船久保浩子はかく語りき   作:箱女

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十七

―――――

 

 

 

 「船久保ちゃんと直接打つんは中学のとき以来やんなぁ」

 

 インターハイ予選会場の廊下。自販機が二つ並んで置いてあり、左側の筐体に硬貨を入れようとしたそのときに右から声が飛んできた。硬貨はそのまま押し込まれ、ついで商品の下のボタンが光る。浩子は振り向くことなく正面を見つめている。押されることを望むかのようにちかちかと明滅するボタンは健気にアピールを続ける。

 

 「そやな、もう三年も前や」

 

 妙に聞き取りやすいその声に浩子は返事をする。ふわっとした雰囲気のなかにどこか脳髄を甘く痺れさせるような響きを持った声だ。浩子たちの世代、現在の高校三年生は好むと好まざるとにかかわらず、その声の持ち主を中心とした世代と呼ばれるだろう。異能において図抜けた存在である神代小蒔でも天江衣でもなく、荒川憩の世代だと。

 

 「私な、ずーっとずーっと船久保ちゃんと打ちたかったんよ」

 

 示し合わせたかのように廊下に人影は見当たらない。ホールは円に近い形で作られているため、廊下はゆるやかなカーブを描いて途切れているように見える。その円に等間隔に設置されたスクリーンのある観客席や出場校のための控室、あるいは対局室には空調が完備されているが二人のいる廊下はその限りではない。季節が連れてくる空気中の水分はべたべたと肌に張り付き、ひどく不快な感じを与える。

 

 「うちとしては願い下げやな。他を当たるとええ」

 

 時刻は十一時をすこし過ぎたところ。早ければ一回戦が終わっている頃だ。ただ千里山も三箇牧もシード校かつ浩子と憩は大将なのだから出番はまだまだ先のことである。だが結局どこが勝ち上がってきたところでこのシード校ふたつを止めることはできるわけもなく、明日見られるであろうこの二人の激突は避けられないものに違いなかった。憩はくすくすと笑いながら口を開く。

 

 「そう嫌わんとってよー。楽しみにしてるのはホンマやからね」

 

 それじゃ、と浩子の対応を意に介するでもなく憩は身を翻して歩き始める。同時に浩子はスポーツドリンクのボタンを押す。一拍置いて缶が押し出され、がらんと音を立てて取り出し口に落ちてくる。プルタブを開けて缶を傾ける。よく冷えた液体が喉を通って体内に滑っていくのがわかる。ふと憩のいた方へ視線を向けると、その背中はすでに小さなものになっていた。

 

 

 千里山の控室は相も変わらず賑やかだった。備え付けのテレビで他校の観戦をしながら時に分析を、時には打牌の正当性などを議論している。高校麻雀における団体戦は、先鋒から大将までの五人ずつの選手で各校に与えられた十万点の点数をやりとりするものである。したがって点棒状況や局の進み具合だけでなくその選手のポジションにおいてさえ打牌の正当性は変化するため、観客たちが思っている以上に高度な思考を試合は要求する。たとえば二位までが次の試合に進めるという場において、次戦に残したくない学校があった場合は一位を走るチームが他校に差し込むことも大いにあり得ることなのだ。だからこそそこに議論が成立する。自分たちに有利な状況を作らないということは、どれだけ強いチームであってもただの驕りである。

 

 浩子はただじっと画面を見つめていた。手牌、表情、捨牌とときおり卓上の全体を映している。画面の向こうの選手たちは懸命に手を作り、どうにかして勝とうと思考している。負けてしまえば三年生はそこで夏が終わってしまうのだからそれも無理からぬことだろう。別の見方をすれば自分たちはほとんど彼女たちの天敵なのか、と浩子は思う。負けるというのはたしかに心地よいものではない。それは三年生に限ったことではなく、下級生たちも変わらない。ただ辛さのポイントが違うだけだ。もっとチームに貢献できたのではないか、自分が先輩の夏を終わらせたのではないかと自責する。そういうすべてを呑み込んでレギュラーを張る覚悟はあるかと下級生に問うても意味はない。それらは常に後悔というかたちでのみ現れるからだ。もうすこし突き詰めるなら勝ってもさほど変わらないと浩子は考える。結局は他のチームを押しのけた上でインターハイに出場するのだから。

