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結局あれから七半荘を回し、当然のように全てのトップは小鍛治健夜だった。何をしてくるのか見当もつかず、振りまわされ続けた。あんな打ち回しがもし出来たのならどれだけ楽しいのだろうと夢想したくなるくらいに。
「アカン。情報が全然入ってこんのはやっぱ辛いですわあ」
休憩スペースの革張りのイスに座って足をぱたぱたとさせながら浩子は愚痴る。回数をこなしたおかげか初めのほうにかいていたイヤな汗はもう引いている。麻雀に対して真摯に取り組み、全力で分析をしているからか忘れられがちだが、船久保浩子だって女子高生である。そんな年頃の娘がかわいらしい仕草をすればそれはかわいいに決まっている。特殊な事情がないかぎりは。その仕草を見たのかどうかは定かではないが、赤木が満足そうにタバコをふかしている。
「えっへん!どうかな? プロっぽかった?」
小鍛治健夜が腰に手を当て胸を張りつつ、してやったりといった顔をしている。この発言を嫌味ったらしくなく言えるあたり純粋な人柄をしているのだろう。どうでもいいが七回通して一度もトップを譲らない情景を見てプロらしくないと言える人間がいるなら会ってみたい。
「プロどころの話やないですよホンマ……、どないなってるんですか」
「それより、何か思うところはあった?」
「……相手が見えないってホンマに怖いです。前に赤木さんと打ったときと似た感じでしたわ」
それを聞いた健夜はふむ、と頷いた。ちょっとの間だけ思考に沈んだ様子を見せて、なぜかその後飲み物を買ってきた。
「及第点ってことでお姉さんのオゴリだよ!ふふっ」
「合格点には届かない、って感じですか」
「惜しいところまでは行ったんだけどね」
その辺をオマケしてくれないあたり、どうやら小鍛治健夜もかなり真剣に浩子を鍛えるつもりらしい。生ける伝説のプロが大真面目に鍛えてくれるなど他の高校生が聞いたら血涙を流して羨ましがるかもしれない。
そのあと浩子は色々と質問してみたが、別に点数がどうのこうのというわけではなかったらしい。まずはやり方を理解しなければならないのだ、と健夜はそう言った。はて何のやり方だろうかと浩子は頭を捻るが答えはでない。だが少なくともさっきの対局と関わりがある。これは様々な角度から検討せねばなるまいと人知れずに気合いを入れた。時刻は午後一時を回ったところで、あらためて意識してみると浩子はお腹が減っていることに気がついた。
揃って出前で昼食をとることに決め、しばしの休息に入る。どうやら太陽は飽きもせず絶好調をキープしているようで、二階の窓から眺める通行人たちはいかにも辛そうだ。効きが良くないとはいえ、さすがにエアコンがあるのとないのとでは差がありすぎる。それこそエアコンがなければただ座っているだけで熱中症にかかることすらそう珍しくないのだから。
先に健夜におごってもらった飲み物で喉を潤おしながら浩子はぼーっとしていた。外より涼しい室内でもやっぱり冷たい飲み物は汗をかくものだよな、と益のないことをつらつらと思う。神経が麻痺するかのような対局をさっさと研究したいという気持ちもあったが、どうせ昼食で中断されるだろうとの推測の上である。そういえば、と浩子は思いだす。三日前にヒリつくような人に会いたいと願ってみれば、今はこのような有様だ。ひょっとしたら気付いてないだけで自分も何らかのオカルト能力を持っているのではないか、と苦笑する。公式戦無敗のプロとそれを倒してしまう存在を呼ぶ異能? もう一度苦笑を重ねる。ただ赤木に着いていく以上、そういうレベルの方々とこれからも会う可能性は否定できないな、と浩子はそうも考えていた。
小鍛治健夜が打っているということもあって途中から浩子の卓にはギャラリーがついていた。そうして一区切りついたと見るや一気に卓に来てくれと健夜に声がかかる。こと麻雀に関しては非の打ちどころのない彼女ではあったが、さすがに昼食前にまで打ちたくはないとやんわりと断っていた。試合展開こそ健夜が圧倒していたものの、浩子も打ち回しはさすがインハイ上位常連校のレギュラーと呼べるものであった。当の浩子は現在休憩スペースでぐでっとしている。となれば客たちは最後の一人に注目する。小鍛治健夜、船久保浩子ときて最後の一人が打てないこともあるまい、と赤木に誘いの声がかかる。赤木はちら、と休憩スペースに目をやり、昼食のあとでいいなら、と承諾した。
昼のエネルギー補給を終え、赤木しげるが卓につく。対する三人はどうもこの店の常連客らしく、それなりには腕も立ちそうだった。
「それじゃあ浩子ちゃんはしげるくんの手牌の見えないところね」
