IS インフィニット・ストラトス ~クロガネを宿し者~   作:Granteed

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第五十五話 ~終わりの始まり~

八月も半分終わり、特訓も終盤に近づいた夏の日。もはや統夜にとって慣れ親しんだ道場に、鈍い音が連続して響く。同時に、気合の乗った男の掛け声が轟いていた。

 

「はあっ!!」

 

「はい、残念!」

 

統夜が突き出した右腕をあっさりと絡め取って動きを封じる。拘束を解こうと慌てて頭部めがけて左腕で攻撃を繰り出す統夜の行動を見越していたかの如く、首を動かしただけで紙一重で回避した楯無の目が鋭く光る。

 

「ほいっと!」

 

女性特有の高い声が、道場に響き渡る。一瞬後に、統夜が投げ飛ばされた衝撃が道場全体に伝播した。受け身を取りながら態勢を整えた統夜は、戦意を欠けさせる事無く再び吶喊を敢行する。

 

「今度こそっ!!」

 

「乙女の柔肌、そう簡単に触れられると思わない方がいいわよっ!」

 

「自分で言わないでください!」

 

軽口を叩きながら、互いの腕が交差する。統夜が右腕を振れば楯無は左腕を、右足で蹴り上げれば楯無も同じく左足で迎撃する。押されっぱなしの戦況だったが、統夜には切り札があった。

 

「そろそろ例のアレ、使わないのかしら?」

 

「それじゃあご要望通り、行きますよ!!」

 

一旦距離を取った統夜の瞳が変色していく。黒曜石の様な深い黒から、ルビーの様な艶やかな紅色に。外見上の変化はそれだけだが、統夜の体の内側では確かな変化が起こっていた。

 

「さあ、かかってき──」

 

統夜が全力を出すのを確認して身構える楯無の前で、統夜は低く体を沈める。だが楯無が瞬きをしたその刹那、統夜の姿が掻き消えた。

 

「うおおおおっ!?」

 

次に統夜の声が聞こえてきたのは、楯無の背後からだった。楯無が後ろを振り向くと、そこには先ほどと変わらない統夜がいた。足元の畳は酷く削れ、い草が統夜の脚部の周囲にばら撒かれている。統夜は自分の掌を見つめた後、楯無に視線を戻して体を沈めた。

 

(やばっ!!)

 

第六感とも言うべきか、幾つもの戦いを繰り返してきた世界代表としての直感が危機を告げる。楯無は形振り構わず、全力で突撃してきた統夜の脚を払うと浮いた体に肘を撃ち込む。

 

「うぐっ!!」

 

容赦の無い一撃を貰った統夜の肺から空気が全て抜ける。体が畳の上でバウンドする数瞬の間に、楯無は統夜の左腕を全身で極めた。楯無の抑え込みは完璧で抜け出す隙は何処にも見当たらない。しかし、統夜はそこで諦めなかった。

 

「この力なら……!」

 

「え、嘘嘘!冗談でしょ!?」

 

ジリジリと、統夜の腕が内側に折れ曲がっていく。欠点が無かった楯無の絞め技が、無理矢理力技で崩されていく。そしてとうとう耐え切れなくなった楯無は自分から拘束を解いてしまった。

 

「ここだっ!!」

 

空だった右腕で楯無の肩を畳に押し付ける。間髪入れずに統夜は解放された左腕を思い切り振りかぶった。次の瞬間、拳がめり込む轟音と共に、い草が空中へと飛び散った。

 

「……」

 

「やっと、一本……取りましたよ」

 

楯無の顔のすぐ脇に振り下ろした拳を畳から引き抜きながら、統夜が勝利を宣言する。統夜は楯無から離れるために、楯無の肩を押さえつけている手を横にずらして体を支えようとするが体が全く動かなかった。いつまでも動かない統夜の下で楯無が怪訝な表情を浮かべる。

 

「統夜君、どうかしたの?」

 

「……すいません、楯無さん」

 

