帝国貴族はイージーな転生先と思ったか?   作:鉄鋼怪人

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第百三十七話 子供は親の気苦労を知らぬもの

 その日は前日の麗かな好天とは一転して豪雨だった。ハイネセン気象局の予測によれば約二週間半程かけて断続的に降る大雨であるという。春の終わりと初夏の始まりを告げる曇天に雷、そして冷たい雨の嵐……。

 

 屋敷の執務室で当主代理として書類に羽ペンで優美な宮廷帝国文字のサインをしたためていたツェツィーリア・フォン・ティルピッツ伯爵夫人はちらりと窓に視線を向けた。

 

「……嫌なものね」

 

 ぼんやりと、しかし明らかに不快気に彼女は呟いた。四十も中頃とは思えぬ美貌の伯爵夫人はこの梅雨が極めて不快であった。

 

 正確には梅雨とは地球の東アジア地方で春の終わりに降り続く雨の事であり、現在固有名詞として利用されているのは諸惑星における季節の移り変わりに降りしきる大雨が暫定的に『梅雨』と呼ばれているだけである。故に人生の殆どの期間をヴォルムスに住まう彼女も梅雨自体は知っていたし、正確にはハイネセンのそれとヴォルムスのそれは別物でもある事も知っていた。それでも尚、彼女にとっては一番嫌いな時節であった。

 

 この嵐の音で思い出すのだ。可愛い息子が幼い頃『新美泉宮』の北苑で行方不明になったあの日の事を。

 

 門閥貴族の女の役割は嫁ぎ先の跡取りを産み育て、娘をどこに出しても恥ずかしくない淑女に育て、社交界や屋敷で夫を支え、夫がいない時には代理として家中を取り仕切る事だ。ほかは兎も角、一番大事な跡取りが中々出来なかった時には伯爵家での生活は厳しいものだった。

 

 妊娠はしているのに死産流産と続けば母体の方に問題があるのではと勘ぐられるのは当然で、義母には詰られたし、最初は笑顔で歓迎していた伯爵家の長老衆や義叔母達に次第に白い目を向けられるのも辛かった。実家からすら焦りと困惑の気持ちがありありと分かる手紙が毎日のように送られて来たのだ。皇族でなければ離縁されていた可能性があるし、そうでなくても見限られて別腹で跡継ぎを作ろうとされても可笑しくなかった。実際、夫が反対して味方になってくれなければそうなっていただろう。

 

 今でも鮮明に覚えている。嫁ぎ先で漸く生まれてくれた可愛い我が子。何ら健康に問題なく呼びかければてくてくと自身の元に来てくれる我が子。普段は使用人に我儘を言いつつも自分が抱きかかえてあやしてあげれば大人しくお願いを聞いてくれる我が子………愛しい息子は文字通り目に入れても痛くない宝であり希望だった。

 

 そんな息子が、僅か七歳の息子が野生動物が蠢く北苑に侵入し、しかも大雨と雷まで鳴り響く中で行方を晦ませたのだ。その衝撃と絶望は今でも覚えている。漸く健康に生まれ、拙い声で自身の名前を呼んでくれる息子に何かあれば……気付けばヒステリックに役目も果たせなかった使用人や近衛兵達を罵倒してそこらにある物を手当たり次第に投げつけた。見かねた皇帝たる叔父や夫に制止された後には過呼吸から眩暈を起こして失神してしまった程だ。

 

 近衛兵達によって無事保護された息子を見た時には淑女にあるまじき事に駆け足で走っていた。そのまま小さな我が子を抱きかかえ、感極まって泣き叫んでいた。それ程までに安堵していたのだ。

 

 本家で唯一の跡取り……それだけでも過保護に育てるのは当然であったし、ツェツィーリアにとっても腹を痛めて漸く得た我が子だ。

 

 しかも当時は家内の状況も決して安穏としたものではなかった。唯でさえ前当主と夫の兄が相次いで戦死したのだ。通常ならば滅多にあり得ない事であり謀略や暗殺だって疑われていた。義父と義兄が争い相討ちになった、夫たるアドルフが当主になるために手を下した、義叔父がアドルフを傀儡にして実権を握ろうとした、あるいはアドルフとの婚姻で縁を結んだバルトバッフェル侯爵家が糸を引く陰謀だとも心ない者は囁いた。実際、従軍直前に義父と義兄の仲が険悪だったという噂もある。

 

 これに影響されてか機会と見たからか、長らく一部の分家が本家に養子や妾を送りこもうと不穏な動きをしていた。息子に万一の事があれば事実は兎も角、外部から見れば家督争いの御家騒動として見られていたであろう。そうなれば家の名誉は………。ツェツィーリアは一層息子に深い愛情を注ぎ、嫁いだ家のために尽くそうと決意する。

