すやすやと安らかな寝息を立てる少女の傍らに俺はいた。
ローさんの薬のおかげで熱はすっかり下がり、彼女の容態は落ち着いていた。火照っていた頬も元の白さを取り戻しつつある。しかし、その寝顔だけは依然として苦しげに顰められたままだ。
ローさんの話によれば、栄養失調による抵抗力の低下が原因の急性上気道炎らしい。「なんですかそれ?!」って慌てて聞いたら「ただの風邪だバカ」って言われた。だったら最初からそう言ってくれればいいのに……。
まァ、何はともあれ大変な病気じゃなくてよかった――と安心できればよかったのだけど、話はここで終わらなかった。
肝心の外傷の話だ。俺の手にべったりと付いた血の量からして決して軽い傷ではないだろうと予想された。なのに、
『傷はそこら中にあったが、全部古傷だ。血が出るような外傷はひとつもねェ』
それがローさんの診察の結果だった。つまりどういうことなのかというと、あの血は彼女のものではないということだ。ならば一体誰の血だというのか。
規則正しく上下する胸を何とはなしに見ながら、俺はぐるぐると彼女についての考えを巡らせる。ひとつ、思いつく可能性があった。あの酒場での事件の話だ。五人の男を倒したのは10歳くらいの少女だったと言っていた。子供の年齢はよくわからないが、この子も確かにそのくらいに見える。
あの服についていた血は、全部そのときの返り血なんじゃないか……?
一度そう考えると、それ以外の可能性が思いつかなくなる。
だけど、俺はそのことについてローさんに黙っていた。だってまだそうと決まったわけじゃない。むしろ違っていてほしいと思う気持ちが、そうさせたのかもしれない。といっても、ローさんは何か勘付いているようだった。それでも何も聞かず、代わりに「何故」と目で俺に問うた。
「何故そうまでしてこの見ず知らずの少女に肩入れをする?」と。
理由はある。同情したんだ、「親は? 家は?」と聞いて首を振った彼女に。そして、そんな彼女に行き場所のない自分の姿を重ねた。
「自己満足にもほどがあるっつー……」
重く溜め息を吐き出して、俺は力なく項垂れる。
しばらくそうして過ごしていると、不意にもぞもぞと身動きをする音が聞こえてきた。バッと顔を上げると、ちょうど彼女が目を覚ましたところだった。
いきなり襲いかかられる、なんてことはないよな……。
息を潜めてじっと彼女を見ていると、ぼんやりしていた彼女の目が俺を捉えた。初めてまともに見たその瞳は、透き通るような深い青色だった。
「…………」
「…………」
彼女は無言で俺を見つめた。どうすればいいのかわからず、とりあえず俺も無言で彼女を見返したのだが……、いつまで経っても口を開く様子がない。普通「ここはどこ?」とか「あなたは誰?」とか、聞くもんじゃないのか。
なんか思ってたのとだいぶ違うな……。もっと最初のときみたいに警戒されるもんだと思っていたのに、今はただぼけっとしているだけだ。
二人して黙り込んでいても仕方がないので、結局俺が折れた。
「えーっと……俺は千歳っていうんだけど……、倒れる前のこと覚えてる?」
「…………」
「噴水のとこで君が突然倒れたんで、ここに連れてきたんだ。ここは知り合いの医者の家みたいなもんなんだけど」
「…………」
「ローさん、あっ、医者の人ね、が言うにはただの風邪らしいから。薬ももう打ったし、安静にしてればすぐに治るだろうって……」
一人でしゃべっているのが虚しい……。返事もなければ反応もなく、彼女は聞いているのかいないのかわからないような態度でひたすらに俺を見る。ちゃんと言葉通じてるよな? めちゃくちゃ不安なんだが……。
もはや逃げ出したいような気持ちになりながら、俺は次に言うべき言葉を探す。そうしていると、突然ぐううっと聞き覚えのある音が鳴り響いた。腹の虫の鳴る音だ。そういえば、この子お腹減らしてたんだった。
「そうだ、俺お粥作ったんだ。温めて持ってくるからちょっと待っててな」
大人しくしているようにと意味を込めて頭をぽんと撫で、俺は医務室を出た。
厨房に入ると、いつものようにイッカクさんがそこにいて、包丁や換気扇の手入れをしていた。
「お、チトセ。あのお嬢ちゃん目ェ覚めたのか?」
「はい。なので今からお粥を持っていこうかと」
「どんな様子だ?」
「うーん、なんかずっとぼーっとしてます」
答えながら、土鍋の乗ったコンロに火を入れる。お粥なんて初めて作ったけど、まあまあうまくできたんじゃないかと思う。まァ、イッカクさんの指導の下で作ったんだから当然だけどな。
