チトセは悪魔の実を食べなかったことにしました。これに伴い、13話以降をところどころ修正しましたが、基本的な話の流れは変わりませんので、チトセが普通の人間に成り下がったことだけご理解いただければ読み直す必要はないかと思われます。
「おォ、チトセ! こんなところで会うとは奇遇だなァ。ローはどうした?」
シーザーは、いかにもわざとらしく親しげな様子で俺に話しかけてきた。その顔に貼り付いた薄い笑みに胃がむかむかとする。子供たちと茶ひげさんのことが頭の中をよぎると、頭の奥がカッと熱くなって自然と拳に力が入った。
すぐにでも殴りかかりたい衝動に駆られたが、それを引き留めるだけの冷静さはなんとか残っていた。
ここで感情的になって突っ走ってもいいことはない。シーザーはむかつくが、今は子供たちを守ることが最優先だ。
突然現れた奴に、ナミとウソップも身構える。
「こいつがシーザー……?! 子供たちを攫って、薬物を与えていた張本人……!?」
ナミの言葉に首肯で応えると、ウソップは「なんでここに……!?」と当然の疑問を口にした。俺も同じ疑問を抱いたが、すぐに別のことに気を取られた。
シーザーのこの反応――俺がここにいることにまるで驚いていない。むしろ余裕そのものと言っていい。奴は俺がここにいることをあらかじめ知っていた?
そのことに気が付くと、さっきのシーザーの「ローはどうした」という言葉にも引っかかりを覚えた。からかうような含みのある言い方と、この状況であえて船長のことを聞いてきたという事実。シーザーは船長が今どうしているかを知っている。それどころか――、と悪い予感に胸がざわついたとき、
「なァんてな!! お前らの企みはすべて筒抜けだ、バカめ!!」
変な猫かぶりを取っ払って、シーザーが盛大に吐き捨てた。
「ローとあのクソガキは今頃仲良く檻の中だ! シュロロロロ!!」
上機嫌に高笑いして、シーザーは嘲るような視線を俺に向ける。予感は的中してしまったようだ。
ぎりっと奥歯を食いしばり、表情を険しくした俺を見て、奴はますます笑みを深くした。
ナミとウソップは「トラ男が?!」と愕然としていたが、シーザーの手に船長の心臓がある今、奴が船長とリーゼを捕えるのはそう難しいことではない。こちらがモネさんの心臓を所持していることに頓着しないのであれば、の話だが。本当にあっさりと見捨てやがった。実際には今は俺たちの手にはないとはいえ、どこまでも自分本位な奴の精神にはいい加減怖気を感じる。
だが、「檻の中」ということは、まだ逃げ出す余地があるということだ。こんなときのために普通の鎖を用意しておいたわけだし。であればこそ、計画は続行していると考えるべきだろう。こんなことで挫けるような人ではない。
なら、俺も与えてもらった俺の役割を全うしなければ。
頭の中で素早くそう結論づけたとき、子供たちの「マスター」の呼び声の間から、不意に「キャンディ」という言葉が零れ出た。すると、それをきっかけに今度は「キャンディ」のコールが始まる。
「マスター……キャンディ……」
「キャンディちょうだい……」
シーザーはそう懇願する子供たちをちらりと見た後、「かわいそうなことをする……」と哀切たっぷりに呟いた。だが、その声とは裏腹に、奴の顔には歪んだ笑みが浮かべられている。
いけしゃあしゃあとこの野郎……。
「何故連れ出した!! 子供たちが苦しんでいるじゃないか!」
「なんですって!? 誰がこの子たちを苦しませてんの!?」
「おいバカ、やめとけよナミ!」
ウソップの制止も聞かずに、ナミは堪えきれないとばかりに言い返す。しかし、シーザーはそれを無視して、「キャンディならここにある」と子供たちに向かって声をかけた。
その言葉を聞いた子供たちの反応は言うまでもない。全員、一目散にシーザーの元へと駆け出した。
家へ帰りたいと助けを求めたという彼らの姿は見る影もなく、ナミの必死の声も無残に掻き消された。
しかし、だからといってそれを呆然と見ているわけにもいかない。子供たちは絶対に奴に渡しちゃいけないんだ。
「おい待て! お前ら行くな!」
「あいつのとこに行っちゃダメだ!!」
俺とウソップはとっさに子供たちの前に立ちはだかった。だが、
「邪魔するなァ!!」
「どけよ!!」
禁断症状で我を失った彼らは、俺たちを容赦なく払い除けた。シーザーの実験によって増強された腕力での攻撃は、俺たちを軽く数メートルは吹き飛ばした。話には聞いていたが、これは相当キツい。
「ぐっ……!!」
「ウソップ! チトセ!」
慌てて駆け寄ってきたナミも子供たちを止めようとしたが、ナミが引き留めようとした子は彼女をゴキブリと呼び、恐怖心あらわに彼女を殴り飛ばした。
禁断症状のせいで幻覚を見てるのか……!