 

 それ以来、偏に我が子のために為すべき事は為して来たつもりだ。幼年学校から士官学校に入学させたのも愛情だ。武門の家柄であるからには本家の嫡男が軍人にならぬなぞ有り得ないし、いざと言う時に備えて自衛も出来なければならない。ならば中途半端に予備役士官の教育をするよりも正規の充実した軍人教育をする方が遥かに息子の将来の箔付けになるし、世俗から隔離気味なので陰謀に巻き込まれる可能性も低い。ある意味では未だ水面下では緊張状態にあった一族の元に置くよりも安全だった。ツェツィーリアは自分のせいで不必要に伯爵家の家督争いが激化したのを理解しているし、それを次代に持ち込ませるつもりは無く、自身の代で雑事は片付けるつもりだった。息子に一族に対する偏見を持たせないためにも最善の手であっただろう。

 

 無論、士官学校を卒業すれば現役軍人だ。実戦がある。その危険に備え可能な限り安全な任地に護衛付きで配属させていた。客観的に考えればこれで負傷や戦死は有り得ないだろう。宮廷では流石に過保護であると言われたし、未だに次期当主の座を諦めきれていない一部の分家筋は彼女を裏で揶揄したが、そんな事は息子の安全のためならば取るに足らない事だった。

 

 計算違いがあったとすれば息子が亡命政府軍ではなく市民軍に入隊した事、そして不思議な力で毎回安全な任地や役職で死にかける事であったが………。

 

 息子が危険な経験を積むたびにツェツィーリアは立ち眩みを起こした。息子が後継になるのを厭う者か市民軍の陰謀ではないかとすら疑った。それは証拠が揃わず分からずじまいではあったが、怪我の功名として喜ばしい副産物もあった。

 

 一人息子とは言え武門の出でありながら女々しいまでに過保護にされ過ぎている事に伯爵家一門で……特に次期当主の椅子を狙う一部の分家で……不満が立ち込めていた。

 

 だがそれも毎回の軍功とそれに伴う受勲と昇進により霧散した。息子の功績により彼女の伯爵夫人としての立場は盤石となり、今では『出来息子』の母親に反対意見を述べられる者は伯爵家一門ではほぼいない。『母体として不出来』な妻から生まれた息子が戦死した時の『スペア』のために本家に妾や養子を送り込もうと画策していた者達も今では誠心誠意ツェツィーリアに従うしかない。

 

 ……別に息子の軍功に期待していた訳ではない。寧ろ何も功績を立てられずとも構わなかったし、それどころか毎回死にかける事にショックを受けた。だが結果としてそれが彼女の立場を補強してくれているのだ。本人の自覚は兎も角、彼女にとっては健気ななまでに親孝行な我が子であった。

 

 そのためツェツィーリアにとっては息子は絶対的な愛情を注ぐべき対象であったし、恩人でもある。だからこそ可能な限り苦労をさせたくないしお願い事は聞いてあげたい。何よりも危険な目には合わせたくない。それが自身の伯爵家での立場を怪しくする事であっても母親としての愛情の証であった。だからこそ(夫に宥められた事もあるが)使えない……あるいは信用出来ない……付き人であっても排除せず所有する事を(かなりの葛藤があっても)許してきたし、可能な限り息子の自由にさせてあげた。そして当然貴族の嫡男として最も政治的に重要な婚姻の相手の選定も素晴らしい、息子が喜んでくれるような満足いく相手を探していたのに………。

 

「………そうよ、あの人も、伯父上や義叔父上まであんな『物』を推すなんて……」

 

 ツェツィーリアは窓に映る自身の顔が険しくなるのも視認する。残念ながら嫌悪感丸出しのその表情は若い頃妖精と称される程の美貌を有していた女性とは思えない位に恐ろしかった。

 

 成程、理屈は分かる。亡命政府政界の主流を占める穏健派、立憲君主党にとっては確かに保守派、帝政党の衰微は無視出来ない。派閥的には対立しているものの同じく貴族階級を基盤とした『価値観を共にする同胞』だ。立憲君主制廃止を謳う過激派の自立党との政治闘争の矢面に立つ彼らに弱られたら主流派からしてみれば困る。

 

 しかも帝政党支持の諸侯の中でケッテラー伯爵家は最も勤皇的かつ直情的であり帝室からしても扱いやすい。ほかの帝政党諸侯への求心力も高い家だ。そこが没落すれば帝政党の急進派が暴走する可能性もある。急いで保守派の梃入れが必要であった。

 