「それにしても、お前、とんだお人好しだなァ。見ず知らずの子供を助けるなんて」
「え、いや、そんなことは……」
さっきそのことで自己嫌悪に陥ったばかりだっただけに、気まずかった。慌てて話題を逸らすように、「お人好しっていうなら、ローさんも意外とそうですよね」と言う。
「俺のことこの島まで送り届けてくれたり、あの女の子だって結局診てくれたし」
「いやァ、船長はお人好しっていうより、ただ気まぐれなだけさ。まァ確かに、身内には少し甘いところがあるがな」
「そうなんですか」
「そうなんですかって、お前だって半分身内みたいなもんだろ。だからあのお嬢ちゃんのことだって診たんだろうし」
「えっ」
考えてもみないことを言われて目を丸くする俺を、イッカクさんは顔に笑みを浮かべて見る。
いや、確かにローさんなら診てくれるって思ったからここに来たわけなんだけど……。でも、“半分身内”って、もしローさんがそう思ってくれてるなら、ちょっとかなり嬉しい。結構どうでもいい存在なんだと思われてると思ってた。ちょっとニヤニヤしちまうじゃねーか。
「つって、実はいろいろ計算してたりするから、あの人は侮れないんだけどな」
「あー、確かに、そんな感じですね」
そう相槌を打った頃、お粥がぐつぐつと煮立ち始めた。火を止めて、お椀に少なめによそう。
「じゃあできたみたいなんで、いきますね」
「ああ。火傷に気をつけてな」
「はい! お粥作るの手伝ってくれてありがとうございました」
そうお礼を言うと、俺は湯気の立つお椀を持ってまた医務室へと向かった。
「ただいまー」
言いながらそっと中に入ると、彼女は上半身を起こした状態で相変わらずぼーっと宙を眺めていた。うーん、この子ほんとに大丈夫かな……。
「お粥、食べられそうかな?」
「…………」
「初めて作ったんだけど、結構おいしくできたと思うんだ。熱いから、気をつけてね」
返事はないけど、お椀を差し出すと彼女はそれを受け取った。
湯気の立つお粥を、なにか不思議なものでも見るように彼女はじっと見つめる。なんか野生動物を餌付けしてるみたいな気分だ。
ドキドキしながらその様子を見守っていると、やがて彼女はお粥を一掬いし、ゆっくりと口へと運んでいった。
ぱくり もぐもぐ ごっくん
「…………おいしい」
し、しゃべった……!! しかもおいしいって!! え、これ、空耳じゃないよな?!
「ほ、ほんとっ?」
聞くと、彼女はこくりと頷いた。は、反応が返ってくる……!
俺がじーんと感動に身を浸している間にも、彼女はぱくぱくとお粥を口に運び、あっという間に全部食べてしまった。
「あ、おかわりあるけど、どうする? 食べる?」
空になったお椀を受け取りながら尋ねると、しばらくの沈黙のあと彼女はまたこくりと頷いた。そのとき、ほんとに一瞬だけど、微笑んだように見えた。
その表情は普通の子供のもので、俺は警戒していた自分をバカらしく思った。なんだよ、案外普通の子じゃんか。
よかった、と内心ほっと息を吐いたとき、バタバタと落ち着きない足音がしたかと思うと、突然ガチャリと医務室のドアが開いた。
「チトセっ、戻ってきてるってほんとか?!」
そう言いながら入ってきたのはシャチさんだ。その後ろからペンギンさんも現れる。
ぽかんとする俺を余所に、ペンギンさんがシャチさんの頭を軽くはたく。
「このバカ。病人の看病してるって聞いただろ?」
「あっ、ごめん」
「あ、いえ、寝てたわけじゃないんで一応大丈夫ですよ」
と彼女を振り返ったところで、俺は固まった。
それまでなんの感情も浮かべずぼんやりとしていた青色の瞳が、明らかな敵意を持ってシャチさんとペンギンさんを睨み付けていた。纏う空気も心なしか殺気立っている。
「海賊……」
そう小さく呟く声が聞こえて、ハッとした。彼女が睨んでいたのは、正確には彼らの胸に描かれたジョリー・ロジャー……。
俺はすぐにこの人たちに危険はないことを説明しようとしたのだが、それよりも彼女が動き出す方が早かった。
彼女は瞬時に布団を大きく翻して、俺たちの視界を遮った。ベッドシーツの白が視界を埋める中、直後に聞こえてきたのはガラスが派手に割れる音だった。続けて水の跳ねる音がする。それは本当に一瞬の出来事だった。
視界を遮るものがなくなったときには彼女の姿はそこになく、無残に割れた窓とその破片だけが残されていた。
「えええええっ??!!」
俺は慌てて窓に駆け寄って外を見たが、見えるのは海だけ。どこにもあの子の姿はない。潜って泳いでいっちゃった……のか?
