紅呉の里は大草原と呼ばれる地の東に存在する。大草原の北の山には飛竜が、大草原には鳥竜が、東の森には牙獣が存在する。それはそれぞれの縄張りではなく、あくまで主な生活地域だ。飛竜は草原に降りることもあるし、森の上を飛ぶこともある。鳥竜も森に入ることもある。飛竜は山に、などあくまでも大雑把な目安に過ぎない。つまり、里の住人にとって森に出ることは危険でしかなかった。
モンスターというのは絶対的な上位種だ。敵うはずがなく、敵と見定められれば死ぬしかない。モンスター同士の殺し合いも度々あるが、だからと言って数が減ることを期待できるわけでもない。人間にとって里は過酷な環境……、いや、里が無ければ一人で投げ出されるほかないことを思えば、まだましだとも言えるのかもしれない。どちらにせよ紅呉の里が人が生活するのに最適の環境とは言い難いだろう。
だが、人は諦めず生活した。堀と塀を作り、空から発見されにくい様にと里の中にも葉の多い木を植え、モンスターとの遭遇可能性が低い道や時間帯を割り出した。幾度の失敗と犠牲の果てに、紅呉の里は世界の絶対の法則、食物連鎖の中に組み込まれ、滅びることなく生き続けた。平和な現代に生きる人間にとっては想像しにくいことかもしれないが、犠牲があろうと人柱だろうと種の存続こそが勝利である。
紅呉の里ができて数年、ある一人の男がまとめ役となった。何故彼がまとめ役となったのかと言えば、彼がある一人を除いて最年長者だったからだ。その一人はまとめ役という立場を嫌ったために、彼――孝元がまとめ役となった。
犠牲を容易く容認できるほど冷酷ではなく、けれど決して容認できないほどの甘さがあるわけでもない。孝元は里という全を生かすため、一人という個を殺す選択を強いられ続けた。
例えば森への採取。いかにモンスターとの遭遇可能性を低くしようとそれはゼロではない。すなわち、会う時は会ってしまう。モンスターと出会えば、立ち向かおうが敵うはずがなく逃げるほかない。が、逃げきれなければ結末は当然死だ。他にも生きるためには水が必要だ。その水を運ぶのにも苦労はある。蛋白源として魚や虫もほしい。それらを得るために、往々にして犠牲というものはつきものだった。
他にもある。例えば鳥竜種が森に入ってきて遭遇してしまった時などだ。発見されなければいい。だが、発見された場合里に向かって逃げてはならない。里が知られれば住人に対抗する手段はない。跳ね橋を上げ、塀と堀に頼って籠城しようとも、いずれ兵糧尽きて結局は死だ。ならば、見つかった者は森から草原へと逃げ、里の存在を隠すほかない。里の人口は少ないがためにつながりも大きい。誰もが自分のせいで里を壊滅させることは受け入れられない。結果として遭遇すれば諦めるほかない。
紅呉の里はモンスターはびこる世界で、人が生き抜くために生まれた集合体だ。だが、そこに住む人々は生存競争には負けずとも、違う意味ではすでに負けていたのかもしれない。
人という種を生かすために、個を無視して諦める。そんな当たり前が当たり前じゃなくなる日が来るなどだれも想像しなかった。変わったのは里が一人の客人を迎えたからだった。
◆
紅呉の里の客人は名を和也と言った。身なりは清潔で肌や体つきもよく、健康的な男性だ。どこか人におびえる様子を見せながら、けれど礼儀正しい青年だった。
彼の最初の印象は奇妙という一言に尽きる。一人で生きていくことなど不可能に近い森を越えてやってきた、それだけならば大草原の向こう側からやってきたのかもしれないと言える。大草原の向こう側ならば、紅呉の里にとっては何があろうとも知らずとも不思議ではない。
だが、たった一人で大草原と森を越えてきたと考えるのは愚の骨頂。それを成したとは到底思えないほど身ぎれいなのだから。あくまで大草原を越えてきたと考えるには、であり土で汚れてはいたのだが。
どこから来たのか尋ねれば遠いところと答える。ならばやはり大草原の向こう側だろうか。だが、ならば目的は何なのか。一人ではないとすれば、その他の人物はどうしているのだろうか。それを知るためにはまた質問をなすしかない。
「遠いところから……なぜこちらに?」
だが、青年はそれに困ったような顔を浮かべる。ぽつりぽつりと話し始めるが、その内容は支離滅裂。道に迷ったとでも言いたいのかもしれないが、そんなことは到底あり得ない。