 帝政党所属諸侯に対して帝室と立憲君主党は出来る限りの援助を行った。その一つが婚姻関係の構築であり、幾つかの婚姻の内で特に注目されたのが叔父でもある皇帝グスタフ三世の次男であるアレクセイとブローネ侯爵家長女シャルロッテの婚姻とティルピッツ伯爵家の長男とケッテラー伯爵家の長女の婚姻だ。

 

 ツェツィーリアは蝶よ花よと育てられた皇族であり大貴族の娘だ。傲岸不遜であるし余所者に対して冷淡ではあるが、宮廷の力学について十分に理解もしていたし宮中工作の重要性も理解している。だから辛うじて理解は出来る。だが……理解出来るのと納得出来るのとでは別問題だ。

 

「あんな混じり物の雑種を選ぶなんて……!せめてもう少しマシな相手もいたでしょうに!!」

 

 ケッテラー伯爵家の血を取り入れるのは良かろう。だが悪い噂しかないヴィレンシュタインやたかが帝国騎士の血を取り込もうなぞ名家中の名家の生まれである伯爵夫人からすれば身の毛もよだつ思いだった。妾としてなら良かろうが栄光ある伯爵家の本家の正妻になぞ信じられなかった。

 

「っ………!」

 

 ツェツィーリアは奥歯を噛みしめて吐き出したい怒りを抑える。あの猫被りな小娘の媚び諂う顔を思い出すだけで腹が立つ。バレていないとでも思っているのか?貴様の家の所業位知っているのだ!どうせ見舞いに来たのも息子を心配しての事ではなく婚約が破談にならないか観察しにきただけであろうが!私の息子を何だと思っている……!

 

 百歩……いや、万歩譲って皇帝たる叔父上や夫の命令である婚姻自体は認めるしかあるまい。だが……だが伯爵家を、自身が嫁ぎ、受け継ぎ、守って来たティルピッツ伯爵家の伝統と権威と財産を好きにさせてたまるものか!所詮は借り腹だ、妻としての実権なぞ欠片も渡すつもりはない。ツェツィーリアはグラティアを徹底的に躾をして飼殺すつもりだった。跡取りのために一人か二人程『製造』させた後はすぐさま取り上げて自分で愛情をこめて教育するつもりだった。母親と一言も話させるつもりはない。作り終えれば用済みだ、どこぞの荘園に強制的に軟禁してやるつもりだった。

 

 ……正直、見ず知らずの第三者から見れば過激にも思える企てであったが、ツェツィーリアからすれば最大限温情をかけた考えだった。その気になれば彼女はケッテラー伯爵家の小娘を適当な陰謀で名誉を傷つけて婚約破棄に持ち込む事が出来たし、子供が出来ない(出来ないようにする)事を理由に『返品』しても良かった。少々リスキーだが家柄の良い妾でも宛がって先に跡取りを作らせてその後ろ盾になって追い込む事だって出来たのだ。いや、やろうと思えばもっと悍ましい謀略による排除だって思いつく。それらに比べれば遥かに『穏健』である。少なくとも跡取りを産ませてやるのだから感謝して欲しい位だと本気で伯爵夫人は考えていた。

 

「そうよ、私が守ってきたこの家を好きになんてさせないわ……!」

 

 代々の先祖が守り抜き、愛しい夫が受け継いで、自身が嫁いでからは必死に順応し支え、愛しい我が子や孫に譲り渡す予定の家だ。下賤の生まれの余所者に好きにさせてたまるものか……!

 

 ツェツィーリアの家族愛の形とその表し方は決して門閥貴族の妻として逸脱したものではなかった。寧ろかなり善良で深い部類であっただろう。それこそ家によっては我が子を完全に家内や宮廷での政治の道具としか見ていない所だってあるのだ。それらに比べれば彼女の家族に向けた情愛は少々独善的な部分はあろうとも慈悲深く、寛容で、家庭的ですらあった。そう、『家族』に対する愛情は……。

 

「それなのにあの子は……」

 

 だからこそ彼女の表情は憂う。第三者からは兎も角、少なくともツェツィーリアは今の我が子が優しい出来息子であると認識していたし、それを疑ってもいなかった。家族と家のために危険な戦いにも怯えずに参戦し、親族のために自身の右腕が無くなろうともその責任をだれにも追求しようとしなかった。失態を繰り返す臣下相手にも寛容だ。そう、寛容過ぎる程に。

 

 我が子の数少ない欠点であると母親である彼女には思えた。それではいけない。親族や家臣を思いやるのは良い。だが信賞必罰は支配階級にとって当然の義務。無能な臣下を甘やかすなぞ言語道断だ。ましてや一部は贔屓にし過ぎているし、その性格を利用している者共がすぐ傍で媚を売っている事に気付いているのだろうか?