「…………なん、だったんだ?」
「……おれに聞くなよ」
「……すいません、俺にもさっぱりです……」
「――で、窓を割って逃げた、と」
「はい……」
腕組みするローさんの前で俺はしゅんと肩を縮ませた。
無理言って診てもらった女の子が窓を割って逃走って……。迷惑かけ過ぎて、もうどう責任とればいいのかわからん。
「ほんっとすいません……」
「顔上げろ。別にお前を責めちゃいねェよ」
言われるままに顔をあげると、そこにはニヤリと笑う悪い顔をしたローさんがいた。な、なんで笑ってんだこの人……。怖ェ……。
「ろ、ローさん……?」
「あのガキを診たのも、この船に乗せたのも、俺の判断でしたことだ。その責任をお前に問うほど、俺は狭量じゃねェつもりだ」
こういうかっこいい台詞さらっと言っちゃうのがね、さすが一海賊団の船長っていうか。
「この人に付いてこう」って気持ちにさせられるよねェ。付いてかないけど。
でも、ねェ、本当どうしてそんなドヤニヤしてるんですか。
「とはいえ、多少の埋め合わせはしてもらうがな」
「も、もちろんです! というか、むしろさせてください! じゃないと、申し訳なさ過ぎて俺が死にそうです」
「気の小せェ奴だな」
「笑わないでくださいよ、こっちは真剣なんですから……」
「そりゃ悪かったな」
口では謝っているけど、ローさんは笑ったままだ。くそう、ヘタレでビビリな一般人がそんなに面白いかよ。
「とりあえず、新しい窓ガラスを買ってこい」
「はい」
「シャチ、お前も一緒に行け」
俺の後ろに控えていたペンギンさんとシャチさんのうち、シャチさんだけに声がかかる。
後ろを振り返るとちょうどシャチさんと目が合い、俺たちは互いにへらりと笑みを交わした。
本日二度目に街を歩きながら、俺はシャチさんにあの少女を拾った経緯を話した。それで気付いたのだが、俺はあの子の名前すら聞いていなかったのだ。うーん、結局彼女は何者だったんだろう。どうしてお腹を減らしていたのか、どうして血まみれだったのか、どうしてあんな風に逃げたのか……。彼女についてはわからないことだらけだ。
俺とシャチさんは二人で首を傾げたが、当然ながら答えは出なかった。と、不意にシャチさんが「そういえば」と口を開いた。
「どうして船長の服着てるんだ?」
「え、ああ……借りたんですよ。最初に着てたのは、その女の子運んだときに血で汚れちゃったんで」
「へええ」
そうなのだ、なんと俺が今着ているのはローさんの私服。ツナギでいいですって言ったのに「おれの服が着れねェってのか」とか迷惑な酔っ払いみたいな台詞で押し付けられてしまったのだ。
上はTシャツだからいいとして、下がね……。あの人足長過ぎんだよバカ野郎……。何回裾折ったと思ってんだ! ちくしょう……。
「船長の服いいなァ~」
「……今度頼んでみたらどうっすか。案外快く貸してくれるかもしれないですよ」
俺が投げやりに答えたそのとき、足元になにかが転がってきた。
「なんだ?」
ボールかなにかかと思って足元を見ると、そこにあったのは小さな筒だった。
なんだこれ? と思った直後、その筒が突然煙を吹き始めた。見る見るうちに視界が曇っていく。
「えっ?!」
「煙幕っ?!」
俺たちが声を上げるのと同時に、異変を察知した通行人たちも騒ぎ始める。悲鳴のような声がそこかしこで上がる。
その間にも煙はますます視界を覆い、すぐ隣にいたはずのシャチさんの姿さえ見えなくなった。
「シャチさん?!」
名前を呼んでも返事がない。なにかあったのか?! どうしよう?! どうすればいいんだ?!
俺はいよいよパニックに陥った。が、その恐慌状態も長くは続かなかった。背後から突然の殴打が俺を襲い、思考は強制的にシャットダウンさせられる。
「ッ……!!」
そして、ブラックアウト。
お気づきかとは思いますが、彼女がうちのヒロインです。
念のため言いますが、主人公は別にロリコンではありません。