冷たい雨の夜、水溜りに沈むケーキの箱を眺めながら、背中と頭から流れる血に呆然とする。死の奔流、そんな感覚が俺の脳裏によぎっていた。
「っ!」
背中を刺した女は、俺から刃物を抜いて逃げるように去っていった。そんな女の様子も気にすることなく、千葉は狂ったかのように笑い声を上げる。
「へ・・・へへへへへ・・・!ひゃぁははははははは!!やった・・・!遂にやったぞ!」
天から降る冷水を体に浴びながら、倒れ伏す俺を千葉は何度も何度も蹴りつける。頭が揺れてまともに動けない。何時もなら起き上れる筈なのに、背中から力が抜けるようだった。
「ひはははは・・・・!これで終わりじゃねぇぞ・・・!五十嵐ぃ・・・・!」
それからしばらくした後、視界を照らす光とエンジン音。揺れる脳でそれがスクーターかバイクだと認識できた。それに跨る千葉が何かを言っている。どんどん薄れる意識の中で、その事を認識しようとした。その瞬間だった。
「お前の大切な家族も・・・・俺がぶっ壊してやる・・・!」
頭に急速に血が上るのを感じた。途端に意識が冴える。体に伝わる冷たさがはっきりと自覚できた。
俺の家族を・・・壊すといったな。それだけは、駄目だ。俺は両腕に有りっ丈の力を込めて起き上がる。千葉はもうどこにも居ない。冴えた頭が俺のアパートに向かったと直感した。
「今なら・・・助かるか」
今の時間でも病院が開いているのは分かっている。今駆けこめば、俺の命は助かる。そう思ったのは、生物としての本能がそうさせたのか?頭の背中から流れる血が、『病院に行け』と急かすようだった。
どうするか?そんなこと決まっているだろう?俺はまっすぐ、足を進めた。
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「お兄ちゃん・・・遅いね」
アパートのベランダと部屋を隔てるガラス戸の前に立ち、美雪は一人呟いた。時刻は19時を回っている。何時もの兄ならば、此処まで遅くなることはない。何かあれば電話を入れる筈だが、今日に限ってそんな連絡もなかった。
「あー・・・腹減ったぁ」
「我慢しなさいよ、私だってお腹空いてるんだから」
幼い弟妹達は兄の帰りをずっと待っていた。そしてしばらくすると、電話が鳴り始めた。一番近くにいた弟の啓太が電話に出る。
『もしもし・・・?啓太か?』
「兄ちゃん?もう、遅いよ!どうしてたんだよ!?」
弟の言葉に、竜司は困ったような笑い声で答えた。何時もの優しい兄の声。不安になり始めた幼子の心に、活力が戻り始める。
『はははは・・・ごめんな。実は兄ちゃん、ちょっと帰りが遅くなると思うんだ』
「んー・・・そうなのか?じゃあ、晩御飯はどうしたら良い?」
『棚の一番下に、特売で買ったカップ麺あったろ?・・・悪いけど、今日はそれ食ってくれ』
「うん。分かった」
何時もと変わらない兄弟の会話。そして締めくくるかのように、竜司は念を押して啓太に申し付けた。
『啓太・・・最近は物騒だからな、俺が帰ってくるまで、扉はちゃんと閉めるんだぞ?外には出るなよ』
「?・・・うん、分かった。兄ちゃん、仕事がんばってね」
『あぁ・・・頑張るよ』
兄弟の会話は終わった。受話器を置き、啓太は妹達の方を向いた。
「お兄ちゃん、なんて言ってたの?」
「仕事で帰りが遅くなるんだってさ。棚にあるラーメン食べていいって言ってた」
「そうなんだ。分かった、ほら、美幸も食べよ」
「・・・・うん」
亮子に促され、美幸はガラス戸から離れて2人の元へ歩いた。この時3人は、兄の身に何が起こっているかなど、見当もついていなかったのだった。
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携帯を持っていない俺に、バイト先の社長が貸してくれた会社用の携帯を上着のポケットに入れ、そのまま上着を脱ぎ捨てる。雨はいつの間にか雪に代わっていて、濡れた木々や大地を凍りつかせていた。
「・・・・・・・この立地が、こうも助けになるとは思わなかったな」