 

 そして何よりも……。

 

「ねぇ、昨日の報告は本当なのかしら?」

「確認は取れておりませんが恐らくは」

「そう……」

 

 伯爵家に嫁いでから長年支えてもらった老家政婦長に聞き、ツェツィーリアは極限まで瞳を冷たくし、苦虫を噛みしめる。これは自身の失態でもある。昨日、気付けばあの色目使いの小娘がいなくなっていた。それだけなら良い。どこでもほつき歩いておけば良い。問題は息子までどこかにいなくなっていた事だ。

 

 夕方には帰って来た。そして家政婦長が仕入れた情報も合わせて予測出来る息子の動向は極めて不愉快なものであった。

 

「僭越ながら、若様は奥様のグラティア様への接し方に御同情為されてたのではないかと愚考致します」

「でしょうね。あの子は優しいから構ってしまうのでしょう。それに……どうせアレがそういう媚びた態度でも取っていたのでしょう。本当、人の屋敷に来てまでよくあんな厭らしい目付きをしていられるものね。どういう教育をされてきたのかしら?まるで発情した雌猫みたいじゃないの?」

 

 嫌悪感丸出しで伯爵夫人は吐き捨てる。手元の扇子を広げ口元を隠す。その裏側に隠れた口元はきっと敵意と憎しみに醜く歪んでいる事だろう。だがそれも仕方あるまい、自身の息子の性格に付け込むなぞなんて阿婆擦れであろうか……!いや、事実アレの母も曾祖母も、高祖母もそうではないか!

 

「私の責任ね。あの程度の警告では駄目だったらしいわ」

 

 それどころか息子を巻き込もうとするなんて……血は争えないとはよく言ったものだと彼女には思えた。淑女を気取っても血は水より濃いのだ。良くも悪くも……。

 

「やっぱりあの子は放っておけないわ……私が守らなくちゃ……そうしないと……」

 

 何度も何度も死にかけ、口と色気ばかりの出来の悪い家臣に言いくるめられる。終いには簡単に卑しい血の娘に媚びられ、懐柔される……。

 

 これまで『甘く』見てきたが息子の右腕が無くなった時点でその忍耐も限界だった。ツェツィーリアの主観ではこれ以上息子を手元から手放すなぞ論外であった。そしてそれは息子のためだと信じていた。きっともっと大きくなればその事を分かってくれるだろう。だってあの子は『良い子』なのだから……。

 

 ツェツィーリアは決して無能でも愚か者でも無かった。門閥貴族の令嬢としては良識的で善良で、博識ですらあったろう。ある意味真っ当過ぎる程に真っ当だ。家だけではなく夫も、息子も、娘だって自身の命に換えてでも守りたいと思える程に深い愛情の持ち主だ。

 

 そしてその愛情は高慢で、傲慢で、独善的であった。故に、彼女は息子の考えもその価値観も理解出来なかったのだ………。

 

 

 

 

 

 

 

 

 西暦時代の中東地域で誕生した弦楽器ラバーブを源流とするとされるヴァイオリンは、銀河帝国においてピアノ、フルート等と並び中流階層以上における当然の教養として定着している。貴族階級ならば全てを当然に演奏する事が求められる程だ。

 

 銀河連邦末期の文化的退廃はありとあらゆる分野を蝕んだ。音楽もまた同様であり、享楽的かつ道徳を軽視し、過剰なまでの社会風刺と体制批判を込めた歌詞、基本的な音階も糞もない雑音の如き歌が粗製乱造され、消費され続けた。

 

 いや、都市部はまだマシだったかも知れない。辺境はもっと悲惨で、カルト的な教義や破壊的な歌が生み出された。ウォー・ボーイズ達によってテクニカルトラックに括りつけられ大音量のドラムとギターを交えた教団ソングを七二時間に渡り(強制的に)聞かされ続けた初代ブラウンシュヴァイク伯爵は、それ以来ロックの類がトラウマになった。

 

 音楽には人を動かす力があると言うが、本能のままに生き、秩序を嘲笑し、あるいは怪し気な教義を垂れ流す歌ばかりが流行されては厳格かつ狭量なルドルフ・フォン・ゴールデンバウムとしてはたまったものではなかっただろう。政治家への転身と共に対策に乗り出した。

 

 新進気鋭の新政党、国家革新同盟はその成立と同時に幾つかの外郭団体を結成していた。公秩序と安定の維持、社会の活力と健康の振興……国家革新同盟の党是を目標とした各種団体が各方面で荒廃し堕落した市民の教化に乗り出す。

 