それだけ言うと、統夜の目から光が消える。そのまま瞼が下りると共に、統夜の体がぐらついた。両手から力が抜け、筋肉が弛緩する。重力に捕われた統夜の肉体はそのまま下にいた楯無に覆いかぶさった。

 

「ちょ、ちょっと統夜君!?」

 

「……」

 

「そういう事は簪ちゃん相手にやって欲しいんだけど!」

 

いくら大声を上げても、統夜は動こうとはしなかった。対する楯無も統夜の特訓に付き合った後であるため、全身が悲鳴を上げている真っ最中である。何とか統夜と畳の板挟みから抜け出そうとするが、力の抜けた両腕で統夜の体を押しのける事は叶わなかった。それならばと体をずらして抜け出そうとするが、それより早く道場の扉が音を立てて開けられる。

 

「二人とも。お昼ご飯が出来、た……」

 

道場の扉の前で一人佇んでいるのは簪だった。傍から見れば統夜と楯無が抱き合っている様にしか見えないその光景に驚きを禁じ得ない様で、両目はこれ以上無いほど見開かれている。そして瞬く間に、簪の目から光が消え失せた。

 

「お姉ちゃん……何、してるの?」

 

「ひいっ!?」

 

可愛い妹から放たれた一言は、その外見に似つかわしくない昏い感情を秘めた一言だった。瞳の色が掻き消えたそれは、何処か深い井戸を思わせる。統夜の体に押しつぶされつつも、楯無は何とか弁解の言葉を口にした。

 

「あ、あのね簪ちゃん。私と統夜君の間には何も無くて……勿論、統夜君は簪ちゃん一筋だから──」

 

「そんな事は聞いてない。答えて……何、してるの?」

 

楯無の言葉を遮って言葉を繰り返す簪が道場へと足を踏み入れた。足音も立てずに一歩一歩姉に近づいていく姿は、何時もの大人しい妹のそれではない。誰も簪を止める事が出来ない絶体絶命のピンチの中、救いの音色が静かに鳴った。

 

「う……」

 

楯無に覆いかぶさっていた統夜が頭を振りながら覚醒する。目を瞬かせている統夜の異変を察知したのか、がらりと雰囲気を変えた簪が慌てて統夜に駆け寄る。楯無の両脇に手を突いて何とか立ち上がった統夜はそのままごろりと道場に体を横たえた。

 

「統夜、大丈夫……?」

 

「あ、ああ。力を使ったら急に疲れて、そのまま……」

 

「た、助かった……」

 

簪と統夜の横で楯無が胸を撫で下ろす。汗だくの胸元に手で風を送りながら楯無は立ち上がると、壁の近くに置いてあったペットボトルの蓋を外して口をつける。

 

「無理しちゃダメ、って……約束した」

 

「無理はしてないさ。ただ、少し混乱してるだけだ」

 

一息で中身を半分ほど飲み干したペットボトルを再び床に置いて、その脇にあったタオルで顔を拭う。ちらりと目を向けてみれば、統夜は簪の手を借りてなんとか上体を起こしている最中だった。床に置かれていたもう一つのタオルを取り上げると、統夜に歩み寄ってそれを手渡す。

 

「ありがとうございます」

 

「ねえ統夜君、さっきの力って何?」

 

前置きも無しに単刀直入に言葉をぶつける。統夜がその力を出す事は別段珍しい事では無い。特訓を開始した時から使っていた、統夜にしか許されていない力。楯無もそれを見るのは初めてではない。ただ、その程度が問題だった。

 

「余りにも違いすぎるわ。特訓の一番最初に見たあの時と、レベルそのものが違う。さっきのが全力だとしたら、もしかして今まで手を抜いてたの?」

 

「そ、それは違いますよ。ただ、その……力が強まってるっていうか。感覚的にはよりラインバレルと一体化したって言うか。とにかく、俺自身の能力がどんどん上がってるんです」

 

統夜が道場の一角に視線を向ける。つられて楯無と簪もそちらに目を向けると、畳が異様な壊れ方をしていた。畳の中の一か所だけい草が削れ、その隣にはまるで何かを撃ち込んだかの様に陥没している。