「え、むしろ赤木さんの打ち筋見たほうがええんと違います?」
「しげるくんのは真似しようとしないほうがいいよ。混乱しちゃうし」
その発言そのものが浩子にとっては混乱の種である。打ち筋なんてものは基本的に牌効率を中心にある程度かたちは決まっており、せいぜい切り出しの早さや天秤の傾け方くらいでしか顕著な違いは出ない。確かにインターハイには悪待ちだとかよくわからない打牌をするプレイヤーもいたが、別に混乱するほどではなかった。それに初めて赤木と打ったときにもたしかに不思議な打ち回しだとは思ったものの混乱はしなかった。本当に混乱する打ち筋など存在するのかと首をかしげたものの、浩子はとりあえず赤木の対面の後ろに陣取った。常連客の後ろについて場の流れを見てみることにする。知らない中年の打ち筋を分析したところで得るものは少ないだろう。とはいえ見えるものを見ないというのも難しい話で、浩子は中年の手を見つつ場全体を見ることに決めた。
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赤木から先制のリーチが入る。赤木は起家であるため親からのリーチという格好だ。他家のそれまでの手作りも空しく、それは降りざるを得ない。降りないパターンも考えられるがそれは相当に手が仕上がっていてかつ相応に大きい場合である。リーチが入ったのは五巡目のことであり、その巡目で親リーと勝負できる手などそうそう入るものではない。大方の予想通り他家はさっさと手を崩して降りていく。浩子の目の前の中年も途中までは和了の目を捨てずに粘っていたが、ある巡目を境にぴたりと降りた。
( まあ、その辺が限界やろなー。うちは見切るんならもうちょい早く降りるけど )
淡々と場が流れていく。赤木は一向に牌を倒さない。あれだけの人でもツモにはやはり逆らえないのか、と浩子は妙な感慨に耽る。ダブリーからの流局も間々あるくらいなのだから巡り合わせが悪いとしか言いようがない。結局、和了ることもなく海底がツモられ、安全牌が切られてゆく。
「……悪いな。ノーテンだ」
対面に座る白髪の男の発言に耳を疑う。ノーテンリーチはいわゆるチョンボで罰符を払わなければならない。罰符は満貫払いとなっており、親である赤木はもともとの点数の半分近くを吐きだすことになる。浩子はおそらく赤木が何かを仕掛けたのだと考える。自分はおろか小鍛治健夜を下した男がただのミスでチョンボなどするまい。つまり目的があってのノーテンリーチなのだろう。浩子はリーチの効用を考える。リーチとは周囲に自分の聴牌を知らせ、自分の手役に一翻加えるものだ。その効果は周囲に警戒させること。そうなれば他家の反応は降りるか差し込んで場を流す、あるいは勝負手ならまっすぐ進むかのどれかになる。論理的に考えるのなら “そうさせること” が目的と考えなければならない。親番と点棒を吐きだしてまでする価値のあることなのだろうか。浩子は思考を加速させる。
( まったく意味がわからん。どんな意味があるんやろ )
分析に長けていると自負のある自分ですらわからないのだ。同卓している常連客たちには悪いが何がなんだかわからないだろう、と浩子は思う。あるいは赤木をただの初心者として捉えているかもしれない。浩子が考える先ほどのノーテンリーチの効果はといえば、まさにそれだけである。赤木に対する印象を意味不明にするか初心者と思わせるか。吐きだした点と天秤にかけると実に合理的でないように思われる。
もし浩子が今の赤木の立場 ――東二局にして残り点数が12000―― だったなら即座に点数を取り返すことを考えるだろう。下手を打ってしまえば一撃で飛ばされるなんてことにもなりかねない。したがって浩子はこの局で赤木は攻めに出るだろうと考えていた。
東二局。穏やかに進行していくなかで、当然のように目の前の中年の手は進む。ムダヅモも少なく、手なりできれいなタンピンへと育っていく。どうやら他家もだんだんと仕上がって来ているようだ。赤ドラを含んだタンピン手を中年が聴牌した。ただ捨て牌から見るに、気配を悟られてしまえばそうそう出和了りは期待できないだろう。浩子はダマで十分だと判断する。しかし浩子の予想に反して目の前の中年は牌を曲げた。ツモの予感でもあるのだろうかと浩子は訝しむ。中年の目線は赤木の手元から動かない。それを見て、この男は赤木からの直撃を狙っているのだと浩子はようやく理解する。なるほどさっきのノーテンリーチで赤木を初心者だと断じたのだろう。当の赤木はといえば、リーチなど意に介さず飄々と牌を切っていく。終わってみれば目の前の中年の一人聴牌で東二局は流れた。