だが、それでも孝元は青年を悪い人物ではないのだろうと見た。狭い里の中だけではあるが、仮にも孝元はまとめ役として人を見続けている。自信があるとは言えないが、それでも人の善悪の区別位は付く。
人を騙すということができないのか、しどろもどろになって俯く彼は、まるで怒られる子供の様だった。いい意味でも悪い意味でも、彼は善良な人物だろうと孝元は結論づけた。
「行くところが無いのであれば我らが里へ。歓迎しよう、流浪人」
会話を打ち切り、歓迎の意を示す。背を向けて己の家へと向かう孝元に、小走りに駆けてついてくる。素直でよろしいとのんきに頷いた。
いかに生きるのが苦しかろうと、いかにそれが逃げに近かろうと、彼らは懸命に生きている。それ故に彼らは新しい命を貴ぶのだが……、この時の孝元の気持ちはそれに近かったということは恐らく和也には知られないままの方がいいだろう。
自宅へと連れて行き、食事をごちそうする。話す際の潤滑油として用意したが、あまりにがっついて食べるので話はせずに置いた。どういう経緯にせよ、やはり森を越えてくるまでの間に色々あったのだろう。
食事を終えると深く礼を青年はした。やはり礼節は持っているようだ。己の人を見る目が恐らくは間違ってなかったことに安堵する。改めて観察すると綺麗な身なりをしているが、何よりも健康的な男性だ。体つきはやせ細ってなく、太くはないが筋肉もついている。
孝元は黙考する。青年は礼儀というものを知っている。ならば多少世話をするのは構わないだろう。劉に近く大きな体を持つ青年は、男手という意味で里の訳に立つ。
「ところで一つお尋ねしますが行くあてはございますかな?」
「い、いえ……どこにも……」
「ではこちらに住まわれるのがよいでしょう。幸いいくつか空家もございます。住むからには村の仕事を手伝っていただくことになりますが……よろしいですかな?」
一応相手の青年、和也に聞いてはいるが答えなど決まっている。この場を出て、里を出て、その上で生き抜くことができないことを孝元は知っている。里を出るということは自殺と同意義だ。遠いところから来たと言うが、帰ることができないというのであればなおさらだろう。想定通り、和也は孝元の提案を受け入れた。
「うむ、まあ明日は里の案内をしましょう。頑張りましょうか? お客人」
こうして孝元の提案の下、和也は紅呉の里に受け入れられた。
◆
「竜じい、お客人の調子はどうだ?」
和也が紅呉の里にやってきて数日経ち、孝元は竜じいに和也の様子を聞いた。劉同様にいい体格をした和也なら、さぞ里の役に立っているだろうと期待しての質問だ。
「…………」
だが、話しかけられた竜じいは喋らない。黙したまま孝元を睨んでいる。小柄ながらも長い年を生きる竜じいの眼力は恐ろしい。小娘ならそれだけで泣き出してしまうだろう。
だが、孝元もまたまとめ役として生きてきた。その程度のプレッシャーには屈せない。何より、竜じいが睨む理由を知っている身としては、笑い出したい気分である。
沈黙が続いたが、分が悪いと判断したのか。渋々ながらも竜じいは喋る。
「ありゃあだめだ。土器を壊すは水を運ばせれば落とすわ。要領がわりいな。今までどうやって生きて来たのか不思議なぐれえだ」
その独特な声で竜じいは和也を貶す。だがその内容に反して和也が初めて竜じいと会話した時とは違う明るく陽気な声だ。そのギャップがおかしくてたまらない。
和也が初めて竜じいと出会った時竜じいが孝元を睨んだのも、つい先ほども睨んでいたことも、実はそれが理由だ。竜じいは本来明るく陽気な声をしており、性格もそれに近い。が、性格はともかくとして声はコンプレックスに近く、また年長者として厳しくあらねばいけないと考える竜じいはとかく喋らないようにした。喋る必要がある時も極力のどに力を入れてしゃがれた声を無理に出している。
和也の散々な評価に孝元は当てが外れたかと内心がっかりした。いくらいい体格をしていても、それを生かせないのならば意味がない。穀潰しを養う余裕がないと追い出すような真似はしないが、それでも遊ばせておく余裕はない。
「まあそれでも劉ぐれえに役に立ってる。失敗すれば取り戻そうとはするみてえだしな」
「――竜じい、それなら何も問題ないではないか。全く役に立たないのかと思ったではないか」