 

「もしかしてあれ……統夜がやったの?」

 

簪の言葉に頷いた統夜が体の調子を確認しながら立ち上がる。流石と言うべきか、先程までの疲労の色はその顔から綺麗さっぱり消えていた。顎に手を当てて考え込む仕草を見せる楯無。

 

「ねえ統夜君。貴方の知ってる範囲でいいから教えてくれない?」

 

「何をですか?」

 

「全て。ラインバレルの事、ファクターの事、そして貴方自身の事を」

 

統夜は楯無の言葉を聞き終えると、息を大きく吸って顔を天に向けた。この質問がされる事を予見していたかの様に、いつか誰かに聞かれる事を分かり切っていたかのように。統夜の返答は淀みなくすらすらと流れ出る。

 

「楯無さん。それ、少し待ってもらっていいですか」

 

「少しって、いつまで?」

 

「この夏休みが終わるまで……それまでには俺も気持ちの整理、つけておきますから」

 

統夜が顔を下ろして真っ直ぐ楯無を見つめる。腰に手を当てて視線を返す楯無だったが、小さくため息をついてタオルを明後日の方向へと放った。そのまま統夜に歩み寄ると、自分の右手を差し伸べる。

 

「まあ、しょうがないわね。統夜君にも準備って物があるんだし、何よりそう簡単に話せる事じゃないだろうから」

 

「すみません。それと、少し一人にしてもらっていいですか?」

 

「本当に体は大丈夫よね?」

 

統夜の傍にしゃがみ込んでいた簪が、楯無の言葉を聞いた途端顔色を変えた。確かめるように何度も何度も統夜の体を摩っていく。簪の好きにさせながら、統夜は楯無に返事を返す。

 

「はい。別に体に異変が来てるとか、そういう事は無いですから」

 

「お姉ちゃん、先行ってて」

 

「簪ちゃん……分かったわ」

 

楯無はくるりと踵を返して一人道場から出ていく。統夜が声をかけるよりも前に楯無が出て行くと、残された二人が互いの顔を見つめた。

 

「傍にいるって、前に言った」

 

それだけ言うと簪は統夜にすり寄っていく。腰を下ろしたまま統夜の頭の下に手を入れると、そのまま持ち上げる。空いた空間に自分の膝を滑り込ませると、上げた手を下ろした。されるがままに簪の膝を枕にして横になった統夜は、全身を脱力させながら真上にある簪の顔を見上げた。

 

「心配性だな、簪は」

 

「統夜が無理ばっかり……してるせい」

 

「……さっき楯無さんに言った通りなんだ。あの日以来、俺とラインバレルが近くなってる」

 

忘れられない記憶として統夜と簪に刻まれた臨海学校。その日という単語が臨海学校を指している事は簪も理解出来た。ただ、その後の言葉が全く分からない。怪訝な顔をしていた簪の心中を読み取ったのか、統夜はタオルで顔を拭いながら口を開いた。

 

「ラインバレルが黒くなって連続で転送しながら戦闘してたの、簪は見てたか?」

 

「うん」

 

「俺はあの日までずっと、自分まるごと転送する事自体を“オーバーライド”って呼ぶんだと勘違いしてたんだ。でも、実際は違った。あの黒い姿も含めて両方を“オーバーライド”って呼ぶらしい」

 

「らしい、って……今まで知らなかったの?」

 

「近くなったって言ったろ。あの日をきっかけに、ラインバレルの中にあったけど今まで見らなかった情報とかが殆ど見られる様になってたんだ……なあ、そうだろ?」

 

誰かに語りかけるような口調と共に、統夜が目の前へと片手を伸ばす。すると柔らかな小さい光と共に、目の前の空間が揺れる。簪が瞬きした次の瞬間には、統夜の掌の上に銀色のネックレスが出現していた。

 

「さっきみたいに俺自身の力が強くなってた事も含めて俺はこう思うんだ。こいつ自身が俺を認めてくれたから新たな力を授けてくれた、ってね。だから近くなった、って言ったんだ」