 

 意識を画面の方に戻す。あらためて浩子は宮守や横浜で過ごしてきたことの意味を噛みしめる。わずかな間しか映らない表情から、ありありと彼女たちの現在の精神状態と次に取るであろう行動が読み取れる。もちろんある程度打ち筋を見たうえでのことである。いかに彼女たちがこれまで真剣に麻雀に取り組んできたにしても、さすがにプロとは並べるわけにはいかない。いつか咏が言ったように、自分が他人からどう見えるかというのを気にして打てる高校生などいないのだ。

 

 

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 監督という立場は因果なものだ。雅枝はその立場になってそれなりに経験を積んでいるが、未だに唐突に胃痛に襲われることがある。もちろん勝利に向かって突き進もうとする部員たちのことは信頼している。だがその信頼は彼女たちの普段からの努力に対するものであり、勝利に対しては信じるしかないというのが実際のところである。負けるにしてもいっそ自分が出ていた方が気が楽なのではないかと思ってしまう。そのほうが思い切り悔しがることができるからだ。気を抜いたつもりはなくても、いつの間にかぴたりと傍に寄り添っているその子供染みた考えにうんざりとする。だからこそせめて表面上は毅然とした振る舞いを見せ、部員たちがいつも通りの実力を発揮できるようにしなければ、と雅枝は考えている。

 

 客観的に戦力分析をしてみても、千里山は強い。去年のチームと比べても遜色ないのではないかと思わせる。前回のインターハイであの白糸台の部長に一矢報いた泉は理想的な成長を遂げたと言えるし、彼女に刺激を受けた二年生を含むメンバーたちはどこの強豪校に放り込んでもレギュラーを獲れると断言できるくらいに強くなった。そして何より浩子がいる。雅枝の見たところ、すでに浩子は高校レベルでは怪物の域にいる。ふつうに打てばその筋は見破られ、オカルトを使えばその場で解析され潰される。加えてもともと持っていた精神力のおかげでぶれることがない。実行していることだけを見れば魔物と呼ばれる異能持ちと同程度と言っても過言ではない。それを表情さえ変えずに気取られることなく行うというのだから恐れ入る。その実力はすでに不世出の絶対的エースと呼んで差支えないものとなっていた。

 

 浩子が大阪へ帰ると同時になぜか愛宕家に住み着いた健夜が言うにはまだその技術は発展途上らしいが、だからといって浩子の分析を防ぐ手段があるわけでもない。本来ならば高校生というのはまだまだ自分の打ち方と向かい合う時期であって、他人からの視線に気を配れるほどの余裕はないのだから。対抗するには分析程度ではどうにもならない引きの良さを持った選手か、あるいは解析されても問題ないレベルの異能を持った選手を連れてこなければならないだろう。若手とはいえプロとやり合える浩子を相手にそれができる高校生がいるかはわからないが。

 

 

 千里山の初陣は華々しいものだった。副将にさえ回すことなくトバして勝ち上がってみせた。秋季大会のときも遺憾なくその強さを発揮していたが、この北大阪予選にあってさらに一回り力強くなっていた。当然のことだが他校も練習を積んで成長している。ただそれ以上に差を開いてみせただけのことだ。警戒され研究されるのが当たり前の彼女たちは、それらをねじ伏せるだけのものを常に要求される。その結果だと言ってしまえばそれだけの話である。

 

 卓を同じくした選手たちも、はじめは千里山を乗り越えて全国へと駒を進めることを信じて戦っていた。だが局を重ねるごとにだんだんと身に染みてわかってくるのだ。地力が違うことが。多少のラッキーでは覆せないほどの差がそこにはあって、その事実はごっそりと戦意を奪う。シードというのはそういうものだ。いつだって強者はその反対の立場にいるものからすれば眩しく見える。それはショーウィンドウを隔てたトランペットと少年の関係に似ていた。彼女たちの今年の夏は終わる。しかしそのことに注目する人は誰もなく、視線はただ勝者へと向けられるのだ。

