とある暗部の暗闘日誌   作:暮易

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episode28:同調能力(シンクロニシティ)③

 

 

 

 氷片装甲を蛇腹状に散りばめ、ぐんぐんと伸び上がる水流の腕。

 硬質の拳が風を切り裂き、迫り来る。

 ところが、男は避ける素振りを見せなかった。

 

 その長身が、水晶質のキラめきに吸い込まれていく。

 "水氷巨像"の豪腕が、あまりにあっけなく直撃した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 何もない空間から突如、降って沸いたように現れた男だった。

 彼はその瞬間まで、迫り来る危機にまるで無頓着だった。

 

 そうに決まっている。

 なぜなら。男の視線が、別の方向を向いていたからだ。

 

 

 ただひたすら、自分を視ていた。そう思えてならなかった。

 

 鷹啄は驚愕で身体が硬直し、そばで眺めていることしかできなかった。

 

 何故、自分なんかを。

 

 あの男はなぜか、横目で自分を見張っていた。

 しっかりと見つめ合った。

 理由も無く、自分も釘付けにされていた。

 

 鷹啄は目が離せなかった。だから、一部始終を目撃してしまった。

 

 

 謎の男の虹彩は、澄んだ黄金色に美しく輝いていた。

 だが、彼の身に衝撃が走るその直前に。

 怪しく透き通るルビーのような"瞬膜"に、その眼球は覆われていった。

 

 

 その時、直感が理解した。

 

 "あれ"は人間じゃない。

 

 

 冷や汗の雫が首筋を垂れて、くすぐった。そこでようやく、鷹啄は気づく。

 そうか。『理由も無く』なんてことはなかったのだ。

 ただ単純に、自分は"恐ろしく"て動けなかっただけなのだと。

 

 遅れて、うっすらと推察する。

 ああ、そうか。男はきっと、自分を警戒していたのだ。

 

 けれども、何故。あなたに対して"能力"を使おうだなんて。

 そんな発想すら、自分には存在していなかったというのに。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 あまりにあっけなかったが、不審者を一撃で仕留められた。

 

 しかし垂水は、いつものように侮蔑の含まれた勝利の宣言をあげることもなく。

 巨人はぎこちなく、空間に停止していた。

 伸ばした腕を奇怪につっぱらせたまま、不可解な疑問の声があがった。

 

『は?ああ?なんだチクショオッ!どうなってんだこれは!!』

 

 

 その場の誰もが、何が起こったのか飲み込めていなかった。

 ただし、陽比谷にだけは確信があった。これで幕引きだなんてありえない。逆だ。

 開幕なのだ。これから何が始まるのか、楽しみで楽しみで仕方がない。

 喜色満面の表情はそう語っている。

 

 "先祖返り(ダイナソー)"は一体何をしでかしてくれるのだろうかと。

 

 

 

 

 

 

 唐突に始まった。巨人はいきなり右腕を左腕で無造作に掴むと、気が狂ったように地面に叩きつけ始めた。

 何度も、何度も何度も何度も何度も、何度もだ。

 

『んッだコイツ、何してる!クソがぁッ、潰れちまえっ!』

 

 巨人が暴れる振動で、地震のように揺れが起きる。

 

 素行や思想に道徳的な引っかかりがあろうとも、それでも、垂水という青年は"能力主義"で有数の戦闘センスを持つ逸材だった。能力者相手の"決闘"も、無能力者相手の"狩り"も経験豊富な、悪質な男だった。

 

 

 しかして、そんな彼が錯乱するのも無理はなさそうだった。彼にとってはまさに未知の攻撃だったのだから。

 

 

 光を透過させる氷晶の腕が幸いした。垂水の身に何が起きているのか、その他の人間にも徐々に、事態が鮮明になる。

 

 

 

 長大な影。

 

 何か大きな物体が、巨人の腕の中でうねうねと波打っている。

 我が物顔で水中を動き回るその生物は、今も尚、その体積を増しているようだ。

 現在進行形で、巨大化を続けている。

 

 

 前触れもなく。

 氷のプレートの合間から、"鱗に覆われた爬虫類の尻尾"が盛大に音を立てて出現した。

 

 すらりと細長いそのシルエットは、目にも止まらぬ速さで長く長く伸びて。

 巨人の腕と首を絡め取ると、強靭な筋肉でギシギシと締め付けた。

 

 サファイアのような蒼い光沢。見る者に、美しさと同時に引き込むような恐ろしさを、その本能に突き刺してくる。

 

 "大蛇"だ。

 

 その正体は、"海蛇"だった。今や全長20mを超える巨体に成長した、蛇だ。

 

 巨人の腕は、言い換えれば氷でできたトンネルだ。その中に入り込むヘビの頭部が、満たされた水をひと呑みするたびに。しなやかな巨体が、みゃくみゃくと脈動する。

 

 

 前触れ無く、バキバキバキィ、と地面がひび割れ、その亀裂から濁流が溢れだした。

 水分を奪われ続けて焦った垂水が、無計画に近辺の水道管から水を接収しはじめたのだ。

 

 

 

 

 

 

 マフラー少女がおもむろにサングラスを手に取り、外す。どこかもどかしそうな仕草だった。

 少女の相貌が露出する。どことなく異国風の顔立ちが露わになった。手入れのされていない金髪は、どうやら自毛のようである。

 彼女のグレーの瞳が、するりとした眼光を騒乱の元凶へと照射した。

 

 

「切り離して。手も頭も!」

 

 かすかに緊迫を含んだ助言が、大蛇に抗う巨人へ投げかけられる。

 だが、興奮している仲間には届かない。

 

 紫雲は謎の大蛇をいっそう睨みつけた。その濡れた瞳に、明確な敵意の結晶が形を実らせる。

 

 