「ナミさんっ!!」
「コンニャロ! 調子に乗るなよ、ガキどもォ!!」
「ダメよ!! ウソップやめて!!」
いよいよ反撃しようとしたウソップを、ナミが体当たりで止める。もう無理矢理止めるしかないとウソップが主張しても、頑として彼を離さなかった。
本当に子供たちを大切に思う気持ちが伝わってくる。でも、俺は――
「チトセ!? 何する気?!」
もみ合う二人の横を通り過ぎて子供たちの方へ向かう。その俺から穏やかならざる気配を感じてか、ナミは宵月を持つ俺の腕を掴んで引き留めた。
「離してください」と言うと、まっすぐな光を宿した瞳がキッと俺を睨み付けた。
「すみません、ナミさん。でも、ウソップさんの言うとおりです。もう手段を選んでる場合じゃありません」
「バカ言わないで! この子たちは被害者よ!! どんな場合だろうと傷つけていい道理なんてないわっ!!」
「っ……わかってますよ、そんなことは!! だけど、そんなこと言ったってシーザーに子供たちを渡したら、もっと取り返しのつかないことになるんですよ?!」
ナミの手を振り払って俺は叫んだ。
ドラッグキャンディだけは、もう絶対に食べさせちゃいけない。力尽くでも止めてみせる。
お互いの譲れない一線を前に、俺とナミは睨み合った。
その様子を見ていたシーザーがさも愉快そうに笑う。
「シュロロ……仲間割れか? この状況で悠長なことだ」
そう言ったとき、ずっと鎖をほどこうともがいていた子供たちがついにそれを引きちぎった。
「ギャー!!」
「嘘、だろ……!?」
「素晴らしい! ここまでのパワーに成長したか!」
自分の研究の成果を満足げに眺め、シーザーが賞賛の言葉を零す。
鎖を引きちぎった子供たちも、キャンディを目掛けて走り出す。もうなりふり構ってる場合じゃない。あの子たちを止めるには、力に頼るしかない。
そう意味を込めて、「ナミさん」と彼女の名前を呼ぶ。しかし、彼女は首を横に振った。
「あいつを倒すのよ」
ガスを操る3億の賞金首相手に、覇気の使えない人間3人。状況は絶望的だ。ナミだってそれはわかっているだろう。それでも、毅然とした態度で奴に向き合っている。
ここで俺が竦むわけにはいかない、よな……。男が廃るってやつだ。廃れるほどの男気もないかもしれないが。
「……ですね。どのみち奴を倒さないと、子供たちを完全には守りきれない」
ナミの意見にとうとう俺が頷くと、慌てた様子でウソップが割り込んできた。
「んで?! 何か秘策でもあるのか?!」
「秘策ってほどじゃないですが、実を言うと俺の槍、石突き――刃があるのと逆の部分のことなんですけど、そこに海楼石を使ってるんです」
「ってことは、それなら奴に攻撃を食らわせられる!」
「ええ。このことはシーザーも知らないはずです。なんとか上手く奴の足をすくってやりましょう」
ひそひそと早口で作戦会議をしながら、ちらっとシーザーの方を窺う。よっぽど余裕なのか、にやにやしたままこちらを見ており、奴から仕掛けてくる様子はなさそうだった。くそ、見てろよあの野郎!