 

 そういったいくつもの思いを踏みしめて先に進むことを “業” だと言う人もいるかもしれない。しかしそれは誰にも判断の下せないことに違いなかった。

 

 

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 準決勝になってやっと来た出番にも浩子は動じることなくあっさりと勝利を決めてきた。それは観客やあるいは他校の出場選手から見れば、ただ上手に相手の待ちを読んで躱し、振り込むことなくきれいに勝ったように映っただろう。表面上の結果としてはそこまで差はないが、本質はまるで別物だった。浩子は他家の手を限定させたのだ。理牌から相手の手を読み取り、表情や手の動きや思考時間から思考の源泉を見抜く浩子にはそれができる。それは前の局からの流れを踏まえて、自分の打牌の持つ相手への印象も考慮されて行われる。どの牌を打てば相手がどのように動くかがわかるのだから、もはや浩子にとってはそこまで難しいことではない。見えているどころか自分が作らせた手に浩子が振り込むことはなく、実に自然なかたちで逃げ切った。浩子が卓を支配していたことに誰も気が付かないほどに鮮やかな手並みだった。

 

 対局室は反則を防ぐために廊下の扉からまたまっすぐな短い廊下を抜けた先にある。ここで電波などでの外部通信手段を完全に無効化するためだ。その対局室から出ようとして扉を開けたとき、奇妙な高揚感が浩子を包んだ。短い廊下を歩き始めたとき、浩子はその高揚感の理由に思い当った。赤木や健夜の見ていた景色を自分も見ることができたということにはしゃいでいるのだ。確かに実行できる相手やその精度には差があるが、それは間違いなくあの二人の領域だった。もうひとつ扉をくぐって外周の廊下へ出ると熱と湿気が一気に押し寄せてくる。しかし浩子はとくに気にする様子もなく控室へと歩いていく。足取りはいつもと変わりないように見えた。

 

 ともすれば浮かれそうになる気持ちを落ち着けて、先ほどの対局を浩子は振り返る。これはもうクセのようなもので、直前の半荘くらいならば配牌に捨牌に最終形、それに浩子自身の頭にあった選択肢すら完璧に再生できる。浩子のスタイルは他の選手に比べて自分以外に基準を置くものだ。だからこそ浩子自身は打牌や思考のミスは許されない。たったひとつの打牌の違いが大きな差を生む可能性のあるプレイスタイルにおいて、他に存在し得た可能性について考えることは非常に重要である。生来の研究者気質がこれほど助けになっていることもないだろう。この作業は何よりも繊細で、そして孤独なものだった。

 

 

 しばしの休憩を挟んだあとにもっとも盛り上がる決勝が行われるそのタイミングで席を立つ姿がひとつあった。額を強調するように前髪が短く切られたセミロングの黒髪がさらりと揺れる。もう一度だけスクリーンを見て、満足そうに頷いて歩き始めた。彼女の目に何が映ったのかは彼女にしかわからない。

 

 

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 「ごめんな浩子ー。あんまり離せんかったわ」

 

 「リードしてくれてるだけで十分やって。あとは任しとき」

 

 申し訳なさそうに帰ってきた副将に声をかける。団体予選決勝は大方の予想通りに千里山と三箇牧の叩き合いになっていた。副将戦が終わった時点でその点差はおよそ一万。どちらが明確に優勢とは言えないが、点差だけで見れば天秤は千里山に傾いているように思われる。残すは大将戦だけだ。その二半荘で今年の北大阪の代表が決まる。

 