 その瞬間。

 

 バラついた氷の欠片と冷水で構成されていた巨人が、ぴしりと凍りついた。

 その事実は、誰の目にも分かりやすかった。

 暴れに暴れていた巨人の恐慌が、麻酔を打たれたかのようにピタリと止まったからだ。

 

 なかでも凍結が激しかったのは、巨人の頭部と腕の部位だ。すなはち、ちょうど大蛇が絡まっていた箇所である。

 

 

 一瞬にして、凍った。凍りついた。

 "先祖返り"を巻き込み、"同調能力(シンクロニシティ)"は一滴の水分も残さず凍て尽くした。

 

 

 

 氷塊が滑るように落下し、地面を揺るがす。

 結晶は美しく透き通り、光を迎え入れる。それ故に。

 

 氷付けになった大蛇が、陽光に照らし映された。

 モンスター級の生物は、ピクリとも動かない。

 先程までの暴れようが嘘のように鳴りをひそめている。

 

 

 

「あば、あばばば、あばば、じ、じうんっ!殺ずぎかっ!」

 

 人型を維持できなくなった死に体の垂水が、氷の残骸から死に物狂いで這いずり出る。

身体中に霜を張り付かせ、顔色も唇も紫色に染まっている。寒さに凍えるせいか、呂律も回っていない。

 

「お、おわったっ!終わりだ!絶対ぇ終わった!ほっ、ほんきで凍らぜたんだろっ、紫雲?」

 

 垂水はむき出しの生身では心もとないのか、すぐさま新たな水分を手繰り寄せる。

 またしても彼は、水塊を纏わせ、"水氷巨像(コロッサス)"を創りだした。

 

『ヘビだった。ヘビだったっ!ヘビは寒さに弱ぇっ!』

 

 ヘビは寒さに弱い。そう連呼する垂水だったが、彼は今まさに、水中で寒さに震えている。

 執拗に何度も確認してくる仲間に、紫雲は何も答えなかった。

 思案する風に口をつぐみ、黙して、動かない。

 

 

 

「それはどうか、なっ!」

 

 薮から棒にピンク色の炎が現れ、氷晶から露出するヘビの尾に触れる。

 蛇の皮はうっすらと焦げつき、まるで風船のごとくパンパンに膨らみ始めた。

 

 

 

 ――膨らむ。そうだ。つまり、ヘビの内部は空っぽだった。

 残されていたのは、脱皮した後のような、抜け殻だけだったのだ。

 

 

 

「はっは!いつの間にいなくなったのやら!さあ、お次はなんだろうねッ」

 

 場違いなほど、陽比谷は陽気だ。遊園地に――いや、この場合は、動物園に来た子供のようなハシャギようである。

 

 

 

『いなくなった?どこだっ。どこいった?!』

 

 困惑する水の巨人へ、紫雲は無言のままその掌を差し向けた。

 ひしひしと水の分子が結びつき、流動のクリアボディが結晶質を手に入れる。

 

 垂水はかかさず、長く、細く、薄い、水の板を伸ばしていく。

 

 ひとつ瞬きをする間に、巨人の右手には流麗の長剣が形作られる。

 刃を構成する物質は、なんの変哲もない唯の水である。だがその硬度を鑑みれば、想像を絶する切れ味を発揮することだろう。

 

 

 3人は消えた怪物の行方を探す。無言のままに、あちこちに視線を飛ばす。

 誰も言葉を発しなかった。

 惨憺たる有り様に成り果てた裏通りの小さなストリートは、それだけでどこか居心地悪く静かになった。

 

 

 

 

 

 

 発火能力(パイロキネシス)と、冷却能力(クライオキネシス)。

 230万人を誇る"学園都市"の中で、それぞれの能力の"最有力の使い手(meritocrat)"だとみなされている2人が、向かい合うように対峙していた、その間を縫うように。

 

 

 ひび割れた地盤を突き破り、山のような巨体が姿を現した。

 

『grrrrrrr.........』

 

 その"巨大生物"の影はぐんぐんと空高く伸びると、簡単に巨人の背丈を追い越していった。

 

 聞いたこともない唸り声は、とても生き物のものとは思えない代物だ。

 洞窟から漏れ響くような、低く重苦しい振動。

 

 全貌を露わにしたシルエットは、まさしく"怪獣"と呼ぶにふさわしい。

 

 巨大生物の鼻息は荒く、Lv5に憧れる少年の前髪を強烈にたなびかせた。

 彼が迷い込んだのは、博物館だったらしい。

 

 

『ティ、ティラノ?』

 

 驚く垂水。紫雲はぎしり、と歯を軋らせた。

 

 

 

 ティラノサウルス・レックス。肉食獣の王。太古の支配者。恐竜の代名詞。

 

 筋肉に覆われた躰は、想像もつかないような秘めたパワーを、言外に語る。

 凶悪な牙は、粘液で艶ばみ。紫雲の氷晶とはまた異なった、別種の"生きた硬さ"を、どうしようもなく想像させる。

 

 琥珀色の眼球は、誰もが初めて目にするであろう巨大さだった。

 生物の瞳は言語や種族の垣根を越え、時としてその意思をありありと伝達する。

 知性と暴虐性が同時に宿ったその視線で、怪獣はその場の全員を射抜いてみせた。

 

 

 

 

 

 

 

 驚いている。あらゆる種類の"その表情"を、景朗は知っていた。

 

 仄暗火澄はどうしていいかわからなかったのだろう。

 未だに逃げ出すことなく、彼女は景朗が横槍を入れる前の、そのままの位置に立ち尽くしていた。

 

 

 だから、景朗は瞳で訴えた。

 惚けた様に佇むもうひとりの少女へ、怪獣が眼光を尖らせる。

 

(何してる。逃げろ、火澄。その為に出張ってきたんだぞ)

 

 山代少年が維持していた空気の壁も、今なら存在しない。景朗の思いは通じてくれたようだ。

 火澄は意を決して逃走した。彼女は背中を向けて走り出した。

 

 

 

 紫雲は火澄を追いかけなかった。

 山のような巨体から、引っかかっていたコンクリートの破片がパラパラと落ちて、地面に乾いた音を立てている。

 

 それもそのはずだ。怪獣に相対する者たちからしてみれば。

 怪獣はその一歩で、一体どれほどの長距離を跳躍するのか。

 まったく想像もつかないのだ。

 

 

(さて。山代が壁をとっぱらった今。"警備員"が押し寄せるのも時間の問題だ。この馬鹿(陽比谷)は俺に相手をしてほしそうだが。このお姉さんはどう動く?)

