IS インフィニット・ストラトス ~クロガネを宿し者~ 作:Granteed
「次、ターゲットを十個にして同時発射」
「了解……」
早朝のアリーナに男女の声が響く。少年の手に握られている機械には所狭しと数字が踊り、少女の両肩には巨大なミサイルポッドが鎮座している。少女は十数メートル先に展開されたターゲットを睨みつけながら、頭の中で幾つもの処理を同時並行で行うと口を開いた。
「……発射!」
瞬間、ミサイルポッドが開いて次々にミサイルが飛び出していく。弾頭が活性化されていないミサイル群は真正面に浮かんでいるターゲットに激突を続けた。1、2と少年の手に握られたカウンターが数を増していく。そして9を数えて最後のミサイルが残されたターゲットに向かう。
「……あ」
少女の抜けた声が小さく溢れる。最後のミサイルは標的を少し外れて後ろの方に飛んでいってしまった。目標を失ったミサイルはそのまま飛び続け、丁度ミサイルの後ろ数十メートル先にいたISに向かって飛ぶ。
「うおっ!?」
寸での所で白いISがミサイルに気づいて回避する。向かう先を失ったミサイルはそのまま勢いを無くして地面に衝突、地面に長い跡を残してようやく止まった。
「ちょっと二人ともー!気をつけなさいよねー!!」
「悪い鈴!」
「……」
「取り敢えず今日はこれで終わりだ。お疲れさん、簪」
「うん……」
空色のISを解除して、少女が土を踏む。少年は手に持った機械で太陽の光を遮りながら、空を見上げた。
「明日から、夏休みだな」
前学期の最終日、早朝にも関わらず統夜と一夏はIS学園のアリーナで特訓を行っていた。あの臨海学校で感じた事、それはまだまだ自分達は弱いという純然たる事実。それを克服するため、男二人は日夜特訓に励んでいたのである。最もその内容は一夏がISの特訓、統夜は生身での戦闘と方向性は全く違っていたが。
「ふぅ、やっと今日で授業も終わりか」
「明日から夏休みだもんな。なあ統夜、何か予定とか立ててんのか?」
ISスーツを脱ぎながら、一夏が隣でジャージを脱ぎ捨てている統夜に問いかける。二人だけの更衣室は何処か味気ないものの誰に気を使うこともないため、男二人で気兼ねなく話せる数少ない場所だった。
「正直、何にもないんだ。ここに来るのもいきなりだったしな。ここで生活するだけで手一杯だったから予定なんて無いさ」
「だったらさ、俺ん家来ないか?予定聞いたら、千冬姉もあんまり帰って来ないみたいでさ。暇なんだよ」
「ああ、いいぜ。一夏の家って何処なんだ?」
「後でメール送っとく……やべっ、もうこんな時間だ」
壁に掛けてある時計に目を向けると、既に時刻は七時半を回っていた。授業には十分間に合うのだが、これ以上もたもたしていると朝食が食べられなくなる恐れがある。二人は急いで制服に着替えると、荷物を担いで更衣室を出た。
「あれ?誰もいないぞ」
「もう全員食堂に行ってるってさ。俺たちも早く行こうぜ」
手に持った携帯電話に映し出されているメールの文面を読みながら、統夜が一夏を促す。アリーナを出て、寮に続く並木道を二人でひた走る。朝の風は少し火照った肌を冷やし、心地よい清涼感を与えてくれた。寮の玄関に飛び込んで靴を履き替えると、一直線に食堂へと向かう。
「さて、簪達は……」
「二人とも!こっちこっちー!!」
食堂の端の席に左右に降られている小さな手が二人の視界に映り込む。それを確認した後、統夜は券売機を睨みつけた。
「一夏、朝飯何にする?」
「あー、面倒いから統夜と同じやつで」
「了解。先に席取っといてくれ」
券売機の中から“朝食 和”と書かれたボタンを連続で押す。吐き出された二枚の食券を取って、統夜は奥の方に声をかけた。
「すみません、お願いします」
「おお、紫雲君。今日も大盛りにしとくかい?サービスするよ」
「二人分なんですけど、いいですか?」
「オッケーオッケー、むしろ男の子なんだからたくさん食べなきゃ」
「じゃあ、二人分お願いします」
食券をカウンター越しに手渡す。程なくして、統夜の目の前にトレーに乗った朝食が二つ置かれた。感謝の言葉を述べながら、統夜は二つの朝食をそれぞれ片手で持つと、先程手が振られていた場所へと向かう。
「ほら一夏、お前の分」
「お、サンキュな統夜」
「あれ?一夏達のご飯の量、多くない?」