 

「私ももっと強くなった方が、いいのかな……統夜と一緒に」

 

「そんなの気にしなくていいさ。戦うのは俺一人で十分だ」

 

ネックレスを首につけ終えた統夜は簪の膝から頭を離すと、そのまま体を起こす。ふらつきもせず、疲労の影すら見せない動きで立ち上がると、簪へと片手を伸ばす。

 

「いつか、IS学園の皆を守れるくらい強くなってみせる。もう誰も戦わなくても済むように。誰も傷つかずに済むように」

 

「……統夜、私は──」

 

簪が口を開きかけると同時に、道場の外から声が響いてくる。

 

「二人とも、早く来ないと食べ始めちゃうわよ?」

 

「ああ、すみません。今行きます!」

 

楯無の言葉に返事を返した統夜は、視線で自分の手を取るように簪を促した。不思議なことに簪は指し延ばされた統夜の手に少し逡巡する様子を見せた。まるで何かを言いたげな顔で見上げるが、統夜は全く気付かなかった。

 

「どうしたんだ?」

 

「……ううん。何でもない」

 

ふるふると弱く首を振った簪が統夜の手を掴む。少し力を入れただけで持ち上がった簪と統夜の体が触れ合う。隣に存在する暖かさを感じながら、統夜は再び心に誓った。

 

(そうさ、必ず守る。その為の力なんだから)

 

一人決意を硬くする統夜は気づく事は無かった。隣で彼を不安げな表情で見上げている簪に。

 

 

 

 

 

「今日の特訓は中止です!!」

 

「……はい?」

 

昼食を平らげた後に宛がわれた部屋で、簪と共に勉強している最中に飛び込んできた楯無に言われた一言。簪も寝耳に水の様で、ノートに数式を書き綴っている手が止まっている。宿題を進める手を一旦止めて、座ったまま楯無に向き直った。

 

「その心は?」

 

「やることが全部消えてしまいました!!」

 

楯無は後ろ手に持っていたスケジュール表を見せつける様にこちらに突き付けた後に、それを明後日の方向に投げ捨てる。部屋の隅でくしゃくしゃになったスケジュール表にちらりと目線を向ける。

 

「「……」」

 

「……あ、あれ、リアクション薄くない?もっとこう、何か反応してくれてもいいんじゃない?」

 

「いや、驚いてますよ。ただ、少しいきなり過ぎるだけで」

 

その言葉は真実だった。午前中に楯無相手に一本取ったとはいえ、あれは百何十回中のたったの一回だ。まだまだ楯無には適わないと確信しているし、自分自身訓練の量が足りないと感じてもいる。統夜の心を読んだのか、楯無はびしりと勢いよく統夜を指差して高らかに言い切った。

 

「それもこれも全て、統夜君のせいよ!!」

 

「お、俺ですか?」

 

「そうよ!原因は統夜君が頑張りすぎちゃったせいで、私の予定してたメニューを全部消化しちゃったからよ!」

 

「それ……単にお姉ちゃんの見通しが甘かったせいだと思う」

 

「はいそこ、黙らっしゃい!!と言う訳で、今日はもう自由行動とします!さあ統夜君、簪ちゃんを連れ歩いて何処へなりとも行きなさい!!夜の繁華街に消えていくのも良し、ロマンチックな夜景を見ながら過ごすのも良し!簪ちゃんを好きにしちゃっていいわよ!!」

 

「本人目の前にして言う事じゃないですよね、それ」

 

テンションの高い楯無とは対照的に、冷え切った目をする統夜と簪。その時、部屋の隅で充電していた統夜の携帯電話が震えた。簪と楯無に断りを入れてから、携帯を手にして部屋の外へと出ていく。

 

「もしもし」

 

『おお、統夜。今大丈夫か?』

 

「ああ、いいぞ。んで、何か用か?」

 

電話から聞こえてきたのは聞き慣れた一夏の声だった。ここ最近女性としか交流が無かったため新鮮な気持ちを感じながら、電話に応対する。

 