 国家革新文学団は文学を通じ道徳と社会の重要性を布教する。国家革新教員同盟は各種連邦教育団体にて青少年達に対して行きすぎた自由主義と我欲の自制を教育した。国家革新同盟労働奉仕団は浮浪者への炊き出しや援助、職の斡旋を通じ労働意欲の向上と社会復帰を支援し、国家革新運動同盟は商業的なスポーツ界を批判、頑健な肉体を作るためのトレーニングや市民の結束を重視したチームスポーツを推進した。国家革新医師同盟は麻薬規制の厳格化だけでなく煙草やアルコール、そのほか電子ゲームやインターネット等の健康と社会性を害し依存性の高い娯楽製品の規制を訴えた事で知られている。

 

 国家革新音楽同盟は極度に退廃的かつ社会風刺的な現代音楽からの脱却を目指した。美しい音と旋律の調和を通じた市民の一体感、そして教育的な歌詞を通じた道徳心の向上を目指す。古典的なクラシックと讃美歌を中心とした帝国式音楽の原点である。

 

「あっ、まちがえた」

 

 ヴァイオリンの弾くべき弦を誤り鈍い金切り音がサロンに響いた。妹は不快そうに当てていた馬尾毛を張った弓を下ろし、唐檜(スプルース)(メイプル)で出来たヴァイオリンの本体を肩から離す。

 

「むぅ……またしっぱいした!!」

 

 四歳六ヶ月になろうかという幼い妹はうんざりした声で何度目かの叫び声を上げる。

 

「いやいや、今のは惜しかったよ。最後に油断したね」

 

 私は少々癇癪気味になり頬を膨らませる妹を宥める。彼女の先程まで演奏していた『歓喜の歌』はヴァイオリン演奏の基礎中の基礎であるが、まだ学び初めて数ヶ月、漸く『カイザー』を演奏出来るようになったばかりの子供には少し荷が重いらしい。

 

 私は自身のヴァイオリンを肩に乗せ、先程まで妹が練習していた曲をゆっくりと弾いてやる。私?伯爵家の長男だぞ?ヴァイオリンどころかピアノもフルートもそれなりになら演奏出来る。というか小さい頃に出来るまで厳しく指導された。門閥貴族の家庭教師って案外スパルタなんだよなぁ……。

 

「もういや!ばいおりんなんておもしろくないっ!!げーむしよっ!!」

 

 小さなヴァイオリンと弓を振り回しながら妹は文句を垂れる。こらこら、子供用とは言え手作りのオーダーメイド品だぞ?それだけで軽く兵士の給金二ヶ月分はするから止めなさい。

 

「そうは言うが私に御願いしたのはナーシャの方だぞ?自分の言葉にぐらいは責任を持ちなさい。母上も言っていただろう?」

 

 別にこのサロンの一室で妹の御世辞にも上手くないヴァイオリン演奏を聴いていたのは私の望みではない。目の前の妹が練習の手伝いを御願いしてきたのが切っ掛けだ。

 

「張ってある弦の場所を一々確認するんじゃなくて覚えるんだよ。とは言え、これは慣れが必要なんだけどな?」

 

 ヴァイオリン演奏……いや、それに限らず楽器の演奏は慣れと練習回数が物を言う。特に記憶力が高くスポンジのように覚えていく子供時代から始めるのが一番だ。つまりここで諦めれば妹は演奏技術を向上させうる貴重な時間を自ら捨てる事になる。兄としてはこれを見過ごす訳には行くまい。

 

「まぁ、兄の演奏を良く観察してみなさい」

 

 そう偉そうに語って私は用意された大人用サイズのヴァイオリンを再度構える。そして妹の演奏していた曲をゆっくりと、見やすく演奏する。

 

 

【挿絵表示】

 

 

 西暦一八世紀、ゲルマン第一帝国こと神聖ローマ帝国出身の作曲家、ルートヴィヒ・ファン・ベートーホーフェン……つまりベートーヴェンの作曲した交響曲第九番第四楽章『歓喜の歌』は、決して長い曲ではないし複雑な技術が必要でもない。

 

 歌詞自体は元々同じく神聖ローマ帝国のシラーの作り上げた『自由讚歌』を更にフランス革命に影響を受けたドイツ学生達がラ・マルセイエーズのリズムで歌いあげたものが源流だ。当然歌詞は自由と平等を連想させるものであり本来ならば銀河帝国で歌い上げて良いものではない。

 

 とは言えベートーヴェンもシラーもゲルマン文化の中では偉大な文化人であるためその創作物を無かった事にする事も出来ない。なので逆説的に歌詞の解釈を変えて、乱雑な文化と階級により分断されている連邦市民が皇帝とゲルマン文化、オーディン信仰の下に一つに結束し同胞となる……というこじつけ的なとらえ方が帝国の音楽界の見解となっている。……まぁ、そもそも帝国人自体遺伝子的には混血に混血を重ねたなんちゃってゲルマン系ばかりなのだがね。