四人がけの席に座っているのは鈴、シャルロット、ラウラ、簪の四人だった。隣から二人がけのテーブルを持ってきたのか、一夏がその隣に座っている。朝食を手渡した統夜は、一夏の対面に座り込んだ。
「ああ、食堂の人がサービスしてくれたんだ。いただきます」
一礼して、目の前の食事に手をつける。温かい味噌汁は朝から動いて疲弊している体に良く染みた。そのまま焼き鮭とご飯をぱくついていると、斜め横に座っているラウラがパンを食べながら統夜を見つめる。
「ボーデヴィッヒさん、どうかした?」
「紫雲、いきなりで悪いが貴様は何か格闘技でも習っていたのか?」
「……ああ、朝の組手の事?」
つい数時間前の様子を思い起こす。簪のISの武装試験をする前に、ラウラに頼み込んで格闘の訓練をしてもらったのだ。恐らくその内容の事を言っているのだろうと当たりをつけた統夜は箸を一旦置いて、脇に置いてあった水を一息に飲み干した。
「まあ、習っていたことに……なるのかな?」
「随分歯切れが悪いな。何か事情でもあるのか?」
「ああ、事情とかそういうのじゃないんだ。ただ、何分正式に習っていたわけじゃないから、そう言っていいのか分からなくて」
「え?統夜って誰かに格闘技習ってたの?」
ラウラとの会話にシャルロットが食いついてくる。統夜は口の中を空にして、目の前の鮭の骨を取りながら話を続けた。
「小学生の頃からかな。姉さんに頼んで稽古を付けてもらってたんだ。一応、
「では一つ言い当ててやろう。その姉は軍に属していたな?」
「あ、ああ。その通りだけど……」
「ラウラ、アンタ凄いじゃない。何で分かるのよ?」
鈴の賞賛の言葉に、トーストを齧りながら胸を張るラウラ。コップに入れてあった牛乳を飲み干すと、残っていたスクランブルエッグを口に運んだ。
「んぐ……紫雲の動きには統一感があったからな。動きに軍の格闘技に近いものを感じただけだ。それに、攻撃の方はおざなりだったが防御の技術の方は妙に洗練されていた。誰かに教えを請うてなければ出来ない体の使い方だったからな」
「本当に凄いな……」
「統夜、そのお姉さんって軍人だったの?」
「ああ。前は軍人、元世界最強。それで現在は会社勤めのOL」
「世界最強……?」
「アンタ何馬鹿な事言ってんのよ。その称号って──」
「紫雲、嘘を付くな」
先程とは打って変わった調子でラウラが言葉を投げつける。和気あいあいとしていた朝食の場において、ラウラの言葉は氷の様だった。
「その称号は教官の物だ。この世界に置いて教官以外の誰も、その称号を持たない」
「いや、前に姉さんが自分の事をそう言ってただけなんだけど……」
「まあまあラウラ、落ち着いて。統夜、お姉さんの名前って何ていうの?」
場を取りなしたシャルロットが苦笑いを浮かべながら問いかける。ラウラは不満げな表情を浮かべながら、統夜の言葉を待っていた。
「カルヴィナだけど」
「カルヴィナ?……まさかね」
自分の考えを否定するかの様に、鈴が頭を振る。事情を知っている簪と一夏以外の三人はその名前を聞いて思い思いの反応を見せていた。シャルロットはその名前を頭の中で探っているのか、視線を明後日の方向に向けている。ラウラも顎に手を当てて、考え込む素振りを見せた。
「なあ統夜。もしかして鈴達、お前の姉さんの事知らないんじゃねえか?」
「あれ?そういや言ってなかったけ」
「この反応は……知らないと思う」
サラダを咀嚼しながら、統夜の横に座っている簪が小さく漏らす。三人とも頭を捻ってはいるが、どうやら答えにはたどり着けないようだ。
「……“ホワイト・リンクス”」
簪がぽつりと単語を漏らす。一般人なら知らない人間はいない、それこそ“ブリュンヒルデ”と同じくらいの知名度を誇っているその単語を耳にしたラウラ達三人は一様に固まってしまった。
「更識……今なんと言った?」
「
「……確認しとくわよ統夜。ま、まさかアンタのお姉さんのフルネーム、カルヴィナ・クーランジュじゃないでしょうね?」
「良く分かるな、鈴。それで合ってるよ」
「う、そ……」
シャルロットが握っていたフォークを取り落とす。フォークが食器に当たって発生した澄んだ音は、静まり返った空間によく響いた。数秒間の間、誰も言葉を発さず、身じろぎ一つしない。そんな中、三人の反応を見た一夏が間の抜けた声を出す。
「あれ……何で皆固まってんだ?」
「……は、はあああっ!?」
鈴が机に両手を突いて身を乗り出す。眼前に迫ってきた鈴と距離を取りながら、統夜は味噌汁を胃に流し込んだ。