『えっと、統夜って今日の予定、空いてるか?』

 

「何だよいきなり。まあ、ついさっき空いたけど」

 

『そりゃ丁度良かった。この間家に来た時、夏休みの間はずっと家族の人と過ごしてるって言ってたよな?』

 

「ああ、そうだけど」

 

『それでさ、空いてるんだったら統夜の家族皆で、うちの近くでやってる夏祭りに来ないか?統夜の姉さん、外国に住んでたって言ってたからさ。そういうの新鮮で楽しいんじゃないかって思ってな』

 

「夏祭り?」

 

『箒の実家でやるんだけど結構規模も大きいから、楽しいんじゃないかと思って。さっき姉さんに話したら“カルヴィナが来るなら私も行く”とか言ってたから。どうだ?』

 

一瞬賛同しかけるが、今いる状況を思い出して言葉が止まる。行きたいのは山々ではあるが、姉もアル=ヴァンもいないこの場では色好い返事が返せなかった。

 

「あ~、悪い一夏。俺今、自分の家にいないんだ。ちょっと外に出ててるんだけどさ」

 

『ん?そうなのか』

 

「取り敢えず一旦切る。姉さんに電話してから返事するから、少し待っててくれ」

 

『おう、分かった』

 

通話を切って電話帳から姉の番号を呼び出すと、そのまま電話を掛ける。二度、三度どコールが続き十度目のコールが鳴った後、無感情な声が届いた。

 

『おかけになった電話は、電波の届かない所か、電源が──』

 

(珍しいな、姉さんが電話に出ないなんて)

 

僅かに疑問を感じた後、続けてアル=ヴァンへと電話を掛ける。しかし、帰ってきた声は先ほどと同じ不通を知らせる音声だった。多少落胆しながら一夏へと再度電話を繋ぐ。一つ目のコールが終わらないうちに繋がった相手へと、単刀直入に答えを告げた。

 

「悪い一夏。姉さんに連絡つかないんだ。俺も今外に出てるし、簡単に家に帰れる状態じゃないから悪いんだけど、その……」

 

『ああ、いいっていいって。気にすんなよ。俺もいきなり過ぎたとは思ってたからさ。また今度何かあったら電話するわ』

 

「ああ、本当に悪いな。折角誘ってくれたのに断っちまって」

 

『じゃあ、またな』

 

最後まで明るい声のまま、一夏が電話を切る。統夜は携帯電話をポケットに仕舞いながら、小さく息を吐く。

 

(少し行きたかったけど姉さんもアル=ヴァンさんもいないし、しょうがないよな)

 

「話は全て聞かせて貰ったわ!!」

 

ぴしゃりと鋭い音を立てて襖が開き、楯無が部屋から顔を覗かせる。その下には半分だけ顔を覗かせている簪も見える。

 

「今度は何ですか?」

 

「決めたわ。今日の予定は夏祭りに行く事!それも統夜君と簪ちゃんの二人きりで!!」

 

「は、はい!?」

 

「お、お姉ちゃん!?」

 

簪と統夜が揃って素っ頓狂な声を上げる。楯無は部屋の隅に放っていたスケジュール表を摘み上げる。そして統夜と簪が勉強していた机の上から太いマジックペンを取ると、今日のスケジュールの部分を塗り潰して、余白に“夏祭り!”と大きくしたためた。

 

「変更不可なので、統夜君と簪ちゃんはこの予定に従うように。以上!」

 

「お、横暴過ぎますよ!」

 

「教え子は師匠の命令に従うべし。それに統夜君だって、心の中じゃ行きたいと思ってるんじゃないの?」

 

「そ、それは……」

 

心の中を見透かされて、統夜の反論が止まる。楯無は簪の後ろに回り込んで両手を簪の首に回すと、妹の耳元で囁いた。

 

「簪ちゃんはどう?行きたくないのかしら?」

 

「わ、私は……」

 

「統夜君と二人きりで過ごす一夜……欲しくない?」

 

