船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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十八

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 じりりりりり。じりりりりり。

 

 急き立てるように鳴る音のほうへと手を伸ばす。手はひらひらと宙を泳いで目的物をつかみ、頂点にあるボタンを押してやっと落ち着く。静かになった目覚まし時計に目をやれば、針は八時を指している。この時間に目覚ましを設定したのは自身だが、まどろみの心地よさに後ろ髪をひかれて戒能良子はため息をつく。カーテンの向こうの六月の空はしばらく続いたねずみ色で、今日も雲が晴れることはなさそうだ。ベッドから降りてテレビを点ける。この時間になるとニュースではなくて情報番組が中心となっている。良子は食パンをトースターに放り込んで、新聞を取りに玄関まで向かう。

 

 朝食後のコーヒーをすすりながらのんびりと新聞を読む。一面を飾るような記事には目を通してはみるものの、表面上のことくらいしか理解が追い付かない。社会人になってしばらく経つとはいえ、年齢で言えば大学生と同じなのだ。大学へと進学した高校の友人たちはなかなか楽しくやっているらしい。本音を言えばそれはもちろんうらやましくはあるが、今さら言ってもしょうがないとわかっているから良子はひとつ鼻を鳴らしてそれで済ませる。社会人はこうやって自分との折り合いのつけ方を学習するのだ。

 

 昨日の麻雀リーグの結果が載っているページを開く。新聞に載っているのはトップリーグの結果だけで、良子の興味もそこがいちばん強いからちょうどいい。それに他に気になるようなチームがあればネットで調べればいいのだから世の中便利になったものだ、と良子は思う。コーヒーの苦みが沁みていく。

 

 ふと、ある記事が目に入った。全国高校生麻雀大会予選開幕、との文字が踊っている。いささか漢字が並びすぎじゃないかと思わないでもないが、もうずっと小さいころから親しんできたものでもあるので気分の高揚は否めない。記事によれば各地で予選が始まっているらしく、早い所ではすでに代表校が決まっているとのことだった。何の気なしにすでに出場の決まった高校に目を走らせる。良子自身が高校生だったときと出場校がどのように変わっているのか気になったのである。ああそういえばこんな高校あったな、なんて目で追っているとひとつの高校名が気にかかった。

 

 ( おや、これは彼女もエントリーと見てよさそうですね )

 

 少し気をよくして洗い物へと立ち上がる。トーストのなくなった皿とマグカップだけの簡素なものだ。今日は平日だがとくに試合が入っているというわけでもなく、ぽっかりと空いた休みとなっていた。あまり外に出たくなるような空模様でもなかったため、牌譜の研究や録画していたドラマでも観ながら過ごそうと良子は決めた。

 

 

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 室内に一定のリズムでキーボードを叩く音が響く。合間にマウスを持ち上げて位置取りを修正しつつ、高速で画面をスクロールさせる。わがままを言えば牌譜だけでなく実際に打っている映像も見ておきたいのだが、地方予選レベルならまだしもそれより規模の小さな試合となるとそもそも映像として記録されていない場合も間々あるため、そういう場合は牌譜を集めることに浩子は決めている。どうして思考の源泉を見抜く技術を手に入れた浩子が牌譜を集めるのかと問われれば、オカルト能力がどのようなものかを突き止める場合、量がものを言う場合が多いからである。本質の分析とその人が持つ異能の分析はもちろん似通う部分が多いが、決定的に違う部分もあると浩子は考えている。だからわざわざそこを分けて研究することに決めたのだ。

 

 傍らにはペットボトルのお茶が置かれている。三分の一ほど濁りのある液体が減っている。以前はパソコンを使って情報収集を始めると他のことに一切の注意を向けなくなる悪癖があって、それは自身の身体が発する空腹や渇きの信号を完全に無視してしまうほどの集中力だった。今は目こそ画面から離れないが他のことにも気を配れる余裕が出てきている。脳のメモリが増えて、それだけより多くのことに気を回せるようになったというのが近い表現だろうか。

 

 雅枝と二年生の一人に手伝ってもらいながら、浩子は週を追うごとに次々と決まっていく各都道府県の代表校のデータをまとめていく。地方予選だと少なくとも決勝は映像が残っているうえに、ルールとして牌譜が公開されている。もちろん浩子の仕事はそれ以上の深いデータの収集ではあるが、最低限の資料が公開されるというのは非常にありがたい話である。特に未知のプレイヤーがいるとなればその価値は跳ね上がる。昨年の阿知賀や清澄のようなダークホースがほいほい出てきてもらっても困るが、麻雀という競技において準備をし過ぎて困るということはない。だから浩子はメンバーに伝えるためにも丹念に研究を重ねていった。