俺達が住んでいるアパートは、山の中の住宅街にある。左右を住宅に囲まれて、後ろには険しい山。土砂崩れでも起きたら大変な事になるから、早めに引っ越そうと思っていたが、今はこうして家族を助けてくれている。
そしてアパートに行くには、車一台がギリギリ通れる狭い通路を通るしかない。生活にはトコトン不便なこの道も、状況を良い方へと運んでくれていた。
つまり――――
「おいぃ・・・何でテメェがここに居るんだよ、五十嵐ぃ」
この道を通るには、この道に立ち塞がる俺を倒さなければこの先には進めないという事だ。
今俺の目の前に広がる無数のライトの光、多くのバイクのエンジン音。それと同じ数だけの武装集団。その先頭に、千葉は居た。数にして十数人は居るだろう。
「別に、先回りしただけだ。バイクで行くより、走って行った方が早い抜け道があるんでな」
「・・・・・・・っっ!!!」
憎々しげに俺を睨み付ける千葉。それにしても、千葉にしろ後ろにいる連中にしろ、何か様子がおかしい。どういえば良いのか、目の焦点が合っていないような気がする。
「ひ、ひひひひひひひひ・・・てめぇ・・・化け物だぜ。あそこで病院に行かねぇなんざ、イカれてやがる!」
千葉がバイクを降りるのと同時に、他の連中もバイクを降り始めた。まったく、一体何がどうしてこうなったんだ?本当なら、今頃家でケーキ食ってるはずなのに。
「・・・鍋島・・・」
この時、何故か死んだ親友の事を思い出した。治療の為の金が入った鞄を、死んでも離さなかった姿を。お前も同じような気持ちだったんだろうか?守るモノの為なら、命が惜しくなかったのか?あの時の俺には理解できなかったが、今なら何となく解る気がする。
「やっちまえぇぇ!!お前らぁ!」
『『『おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』』』
千葉の一声で、大勢の男の怒号が夜に道に響き渡る。まず1人の男が先走ってバットを構えたまま俺に突進してくる。その次の瞬間、俺の違和感が確信に変わった。
「オッラアアアアアアアアア!!!」
「!?」
横薙ぎに振るわれた、
「ぐうっ!?」
動作の反動で頭のと背中の患部に激痛が走る。その隙に乗じた男が俺に向かって
これで2人をそれぞれ一撃で気絶したが・・・他の奴がそれに動揺する様子が見られない。まともな思考力があれば、大なり小なり怯むはずだが、先ほどと変わらずギラついた目でこっちを見ている。
そしてまだおかしい事がある。人間っていうのは案外臆病な生き物で、同じ人間を殺すことに法的な意味でも忌避的な意味でも躊躇するが、どうみてもこいつらは本気で俺を殺す気でいる。
「気が付いたかよ・・・五十嵐。俺もこいつらも、お前を殺すことに何の躊躇いもねぇぜ?」
「・・・どういう事だ?」
痛む背中を庇いながら、千葉に問いかける。
「ハンパじゃお前を殺せねぇ。だからよ、俺達はこれを飲んだんだよぉ!!」
そう言って千葉が掲げたのは、赤い粉のような物が入った包装紙だ。それを見た途端、俺はその正体を悟った。
「・・・麻薬か」
「そうさ!アッパー系の薬でよぉ、こいつを飲んだら頭がサイッコーにキマっちまうんだよ!!」
そうか・・・だからこいつらに躊躇いはないのか。躊躇いがあれば勝てないからって、俺を相手にそこまでやるとは。全く嬉しくないし、傍迷惑極まりないが。
「俺はこいつの売買を商売にしててよぉ・・・こいつらはコレのな為なら何でもするぜ?例えば・・・お前を殺す事とかなぁ!!」
「てめぇの事情のために、この連中を巻き添えにしたのか?」
「こんなゴミ共の事なんか知った事かよ!!お前ら!この薬が欲しけりゃあいつを殺せ!!」
夜闇に響くのは悪魔の号令。今度は3人同時に襲いかかってきた。さっきとの違いは、獲物がバットではなく闇に鈍く輝くナイフ。突き出されたナイフを持つ腕を掴み、そのままそいつの体を振り回してもう1人の奴にぶつける。
「ぐ・・・!」
「ガァッ!!」
「くっ・・・・!」
2人地面に倒れるが、それだけでも患部が痛む。それでももう一人が振り下ろしたナイフを打ち払おうと手を動かした。
