはちゃんと居たんだが……」
「ンな事言ってー、酔っぱらって幻でも見たんちゃうの?」
「そうかのー?」
「そうそう!! ねぇピクシス。酔っぱらいついでにこれからどっか飲みに行かん? アタシまた芋のお酒飲みたい!」
「んーむ……ワシは釣りに来たばかりなんじゃが……。まぁ良いか。よし! それでは飲みに行くとするか! 今日はワシがおごるぞ!」
「よっしゃー!! 流石司令太っ腹ー!!」
海から糸を引き上げた竿を仕舞うピクシス司令に、どこかで少年が「行くんかい!」と突っ込みを入れた気がした。が、それはそよりと吹いた風の中に溶けて消える。
後に残されたのは、楽しそうにはしゃぐむろみさんと、久しぶりに人魚と飲みに行ける南方司令官の笑い声。
今日も今日とて、人類は壁の中。