 

 

 

 

 そもそもこうして表舞台に立つ事すら、考えものだった。

 だから、手の内を見せるのはあくまで"ダイナソー"の情報のみに徹する。

 

 "能力主義"の相手をすることには、なんの利益も得もない。デメリットばかりだ。

 

 火澄が逃げ出すまで時間を稼いで、はやくこの場を去るべきだ。

 人の休日を散々なものにしてくれた奴らに、思うところがないわけじゃない。

 しかしひとつ、気にかけねばならないことがあった。

 

 

 "暗部"。

 暗部についてだ。

 紫雲は暗部に連なるものか?

 だとしたら、接触は最低限にしておいたほうがいい。

 

 

 景朗にはサングラス越しであろうとも、紫雲という少女の瞳がよく観察できた。

 理知的な頭脳と、経験が生み出す落ち着きが融合し、そこから初めて生じる"冷静さ"。

 それが、そこから垣間見える。

 

 

(考え事があるのはお互い様か。だったら逃げろ。尻尾を巻いて逃げるなら、追いかけたりしない)

 

 

 

『……アホかッ、ざけんなぁッ!どうせ光学系か何かだッ!!』

 

 

 氷の巨人は再び武器を振りかぶり、恐竜へ突撃する。

 

 学園都市にはそれこそ、独自のホログラム技術や工作技術が氾濫している。いずれかのトリックや特殊な能力を駆使すれば、目の前の"恐竜"のようなハッタリを用意でき得る。

 

 そのような考えが、垂水の頭の中をよぎったのだろう。しかし彼とてたった今、謎の大蛇の登場をその身に味わったばかりだ。

 

 『光学系能力のトリックもどき』だとタカを括った発言とは裏腹の、全力を振り絞った突撃(チャージ)。

 "ティラノサウルス"へと振りかざされる長剣の速度には、一切の油断が感じられない。

 

 巨人は数メートルの距離を跳ぶように闊歩した。垂水は恐れを振り切るように、恐竜へ全霊を賭けて斬りかかった。

 

 

 

 

 だが。たかが人間の反応速度が、捕食者に通用するはずもなかった。

 

 物理法則を超過しているに違いない。そう思わずにはいられないほどの運動能力を、恐竜はその巨体から繰り出した。

 

 

 鱗様がまぶされたしなやかな尾が、振りかざされた長剣の腹を苦もなく弾き返す。

 圧倒的な剛力。

 長剣は巨人の手に癒着していたがために、弾かれた腕ごと人型のバランスは崩れさる。

 

 

 その隙を捕食者は見逃さなかった。いいや、その一瞬の巨人のブレは、"隙"だと表現できるほど長い時間ではなかった。しかし、"先祖返り"にはそれで十分だった。

 

 

 ティラノサウルスは、巨人に頭からかぶりつくと。そこから、強引にその首を噛みちぎった。

 

 

 

『ごおおおおあっ!』

 

 "水氷巨像"は頭部を食いちぎられ、ぽっかりと胸部まで氷を削ぎ取られていた。

 恐竜の歯型が、その跡にくっきりと残っている。

 

 

「あれ?あったけぇ……」

 

 暖かい夏の外気に晒されて、呆けたような声が漏れる。

 心臓の位置に身体を置いていた彼は鎧を剥ぎ取られ、外の空気を吸い込んだ。

 その上半身は生身のまま、まるまる巨人の装甲から露出してしまっている。

 

 恐竜は容赦しなかった。

 

「ちょお待t」

 

 牙が暗闇から顔をだ下かと思えば。

 次の瞬間には、極大の顎門(あぎと)が閉じられていた。

 

 "水流操作"は丸呑みだった。

 

 

 

 初めて会った時も、そんな顔をしていた気がする。

 陽比谷の眼はキラキラと輝き、紅潮が頬を彩っていた。

 

「ふふっ、すばらしッ!素ン晴らしい!

幻覚でもないっ。まぎれもなく細胞レベルから変化しているようにみえる!純然たるメタモルフォーゼッ!

そしてLevel5!

美しい!

ふあははっ。"先祖返り(ダイナソー)"ッ!

爬蟲(はちゅう)の支配者!

 

いいなぁっ!いいなあっ!

スゴイスゴイスゴイ!すげえ、すげぇーッ!!!