 

(確かベートーヴェンは自由主義者だったか?本人がこの帝国の解釈を聞けば卒倒しているだろうな)

 

 まさか数千年の未来の時代に自分とは真逆の思想の国家で作曲した作品が愛用されているとは思うまい。歴史の皮肉と言うべきだろう。

 

 じーっと私の演奏を観察している妹、恐らくは一度では分からないであろうから何度も何度もゆっくりと演奏を繰り返し、次いで背後に回って演奏の手伝いをする。

 

「どーにか……できた?」

「少し怪しいけどな」

 

 五度目であっただろうか?私が指の動かすのを手伝って少々途切れ途切れながら漸くナーシャは演奏をやり遂げて見せた。

 

「えっと……もーいっかいやっていい!?」

「いいよ。落ち着いて、ゆっくりやるんだよ」

 

 うんっ!と笑顔を浮かべて小さなヴァイオリンを構えて今度は一人で弾いていく。プロに比べたら拙い演奏ではあるが子供が一生懸命に弾いていると思えばとても微笑ましいものだ。

 

「できた!」

 

 短い曲をたどたどしくもどうにか弾き終えると花が咲き誇るような純粋な笑顔を浮かべるナーシャ。赤ん坊同様の白い肌に母譲りの銀髪には鼈甲と宝石で作り出された髪飾りを添えて、翠石(エメラルド)色に輝く瞳を持つ妹は何十代に渡り美姫の血を加えて作り出された美貌を此方に向ける。ロリコンでなくても油断したら一撃でノックアウトされていただろう。私も身内でなければ少し危なかった気がしなくもない。

 

「演奏をしておいででしたか?」

 

 ふと、背後から尋ねるような声音が響いた。さっ、と目の前のナーシャが私の影に隠れるのを確認して私は声の主が誰か把握した。

 

「いえ、妹がヴァイオリンを習い始めたのでその手伝いをしていた所です」

 

 私は振り向いて若干社交辞令的な笑みを浮かべ答える。サロンの入り口に佇むグラティア嬢が視界に映り込んだ。

 

「ナーシャ、挨拶を」

「……あい」

 

 私の背後に隠れて婚約者を窺う妹。その姿は私が警戒されて母の背後から睨まれていた頃の姿を彷彿とさせる。この妹は人見知りで警戒感は人一倍の癖に、一度解けば心配になりそうな位に無防備になる娘のように思われる。将来が少し不安だ。

 

「グラティアさま、ごきげんよう」

「はい、アナスターシアさんも御機嫌よう」

 

 拙い言葉で挨拶し小さく会釈する妹に対して、しかし伯爵令嬢は……少なくとも一見すると……特に妹の態度を咎めずに笑みを浮かべ品のある挨拶で返答する。

 

「旦那様も御演奏を?」

「見本を見せていただけですよ、私も小さい頃に学びましたが中々……最低限の技術があるだけです」

 

 妹にはしたり顔で教えているが、文化的な功績で帝国騎士の位を得たプロとは比べる方がおこがましいレベルだ。女性なら兎も角、武門貴族の嫡男なら最低限の教養で良いのも理由ではある。流石に宮廷儀礼のために学ばない訳にはいかないが、そうは言っても軍事教練の方が優先されるのは当然であるし、私も死にたくはないので其方に比重を置いて学んでいた。

 

「御謙遜ですか?」

「事実ですよ」

 

 私は肩を竦めて苦笑いを浮かべる。

 

「……グラティアさまはばいおりんできるのですか?」

 

 少しだけ興味深そうにナーシャは尋ねた。尤も私の背中に隠れたままであったが。

 

「実家で指導されましたから。……弾いて見せましょうか?」

「うーん……じゃあかいざーわるつ!」

 

 西暦時代のオーストリア・ハンガリー二重帝国における音楽家の名家シュトラウス家の一員、ヨハン・シュトラウス二世の代表曲『皇帝円舞曲』(カイザー・ワルツ)が妹の所望した選曲であった。壮大にして幻想的、明るく朗らかで何より巧緻で演奏が思いのほか難しい曲だ。ワルツであり宮廷舞踏会でも私的なパーティーでも良くこの曲を基に踊る紳士淑女は多い。

 

『皇帝円舞曲』(カイザー・ワルツ)……ですか?自信はありませんが……良いでしょう」

 

 流石に有名どころではあるが少々難しいこの曲が選曲されるとは思って無かったのだろう。少しだけ難しそうな表情を浮かべ、しかしすぐに覚悟を決めたように承諾の返事を口にする。

 

「ヴァイオリンをお借り出来ますか?」

「私の物で良ければ」

 