「俺が突撃するんで、援護お願いします。俺の槍に海楼石が使われていることを知らないシーザーは絶対に攻撃を避けない」
「でも、お前それ危なくねェか? 一人で突っ込むんだろ?」
「危険は承知の上ですよ。相手は3億の賞金首なんですから、無傷じゃ済まないのは最初からわかってるんです。なら、少しでも勝ち目がありそうな方法に賭けるべきでしょう。それに……」
「それに?」
「俺、この数ヶ月間あいつの横っ面ひっぱたきたくてしょうがなかったんです! だからどうか! 特攻は俺にお任せください!」
拳を握って力強く頼み込むと、さきほどのまでの深刻な空気はどこへやら、「私怨か!」とナミとウソップが同時にツッコミを入れた。
しかし、ウソップはすぐにまた不安そうな表情に戻り、「でもよ」と口を挟んだ。
「それじゃ決定的な一撃を食らわせるのって難しいんじゃねェのか?」
「まァ、そうでしょうね」
「じゃあどうすんだよ!?」
「そこはやっぱ、弱点を突くしかないと思います」
「ガスの弱点っていうと……」
「火か!!」
「それなら……」とウソップは自分のパチンコに目を向けた。思い当たる攻撃があるらしい。
「……なら、俺の攻撃で奴が怯んだ隙に一発ぶち込んでやりましょう」
「でもそれじゃあんたまで」
「言ったでしょう? 危険は承知の上です。大丈夫ですよ、うまく避けますから」
強張った表情で俺を見つめる二人に笑い返す。が、宵月を握る俺の手は震えていた。
そりゃ、怖いさ。本来、俺なんかじゃ全然敵わない相手だってわかってる。痛い思いをするのだって嫌だ。一歩間違えば死ぬ可能性だってある。だけど、その恐怖を飲み込んででもやり抜きたいことがある。
「守りましょう、子供たち」
拳を突き出して、二人の意志を確認するように目配せをした。二人は俺の意図を読み取ると、覚悟を決めた顔で頷き、同じように拳を突き出した。三つの拳が合わさると、不思議と勇気が湧いてきた。
「作戦会議はもう終いか? チトセ」
武器を構え、シーザーに向き直った俺たちを小馬鹿にするように奴は笑った。自分には傷一つ付けられまいと高を括っているんだろう。
「……いきます」
真正面に宵月を構え、俺はシーザーに向かって一直線に走り出した。予想通りというべきか、シーザーは警戒する様子もなく突っ立ったままだ。
「ハァッ!!」
最初の数撃はフェイントだ。突き刺した刃はそのままシーザーの体をすり抜け、ただ宙を掻く。
「おいおい、これがお前らの作戦かァ? 痛くもかゆくもねェなァ! シュロロロ!」
気体と化したシーザーがふわりと俺の周りを取り囲む。身体全体を使って宵月を大きく振り回す。
「効かねェよ!!」
見せつけるようにシーザーが俺の前に立ちはだかる。その言葉通り、俺の攻撃はなんの意味も為していない。が、
(これならどうだ!)
くるりと素早く宵月を反転させ、逆手の状態でシーザーのみぞおちに深く柄を突き入れた。宵月からシーザーの体重が伝わってくる。それは確かな手応えだった。
「ぶへェっ!!?」
「避けろォ、チトセ!!」
シーザーが悲鳴を上げるのと同時にウソップが叫ぶ。それを合図に、俺はシーザーから全力で距離をとった。一番近くにあった研究所の残骸の陰に飛び込み、来たる爆発に身構えた。……しかし、予想していた衝撃はやってこなかった。
「ハァ……まさか、柄の先が海楼石だとはな……! なめたマネしやがって!」
「な! なんで!?」
ウソップの撃った弾は確かにシーザーに直撃したはずだったが、苦悶の表情を浮かべているもののシーザーは変わらずそこにいた。
何故と唖然とする俺たちに怒りに満ちた瞳が向けられる。
「引火爆発すると思ったか? バカめ!! 火は体に触れる前に消してやったよ! なにも毒ガスだけが”ガス”じゃない。ここに漂う空気もすべて”気体”! 酸素を抜いちまえば火も燃えられず、お前らは呼吸もできなくなる!!」
シーザーが声高に言った瞬間、異変が俺を襲った。
(息、が……!!)
