校舎の屋上に吹く冷たい北風を肌で感じ取る。まだまだ終わりそうにない冬の気配に、俺は大きく溜息を吐いた。
あの雪の夜から、もう一週間が経過した。
空を覆っていた厚い雪雲は今や消え去り、どこまでも青い冬空が姿を現す。これ以上ないくらいにいい天気だ。でも、俺の心には大きな蟠りが残ったままだ。
結局のところ、俺は千葉との決着を付けられなかった。俺や鍋島、そして遊佐ちゃんの人生を無茶苦茶にしたあの男の魂を、俺の理性ごと引導を渡そうとしたその時、遊佐ちゃんは俺を引きとめた。
その隙を突くかのように、千葉は残った理性を総動員させてこの世界から成仏した。形はどうであれ、あの男に救いを与えてしまった。どんなに忌々しく思っても、その事実は覆らないんだ。だからこの事も、時間をかけて納得する事にしよう。当面の問題は―――
「・・・・遊佐ちゃん、どうしてっかな?」
千葉が消えた後、緊張の糸が切れたかのように遊佐ちゃんは気絶してしまった。男への恐怖と必死に戦いながら俺を引き止めたからだろう。
それから俺は仲村に頼んで、遊佐ちゃんを自室に戻してもらったんだが、それ以降も遊佐ちゃんは部屋から出ようとしない。
かといって以前のように誰も居れないわけじゃない。見舞いに来た戦線メンバー(女子に限る)を招き入れて、少しずつではあるが談笑をしているらしい。ただ以前のように仕事に戻れる状態じゃない。これから長い時間をかけて、遊佐ちゃんは己の過去と戦っていかなくちゃならない。
いや、遊佐ちゃんに限った話じゃない。この世界に居るすべての人間はいつだって自分の過去と戦っている。遊佐ちゃんの場合、今回は急を要するだけだったんだ。
俺は彼女の心が折れてしまわない事を信じるだけしかできないのだろうか?だとしたらなんて心苦しいのだろう?惚れた女一人救えないなんて・・・世界は何とも残酷である。
「よぉ、五十嵐」
そんな時、俺の背後から掛けられた男の声。振り返ると、そこには2本の缶コーヒーを持った音無が立っていた。
「何時までもそんな所に立ってると、風邪ひくぞ」
「それ、死なない世界でのギャグか?」
音無の言葉に思わず笑いながら、投げ渡してきた1本の缶コーヒーを受け取り、プルタブを開ける。仄かな甘い匂いと掌から伝わる暖かさは冷たくなった体によく沁みた。
「それで?俺に何か用か?」
「ん・・・あのさ、お前に聞いてみたかったことがあるんだよ」
コーヒーをあおりながら尋ねると、音無も同じように答えた。
「お前は・・・・その、幸せだったのか?」
「藪から棒だな。一体どうしたよ?」
音無の質問の意図が掴めず、俺は聞き返した。音無は何か言いたいを事を纏めるかのように間を開け、再び口を開いた。
「お前の過去は聞いたけど、やっぱり簡単に割り切れるもんじゃないだろ?やりたいこと一杯あったんじゃないのか?」
「あったぞ。だからこの世界に来たといっても過言じゃねぇ」
家族の成長と幸せを見守ることもそう。俺自身の幸せもそう。生きていなきゃ出来なかったことは山積みのまま俺は死んだ。それでも俺はきっと―――
「幸せにはなりきれなかったけど、幸せだったこともある。今はそれを糧にして、何とか腐らずに存在していられてると思う。お前はどうなんだろうな?」
「・・・え?」
「生前の記憶が無くて、思い出した時の心構えをしたいから、俺の心境を聞いたってところか?」
一瞬の静寂。音無は観念するように両手を上げた。自嘲の笑みを浮かべ、吐き捨てるように呟く。
「遊佐の話を聞いて、もしかしたら自分もって思ったんだ。その時俺は自分を保てるのかって。最低だよな、仲間が大変な時にそんなこと考えてたんだから」
「別にそんな事はねぇんじゃねぇの?」
俺はそれを否定する。俺は記憶喪失なんて体験は無い。だから音無の不安なんて分かりっこないけど、自分の過去をどう捉えて、それをどう思うかは人によるものだ。思い出せない自分の過去に不安を抱くのはある意味当然の事。だから俺から言える事なんて一つしかない。
「全部を思い出した時、お前がどう思おうが、お前がこの世界で感じた事や思った事は本物だ。日向達戦線メンバーとの思い出もな。もし酷い過去があったとしても、今あるお前がブレる理由にはならないんじゃないか?」
「・・・・そうだな」
心なしか、少しだけスッキリしたような表情を浮かべる音無。
「なんだろうな・・・お前って俺達よりずっと年上みたいな事言うよな」
「そうか?あんまり深く考えない様にと思ってるだけだぞ」
----------------
「はぁい、遊佐さん。気分はどう?」
「・・・・・問題ない」
冷たい空気の中、暖かな日差しが部屋に差し込み始めた頃、ゆりは遊佐の部屋に尋ねてきた。初めてであった頃の様に、それでも大きく変化した彼女を見て、ゆりは思わず笑みを浮かべる。
「・・・・なんだ?」
「いえ、何でもないわ」
訝しむ視線を受け流し、勝手にコーヒーを入れ始めるゆり。インスタントコーヒーをカップに注ぎながら、ベッドの上で枕を抱える遊佐を盗み見る。
(悔しいけど・・・本当に美人よね)
一週間前、部屋に誰も招き入れなかった時はその輝きを失っていたが、千葉が消えたその時から遊佐の態度も軟化していた。浴場へ連れて行くことも食事を摂らせることも容易い。
その甲斐もあってか、少女は普段の美しさを取り戻していた。日の光を反射するような稲穂色の髪。大きな赤い瞳。雪のように白い肌と濡れたピンク色の唇。
(ていうか、前より綺麗なってるようだけど・・・・まさか?)