 

 

 帰りのホームルームが終わって掃除の時間が始まる。各クラスに割り当てられた場所へその週の担当の生徒たちが向かっていく。浩子は教室の担当となっている。千里山女子の掃除は、ほうきとちりとりで済ませる簡素なもので小学校のように机を運んだり雑巾をかけたりしない。正直なところ、高校生にもなると昼休みに外に出て遊ぶようなことがほとんどなくなるため校内はあまり汚れない。だからというのも妙な話だが、そこまで細かくやらなくてもとくに困らないというのが現状である。その例に漏れず浩子も気もそぞろにほうきを動かしていた。

 

 浩子の頭にあったのは、あの透き通った世界のことだった。どうすれば()()を自在に操れるようになるのか、あるいは状態を変えることなく近い水準で打てるようになるのかをここしばらくずっと考えている。たしかに先の府予選では荒川憩に勝てた。彼女の実力がずば抜けているのも疑いようのない事実だ。だがそれは浩子がさらにもう一歩踏み込むのを止める理由にはならない。一年にしていきなり全国制覇を成し遂げた宮永照が存在したように、レギュラーにかすりもしなかった位置から一気にエースに上り詰めた園城寺怜が存在したように、どんな選手が出てくるかなど誰にもわかりはしない。全国大会というのは、そういう場所である。

 

 いろいろとあの日の条件を頭の中で並べ立てる。生活態度に関してはとくに他の日との違いはなかったように思われる。ただ妙に集中しやすかったような記憶だけがある。条件を考えてもあまり効果がありそうにないな、と考えた浩子はあの時の状態を思い出してみることにした。

 

 余計な情報が入ってこない、という言葉で表現すると多くのものがこぼれ落ちていく不思議な感覚だった。浩子は自身であまり余計なことを考えるタイプだとは思っていないし、実際にその的を絞った思考の流れはあまりほかに見られるレベルではない。ただあの世界に入り込んだあとで振り返ってみると、意識していないだけで脳は様々な情報を処理しているということに気付かされた。目は卓上の河や相手の手元、あるいは表情や目線の動きだけを追っているつもりでも、実は相手の奥にある壁や扉や卓のラシャに至るまで本当に目に映るすべての情報を処理している。もちろんそれは視覚情報に限らず、音も匂いも着ている服が肌に触れている感覚までも、あらゆる情報が脳に流れ込んできている。

 

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 「浩子ー、どんだけソコきれいにすんのー?」

 

 声をかけられてはっと我に帰る。ぜんまい仕掛けの人形よろしく同じところだけ掃き続けていたのがバレてしまったようだ。照れ笑いでごまかしつつ、今度は足を動かしつつ机の間を縫うように掃いていく。

 

 掃除を終えて部室へと向かう間にも浩子の頭は働き続ける。今のところ有力な仮説は、集中力が限界まで高まったとするものである。自分の頭が恣意的に麻雀とかかわりのある部分だけにその意識を割くことであの状態になったとするならば、音が遠くに聞こえたことも腕が自分のものに感じられなかったことにもある程度の説明がつく。それでもほとんど未来を読み取っていたかのようなあの感触には何の説明もつけることはできないが。そういえば、と浩子は思い出す。あの日、咏の家に帰った直後に健夜が言っていた言葉はいったい何を意味するものだったのだろうか。あるいは何に対してのものだったのだろうか。

 

 

―――――

 

 

 

 八月の二週目から開催される麻雀のインターハイへ向けたおよそ二ヶ月の準備期間は、それぞれ高校によって合宿をしたり遠征をしたりと様々である。とはいえインターハイに出場する者同士での練習は禁止されているため、多くの場合は独自に合宿というのが実際のところだ。千里山女子麻雀部は学校が夏休みに入った翌日から合宿に向かうのが通例である。人数規模で言えば百人に迫ろうかというその合宿はあまり人数の多くない学校の修学旅行にも見えるほどだ。移動のための専用バスを三台も有しており、それもまたらしさに拍車をかける。

 