孝元は口を尖らせた。劉は最良の、とは言わないが里全体で見ても5本の指に入るぐらいに役に立つ男だ。その劉と同等に役に立つのであれば別段問題はない。そう思い苦言を呈する孝元に、要領がわりいだけだと苦虫をつぶしたように言う。良い体を持っているのに活かせてないのが、小柄な竜じいから見れば腹が立つのかもしれないと孝元は悟る。
孝元が一人納得をしていると、ああ――と、突然竜じいは思い出したように声を上げた。
「そういやあいつ、薬草や虫には詳しいみてえだ。剛二ん所にやったらいいんじゃねえか?」
「剛二の所にか?」
剛二は紅呉の里の蛋白源、虫の管理をしている。村の重要な役割の一つだが、そこで役に立つというのであればこれ以上なく望ましい。いくつか聞いて確認をしてからではあるが、もしも有用そうならそうしようと決めた。
「そうか。邪魔をしたな、竜じい」
「んおお、気にすんな、老」
この後、孝元は和也が想像以上に詳しいことを知り、和也を剛二の下に付けた。和也はその知識を生かしよく働いた。
だが、数日後、和也は孝元に想定外のことを言いだす。決して狩ることのできないモンスターを狩るなどということを。
◆
孝元は和也に三日の時間を与えた。これには深い意味があるわけではなく、ただ挑戦と失敗を通して諦めさせるというだけだ。和也の想像とは違い、孝元は和也の狩りに期待をしてはいなかった。和也の申し出の一日ではなく三日の自由を与えたのは、言葉の通りあまり拘束すべきでないと思ったことと、諦めさせるにも時間は必要だと思ったためだ。
モンスターを狩ろうにも、木の棒や劣化した牙のナイフなどでは到底太刀打ちできるはずがない。武器が無く、身を守る防具もない。石でも投げればもしかしたらうまくいくかもしれないが、投石が届く距離まで行けば逃げられるか攻撃されるか。リスクの方が高すぎる賭けだ。
だから孝元は和也に自由を与えた。和也はそうしたリスクを背負う人間ではない。考えて、その結果をやる前から見ることができるだろう。他に方法があるのではないかと往生悪く考えさせ、それを諦めさせるまでの時間が三日なのだ。
一日目が終わり帰ってきた和也は疲れた顔をしていた。だが、どこか達成感のようなものもあるように見える。獲物もないようなので狩りは失敗したのだろうと思いながら、何故悔しそうではないのかが孝元にはわからなかった。
二日目は前日に比べ煤汚れていた。土の上で寝転がりでもしたのだろうか。やはり疲れた様子を見せるが、表情を見るに悪い状況だと捉えているわけでもないようだ。ますます意味がわからなかった。
三日目、和也が出るのを見送った孝元は、一体和也は何をしようとしているのか考える。竜じいや剛二から和也の評価を聞いてはいるのだが、もしかしたら不十分だったのかもしれない。孝元は剛二の話を聞きに行くことにした。
「普段の和也……ですかい? こう……うまく説明できませんね……。何も見ていない様で、俺には見えないものを見ている……という感じなのですが」
「ううむ……霊媒師とでもいうことじゃろうか」
「いや、そういう訳ではなくてですね……。なんでしょうか、やはりうまく説明できませんね……」
剛二と孝元は唸る。うまく意思疎通ができないことがもどかしい。剛二にしてみてもわざわざ孝元が足を運んで聞きに来たのだ、こんな意味不明の説明だけで終わらせるわけにはいかない。それで尚も説明しようとするが、やはりうまくできない。
「すいません、やはりうまく説明できませんね」
「そうか……まあ特に問題はあるまい」
そう告げられ剛二はほっと息をつく。そう一息ついたところで思い出したのか、ところでと違う話を切り出した。
「昨日、森を見回った者の話ですが、妙な音を聞いたというんです。よくよく聞いてみると、まるで小さな飛竜が森の中に現れたかのような音だって言うんでさ」
「馬鹿な!? ――さすがにそれはないのではないのか? 飛竜は彼の山に住んでいる。森にはそう来んじゃろう?」
「私もそう思いますが……、ならその妙な音は何かって話になっちまう。とりあえず周辺の警戒は強めた方がいいかと思います」
「ううむ……いや待て。その妙な音があったのは昨日なんじゃな?」
「え? ええ、そうです」