浩子の表情は冴えない。攻めに転じると考えた赤木がこの局もだんまりを決め込んだことで、なおさら狙いが掴めなくなったからだ。たしかにまだ少なくとも残り六局はあるが、のんびり構えている余裕はないはずだと浩子は考える。他家が和了する可能性だって十分にあるのだから。それともこの打ち方が授業の一環なのだろうか。傍目には意味不明にしか見えないこの打ち方こそが自分の新たな可能性なのだろうか、と必死で頭を働かせる。健夜はにこにこと楽しそうに卓上を眺めていた。
赤木が動いたのは東三局以降のことだった。わざわざ平和形を崩して嵌張で狙い打ったり、聴牌するための強打を漏らすことなく討ちとった。再び赤木に親が回り、二本場になるころには赤木を除いて全員が弱気一辺倒の打牌となっていた。その弱気の打ち筋すら逆手にとって赤木はひたすら他家から出た牌で和了り続けた。五本場での和了りで浩子の目の前にいる中年が箱を割った。もはや蹂躙と言って差し支えなかった。
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「赤木さん、さっきのやり過ぎと違います?」
雀荘から出て少し歩いたところにある喫茶店。店内の雰囲気は落ち着いており、邪魔にならない程度の音量でクラシックがかかっている。健夜がたまに訪れるということで一行はこの店にやってきた。先ほどの派手な闘牌もあってか常連客たちに赤木が目をつけられてしまい、対局依頼から逃げるために来たという側面もある。テーブルには注文した品々が置かれている。浩子はカフェラテを飲みながらたしなめるように赤木を見ている。
「ひろ、そうじゃねえだろ」
赤木は取り合わない。あくまで目的は浩子だと言外に含んだ物言いである。たしかに、と浩子は思う。たしかに衝撃的な麻雀であったが常連客が牌を握れなくなったわけではない。むしろ目を輝かせて赤木と打ちたがっていた始末だ。だから心配するのは余計なお世話であって、そこは浩子の領分ではない。浩子が考えるべきは客たちが目を輝かせたあの対局についてである。しかし未だにあの対局の持つ意味がつかめない。お手上げ、といったふうに浩子はため息をつき、赤木に尋ねた。
「もしかしてさっきみたいな麻雀やれ言うつもりですか?」
「まずはやり方……、やれるかどうかはその後だ」
健夜にも言われたことが赤木からも繰り返される。やり方を理解しなければどうやら二人が望む領域に行けないらしい。浩子が今はっきりと言えることは、健夜にせよ赤木にせよまったく形が見えなかったということだけである。結果としてそれのせいで浩子自身も常連客たちもいいように振りまわされた。以上のことを二人に向かって言うと赤木はくつくつと笑い、健夜はふわりと柔らかく微笑んだ。
「わぁ、本当にあと一歩だね」
「なあに、すぐさ。もともと筋はいいんだ」
自分の理解していない部分で評価をされるとむず痒いと浩子は初めて体験として学んだ。
いったい何まであと一歩なのかすらわからない状態でただただ前に進もうとするのは非常に疲れる。目の前の二人に聞いてしまえばラクなのだろうが、それをしないのは自力で進まなければいけないと感じているからだ。強くなるということはそういうことだと浩子は考えている。手助けを受けることはあっても、最後は自分で切り開かなければ意味がない。だからこそ浩子は妥協無く情報収集をしてこられたし、麻雀の地力も成長してきた。この姿勢に関してはは従姉の存在が大きいと言っていいだろう。
「そういえば赤木さん、聞いておきたいことがあるんですけど」
「ん?」
浩子の問いかけに赤木が反応する。浩子が考えていた以上に赤木は気さくな人柄をしており、話しかければ普通に会話をすることは可能である。小鍛治家のご母堂と談笑できていたのも別段特異な出来事ではなかったのだ。健夜から聞いたところによると昔は非常に取っつきにくい性格をしていたらしい。もっとも健夜もその時期の赤木と面識をもっていなかったため、今この場にその時代を知るものがおらず、確認する術はないのだが。
「茨城にはいつまでお邪魔する予定なんです?」
「……さあな」
ハア、とため息こそ出るがその返答は浩子にとっては織り込み済みだった。なにせアポを取らず宿を取らず茨城くんだりまで乗り込んできた男である。予定など決めているはずもなかろうと一人で納得する。現時点での可能性はこのまま茨城に残るか、あるいは茨城を出て別の地へと向かうかである。問題点としては、茨城に残る場合また小鍛治家にお世話になりそうだという点と、別の地に向かう場合どこに行くかを一切決めていないという点が挙げられる。仮に茨城を出るとなったら今度は宿をしっかり取ってからにしようと浩子は固く心に誓った。