 観客たちは三箇牧有利と見る向きが多かった。いかに千里山がアドバンテージを持っているとはいえ、三箇牧には荒川憩がいる。この大阪で彼女の麻雀の実力を知らないものなど誰一人としておらず、二半荘もあれば一万程度の差などひっくり返すことは容易いと考えている者が多数を占めていた。加えて船久保浩子というプレイヤーがどういう選手なのかがはっきりしていないことも影響していた。この府予選で浩子は準決勝で一度卓に着いただけで、きれいに勝ってはみせたものの見る者たちを唸らせるような()()()()()()()()は見せていない。たしかに浩子は名門千里山において二年生から団体メンバーに入るほどのエリートではあるが、際立った印象を残すような打ち手ではなかった。あの荒川憩とその未知数の選手を比べてどちらが勝つか、と問われれば荒川憩に票が集まるのは自然なことと言えるだろう。

 

 

 控室を出て、わざとのんびり歩いて対局室へ向かう。昂る神経を鎮めるためだ。入れ込み過ぎてはいけない。集中力を上げ過ぎてもいけない。浩子のやり方はあらゆるものに気を配らなければならないのだから、なにか一つに集中を注ぎ込むのは避けるべきことだった。緊張やそれによる動揺はない。この一戦は浩子どころかメンバー、控えの部員たち、監督やあるいはこれまでお世話になってきたすべての人たちにとって大事な試合であることは理解している。それでも浩子が緊張しないのは、経験に裏打ちされた自信があるからだった。

 

 第一対局室へと続く廊下への扉が近づく。ひどくゆっくりと歩いてきたからおそらく浩子が最後に入ることになるのだろう。映画館のものによく似た観音開きの扉を押して開ける。空気圧の違いがあるからか、見えないなにかが一斉に吹き寄せる。短い廊下の向こうに対局室につながる扉が見える。短い廊下の明かりは抑え目になっている。それは浩子にボクシングの登場シーンを思わせた。リングサイドへと続くあの普段は見ることのない通路もこんな感じなのだろうか、と浩子は思う。類似点も多いがそれと同じくらいに相違点もある二つの競技に思いを馳せながら浩子は歩を進める。これまでとくに興味もなかったが一度くらいボクシングを観てもいいかな、と考えたのはまた別のお話。

 

 扉の向こうには予想通り三人が待っていた。悲壮感に満ちた表情をした二人と、いつものように楽しそうな笑みを浮かべた一人。大阪で麻雀を始めて、荒川憩とは別の高校に進学した時点でこうなることは決まっていたような気がする。卓の上に裏にして置かれた四つの牌に手を伸ばす。指一本で器用にひっくり返すと、“北” の一文字があった。

 

 

 憩は、船久保浩子という選手に最大限の警戒をしていた。それは決してここ最近の話ではなく、中学生の頃からの話である。データをかき集めて戦う選手など、憩は浩子を除いては見たことも聞いたこともなかった。本人が憶えているかどうかは知らないが、憩が同い年で苦戦したのは浩子ただひとりだった。牌譜を信じられないほど細かに研究して打ち方を分析した上で臨んでくる彼女は厄介以外の何物でもなかった。高校に入って一年の時には表に出てこなかったものの、二年生になって千里山のレギュラーを勝ち取りインターハイで活躍する姿を見て憩は確信を強めた。自分にとっての最大の壁となり得る存在である、と。三年生が引退した後の秋季大会では憩と浩子は直接ぶつかることはなかった。だから彼女の戦いぶりをじっと画面で見つめ、さらに直に対局した部員にその感想を尋ねた。

 

 「んー、なんやろ。途中から急につかみどころが消えたような感じやったよ」

 

 聞いた瞬間に憩は理解した。あの分析の精度が跳ね上がったのだ。そのタネはお得意の牌譜からの分析かもしれないし、あるいは別のものなのかもしれない。しかしそんなことはどうでもいいことだった。船久保浩子の分析は成長している。それが何より重要なことだった。秋季大会で千里山戦の解説を務めていた戒能プロの発言も気にかかる。憩に出せた結論は、彼女は信じられないレベルの分析を行えるということだけだった。次に彼女とぶつかるとき、自分もその牙にかかることは明白だった。だから憩は、浩子を騙す打ち方を身に付けることを選んだ。彼女の頼れる大きな武器である分析を打ち砕いておく必要があると考えたからだ。そして北大阪府予選決勝の大将戦というこの大舞台で、荒川憩はその真価を発揮するつもりでいた。