羨ましい!羨ましいっ!!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 氷の巨人が"ティラノサウルス"に無謀な挑戦を仕掛けた、その時。

 紫雲と陽比谷の間にも、小さな動きがあった。

 

 

 垂水が声を振り絞り、恐竜へ仕掛けた。

 

 彼とタイミングを合わせて行動に踏み切るつもりだった紫雲は、ぴくりと身体を動かす。だがその前に、不意をうつような閃光が彼女を襲っていた。

 

 

 一瞬にして生み出される、炎の壁。

 

 氷の盾が虚空から現れて、衝撃を防ぐ。

 しかし、フラッシュに網膜を刺激されたのか、その場で足踏み、動きが止まった。

 

「人の楽しみを邪魔するな。もっと"見せろ"」

 

 陽比谷の横暴な要求。

 一貫して涼しい余裕を維持してきた紫雲の顔つきが、とうとう崩れ去る。

 

 眉間に、うっすらと険が立つ。

 

 

「あれ、あなたの差金?」

 

「さあね。そんなことが今重要かい?」

 

 

 紫雲にも油断はなかったようだ。彼女はサングラスをかけ直すと、"予め閉じていた右目"をくっきりと開いた。

 陽比谷の行動パターンなどは、おおよそ見当がついていたらしい。

 

 

 彼女の怒りを体現するかのように、何もない空間が唐突に軋んだ音を立てた。大気が一瞬にして冷え固まる。

 

 上空に、みるみると氷の柱ができあがっていく。

 固体となった空気の形状は、まるで建築資材の角材のようだった。

 

「邪魔はしない。心配せずともお好きにどうぞ」

 

 大重量の氷が、空から一気に降り注いだ。

 

「まさか君ッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 巨大で重い物体が、山のように落下すると、こんな轟音が発生しそうだ。

 そう思わせる騒音が耳に入り、恐竜は振り向いた。

 

 

 陽比谷が決死の表情で焦り、降り積もる氷の角材の山から距離を取っている。

 聴覚で感じ取った通りの光景だ。

 

 

 紫雲の姿を探す。結晶の輝きの合間を縫い、一対の目線と鉢合わさった。

 

 

 気絶した垂水を口から吐き出す。盛大に汁気をまくし立て、巨漢がアスファルトに転がった。

 無様に眠るメンバーが予告する、悲惨な結末。君もこうなるぞ、と景朗は脅したつもりだった。

 

 

 その時。前触れとも呼べる、空気が凝縮する、微かな軋み。

 その音が、聴こえた。自分のすぐ、耳元でだった。

 

 

 鉤爪のついた両腕に、冷たい感触。空気が凍った塊が爪にまとわりつき、鋭利さが失われていた。

 凶悪なクローとして使えたはずの腕が、凶器としての役割を果たせなくなってしまった。

 考えるまでもなく、景朗はそう悟る。

 

 

 紫雲は戦う気なのか。仕方がない。彼女の行動をそうみなすと、景朗は巨体を機敏に走らせる。

 たった一歩で、彼女に肉薄してやる。

 

 ところが。

 

 べきべきべきぃ!と足元で大地が裂ける。踏み出した足に、予想だにしなかった抵抗がある。

 何事かと見下ろせば、恐竜の両足にも氷杭が張り付き、大地に縫い付けている。

 

 しかし、紫雲が放った束縛の一手はムダに終わった。

 

『Gowlllll!!』

 

 強烈なパワーだ!

 恐竜の脚力は常軌を逸している。まとわりつくすべてのデッドウエイトを巻き込んで、邪魔なコンクリート塊ごと駆け出してみせた。

 

「ちッ!」

 

 紫雲から舌打ちが飛ぶ。

 結果として、景朗は自分が意識した通りに冷却能力者の目前へと肉薄してみせた。

 

 卓越した景朗の動体視力が、紫雲の前面に形成されはじめた氷の盾の薄膜を映し出す。

 

(そのまま耐えられなきゃ、終わりだ)

 

 筋肉の塊がしなる。

 景朗は氷の盾にわざと被せるように、手加減を加えて尻尾を叩きつけてやったのだ。

 

 氷のガードの上からだが、壮絶な圧迫感を防御した人間に与えたことだろう。

 

『GROOOOOOOOOOOOWWWL!!』

 

 人間の鼓膜など難なく揺さぶるであろう咆哮を、喰らわせる。

 

「くぅっ」

 

 表情が歪んだ。

 紫雲の氷のマスクに罅が入る。――――だが。

 

 景朗はそこで、奇妙なモノを目撃することになった。

 

(!?)

 

 けたたましい音量でわずかに表情を曇らせたものの。その後すぐに、紫雲は笑った。うっすらと、笑みを見せていた。そこに恐怖や焦燥は見当たらなかった。皆無だった。

 まるで、こんなことはさも日常の一部であり、恐るる出来事にはまったくもって値しないと。

 そう言外に語っている。

 

 氷越しに悠々と"景朗"を観察している。紫雲のその姿は、予想外だった。

 

 

(なんだ、こいつ)

 

 

 妙な引っかかりを覚えた景朗は、そこで思わぬ横槍を受けてしまった。静観しているのかと思っていた陽比谷が、突然に能力を行使したのだ。

 

 

 

 薄紫の炎が、紫雲の真横で爆発した。

 彼女は新たに生み出した薄膜を使って、上手に爆風をてなずけてみせた。

 

 ちょうど逃げ道となるような、細い路地へ。少女の軌道が描かれる。

 

 

 

 しかし。

 

 勢いよく空中を吹き飛ぶ少女は、格好のエモノでもあった。

 

 狙いすました恐竜が、上下に裂いた顎を勢いよく閉じる。

 

 

(おい、うそだろ!?)

 

 ジギッ――――ッ!!