 私は妹に見本を見せるために使っていたヴァイオリンを差し出す。一礼をして受け取るグラティア嬢は弦を少し弾きその音色を確かめる。工業規格のある同盟の大量生産品は兎も角、帝国や亡命政府の職人御手製のオーダーメイドのヴァイオリンには一つ一つ微妙な癖がある。演奏の際にその微妙な癖を計算した上で、あるいはそれすらも活かした演奏が求められていた。

 

 弓で二、三度弦を奏でて癖を調べた後、小さく深呼吸をし……少女は演奏を開始した。

 

「これはまた……」

 

 借り受けたヴァイオリンの演奏だと思えば十分合格点であったろう。元々リズム感が良くない曲なので多少引っ掛かるのは御愛嬌だ。少なくとも本来の使用者たる私よりかは上手であった。曲の頭部分は軍隊の行進曲のようにも牧歌的なリズム感にも思わせる。優美な中盤の美しい音色、そこから終盤に入ると一転して急激な結びに移り、力強く終わるのが印象深い。

 

 約六分に渡る演奏を終えた時、傍らからパチパチと拍手の音が響いた。機嫌が良さそうに妹が小さな手を叩く。

 

「はぁあっ!!きれい!じょうずっ!!」

 

 心からの称賛である事は明らかだった。瞳を輝かせてナーシャはグラティア嬢を見つめる。

 

「お褒めの言葉、有り難く頂きますわ。アナスターシアさんも練習を続ければこれくらいなら演奏出来るようになりますよ」

「本当に?」

「はい、私も実は余り演奏は得意な方ではないですから。寧ろアナスターシアさんこそ同じ頃の私よりも御上手ですわ。羨ましいものですね」

「えへへ、おにいさまがおしえてくれるからね!かていきょうしのアグネスたちよりもおにいさまのほうがやくだつもん!」

 

 にっこりと笑みを浮かべて報告するナーシャ。これ、家庭教師達が可哀想だろうが。というよりも腕は間違いなく彼ら彼女らの方が上であろう。妹が無責任にそう宣うのはどちらかと言えばやる気の問題のように思える。

 

(とは言え、警戒心が和らいでいるのは良い事か……)

 

 先程の演奏と伯爵令嬢が物腰を柔らかくして対応している事もあって、この臆病で気紛れな妹もそこそこ心を開いているようだった。

 

(そういえば弟がいるのだったか……?)

 

 年下の弟がいるから手慣れているのかも知れない。

 

 更に妹は『美しく青きドナウ』に『千夜一夜物語』(どちらもヨハン・シュトラウス二世の曲だ)等を強請り伯爵令嬢はその姿に優しく微笑みながら答えていく。

 

「そうだっ!グラティアさまっ、あのねっ!あのねっ!これからねっ!ばいおりんのれんしゅうおわったらげーむしよっておにいさまとはなしてたのっ!いっしょにどう?」

 

 最後の曲を弾き終えた後、称賛の拍手と共に期待した表情を浮かべてナーシャは尋ねた。母から余り接触するなと言われてた筈だが……やはり子供は決まりよりも欲望を優先するものらしい。にこにこと屈託の無い笑みを浮かべてナーシャはグラティア嬢を見つめる。

 

「アナスターシアさん、御気持ちは嬉しいですが……」

 

 私や母の事を考えてか、ちらりと此方を一瞬見やり断りの言葉を口にしようとするグラティア嬢。うーん……。

 

(私の立場からすればここで借りを作りたくはないからなぁ……)

 

 母が怒った時は私が宥めるしかあるまい。ここで気を使わせてしまうと後々余計逃げにくくなる。それに……妹の前で話す訳にはいかないが密会の約束位は出来るだろう、という打算もあった。

 

「いいではないですか。ナーシャも望んでいるようですし……私ともぜひご一緒下さいませんか?」

 

 その返事に少し驚いた表情を浮かべる伯爵令嬢。少しの間視線を泳がせ、次いでその視線を妹の方へと向ける。期待の眼差しに複雑そうに笑みを浮かべて、私に尋ねる。

 

「御迷惑になりませんか……?」

「ならない、とは断言は出来ませんが……ナーシャの期待も裏切りたくはありません。貴女とももう少し友交を深めたいですしね。何かあれば私の方からも口利きさせてもらいますので、御願い出来ませんか?」

「そうですか……」

 

 少し迷いつつ、しかし最終的には伯爵令嬢は妹の目を見つめる。そしてその返答に妹は嬉しそうな笑みを浮かべた。

 

「じゃあ、じんせいげーむしよっ!!」

 

 ……おう、ここで何とも言えない微妙なチョイス選ぶな妹よ。

 

「だめ?」

「……早く準備しなさい」

「うん」

 

 ……え?妹に甘いって?いやだってあの子には色々負い目もあるし後ろからブラスターライフル撃たれたくないし……嘘じゃないよ?