 

 

 背筋のぴっと伸びた、きれいな姿勢だった。憩の目から見た浩子は気負いも何もない自然体で、ともすればこれが決勝だということも忘れてしまいそうになるほどに落ち着き払っていた。不思議な目をしていた。どこを見るというわけでもない。手牌でもなく河でもなく、どこか遠くを見ているような目だった。なぜか生物を相手にしているように思えず、憩は背中に冷たいものが通るのを感じた。

 

 立ち上がりは静かなものにならざるを得なかった。トップを争う千里山と三箇牧の二校に対し、残りの二校はほぼ絶望的な点差をつけられていた。それは役満を和了ったところで追いつけないような、呆れてしまうくらいの差だった。三強に数えられる二校の大将がそんな大きな和了りを許してくれるとも考えにくく、もう彼女たちにはほとんど戦意が残っていなかった。つまるところ、余程のことがなければ浩子か憩が動かない限り卓に波が立つことはない。互いに何を警戒しているのか、鳴くこともなく粛々と自摸を続ける。それはたしかに様子見の局だった。たとえそれの持つ意味が異なっていたとしても。

 

 対局室には牌と牌がぶつかる音、牌をラシャの上に置く音、自動卓の立てる音、衣擦れの音、それとほとんど意識のうちには入ってこない断続的な空調の音だけが響いている。いかに日常が音に満ち溢れているかが身に染みる。静謐は時に重さを伴う。その重さを負担と感じるか、心地よいと感じるかは知るところではない。

 

 憩は今大会のすべての試合を浩子に見られていると仮定し、全対局で打ち方を変えた。もともとあったフォームではない打ち方は、普通であればその身に馴染まずにただ違和感を残していくだけのものである。しかし稀代の才覚を持ち合わせていた憩は、それを高い水準でこなしてみせた。尋常でないことだった。今現在のすべての高校生を集めてもそれができるのは荒川憩ただひとりだろう。腰を据えた重い一撃を叩きこむ麻雀、鳴いて速度を上げて相手を切り刻んでいく麻雀、相手の狙いを読んでその余剰牌を討ち取る麻雀、さらにそれぞれに役のこだわりなどを加味したこともあって憩の麻雀は考えられないほどの広がりを見せた。

 

 一つめの半荘は荒川憩の独壇場と言って差支えない内容だった。東一局こそ誰も聴牌を取らずに流局となったが、それ以後はほとんど憩が一人で和了り続けた。例外は浩子が明らかな聴牌気配を匂わせて憩を降ろした局と、憩にツキがなかったのか聴牌を取れずに流れた二局である。この半荘で三箇牧は千里山の持っていたリードをひっくり返し、逆に一万の差をつけてみせた。ちらと浩子の方へと目を向ける。彼女は無機質なまでになお平然としていた。対局が始まる前に感じた悪寒はまだ止まなかった。

 

 

―――――

 

 

 

 後半戦に向けて少しのあいだ挟まれる休憩時間はそれぞれ使い道が異なる。多くの選手は対局室を出て一息ついたり、あるいは控室まで戻る。浩子はというと、手持ち無沙汰だった。別に喉が渇いているわけでもなければアドバイスが欲しいという状況でもない。頭を休める時間がもらえるのはまあ嬉しいが、二半荘を連続で打てないほどバテてもいない。ある程度は次の半荘のために思考をまとめる必要はあるにせよ、それもほとんど対局中に構築済みだった。軽く腕や腰を伸ばしたあと、お手洗いでも行っておくか、と浩子は歩き出す。今ごろ観客席は三箇牧の優勝を確信しているのだろうが、それも浩子にとってはどうでもいいことだった。