 

 日常生活ではまず耳にしない、特殊な種類の音だった。高密度な物体と物体が、強力な圧力に圧縮されて生じるような、いびつな抵抗音。

 

 

 恐竜の口は閉まらなかった。

 氷の柱が、巨大な顎門の閉まりを妨げていたのだ。ワニの口につっかえ棒をするような古典的な手法である。

 

 

 悠々と紫雲を捉え損ねた景朗だったが、それ以上、彼の追撃はなかった。

 

(……まあいい……そのつもりならな)

 

 

 

 ビルの横壁に着地する直前に、浮遊する少女は空中で能力を使用した。

 氷でできたスケートのブレードが、長いブーツからニョキリと生えて。

 そのまま氷の道を路地に沿って敷き詰めると、彼女は振り向くことなく、ビルとビルの合間を滑走していった。

 

 引き締まった脚線美と、太腿半ばまで覆うブーツカバーに、取り付けられたガーター。

 分厚く脚部を布地で覆っていたのは、そのためだったのか。

 

 

 冷却能力者、紫雲継値は"先祖返り"から逃走した。清々しいほどの逃げっぷりだった。

 

 

(逃げた。なんだあいつ。逃げるなら最初から逃げればいいだろうが。気色が悪い……)

 

 見返り美人とはよく言うが、その後ろ姿を見る限りでは。

 

(俺に威圧されて欠片も動じなかった冷血女だとは、思えないけど。……暗部の人間だろうな。あの眼は)

 

 確かに、"能力主義"が語る"決闘ごっこ"なるものは、スケールが大きかったと認めよう。

 だが、それでも違う。

 "あの種の胆力"は、そう簡単には身に付かない。鍛えられる環境はそうそう存在しない。

 景朗の直感だが、あれは。命を奪い合う時に研磨され、形成される類のものだ。そうあってほしいし、そうに決まってる。

 

 紫雲のあの落ち着き様は、どうにも、どう取り繕っても、景朗に既視感を与えるものだった。

 

 

 

 

 

「ありがとうっ。いいもの見せてもらったよ!」

 

(……そう。こいつとは絶対に違う)

 

 

 残されたのは、やたらとテンションが高い陽比谷天鼓ただ一人。

 別人のような興奮っぷりだ。何がそこまで嬉しいのか、景朗には理解ができない。

 

 

 

 

 

『逃ゲルナラ……今ノウチダ』

 

 恐竜の口と舌は、とりわけ喋りにくかった。景朗はゆっくりと、目の前の同級生を脅す。

 不思議なものだ。この少年が、一応は自分と同じ年齢だなんて。

 

 

 されど。少しは怯えるかと思ったが、陽比谷にはそんな様子が欠片も無い。

 いいや。よく見れば、足が緊張に震えていた。怯えてはいるようなのだ。ただ、それを上回る衝動が、彼に強い意志を与えているのだろう。

 

 これから自分がどんな目に遭うのか。想像できないほど馬鹿ではないはずだ。

 いったいどれほどまでに、稀覯の"第六位"に出会えたことが喜ばしいというのか。

 

 

("強度依存(レベルホリック)"だと思ってたけど、ひょっとしたらただの"能力嗜好(スキルフリーク)"だったってオチか?)

 

 

「君のおかげで今日は最高だ。ふふ。私刑(リンチ)される寸前だったと思ったら、これだ。なんて先の読めない狂った一日だろうね!」

 

「陽比谷君、"警備員"が来ます!」

 

 頭上から、心配がこれでもかとまぶされた岩倉の知らせが届く。

 

 

「本当に?ああ、勿体無い。じゃあ早速始めようッ。時間が勿体無い!」

 

 陽比谷の手元には、切断されたパイプが握られている。

 異様に短いそのパイプは、武器としての体をなしていないようにも見えた。

 

 パイプが片手に握られ、中段に構えられた、その時。

 両端の空洞から、突如、熱を持った光の刃が噴出しはじめる。

 ああ。なんだか似たような光景を、どこかで見たような。そんな気にさせる武器だ。あれは両刃ではなく、片刃だった。

 

 

 

(時間が足りないって?面白い。そいつは無用な心配さ)

 

 

 発火能力者までの距離は、ほんの10mと少し。

 

 今の"景朗"にとってはその程度、たったの"半歩"でお釣りが来る。

 

 さて、何ができる?

 

 俺が一歩を跨ぐ、その間に。

 

 見せてみろ。

 

 君に一体何ができる?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 吹き飛んで壁に激突する直前に、陽比谷の奇妙なスーツはボンレスハムのように膨らんだ。 衝撃は空気にうまく吸収され、青年の怪我は激しく咳き込む程度で済んだようだ。

 

「ありがとう、ダイナソー!ほんと、有難う!」

 

 まもなく、警備員の車両が現場に駆け込んでくる。景朗の耳が、ほかの車両とは明らかに馬力の違う駆動音を捉えていた。

 

 

 苦しそうに咳き込みつつも、青年はニコニコと笑っていた。

 すこし切れたのか額から血の雫が流れ落ちて、ひと筋の跡をつくっている。

 けれども。

 

 景朗には、理解できない。

 

「また稽古つけてくれよ!今日は有難うなぁー!」

 

 姿が見えなくなっても。遠くから彼の叫び声が、うっすらと聴こえてくるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 "能力主義"のいつもの乱痴気騒ぎ。それがその日は、特別にでっかい祭りをやらかしているらしい。

 そう耳にして、黄泉川は押取り刀で駆けつけたのだが。

 彼女を出迎えたのは、人生最良の日とばかりに機嫌が良い、やんちゃ坊主のニヤケ面だった。

 

「おーまーえーかー……」

 

「あれっ!?黄泉川センセー。そうか第七学区にはアナタがいらっしゃったんですもんね。うはっ!ぃよっしゃーっ!センセー、非行少年が先生の胸に飛び込んでいきますよーっ!」

 

 一方。陽比谷少年を出迎えたのは、黄泉川の放った強烈なラリアットだった。

 

「はぐう」

 

 "今しがた食らった衝撃"よりも脳が揺さぶられている気がするのは、きっとなのかの間違いだ。

 

「いい度胸だほらぁっ!ほらァっ!ほらアアッ!抱きしめてほしいんだろおん!?ほらどうじゃん?どうじゃん?どうじゃんこれは!」

 