今この姿があるのはひとえにあのお人好しの包帯男のおかげだ。三日ほど前だっただろうか、関根やユイがその事を突っつくと、普段動じない彼女が僅かにではあるが、眼に見えて狼狽えていたことをゆりは覚えていた。チープな女性誌に載っているような売り文句を思い出す。あながち間違いでもないらしい。
「本当になんなんだ・・・?気味が悪いぞ」
「失礼ね。コーヒー上げないわよ?」
「・・・元々私の部屋にあったものだ」
そんな会話をしながら、2人は安い味のコーヒーを啜る。同じ安物のはずなのに、なぜkeyコーヒーとインスタントとではこうも味が違うのかと遊佐がぼんやり考えていると、ゆりの方から口を開いた。
「ここに来る途中、五十嵐君と話したわよ」
「っ・・・!」
ピクリと、彼女の肩が揺れた。
「て言うかこの一週間、顔を合わす度にあなたの様子を聞かれるのよ。本人からすれば負い目があるみたいだけど、いい加減鬱陶しくなってきたのよねー」
「・・・・・・・・・・・・・・」
「という訳で遊佐さん、貴女から自分の様子を五十嵐君に伝えてくれない?」
遠回しに、あるいは率直に竜司に会いに行けとゆりは言っていた。長い付き合いからか、ゆりは遊佐が部屋の外から出ようとしない理由を察していた。
千葉の出現へのストレスに男への嫌悪感。勿論そう言った理由もあるだろう。だが一番の理由は何と言っても、竜司に対する大きな罪悪感だった。
「どんな顔で・・・会えばいいんだ」
竜司は否定したが、遊佐が竜司の命を奪った切っ掛けを作った事には変わりはない。文字通り命よりも大切な家族の成長を見守る権利を奪い、彼自身の幸せな未来を奪った一因は紛れもなく自分にある。
(彼は・・・・許してくれるのだろうか?)
そもそも恨んでいないと、彼は言った。それは紛れもない事実だ。だがその事を理解していても、感情がその事実に追いつかない。どう償えばいいのかも、彼女は分からなかった。
「五十嵐君に会わない事は、彼に対しての償いにはならないわよ」
そんな遊佐の心境を見透かすように、ゆりは呟く。
「確かにあなたは、五十嵐君の命を絶った。そのことに罪悪感を抱くのは当然の事よ。でもね遊佐さん、五十嵐君は既にあなたを許して、道を示したわ。しかもあなたの心配までしてるんだから筋金入りよね」
「・・・・・・・・・・・」
「いつまでもこの部屋に引きこもるつもり?ずっと五十嵐君の甘さに甘えるつもり?どうするかはもう決めてあるんじゃないかしら?」
カップの中のコーヒーを一気に飲み干し、ゆりはカップをテーブルに置いて部屋を後にする。
「彼、ずっとあなたの事を待ってるわよ」
その言葉はいつまでも遊佐の脳裏に響いていた。
空が赤く染まり始めた頃、彼女はとうとう決断を下す。卑屈になることを望まないのなら、やることは一つ。後はほんの少しの勇気を胸に、前へ進むだけだ。
--------------------
俺にとってこの屋上はいろいろと感慨深い場所だ。
初めてこの世界で目が覚めた場所であり、遊佐ちゃんとの出会いの場。そして彼女と多くの日常を過ごした場でもある。そして俺が今何をしているかというと―――
『テメェのその「ユイにゃん♡」って言うのがむかつくんだよぉぉぉぉぉオ!!』
『ぎゃーーーー!!?ヒナっち先輩、ギブ~~~~!!』
情報収集として、日向の観察を行っていた。本来なら遊佐ちゃんの仕事だけど、肝心の遊佐ちゃんが現在不在のため、仲村に押し付けられたのだ。
『遊佐さんが戻ってきたとき、出来る限り負担を少なくさせたいのよ。そう、遊佐さんの為に、ね!』
という仲村の卑怯な言い回しによってこの仕事を引き受けたのは良いものの、俺はこういった経験はほとんどない。遊佐ちゃんの仕事を傍で見ることはよくあったが、その仕事内容までは把握していない。