 走るバスの中は賑やかで、そこだけを切り取って見ればこれから合宿に行くようには見えない。お菓子を片手に話に興じたり、トランプやウノや果ては携帯ゲーム機まで持ち出している部員もいる。しかし雅枝はとくに怒ることもなく、寄ってきた部員と話をしている。スパルタも方針としてはひとつの選択肢だと思うが雅枝はそれを選ばない。締めるべき時に締められればそれでいいと考えているし、監督としてそういうチームを作り上げたという自負もある。試合や練習のときに情けないプレイをすればもちろん怒りもするが、そうでなければ基本は自由にやらせている。技術的な指導は当然するが、自分で考える力がなければどのみち上のレベルでは戦えないのだから。

 

 三泊四日の日程で行われる合宿は団体戦のメンバーを中心としてスケジュールが組まれている。メンバー以外のすべての部員を使ってローテーションを回し、あらゆる点棒状況を想定してひたすら打ち続ける。リードしている場面と遅れをとっている場面で打ち回しには違いが出なければならず、またそれを意識して行えなければ実力とは言えないとの考えのもとでのトレーニングである。控えのメンバーでさえ他県のインハイ出場校とそう実力に差のない千里山女子でのこの練習は想像以上に過酷である。いかに普段が和んだ雰囲気であろうとその本質は全国屈指の強豪である。勝利を求め、また求められることが常となっている彼女たちはひとたびスイッチが入れば年齢にそぐわない表情を見せる。そういった環境の善し悪しなど誰にもわからない。だが彼女たちは自ら選んでこの千里山に身を置いている。だから誰一人として弱音を吐く者などいなかった。

 

 

 ぱたぱたと廊下用のスリッパを鳴らして廊下を歩く。この合宿専用の施設に来るのももう三度目で、今年で来るのも最後かと思うと多少は感傷のようなものも湧いてくる。浩子は心持ちゆっくり歩いてロビーを目指していた。湯上りにそのまま部屋へと戻ってもよかったのだが、ひとりで考える時間を取りたかったというのがその理由である。とくに何か考えたいテーマがあるというわけではない。なんとなく気分的にそんな時間が欲しいという浩子の小さなわがままだ。決められている消灯時間までにはまだすこし間があるし、なにより良い精神状態をキープするのは重要だと浩子は自分を納得させた。

 

 瓶の牛乳を片手に革張りの椅子へと座る。制服と違って浴衣は空気の流れが肌に触れる。なかなか味わうことのできない貴重な感触を楽しむ。なるほどたしかに浴衣ならばエアコンなどなくても夏の夜は十分に過ごせるな、と浩子は思う。むしろエアコンを点けたら体を冷やしてしまいそうだ。まだまだ和服での正しい動き方など知らないが、それでも快適かもしれない。浩子はそのうち普段着として浴衣も選択肢に入れることを検討することにした。

 

 しばらくとりとめのない思考の海に潜っていると、廊下の奥の方にちらりと人影が見えた。まだシルエットしか見えてはいないが、浩子はすでに見当をつけていた。こういうタイミングでやってくるのは一人しか思いつかない。

 

 「あれ、船久保先輩こんなところでなにしてるんです?」

 

 「ん、ぼけっとしとっただけや。泉は?」

 

 「えっと、こういう広いとこ来るとなんか落ち着かなくて」

 

 あはは、と笑いながら泉は浩子の隣に腰を下ろす。

 

 「そういえばアレですね、ホンマに龍門渕きましたね、長野」

 

 「あー、なんか前そんなこと話した気ぃするわ」

 

 泉の表情はわくわくしたものになっている。この純粋さには頭が下がる。自分が引退したあともきっとチームを引っ張っていってくれるだろう、と浩子はなぜか安心した。

 

 「でも実際、あそこむっちゃ強いですよね」

 

 「……団体として見るなら決勝までは間違いない、ってレベルやな」

 

 「先鋒の井上さんか副将の龍門渕さんがエースでもおかしないですよね」

 

 「別に国広も沢村も弱いわけやないしな」

 

 「……天江さんの一向聴地獄ってどないなってるんですかね?」

 

 「あれはまあ、なんとかなるやろ、うん」

 

 「へ?」

 

 「一向聴地獄はひとつの結果やろうし」

 

 「えっ、ちょっ、え?どういうことですか?」

 

 予想外の返答だったのだろう。泉は目をぱちくりさせながら浩子に尋ねる。浩子はその質問に答えることにやぶさかではなかったが、あることを思いついて教えてあげないことに決めた。部内でも邪悪と評判の笑顔を浮かべて浩子は言う。

 

 「宿題や」

 