「ぐぎいいいいいいいいッ。だきッ、抱きしめるならボディアーマー脱いでくださいよおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっ!せっかくの100点満点のおっぱ――ッガアアアアアアッ。ちょお、ちょおマジですか先生ッ。イタッ、痛ててててててててててててててっ」

 

 倒れた相手に、追い打つような寝技。ヘッドロックが万力のように頭を締め付けている。

 

「暴力は禁止でしょうが、もう確保してる!確保してるじゃないですがああああああああああああっ!」

 

「オマエらは少年房にぶち込んでもひと晩立たずに研究機関が連れてくじゃんよーっ!毎度毎度!今!ここで!全"警備員"の願いを代表してアタシが教育的指導を下してやるって話じゃあん!?」

 

「越権行為!越権行為ですよっ。ああ、鉄装さん!ねえいいんですかこれ止めなくて鉄装さん?あはっ、鉄装さん。お久しぶりですね!きょぉぉ、ぃぃぃ、今日も可愛いですねっ!!ちょっといいですかコレ、せめて黄泉川センセーにボディアーマー脱いでくれるようお願いできませんかッ?それなら僕はっ、ひと晩中この状態でもかまいませんケドッ、ァ痛ッ!」

 

 

「おらおらおらおらおらおらおらおら」

 

「ちょおおっ。ヤバ、流石に――。がひ、ひいいいいいっ。えええなぜだっ!毎回毎回おとなしく捕まってあげてるじゃないですかぁ!あんまりだぁぁっ。従順な自首の姿勢は反省の証でしょうっ?!」

 

 

 

 鷹啄にお願いして、"能力主義"のメンバーは全員避難させている。裏切った山代も、敵対している垂水も含めた全員だ。

 

 紫雲は仲間すらおいていくような薄情ものだ。後始末はいつも、陽比谷の仕事だった。

 しかし、その日は不満など何一つなかった。今日はいい日だった。陽比谷は本気でそう思っている。

 特に垂水は、Lv5相手に根性をみせた。今日は特別だ。そんな風に、朗らかに出頭した気でいた彼は、思わぬ暴力の応酬を受けて困惑した。

 

 

「"捕まってあげてる"だとおおおおお?面白い、相変わらず面白いコト言うじゃんキミはあああああああああああああああああああっ!」

 

「ふっ、ふははっ!無駄ですって。どうして無視するんですかッ?いい加減認めてくださいよぉ、僕たちの"決闘ごっこ"は所詮"ごっこ"ですけど。それでも貴重で希少な高位能力が干渉し合う、極めて有用なデータであることには違いないっ!一体どれだけ科学の発展に貢献しうると思ってるんですぅぅぅぅ?そろそろ察してくださいよおおおおお」

 

「あんたらは口を開けば――ッ!ワタシは認めてないからなあああああああッ!そんな道理が世の中通ると思うなよおコラアァァァァッ」

 

「イダぁぁぁととととと、通ってる!通ってるじゃあないですか現に!無理が通れば道理が引っ込む世の中なんでしょうよッ。それが学園都市だっ。さっきのバトルのデータが一体いくらで売れると思ってるんですか?それだけ能力者同士の戦いのデータが少ないんだ、現状この都市では!大覇星祭のデータなんかじゃお話にならないんですよっ。僕らこそが科学の発展に寄与してる、んだッ――畜生!い、い、加減、に――そらァ!」

 

 ジジジ、と焦げた匂いが充満した。黄泉川のボディーアーマーのベルトが焼き切れたのだ。組んず解れつ転がりだした陽比谷は、締め技に一心不乱の女教師の鎧を剥ぎ取り、その蒸れた胸部に顔をうずめることに成功した。

 

「おぉおぉ!"警備員"に能力を使ったな!ははは!ははははは!嬉しいじゃんよぉ、これでみっちり絞れるじゃん小僧!いい度胸だ、教えてやろう!今日は非番だったってのに、オマエらが来てると聞いて飛んできてたんじゃん!最終下校時刻までみっちり遵法意識ってもんを植え付けてやるぅぅぅ!」

 

 だが。逆にガッチリと頭を抱え込まれて、天国のような地獄へ落ちていった。

 

「よ……よみかわセンセー!そんなに僕の事を?わっははは巨乳バンザァアッ――――」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 火澄を追いかけたどり着いたのは、第七学区のとあるひと区画だった。

 すぐそばの公園に、公衆トイレがある。火澄はそこで、服を乾かしているようだ。

 

 

 彼女を待つ間、景朗はそばにあった壁に寄りかかるように立つと、静かに腕を組んだ。

 考えなくてはならない事がたくさんあった。彼はすぐさま、思考の海に沈んでいく。

 

 

(あいつは、"あれ"でも統括理事会『潮岸』の親族だ。あまり手荒な事はできない)

 

 だが、それでも、あの発火能力者には何としても聞き出さなければならないことがある。

 

 陽比谷も、紫雲も、火澄に何の用があったのか。

 

 問題解決に際して、ひとつ突破口になりそうなアイデアがあった。理解しがたいことに、陽比谷は自分に興味がある。なんだか薄ら寒くなる言い方になってしまうが、それはまぎれもない事実だ。

 慎重に事を運べば、彼に関してはどのみち、いずれ進展があるだろう。

 

 

 

 気になる事が、もうひとつあった。

 紫雲継値という人物についてだ。不審な引っかかりはいくつもあった。だが、中でも最大級に景朗を悩ませていたのは、先ほど遭遇した、とある事実だった。

 

 

(壊せなかった。砕けなかった。あの"硬さ"は、"凍らせたなんて次元じゃない")

 

 