「あれ、二人ともまだどこか行く予定あるの?」
健夜が疑問を口にする。彼女からすればいきなりの訪問ではあったものの、自分に会いに来たと考えるのは当然のことである。事実、赤木と浩子は小鍛治健夜を目的としてこの地にやってきた。だが二人の行動予定が茨城だけにとどまらないと誰が推測できるだろうか。だから赤木と浩子がこれからさらにどこかへ行くというのなら、それは気になる事柄なのだ。
現時点で健夜はこの二人に強い興味を持っている。そもそもあの赤木が人を連れているのだ。健夜の知る限り、この男は人を連れることなど一切しないはずだ。その赤木に連れていく決断をさせた少女も気になる。彼女がどこまで育つのかもきわめて強い興味の対象である。もし健夜の考えるとおりの成長を見せるのならば、次のインターハイは非常に面白いものになるはずだ。のみならず、赤木しげるに師事したとなればプロチームが黙ってはいないだろうし、プロの選手たちからも注目の的となるだろう。近い将来を思い、小鍛治健夜は嬉しくなる。頼られれば全力で手伝おうとさえ考えていた。
「次に行くなら岩手だな」
「岩手、って熊倉さんのところ?」
( 決まってたんかい )
「ああ」
「ホントはプラン決まってないっていうの嘘じゃないの?」
じとーっと健夜が赤木を見つめる。本音がどうであろうとどうせ本当のことは言わないのだろう、と浩子はそんな様子を横目に見る。おそらく実にならないであろうやり取りを聞きながら浩子は岩手へと思いを巡らせる。熊倉さんといえば今年のインターハイで宮守高校の監督を務めていたことが思い出される。ということは宮守高校に行くことになるのだろうか。詳しくは調べていないが、たしかあの高校の選手は全員三年生ではなかっただろうか。それどころか部員がレギュラーの五人こっきりだったはずだ。もし全員が引退して麻雀部がなくなっていた場合、宮守へと行く意味は薄くなるのではないだろうか。熊倉監督を侮辱するという意味ではなく。と浩子は頭を悩ませる。常識の埒外の存在である赤木が部活の引退ということを知っているかと聞かれれば、それは浩子にはわからない。本当に知らない可能性もある。これは一度確認してみるべきかと浩子が考え始めた瞬間、健夜の声がいやにすっと耳へ入った。
「しげるくん、私もついてっていいかな?」
元来、浩子はいわゆる頭の良い子であり、様々な場でブレインとして活躍してきた。その条件というのはあらゆる状況で冷静に思考を進めることのできる能力であり、その分野において浩子は図抜けて優秀だった。呆気にとられたり思考停止するなどこれまでほとんど経験がなかった。それがここ数日で思考停止を何度しただろう。予想外が起きすぎる。あの小鍛治健夜が同行したいと申し出るなど思ってもみなかった。浩子からすれば面通しさせてもらって打ってもらっただけで僥倖だったのだ。それがいったいどうしてこうなったのか。浩子の口は開きっぱなしだ。
「小鍛治サン、仕事はいいのかよ?」
「今は週に一回のラジオだけだし、そのときだけ東京に行けばいいかな」
「ふーん。……好きにしな」
空は高く、少し濃いめの水色で、ぽつんとちぎれ雲が浮かんでいる。未だ夏休み中の学生たちが楽しげに窓の外を通り過ぎていく。浩子の右手にはカフェラテの注がれたカップが握られている。とうに握っているという意識など遠くに吹き飛んで、右手を口元へもってくればまろやかな味わいが舌に広がるという、ある種の機械的な感覚が浩子を支配している。客の数もそこそこしかいないため、騒がしくもなくゆるやかに時間の過ぎていく場所で、伝説のプロが赤木と浩子に同行することが決まった。
「そうすると岩手で泊まる場所探さないとだよね」
「ええ、それ絶対ですわ。赤木さんには任せておけません」
「クク、ずいぶん信用が無えな……」
「女子高生連れて公園を選択肢に入れた人の言うことちゃいますよそれ」
今から出発しても岩手に着くのは夜になってしまうため、今日は小鍛治家にもう一度お世話になることにして喫茶店で会議が始まる。会議に参加するのは健夜と浩子で、赤木はどこ吹く風とそっぽを向いてタバコをふかしている。女性陣はそれにとくに文句を言うでもなく話を進めていく。その傍らで、赤木が誰に聞かせるでもなくぼそりと呟いた。
「……別に宿を取る必要はないと思うんだがな」
どうやら浩子と健夜はウマが合うらしく、なかなかスムーズに議論が進んでいく。タイプが異なってもなぜか仲良くなるというのはよくある話で、もし二人の年齢がもっと近ければ親友と言ってもいい関係になっていたのかもしれない。あるいは今の年齢差があるからこそ仲良くやれているのかもしれないが、それは確かめようのないことだった。