昨日、ということが引っ掛かった。昨日、和也は煤で汚れていた。もしやそれがこの妙な音と関係しているのではないかと孝元は考えたのだ。
(馬鹿なことを……いや、じゃがこの偶然は……)
飛竜のような妙な音とはいったいなんだと言うのか。そんなものを人の身で出せると言うのか。だが、違うというのであればいったいこの偶然の一致は何なのだろうか。
「ひとまずこの件は保留じゃ。もしわしが考えている通りなら明日以降はその妙な音は鳴らんはず。様子を見よ」
「へえ……。そりゃあわかりましたが」
ひとまずそれで話は終えようか。そうしようとしている所だったのだが、そこに一人の女性が駆け込んできた。
「剛二さん! 大変、昨日の音がまたするって!! それも何度も!!」
「なんだと!? 老、様子見なんてしてる場合じゃ――」
「わかっとる。すぐに調査せよ」
駆けこんできた女性、お絹の話は昨日以上のものが起きていることを知らせるものだった。すぐさま原因を調査すべく男手を集め森へと繰り出した。その間も何度かした爆発音を頼りに彼らは駆け抜け――その音の主と遭遇に成功した。
「な……嘘だろ……」
音の原因、和也は満身創痍という姿で座っていた。駆けてくる足音に気付いていたのか、剛二たちの方を見つめ、どこか照れくさそうに笑っていた。
だが、そんなことは些細なことだった。剛二たちの視界には獰猛な牙獣種、ブルファンゴの死骸が木の下敷きとなっていたのだから。
「これ……お前がやったのか……?」
そうでないならなんだと言うのか。だがそんなはずがあるわけがない。相反するような考えが心を占めながら、震える声で剛二は尋ねた。
「ええ、まあ」
やはりどこか照れたように言う和也。それを聞いて尚も信じられないという気持ちでブルファンゴの死骸を見つめる。あり得ない、モンスターを狩ることなどできるはずがない。だが、それを否定する答えが目の前にある。ようやく、剛二はそれを認識した。
「おい! すぐに里に戻って知らせろ! 和也が牙獣を狩った!」
「は、はい!!」
戸惑いながらも、剛二と同様に常識が覆されたことを認識した一人が里に向かって駆け出した。残った全員で下敷きとなったブルファンゴを引きずりだし、怪我をしている和也を労わりながら里へとゆっくりと向かった。この日は、紅呉の里の誰にとっても忘れられない日となった。
◆
和也のことを聞いた孝元に竜じいは虫や魚の知識があるようだと答えた。だが、その知識とはそれらだけに留まらなかったらしい。里では和也の指導の下、回復薬や爆薬が作り出されている。
「薬草とアオキノコを半分ずつ……、こっちは薬草とアオキノコを……えーっと……アオキノコが半分の半分入ってます」
今も孝元の家にて里の少女が爆薬の試作品を持ってきていた。並んだ二つはどちらも小さめの土器で見た目上の違いはない。
少女は拙い説明だが、1:1のものと1:3のものだと言いたいらしい。数字の概念がないわけではないが、比例計算はきちんと学んでいないのでうまく理解できていない。調合の比率と効果の検証をしようとしているということを、なんとなくではあるが孝元は察した。
「うむ、わかった。こちらでも確認してみよう」
「は、はい、お願いします。あとどちらの方が効果があったのかを和也さんが聞きたいと……」
「ん? わかった、後で伝えておこう。ところで薬草やアオキノコは随分と使っていたようだったが、失敗ばかりだったのか?」
「い、いえ、それが何個も作っては多くの人に効果を聞いているみたいで……。あの、そんなに沢山作って何の意味があるのでしょうか……」
「む……おそらくは個人の違いによる差異を無くそうとしているのじゃろう。消費も激しいじゃろうが構わん。今はそれにこだわるべきではない」
言うまでもなく、和也が複数作り多くの意見を求めているのは統計を取るためだ。統計を取るためには母数を大きくする必要があり、そのためには多く作る必要がある。孝元は経験論からそれを察したが、まだ若い少女はそれを理解できていないようだった。と言っても、学校もなく義務教育があるわけでもないのだから、少女を責めるのは酷というものだが。
「それでは失礼します。あと、和也さんが他に効果がありそうな薬草の類があれば教えてほしいとのことでした」
「相わかった。とはいえそちらは今心当たりもない。ひとまずご苦労じゃった」