「え~っと・・・確かこのボタンを押して・・・次どうするんだっけな?」
使い慣れないトランシーバーに悪戦苦闘する。なんかよく分からん周波数を合わせるのは知ってるんだけどな・・・それが何かよく分からん。そろそろ日も沈みかける。仕方ない、また明日仲村に使い方を聞きに行こう。
「お困りですか?」
「お困りだよ。このトランシーバーの使い方がよく分からん・・・・って」
背中にかけられた、永遠にも感じた一週間ぶりの声。
振り返る。
沈みかけの一際強い輝きを放つ夕日を反射する稲穂の髪と、夕焼けに染まる白い肌。確かに光を持った紅い目。
「―――なら」
俺がずっと待ち続けた姿がそこにあった。
「―――オペレーターは必要ありませんか?」
俺がよく知っている遊佐ちゃんがそこに居た。何時ものように髪を二つ縛りにして、相変わらずの鉄面皮で佇むその姿は俺がよく知る遊佐ちゃんそのものに見えた。だけど―――
「遊佐ちゃん・・・お前」
揺れる瞳と、震える肩に気がついてしまった。それがやけに小さな彼女の体を一層小さく感じさせて、今にも消えてしまいそうな幻想すら覚える。
『無理をするな』。そう言おうとして、それを遮るように遊佐ちゃんは先んじて口を開いた。
「無茶は承知の上です。ですが私はもう大丈夫です。もう、
「・・・でもな・・・」
「・・・相変わらず、心配性ですね」
そう言って遊佐ちゃんは俺に手を差し出す。
「ならそれを一度だけ証明するために、私の手を握ってみてください」
「・・・?」
何事かと思ったが、俺は言われるがままに手を握る。そして――――
---------------
立華奏は自室の椅子に座り、パソコンの画面をじっと見つめる。先ほど訪れた少女の人格を、再び深い水の底へ沈めたプログラムを閉じて、一息吐く。
「あんまりお勧めは出来ないけど・・・・」
幾つもの不安要素を孕んだ強行策、それも2度目だったが奏は不思議と躊躇いは無かった。
――――私はもう、一人じゃない。
少女の呟きを思い出す。それならもう大丈夫だと思わせるには十分すぎる説得力だ。この世界で誰よりも孤独な奏は、今はただ少女に幸あれと願うのみ。
あの少女の過去を鎖で水底に縛り付ける必要などどこにもない。今はただ眠るように、安らかな笑みすら浮かべて水底を漂っていた。
------------------
遊佐ちゃんの手から手を放す。奇怪な現象ではあったが、ひとまず納得した俺はもう一度遊佐ちゃんの目を見る。まだ揺れている、だけど確かな芯があるようにも見えた。
「俺にとっては、どっちの遊佐ちゃんも本物だからな。ちょっと複雑だ」
「・・・そう言ってくださるのは嬉しいですが、今は・・・待っていてください。あなたと正面から向き合える、その日まで」
「あぁ・・・ずっと待ってるよ」
形はどうであれ、結果がどうであれ、遊佐ちゃんが未来に進んだことが堪らなく嬉しかった。だから俺も笑って答える。遊佐ちゃんも、本当にちょっとだけ笑った気がした。
「それはそうと」
「ん?」
「―――オペレーターは必要ありませんか?」
「当然、必要だ」
啓太、亮子、美雪。
兄ちゃん、この世界でもうちょっとだけ頑張ってみるよ。俺に何が為せるのか、最後に俺はどうなるのか、そういうのは全然分からないけどさ、多分今回も後悔しないと思う。
最後の最後まで生にしがみ付いて、幸せそうに笑っていてくれることを見えない場所から祈る事しかできないけど、それでも信じることは無意味じゃないって、思ってみよう。
――――皆の幸せを見届けたら、俺もゆっくり幸せになる。
改めて言いますが、この物語は平行世界的なものなのであしからず。
エンジェルビーツのゲーム、楽しみです。