「がっ!?」
その瞬間、ガンッという音と共に俺の頭に衝撃が走る。カランという音と、視界に映る1本のバット。何かを投げたかのような姿勢の千葉。鈍い光は街灯で強く反射され、俺の顔に迫った。
「ぐお・・・がっ・・・!?」
ナイフの切っ先が右の眼球に触れ、そのまま食い込んで突き刺さる。走る激痛と灼熱が意識を遠ざける。咄嗟に目を突き刺したナイフを持つ腕を掴んだ瞬間――――
「オラァァッ!!」
「死ねぇぇぇ!!」
倒れていた2人が、それぞれ持っているナイフで腹と、左胸を・・・心臓を突き刺す。
「は、ははははははははは!!!やった、やったぞ!!死んだ!死んだんだ!!五十嵐は死んだぁ!!」
千葉の声とを聴きながら、5ヵ所から流れ落ちる大量の血を自覚する。・・・・俺は・・・死ぬのか?相手はまだ10人ほど残っている事に加え、これだけの傷。どうあっても死ぬことは確定だろう。どんどん冷たくなる体が頭を冷やし、その事実が俺の心にストンと落ちてきた。
「・・・啓太・・・・亮子・・・・・・・美雪・・・・・・」
うわ言の様な言葉が口から洩れた時、俺は思わず拳を強く握りしめた。腕を掴んでいた手に有りっ丈の力を込めて握り締める。そして―――
「ぎゃああああああああああああ!!?」
バキッ!という、乾いた音共に、俺の目を刺した男の口から絶叫が迸る。そのままそいつの髪を鷲掴みにし、顔面に膝を叩きこむ。
「何!?」
驚いたような声を上げる千葉を無視し、胸と腹を刺した男2人の頭と頭を打ち鳴らす。気絶し、血を流しなら冷たい地面に倒れ伏す3人の男を千葉の方に蹴り飛ばした。
「・・・負け・・・られねぇ・・・」
ここで俺が負ければ・・・家族はどうなる!?院長を殺したあの日の誓いは!?
あぁ、憎き外道の親子よ!俺はお前たちの人生を踏みにじって前に進んだ。今更止まる気も、謝る気もない!だがこの先にだけは、絶対に行かせはしない!
「くそがぁ・・・・!やっちまえぇ!!」
『『うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!』』
一斉に雪崩れ込む薬に侵された狂人達。
立ち向かえば間違いなく死ぬ。だからどうした、俺には死よりも怖いモノが出来た。臆する理由はどこにもない。戦え・・・その為なら命だった惜しくない。
「おおおおおお!!!!」
鈍器や刃物が俺の体を穿つ。骨が砕け、肉が潰れる感触を感じながら俺の頭は今までにないくらい冴えていた。受ける事はあえて考えず、短期決着を目指し群がる亡者の肉と骨を粉砕する。死を覚悟し、生への執着を捨てた事による神風特攻。
体は熱による煙を発している。足元には流れた血が水溜りを作っている。突き刺さったナイフをそのままに、命がどんどん削り取られている。
だが体から力が尽きることはなかった。愛なのか憎しみなのかは分からない。この力を今しばらく残してくれるよぅにと死神に請う。せめてこの戦い、終わるまでは。
「うがぁぁ!!」
「っ!!」
目に刺さったナイフが抉り取れ、更なる激痛が俺を襲う。あぁ、これでまたやりやすくなった。
「ふん!!!」
「ごぼぉぉっ!?」
「はぁっ!!」
「ぎゃああああああああああああ!!!?」
また1人、また1人と叩き潰し、冷たい地面に沈めていく。理性を失った狂人達の意識を次々と刈り取り、俺の返り血を辺りに撒き散らしていく。俺の体はもう、ナイフの傷と打撲痕で赤黒く染まっていた。
「な・・・なんでだ・・・!?なんで死なねぇんだよぉぉぉぉぉおおお!!!」
千葉は絶叫し、狼狽える。俺を殺せるとでも思ったんだろうか・・・・確かに俺を殺せるだろうが、タダで済ませる気はない。また1人、意識を奪い取っていく。こんな戦いの中でも、俺は一人だった。かつて俺の背を守っていた友も居ない。だがそれでも構わない。
役立たずで気まぐれな神様よ・・・・お前の手は借りん。
孤独が人を強くする。孤独の果てに守るべきものがあればなお良い。止めれるものなら止めてみろ。この戦いの果てに天国は存在しない、五十嵐竜司の最初で最後の花道だ!