 

 私は自身の本音を誤魔化すように内心でそう宣言していた。うん、可愛いは正義だからね、仕方ないね。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ふぅ、漸く終わったわね」

 

 ツェツィーリアは書斎での執務から漸く解放された。夫が軍務に専念せざるを得ないものの、分家や家臣にある程度は領地や私有地の統治や資産や事業、基金の管理を任せる事は出来る。

 

 それでも五世紀に渡り貯蓄し、投資し、収集し、膨張させてきた伯爵家の不動産、企業、証券、債権、特許、貴金属、現金、美術品といった財産は膨大であるし、どうしても判断を仰ぎ、あるいは知らせなければならない事案、本家一族以外が対応する事が許されない事柄もある。そうなればツェツィーリアは夫人としてだけでなく当主代理としての役割も果たさないとならない。

 

 面倒ではあるが同時にそれは自身が嫁ぎ先の家で信頼され、かつ確固たる地位に就いている事の証明でもある。それ故に執務が出来る事は名誉であるし、誇りに思ってもいた。

 

 とは言えやはり疲れるのは事実、唯でさえ息子や夫の事でストレスが溜まる日々なのだ。夫は話し合いで共にいる時間や手紙のやり取りも増えたがそれも戦局の悪化で再度交流が減ってしまった。

 

 そのために彼女からすれば一家団欒……というには夫がいないが、せめて子供達との時間は大切に取りたいと思っていた。

 

 殆ど一緒にいられない息子との交流は貴重であるし日に日に成長する娘を見ているとそれだけで口元が緩む。特に息子に構ってしまうがそれは仕方ない事だった。娘と違い中々会えないのだ。会える時に可愛がるのは当然の事だ。娘には済まないと思ってはいるがこればかりは変えられない。

 

「そういえば一緒に演奏の練習をしているのだったかしら」

 

 執務中に女中に様子を見させにいきその事をツェツィーリアは知っていた。最初のうちはぎこちなかったがここ暫くは息子と娘の仲が良好になっている事は彼女も母である以上知っていたしそれを喜ばしい事だとも理解していた。

 

「ふふ、私も交ざろうかしら?」

 

 兄妹仲が良いのは素晴らしい事だ。同じ血を分けた身内である、一族が結束し和やかなのは良い事だ。それが次代、次々代まで続けば尚良い。

 

 ツェツィーリアからすれば二人がヴァイオリンの練習をしているのなら自分も共に手伝っても良いと思っていた。息子や娘に宮中でも絶賛された腕を見せてやるのも良い。そんな事を考えていると自然に顔が綻び妖精のような美貌に喜色の笑みが浮かぶ。

 

 故に、彼女が子供達のいるサロンに足を踏み入れた時、そこに『部外者』がいる事にまず眼を見開き唖然としていた。

 

 そして子供達が自身に気付かずに『部外者』と共に楽しげに遊んでいる姿に対してツェツィーリアは不快感をありありと見せつけたし、その容貌は氷のように冷たくなっていた。

 

 そこにあったのは子供達への怒りではない。寧ろ子供達に対しては心配すらしていた。今すぐにでも『部外者』と引き離さなければと思っていた。

 

 娘が何かを口にしていたのに気付く。それに『部外者』が少しだけ頬を染めて恭しく答えるのが見えた。その態度が彼女には癪に障った。そしてそこに息子が困り顔で何かを語りかけていた。

 

 客観的に見た場合、それはある意味微笑ましい姿であったのかも知れない。少し気恥ずかしそうに微笑を浮かべる伯爵令嬢と礼儀正しく会話を交える伯爵家の嫡男の姿は少なくとも険悪では無かったし、妹と義理の姉の関係もこのままであればそう悪くはなるまい。第三者から見れば少なくとも悪くない状況であった筈だ。

 

 だがツェツィーリアから見れば違う。元々経歴から『部外者』に対して偏見しかなかったし、彼女はストレスから気が立っていたし不安や悩みもあった。何より家族愛が深かった。

 

 だからこそ、その姿は彼女の心情にマイナスに作用していた。その『部外者』の健気な姿すら媚びを売るふしだらで一族に害になる毒婦の笑みに見え、同時にその黄金色の髪も相まって息子が入れ込んでいる牝猫を連想させた。

 

 そして思ったのだ。『あぁ、悪い娘には躾が必要ね』と。

 

 

 

 

 

 彼女、ツェツィーリア・フォン・ティルピッツ伯爵夫人の瞳に宿っていたのは余りに独善的であり、しかし確かに家族にとって害となると信じている物から子供達を守ろうとする一人の母親のそれであった。


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