 景朗は握り締めていた左手を唐突に胸元に掲げ、ゆっくりと開いた。

 指と指の間にはうっすらと肌色の膜が広がる。

 水かきだ。カエルの掌のようにヒダがついたその場所には、透明な雫が溜まっている。

 

 その液体自体は、なんの変哲もない水。ただの水だった。

 ぺろり、と景朗は舌で舐めとった。

 

 やはり、水だ。正確にいえば、学園都市の浄水施設が処理した、水道水だ。

 

 重要なのは、どこで採取してきたものかということだった。

 答えは簡単だ。

 あの現場に残されていた水だ。

 そう。つまり、もともとは紫雲の氷だったのだ。

 

 

 

 あの時。氷の巨人に噛み付いた時は。ひとつひとつ氷晶のプレートがバラけてくっついていたから、首を切り離すことができたのだが。

 

 だが、その後。紫雲継値が逃げる直前。

 口の中に、氷の柱を突っ込まれた、あの時。

 

(全力で噛んだ。手加減なんかしちゃいない。本気で壊そうとした。でも、あれは……あれは……)

 

 牙と牙でがっちりと氷を挟み、全霊を賭けて噛み砕こうとした。

 それでも、破壊できなかった。罅ひとつ、傷ひとつ付けることができなかったのだ。

 

 景朗は無意識のうちに、自らの顎に手をやって、さすった。

 

(イカれた硬さだった。俺は全力で噛んだってのに。軋みもしやがらなかった。そればかりか――――逆に、俺の顎のほうが先にぶっ壊れやがった!!)

 

 たしかに、物体は冷やせば冷やすほど、基本的には硬くなっていく。

 摂氏0℃の氷はモース硬度で表せば、1.5ほどの硬さだが、

 それが摂氏-70℃ともなれば、一気に硬度は4倍、6という数値にまで跳ね上がる。

 

 

 

 陽比谷たちには確信が持てないのだろう。確かめる手段もなかったはずだ。

 

(でも、俺は違うぞ。俺は体感した。あの"揺るぎなさ"!)

 

 

 どんなに硬い物質でも、必ず少しは"たわむ"ものだ。形状は微小に歪む。

 

 そのはずなのに。揺るがなかった。

 この"悪魔憑き"が全身全霊で破壊に望み、それでも揺るがなかったのだ。

 隔絶した、"絶対硬度"。

 

 

 あれは、"無限"の硬さだったとでも?

 どんなに強化しようと"有限"の硬さしか持てない俺の躰だったから、俺の顎が先にぶっ壊れたとでも?

 

 

(いいや。違う。そもそも、あれは、あの結晶は元々、ただの水だ。どんなに冷やして固くしようとも限界はある!そうだ。水だ。冷やした程度で、あれほど硬くなるわけがない)

 

 

 

 紫雲は嘘をついている。あの女の能力は、冷却能力などではない。

 その結論に到達した瞬間。

 景朗の胸中に"とある疑問"がごく自然に湧き上がった。

 

 

「あの女、本当にただの大能力者(レベル4)だったのか?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 夏場だというのに、ブカブカのマフラーで顔面の半分を覆っている。

 そんな格好の少女が居れば、当然のごとく人目を引くはずだった。

 ところが。周囲は薄暗く、既に夜の帳が降りている。

 実際のところ、彼女の奇抜な格好を気にするものなど、そう多くはいなかった。

 

 

 大きなマフラー。無骨な超ロングブーツ。長袖のジャケット。

 季節に真っ向から逆らうコーディネートの少女は、どこか疲れたように歩いていく。

 どこにも学生らしさが見受けられない少女だった。

 その片手に引っ掛けているコンビニ袋がなければ、彼女に親近感を持てる唯一の要素がなくなっていたかもしれない。

 

 

 時刻は、最終下校時刻をとっくに通り過ぎていた。

 それでも、第七学区の学生寮が密集する区画には、あちこちにポツポツと帰宅する学生の姿があった。

 

 

 

 歩き続け、公園を通り過ぎようとしていた時だった。

 少女は、ひとりの児童に目をとめた。

 遊具のそばに佇む、小学生低学年くらいの少女だった。

 

 

 マフラー少女は公園に入り、ベンチに腰掛けた。

 

 人の存在を感じたのが、キッカケになったのだろう。ランドセルを背負った小学生の少女は、ひとり寂しそうにブランコを漕ぎ始めた。

 

 

 

 

 紫雲はぽさり、とベンチにコンビニの袋をほうる。

 続き、淀みのない動作で、その中から紙コップとゴムのチューブを取り出す。

 

 そしておもむろに、能力を発動させた。

 

 どこまでも、どこまでも薄く氷が伸びていく。

 そうしてできた氷の刃は、ナイフの代わりになった。

 

 そうして、"それ"が出来上がるまで、わずかな時間しか掛からなかった。

 

 紫雲は出来上がったその紙コップを、両手にひとつずつ持った。

 コップの底と底に、チューブが繋がれている。

 

 なんの変哲もない、糸電話だった。

 

 片耳にコップを当て、もう片方で口元を押さえて。

 

 そして紫雲は――――。

 

 唖然とする小学生の少女が見守る中、ぶつぶつと独り言をつぶやき始めた。

 

 

『驚きました。以前からお話だけは拝聴していましたが、今日、"彼"と接触しました』

 

『あれは、貴方の差金ですか?』

 

『勿論、最低限の邂逅で済ませたつもりです。能力も、"一部しか"使用していません』

 

『……』

 

『拝見したところであれば――あの程度なら、問題にはならないかと』

 

『今後、任務の障害になるようなら排除してもよろしいですね?』

 

『……了解、しました』

 

 

「ねえねえ、お姉ちゃん。何してるの?」

 