「おおおおおっ!!!」
「ぐがああぁぁ!!!?」
そして、ついに最後の一人を地面に沈める。残りは千葉唯一人。俺は地面に血の足跡を残しながら千葉に近づいていく。
「く・・・来るな・・・来るんじゃねぇえええええええ!!!!」
その時、千葉は懐から何かを取り出した。黒い塊・・・拳銃だった。
「へ・・・へへへへ・・・見たかよ・・・こんな事もあろうかと、マッポから奪ったんだ。もうこっちに来るんじゃねぇ・・・撃つぞ!死んじまうぞ!?」
千葉の言葉を無視し、また一歩、また一歩と千葉に近づく。それに呼応するように千葉は顔中から脂汗を掻きながら、拳銃を持つ手を震えさせている。
また一歩、また一歩と千葉に近づいていく。なにも気にすることはない。こいつだけは・・・この手で・・・。
「く・・・・くくく・・・来るなぁああああああああああああああ!!!!!」
ドォンと、大きな音が響き渡る。さらにもう一回、続けてもう一回銃声が鳴る。そのたび、俺の体に鉛玉が入り込んでいった。その度に、俺の脚はステップを踏んで前に進む。
計6発、銃弾が俺の体に入り込んだ。カチンカチンと、撃鉄が空撃ちする音が千葉の方から聞こえてくる。涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにし、呆然とした表情で俺を見ている。俺の脚はまだ止まらない。
「あ・・・あぁ・・ああああああああああああ!!!!!」
地面を這いながら俺から逃げようとする千葉。だが最後の最後で、天は千葉を見放した。地面が凍って、上手く前に進めていなかったのだ。俺は千葉の首と頭を掴む
「ま・・・待ってくれよ・・・俺が悪かった・・・だからぁぁぁあああぐがあああ・・・!!?」
千葉の言葉に耳を傾けず、俺は腕に渾身の力を込める。そして―――――
「だ・・・・だずげ・・・・・・」
ゴキュッ!という音が、千葉の首から発せられる。首がだらんとした千葉を放置し、俺は立ち上がる。それと同時だった。俺の体から一気に力が抜けていくのを感じた。先ほどまで感じなかった死の奔流が、俺の命を押し流していく。
そうだ・・・・家に帰らないといけない。
足を踏み出して、少しずつアパートの方へと歩いて行く。
皆・・・・そろそろアパートから引っ越して、学校に近いところを借りよう。
なぁ・・・・どうだ・・・?引っ越し大変だけど・・・・・いいよな・・・?
啓太・・・・お前は真っ直ぐで正義感が強い。でも疲れたら誰かに頼れ。おまえはすぐに無茶するからなぁ。
亮子・・・・お前は良い女になる。ちょっとじゃじゃ馬だけど、その気質がお前の力になってくれる。
美雪・・・・お前は気弱で引っ込み思案だからなぁ。でもお前は啓太や亮子より落ち着いてる。案外お前が一番しっかりするのかもな。
なぁ・・・・皆。俺・・・・お前らに会えて、幸せだった。
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竜司は膝を地面につけ、そのまま息を引き取った。
暗い竜司の人生に《光》を与えてくれた家族を想い、冷たい雪が竜司の遺体に降り積もる。
愛する家族の未来に幸あれと、その一心で戦った男の人生は幕を引き、竜司は吸いこまれるかのように死後の学園を訪れた。
あぁ・・・・俺・・・もっとずっと一緒に居たかったなぁ