「統夜、私……少し行ってみたい」

 

人生経験豊富な姉には勝てず、あっさりと陥落した簪の口から本音が漏れる。

 

「ほらほら、簪ちゃんもこう言ってるんだから、連れてってあげるのが男の甲斐性って物じゃない?」

 

逃げ道を塞いだ楯無が悪魔の微笑みと共に統夜にはっきりと言葉を投げかける。何とも言えない微妙な表情をしていた統夜だったが、簪のか細い嘆願に心を動かされる。簪の真正面にどっかりと腰を下ろすと、諸手を上げて自分の意思を示した。

 

「あ~もう、分かったよ、分かりましたよ!大人しく簪と一緒に祭りに行ってきます!!」

 

「はい決まり!さぁて、そうと決まれば忙しいわよ!!」

 

楯無は簪から離れると、机の上に広がっていた教科書やノートを全て閉じて綺麗に片づけた。

 

「お母さ~ん!」

 

「呼んだかしら?」

 

「うわっ!?」

 

庭に面した入口が開き、部屋の中に楓が入ってくる。いきなり現れた彼女に驚きを禁じ得ない統夜を放って、楯無と楓が着々と予定を決めていく。

 

「簪ちゃんの浴衣って何処に仕舞ってあったっけ?」

 

「あらあら、もしかして二人でお祭りにでも行くの?」

 

「その通り!と言う訳で、急いで準備よ!!」

 

「委細承知!!」

 

楯無と楓が揃ってぐるりと首を回して簪をロックオンする。尋常ではない気配を感じた簪は思わず統夜の背中に隠れた。自分の後ろに隠れた簪を庇いながら、戸惑いがちに二人の前に立ちふさがる。

 

「な、何ですか二人とも?」

 

「ふっふっふ、さあ紫雲君。簪ちゃんを渡しなさい。悪い様にはしないから」

 

「大丈夫、統夜君には何もしないから。統夜君には、ね」

 

「二人ともそれ、完全に悪役の台詞ですよね!?」

 

じりじりと二人に詰め寄られ、統夜と簪は遂に壁際へと追いつめられてしまった。背中に簪を隠しながら最後の抵抗とばかりに統夜は徒手空拳のまま拳を作る。

 

「そ、それ以上近づいたら!」

 

「あらあら統夜君、私に勝てると思っているのかしら?」

 

「それでも、簪を守る為なら……」

 

「……ねえ紫雲君、簪ちゃんの浴衣姿見たくないかしら?」

 

「ゆ、浴衣姿?」

 

思わず背後にいる簪に顔を向けて考える。統夜の服の裾を握りしめて見上げる簪と、前にいる楯無達を交互に注視する。簪は楓の“浴衣姿”という言葉に少し心を動かされた様で、統夜の背中から顔を覗かせるが、二人の放つ気配に押されて再度引っ込んでしまう。

 

「簪ちゃんを渡してくれたら、見させてあげられるんだけどな~。」

 

「で、でも──」

 

簪を守るべく反論を重ねようとしたその時、統夜の右手が優しく握られた。振り返ってみれば、簪が小さな手で弱々しく統夜の手を握っている。

 

「統夜、私、行ってみたいから……浴衣、着る」

 

「ほ、本当にいいのか。準備するのがあんなのだぞ?」

 

「す、少し怖いけど……我慢する」

 

「「はい決定!!」」

 

楯無と楓が揃って声を上げると統夜が遮る暇も無く背後にいた簪を掻っ攫った。楯無と楓、それぞれが簪の両脇を掴んで部屋の外に連行していく。

 

「あ、あの──」

 

「今から統夜君は別行動って事で。簪ちゃんと次に会うのは夏祭りの場所って事で」

 

楯無はそれだけ言い残すと、統夜を置いて部屋から出て行ってしまった。一人になった部屋の中で小さくため息をついた後、ポケットから携帯電話を取り出して電話を掛ける。

 

「……ああ一夏、俺だ。さっきの夏祭りだけどな──」

 

 


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