去る少女の背を目で追いながら、思わず顔を綻ばせる。見えるのは普段とは違う里の様子。決していつもが暗いわけではないが、活気づいた里の様子。皆が皆、この変化を好ましく思っているのだろう。和也殿の目に叶う物ができるのも、これなら近いか――孝元はそう思考する。
そうして事実、これより数日後には和也なしでも出来のいい回復薬や爆薬を作りだし、それをさらによくできないかと品種改良を考えるまでに至った。積極的に行う集中力は高いものだ。その彼らの出来のよさに和也が自分の存在意義を少々悩んだりした。
◆
回復薬と爆薬はできた。だがその後は狩りが立て続けに起きた。まずブルファンゴを狩りに行き、その後にランポスを。次いでリオレイアを狩った。あまりにも想定外が続いているが、それでも和也も劉も死なずに済んでいる。その上今度はリオレウスを狩ろうとしているのだ。わずかひと月程度の間だというのにとんでもない様変わりである。
リオレウス、飛竜の討伐などさすがに最初はほとんどのものが腰が引けていた。だが和也の鼓舞をきっかけにして、彼らは立ちあがり今は一丸となって動いている。恐怖は消えない、怖くないはずがない。だがそれでも皆を守るために。そうして誰もが立ち上がって……いや、ある一人を除いて立ち上がっていた。
「は……はは……笑ってくれよ……。俺一人勝手に行って、そんでこんな迷惑かけて……なのに俺……震えて……どうしようもないんだぜ……! もう……笑ってくれよ……!!」
劉が、ただ一人震え恐怖を拭えないでいた。それは仕方がないことだろう。ある意味里のものは皆『和也なら大丈夫だ、それに矢面に立つのは自分たちでない』という考えがどこかにある。何より皆、飛竜種を直接見たことがあるわけではない。見たことあるのは孝元と竜じいぐらいだ。恐怖よりも昂揚が先立ってしまっている。
だが劉は和也を除いたものの中ではただ一人、飛竜と直接相対した。そこで何を感じたのかは本人にしかわからないだろう。相対して、何度となく死を感じて、それで恐怖を感じない方がどうかしている。だから孝元は笑う気などなく、ただ諭すように言った。
「誰も笑いなどせん。飛竜が恐ろしいなど当然のことだ。それで笑うようなものなど――」
「違うんだ、違うんだよ……」
だが、劉は孝元の言葉を否定する。
「死ぬのが怖いんじゃないんだ……飛竜が怖いんじゃないんだ……。俺は……俺のせいでみんなを巻き込んで……みんなを死なせるのが怖い……」
手で顔を覆うようにして俯いて、絞り出すように劉は吐き出した。事ここに至り孝元も悟る。劉は飛竜種の狩りを自分勝手な理由で行った。ただそれが、こうして里を巻き込む結果になるなど思ってもみなかった。大事な人を、自分のせいで死なせてしまうかもしれないという重圧はとても重い。
「ならば、戦うしかないだろう? 戦って勝つほかあるまい。我々にそれを教えてくれた和也殿がいるのだ。我々は負けはせん」
「そんなの! そんなの……あいつを見てないから言えるんだ……! あいつは……」
「だが、ここで逃げても変わらんよ。運よく飛竜から離れられたとしても、そこにモンスターがいないわけでもあるまい。移動の際、それに開拓の際、多くの犠牲者が出るだろう。我々には戦うという選択しか残されておらん」
「そんなこと! そんなこと……わかってんだよ……!」
泣くのを堪えているような震える声で尚も言い募る。結局のところ劉を縛りつけているのは恐怖だ。それが自分の死ではなく他者の死であろうとも、恐怖で動けないのは変わらない。
別に劉がいなければどうにもならないという訳でもないだろう。今は放っておくしかないと孝元は去ることにする。
「あいつは……あいつはなんで戦えるんだ……。こんな……こんな中で……」
去ろうとする背中に、劉の質問がかけられた。それはただの独白だったのかもしれない。だが、孝元はその答えを偶然ではあるが知っていた。故に答えた。
「『どうせ後悔するのは変わらない。ならより良い方を選びたい』。彼はそう言っておった。尤も、和也殿もそこまで潔く選べているわけでもないじゃろうが」
そう言い残して、今度こそ孝元は去った。後に残されたのは蹲る劉だけ。和也のように動きたい。そう思いながらもやはり劉は動けなかった。そこに白い塊がやってくる。