 

 用を済ませてさて対局室に戻ろうかとも思ったが、冷房のせいか少し体が冷えていた浩子は廊下の長椅子に腰かけた。廊下は廊下であまり過ごしやすいとは言えそうになかったが、それでもこの後また少しだけ寒い対局室に行かなければならないと考えるとちょっとだけでも体を温めておきたかった。

 

 

―――――

 

 

 

 憩が違和感を覚えたのは後半戦が始まって早い段階でのことだった。麻雀という競技はそのルール上、手牌から何かを捨てる。その捨て方の巧拙が麻雀そのものの巧拙だと言う人もいるほどに重要なアクションである。だからすべての麻雀打ちは打牌の前にかなりの量のシミュレーションを自摸の前から行い、それに応じて捨てる牌を決める。本来であるならば、打牌の前に悩むまではいかなくともいくつかの選択肢が目の前に存在しているのが麻雀打ちとしての正しいあり方だった。しかしこの後半戦において、憩は自分に与えられた選択肢が減っていることに気が付いた。そしてその選択肢の減らされ方に違和感を覚えた。

 

 それは、暗い帰り道の曲がり角に姿の見えないなにか気味の悪いものがいるような、そんな感覚だった。道筋の選択肢のひとつには間違いないのに、どうしてかその道を選びたくないと思わせるようなひどくいやな感覚。危険だということがはっきりとわかっているわけではない。ただの思い過ごしということも十分にあり得る。それでもその選択肢の向こうに怖ろしい何かが潜んでいそうで、憩はその道を選ぶことができなかった。

 

 

 荒川憩の敗因は、()()()浩子を相手にしてしまったことだったと言える。

 

 もしあの八月に浩子が赤木についていかないという選択をしていたら、まず間違いなく結果は逆のものだっただろう。牌譜を研究し打ち筋の傾向だけを探す浩子であれば、打ち方を自由に変える憩には手も足も出なかったはずだ。だが現実には浩子は赤木についていった。そして人の本質を暴くという常識外の技術を手に入れた。

 

 憩の推測したとおり、浩子は憩の出ている試合をきちんと見ていた。そして明らかに打ち筋が変化していることに気付いたが、注目したのは打ち筋そのものではなかった。まず考えたのは、なぜ “荒川憩があれだけわかりやすく打ち筋を変えようと考えたのか” である。一戦目も二戦目もあからさまに違っていた。もちろん手順そのものは洗練された高水準のものだったが、それは後で考えるべきことだった。憩が試合を重ねるごとに浩子は推論を深め、ほとんど解答を絞ったところでの決勝戦だったのだ。そして前半戦でそれは確信へと変わった。荒川憩は恐怖に近いレベルで自分を警戒しているのだ、と。思考の源泉がわかった以上、それをどう扱えば自分の思い通りに動かせるかというのは、もう浩子にとってはさしたる問題でもなかった。

 

 もし憩が浩子に勝つ為の条件を挙げるとするならば、それは初戦で当たることだった。ぶつかるタイミングが後になればなるほど、浩子は画面から情報を読み取りその分析をより精確にしていく。無論それはシードに置かれるほどの実力校同士であるから願ったところで叶う話ではなかったのだが。

 

 

 浩子は最後の局もきちんと和了りきり、最終的に千里山女子は三箇牧に二万点近くの差をつけて優勝を飾った。ちらと目を向けると、憩がうなだれたような姿勢から弾けるように体を起こして口を開いた。

 

 「ぷっはー!参ったわぁ。船久保ちゃん何なんそれ?」

 

 「……んー。企業秘密やな」

 

 席を立ち、互いに手を握りながらくすくすと笑いあう。

 

 一拍置いて控室から信じられないといった悲鳴が、もう一拍置いてスクリーンのある観客席から歓声が上がる。場内は防音設備が行き届いているため、それらの歓声が対局室の二人に届くことはなかったが、それでもなにか大きなものに包まれているような感覚がそこにはあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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