 口元に手をやり、くつくつと笑いながらもう片方の手で泉の頭を軽く叩いて浩子は立ち上がる。ヒントをくださいとすがる泉をなだめて廊下を行く。もし考えてわかるようであればそれは彼女にとって大きな成長につながるし、わからなくても問題はない。実際に天江衣とぶつかるのは浩子なのだから。赤木が自身に宿題を出したときもこんな気分だったのだろうか、と考えると自然と口角が上がった。

 

 

 浩子は自分の泊まる五人部屋に戻って窓から空を見上げる。すこし前に梅雨が明けたおかげか、雲一つない夜空が広がっていた。顔を出して見回してみると右上のほうに月が煌々と照っていた。合宿所は自然に囲まれた場所にあるため、月の下の景色はただただ黒いうねりが続いているだけのように見えた。

 

 

―――――

 

 

 

 灼けるような日差しが分け隔てなく降り注ぐ夏にあって、東京都心は人にとっては非常に難しい環境と言えるだろう。アスファルトやコンクリート、それに新たな建材に包まれた街は熱を逃がさず、また太平洋側の気候の特徴として夏は非常に湿度が高い。熱帯化が進んでいるとさえ言われる世界でも指折りの先進の街で、麻雀のインターハイは開催される。

 

 集うのはそれぞれの地方予選を優勝することで選抜された屈指の実力校。日本の、それも高校生だけの大会と侮るなかれ、その人口は一万や二万では利かないほどのものとなっている。その人気も絶大なものであり、会場で観戦しようとするのならば開場前に並んでおかないと立ち見必至となっている。また各プロチームや大学のスカウトが目を光らせており、様々な意味で注目を集める大会と言っていいだろう。

 

 

 インターハイの開会を翌日に控えた夜、浩子はひとり東京の街を歩いていた。電灯と二十四時間営業の店の明かりに満たされた夜は、人間という存在を強く主張する。その風景は、浩子に昼夜逆転の生活とはどのようなものかとの疑問を抱かせる。さすがに想像だけでは自分で満足のいくような回答が得られなかったのか、ひとつ息を吐いて浩子は歩く。とくに大層な目的があるというわけではない。ちょっとコンビニに寄って飲み物を買おうと思っているだけだ。宿泊しているホテルに売っていればよかったのだが、飲みたいものがちょうど売っていなかったのだから仕方がない。

 

 自動ドアが横へ滑ると同時に入店音が鳴る。ちらと右へ視線を向けると奥に飲み物が置いてある棚が見える。その手前には雑誌コーナーで立ち読みをしている客がいた。その客の後ろを抜けて棚の前へ行き、目当ての飲み物を探し始める。地元の馴染みのコンビニであればすぐに見つかるのだが、初めて入る店だとなかなか見つからないものである。なぜか目当てのものが下の方にあって発見するのにすこしだけ時間がかかったが、欲しいものが見つかったのでレジへと持っていくことにした。

 

 代金を支払って再び自動ドアを潜り抜ける。少し効き過ぎるぐらいに効いたエアコンのせいで外の気温が上がったかのように感じられる。湿り気を含んだ空気がぴたりと浩子の身体のかたちのとおりに張り付く。さてホテルに戻ろうかと視線をもと来た道へと戻すと、ここしばらくの間は見かけることすらなかった麻雀の鬼がタバコを喫んでいた。ゆらゆらと無目的に空へとのぼっていく煙は夜の街には浮いて映る。まるで幽霊みたいだ、と軽くため息をつく。

 

 「……赤木さん、こんなとこで何してるんですか」

 

 「よう、ひろじゃねえか」

 

 「東京って外でタバコはあかんのとちゃいます?」

 

 「さあな、あまり興味がなくてよ」

 

 言ったところでどうにもならないことはわかっていたため、浩子もそれ以上は何も言わない。

 

 「…………」

 

 「赤木さーん、こういうときはエールのひとつでも送るもんですよー」

 

 「……こういうのはガラじゃねえんだけどな」

 

 ( おお、言ってみるもんやなぁ )

 

 「いいか、ひろ。船久保浩子として生き、船久保浩子として死ぬんだ」

 

 いつもこうだ。日常会話ならば当たり前にこなせるのに、誰かに向けた言葉にした途端、赤木のそれは難解なものへと変わる。これまで出されたふたつの宿題が浩子にとってのその証拠だ。ただそのふたつの事例を考えると、結局は浩子自身が答えを見つけられるものなのだろう。用事は済んだと思ったのか、赤木は夜の街へと消えていく。浩子は、その背中をただじっと見つめることしかできなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 


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