「どうしたのニャ。さっさと起きて準備をするニャ」
「――ヨウか。俺は……。なあ、どうしてお前らはあそこにいたんだ?」
「飛竜の山にかニャ? それは僕たちが栄えある門前大使として――」
「ヨウが飛竜なんて僕の敵じゃないニャとか言い出したから。――ボクはそれでお目付け役」
ヨウだけかと思えばリンもいた。相も変わらず無表情でヨウの言葉に被せて、おそらくは真実を告げた。
「――怖くなかったのか?」
「平気ニャ。この僕に恐怖ニャど――」
「怖くて震えてたら死ぬ。死にたくないなら震えてられない」
「ニャッ! さっきからニャんで被せて言うのニャ!」
「ヨウは話が長い」
「そんなことないのニャ! リンが短すぎるのニャ!」
にゃあニャアと言い争いを――というより一方的にヨウが喚いているだけに近いが――始まって、思わずミズキは苦笑した。なんというか、この二人らしい。気負いもない子猫たちとの会話で、なんとなく劉は気が紛れていた。
「なあ、俺が怖くて震えて、あいつとは戦えないって言ったら……お前らはどう思う?」
「仕方ない。人には得手不得手がある」
冷静にリンはそう言った。彼らは人ではなく獣人なのだが、そういったところは変わらないらしい。
一方でヨウは怒ったように劉は怖くなんかないのニャと騒ぎ出した。いや、俺を怖いかじゃなくて俺が怖いって言ったらともう一度言うが、尚も騒ぎは止まらない。
「怖くなんかないのニャ! どんな時でも怖くなんかないのニャ! もしそれでも怖いって言うなら僕が守ってあげるから大丈夫なのニャ!!」
「いや、さすがにお前に守ってもらうってことは……。大体お前の方が小さいだろうに」
「そんなの関係ないのニャ! ミズキは僕の子分ニャんだから僕が守ってあげるのは当然だニャ!」
まだ喚き散らすそれ。しかし劉の返事はなくただ小さく、あ……と劉の口から声がこぼれた。口からだけでなく、目からも違うものがこぼれだした。
――仕方ないなあ、兄さんは。大丈夫、僕が守ってあげるから。
そう言っていた小さな弟。特別何でもない、小さな子供の戯言に近い夢のようなもの。だがそれは劉にとってかけがえのない思い出だ。
(そうだよな……そうだったよな……)
劉にとってかけがえのない弟は、劉の前でリオレウスに食われて死んだ。涙を流して伸ばされた手を掴んでやることはできなかった。
ああ、そうだ。思い出した。劉がそれから里の仕事を率先してやったことを。そうして体が鍛えられ、里一番の力持ちとなった理由を。誰も死なせたくない、少しでも安全な里に皆がいられるように。もう誰も――弟と同じ目には合わせない。それが劉の原動力だった。
恐怖は消えない。だが、確かにその通りだと思うこともあった。驚いて慌てている子猫を余所に、劉は立ち上がる。
「ミズキ?」
「――どうしたの?」
「――なんでもないよ。まずは……どうするか」
「ニャニャ……ミズキがニャんかよくわからニャいのニャ……。そう言えばミズキが元気そうニャらって言伝があったのニャ。今は平気そうニャのかニャ?」
「ん? ああ、たぶん大丈夫だ。なんだ?」
「えーっと……武器が欲しけりゃ作ってやる。ニャから鉄鉱石を集めてこい……ニャ。鉄鉱石については僕た……リンがわかるニャ」
「逃げない……。ヨウも行くの」
にゃあニャアと騒ぐ子猫たちにまたも苦笑する。言伝を伝えてくれた礼も言い損ねてしまった。それに、誰からの言伝だったのかも。尤も、その想像位は付いているのだが。
「ありがとう竜じい。それに孝元。怖いのは変わらないけどやってみるよ」
聞こえないことなど承知で礼を言った。こうして彼もまた選んだのだった。より後悔しない選択を。この日より数日後、紅呉の里周辺を悩ませた飛竜種はいなくなった。
紅呉の里は変わっていった。それを成した青年は、それがどれだけ大それたことなのかを知らないだろう。運命の歯車は周りを巻き込みながら、少しずつ回転速度を上げて行った。
あれえ? なんかシリアス回になった。
本当はもっとギャグ的な要素が多かったはずなのですが……最後にそんなオチを持って来るのはどうなのかということでなくなく削りました。
ちなみに内容は、第十話で使った台車とかタルとかを作るのに使う木材。それを得るために劉が大剣を使い木を切り倒して回ったという話。元々それを書くための閑話だったはずなのになあ。