どれだけ酸素を取り込もうとしても、呼吸器はその役割を果たせない。
体に酸素が巡らない苦しさと共に力が抜けていき、俺の手から宵月が滑り落ちる。俺の異変に気付いたウソップとナミが駆け寄ろうとしてきた。
来るな、と言いたいのに声が出ない。
「お、おい、チトセ?!」
「どうし……っ」
その二人も俺と同じように突然動きが鈍くなり、地面にくずおれた。
喉から掠れた喘ぎが微かに零れ、吐き気、目眩、頭痛――酸素を得られなくなった俺の身体はみるみる内に異常をきたしていく。やがて、身を起こしていることすら困難になった。
地べたに倒れ込むと、ふわりと影が現れ、気付けばシーザーがすぐ傍らに立っていた。俺たちを見下ろしながら奴は悠然と笑う。なんとか宵月を掴もうと手を伸ばしたが、その手はシーザーによって踏みつぶされた。
「さっきはよくもやってくれたなァ、チトセ? なかなか痛かったぞっ!
「ぐッ……」
仕返しだと言わんばかりにシーザーが俺のみぞおちに蹴りを入れる。痛みと吐き気が俺を襲うが、息ができない状態ではまともに喘ぐこともできずにのたうつしかなかった。
「シュロロ……いいザマだ。ちなみに、麦わらと他2名も同じように窒息させてやったよ!!」
朦朧とする頭でシーザーの言葉を拾うが、もはや思考する余裕はなかった。
「子供たち! お前たちを連れ出し、苦しみを悪化させようとする、この悪魔たちを退治しろ!!」
おぼつかない視界の中、鉄パイプを持ち上げた巨大な子供の影がぼんやりと見える。これ食らったらさすがに死ぬよなァ、とまるで他人事のように思った。
そのとき、真空を突き破る怒号が響き渡った。
「シィーザァー!!!」
白む意識の向こうからその声が聞こえたかと思うと、何度か大きな音がして、突然呼吸が戻った。
咳き込みながらも、体が欲するままに酸素を取り入れるべく何度も大きく息を吸い込む。酸素をこれほどありがたいと思ったのは生まれて初めてだった。空気っておいしい。
「……いってェ……」
「チ、チトセ……大丈夫か?」
「なんとか……」
新鮮な空気が肺を満たすと、痺れたようになっていた頭が少しずつはっきりとしてきた。それと共に奴に蹴られた痛みもさっきよりはっきりと感じられる。
眼前では、茶ひげさんがシーザー相手に鉄パイプを振り回している。が、
(茶ひげさん……)
かつて心から慕っていた人に裏切られ、今こうして敵対している。そんな彼の心境を思うと、なんとも複雑な気分になった。だが、今はそんな気分に浸っている暇はなかった。
「ちょっとあんたたち! ぼさっとしてないで早く子供たちを追うわよ!」
「あ、はい!」
宵月を拾い上げ、シーザーの誘導でガス風船へと向かう子供たちの背を追った。茶ひげさんに後ろ髪を引かれる気持ちはあったが、今の最優先は子供たちだ――と振り切った瞬間、
「”ガスタネット”」
大きな爆発が起こり、それに伴う爆風が俺たちに吹き付けた。
「茶ひげさんっ……!!?」
そう振り返ったとき、シーザーが目の前に現れた。いつもの嫌みな笑顔を満面に浮かべて。
「逃がさねェよ!!」
シーザーの腕が俺に向かって伸ばされる。石突きで振り払おうとしたが、その前にまた酸素を絶たれた。腕を払われると、宵月はあっけなく俺の手から離れた。
「同じ手は食わねェ……シュロロロ、チトセ、喜べ。お前はローとあのクソガキと一緒にあの世に送ってやるよ!」
首根っこを引っつかまれ、子供たちとともにガス風船へと連れて行かれる。呼吸困難に苦しむウソップとナミに向かって必死に手を伸ばしたが、届くことはなかった。
そして、辺りは爆発に飲み込まれた。
「……ウソップ……ナミ……」
俺の声は子供たちのキャンディを求める声に掻き消される。その子供たちの声を聞きながら、俺は自分の意識が白い闇に塗りつぶされていくのを感じた。
消した「日常編」はそのうちチラシの裏にでも上げようと思います。