 ランドセルを背負った少女の興味が、我慢の限界を上回ったらしい。

 そして、糸電話の構えを解いた紫雲の反応も、意外だった。

 近づいてきた少女に対し――――"能力主義"のメンバーには決して見せないであろう、柔らかな微笑みを返している。

 

「糸電話。知ってる?」

 

 彼女の態度から鑑みるに。紫雲はどうやら、ランドセルの少女に話しかけてもらいたかった様子である。

 

「知ってるよ。でもお姉ちゃん、糸電話ひとりでしてたの?ひとりじゃつまらないよ?」

 

「じゃあ、やったことは、ある?」

 

「ホントはやったことないかも」

 

「お話しましょうか?」

 

 少女を横に座らせると、紫雲はコップを互いによく見える位置に持ち上げた。コップに人差し指を当て、説明口調でしゃべりだした。

 

「こう見えて、学園都市特製の断熱素材複合層の紙コップ。わりと吸音性も高い。ゴムチューブのこの糸は、普通の糸よりも――」

 

「わかったから早く早く」

 

 ランドセルの少女は口元にコップを運んだ。だから紫雲は、耳元に手元を寄せる。

 

『ねえー、お姉ちゃん。さっきひとりで糸電話してたけど、なにをお話してたの?』

 

『内緒』

 

『もしかして能力でおはなししてたの?』

 

『お姉ちゃんはこれでも"エスパー"だからね』

 

 少女は納得がいった、とでも言いたそうに目を丸くする。その手から、糸電話がぽろりと転がり落ちた。

 

「ほんと、じゃああたしもパパとママとお話しできる?」

 

 頼み事をした少女の表情には、口調とは裏腹に余裕が浮かんでいなかった。最終下校時刻を過ぎても寮に帰らず遊んでいたことも、何か関係しているのだろう。

 

「そう。私の弟も、よく同じことをいってたな」

 

 泣きそうな顔で、少女はさらに懇願を続けた。

 

「できない?お願い、お姉ちゃんお願い……」

 

 紫雲はおもむろに、小さな端末を懐から取り出した。少女に画面を向けて、質問を放つ。

 

「お家の場所、わかる?」

 

「わかるよ!夏休みと冬休みは帰るもん。お姉ちゃんは?」

 

 紫雲は質問には答えず。代わりに、少女が指さした地図を拡大して覗き込む。

 

「わたしは、昔、この辺に住んでた」

 

「へぇー」

 

「それじゃあ、お話はできないけど、声だけは聞かせてあげる」

 

「ほんとに?」

 

「この時間だと、まだお父さんはお仕事かな?」

 

『――あっ!ホントだ!ママがお友達とお話してる!すごい、すごい!』

 

 しばらく聞き惚れていた少女は、紫雲の額に浮かんだ汗を見て、あわててもういいよ、と口にした。それから思い出したように、少女は口元に紙コップを当てて、言った。

 

『じゃあお姉ちゃんも、ママたちとお話してたの?』

 

『違うよ』

 

『誰?カレシ?』

 

おしえておしえて!と騒ぐ少女。

完全に元気を取り戻したようだ。

 

「じゃあ、教えたらそろそろ、家に帰る?」

 

「んー。わかった」

 

 少女が我先に、とコップを口元に当てる。だから紫雲は、耳にコップを運ぶ。

 

『ねえ。誰とお話してたの?』

 

『お姉ちゃんが話してた人は、アレイスター・クロウリーって人』

 

『ええー?だれー?』

 

『この街で、1番偉い人』

 

 紫雲がコップをベンチに置くと、少女がつまらない、と口を尖らせていた。

 

「もうおしまい。それじゃ、そろそろ帰ろっか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ランドセルの少女が帰路に着くのを見届けてから。紫雲はゆっくりと、公園から歩き出した。

 

 すぐ脇に、黒塗りのワゴン車が止まっていた。そこへ迷わず、足が向かう。

 

 彼女が扉を開けるまでもなく、内側から車のドアが開いた。

 

「お待ちしてました」

 

 紫雲は口をつぐんだままだ。迎えた人物も、彼女の性格をよく知っているらしい。特に不満げな様子はない。当たり前の、いつもの出来事だという事なのだろう。

 

 

 隊員からタブレットを受け取ると、紫雲は慣れた手つきで情報を閲覧していく。

 

 画面の右端には、部隊の隊章が表示されている。

 

 八本の手足。蛸がシンボルに描かれている。

 

 

 

 ここにはいない雨月景朗は、きっとその意匠の意味を知っている。

 

 "縞蛸部隊(ミミックオクトパス)"。暗部の偽装工作部隊だ。

 

 

 

 隊員は、紫雲とは長い付き合いの古株だったようだ。その証拠に、彼はその日、彼女がほんの少し、いつもより機嫌が良いことに気づいてみせた。

 

 

「今日は機嫌がよろしいですね。なにか良いことでも?」

 

 

「……今日、"第六位"に会ったの。頑張ってくれてるみたい」

 

 

「……はあ。……それは……?」

 

 

 隊員には、紫雲の発言の意味を何一つ汲み取ることができなかった。

 

 

「すみません。おっしゃっている意味が……。

 

そもそも"第六位"とは――――貴女の事でしょう?」

 

 

 隊員は、さらなる質問を諦めた。いくら待とうとも、紫雲は答えない。そんなこと、重々承知していることなのだから。

 

 

 彼女は機嫌が良さそうに、車外の音に耳を傾けている。

 興味がないのだ。彼女は興味がないことに、答えたりはしない。

 

 




おくれてすみませんorz

深夜ならギリギリしあさってだったということで・・・orz


次の話は、一週間ほどください。
もしかしたら、もっとはやく更新できるかもしれません。
ええ。どなたかがおっしゃったとおり、今は筆が進むんです!

感想の返信は明日必ず行います。申し訳ありませんorz

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