「何だよ、何でそんな驚いてんだ?」
「あ、アンタ本気で言ってんの!?」
「本気も何も、ただの事実なんだけど」
「統夜……証拠、見せて上げれば?」
「証拠、ねえ……」
統夜は味噌汁の器をトレーに置くと、ポケットの中をまさぐって携帯電話を取り出した。画像フォルダを開くと、目でいくつもの写真を追いながら目的の物を探す。
「……これならどうだ?」
統夜が片手に握った携帯電話を見やすいように、一同に向かって突きつける。事情を知っている一夏と簪以外の三人の視線は携帯電話に映っている写真に釘付けとなった。
「去年、姉さんと遊びに行った時に撮ったやつだけど……気になることでもあるのか?」
「で、でも統夜の苗字は紫雲で、そのカルヴィナさんはクーランジュだよね?」
「あー……その辺はちょっとな。血は繋がってないけど、俺と姉さんは家族だよ」
「……ラウラ、お前大丈夫か?」
統夜の言葉を聞いてから、ラウラは完全に固まってしまっていた。顔は青ざめ、瞳はぎこちなく揺れ動き、唇は戦慄いている。眼帯で隠されていない露出している瞳には涙が滲んでいた。
「ボーデヴィッヒさん?どうかした──」
「た、頼む紫雲!」
身を乗り出して、統夜の目の前で両手を合わせるラウラ。ラウラが近づいた分距離を取りながら、統夜は目の前の少女のいきなりの行動に困惑するばかりだった。周囲の一同もラウラのいきなりの行動にぽかんと口を開けて驚いている。
「今の言葉はクーランジュ教官には絶対に言わないでくれ!」
「く、クーランジュ教官?」
「先の言葉は謝罪する、というか紫雲を全面的に支持する!だ、だからクーランジュ教官には言わないでくれ、後生の頼みだ!!」
腕を更に伸ばして統夜の両肩を掴んでぶんぶんと揺するラウラの表情は真剣そのものだった。あまりの勢いに押されて、統夜が承諾しようとなんとか口を開く。
「わ、分かった、分かったから!!」
「ほ、本当か!?本当の本当に本当なのだな!?」
「分かった!!今の言葉は姉さんには言わないって!!」
「ほらラウラ。どうどう」
鈴がラウラの両手を統夜から引き剥がして、席に座らせる。乱れた服装を直しながら、統夜も席に着くと残った朝食を片付け始めた。すると同じタイミングで、食堂に電子音のチャイムが響く。
「おお、もうこんな時間か」
「さっさと食べないと、また織斑先生の雷が落ちるな」
目の前の一夏を筆頭に、周囲の四人も急いで残りの朝食を口に放り込んでいく。こうして慌ただしい中、最後の授業を告げる希望の鐘の第一声は鳴り響いた。
「それでは、最後に纏めておく」
教壇で片手に紙の束を持った千冬が声を轟かせる。教室にいる生徒全員は、配られた書類に目を釘付けながら千冬のありがたいお言葉を待った。
「一つ、人様に迷惑をかけるな。二つ、休み中もIS学園の生徒という自覚を失うな。三つ、面倒を起こすな。以上だ」
「……あ、あの、織斑先生。それだけですか?」
教壇の横で、真耶が躊躇いがちに問いかける。
「私からは以上です。山田先生、後はお願いします」
言うが早いか、千冬は持っていた紙を真耶に押し付けてさっさと出て行ってしまった。紙を受け取った真耶は恐る恐ると言った様子で教壇へと立つ。教室にいる生徒全員へと目を走らせた後、真耶は持った紙で顔を隠すようにしてから書類を読み上げた。
「ええっと、明日から夏休みが始まります。皆さんも久しぶりにお家に帰ったり、十分に羽を休めてきてください」
「まやまやはどーすんの?」
千冬がいなくなった事で一気に弛緩した空気の中、生徒の一人から疑問の声が上がる。周囲の生徒が徐々にざわざわと声を交わす中、真耶は教壇に両手を突いて顔を俯かせながら返答を返した。
「先生はIS学園で仕事です。うう、今年こそゆっくり出来ると思ったのに……」
悲壮感たっぷりの声を響かせながら、真耶が黙り込んでしまう。何か悪い物にでも触れてしまったのか、と察知した生徒はしきりに先を促し始めた。生徒の声に導かれて、真耶は再び顔を上げる。
「と、とにかく先程織斑先生が言った通り、皆さんも夏休み中はくれぐれも問題を起こすことの無いように。それではまた、一ヶ月後にお会いしましょう」
「「「はーい!!」」」
女子特有のテンションの高い叫び声が教室を埋め尽くす。まるで押し込められていた感情が爆発するかの様に急に騒がしくなった教室内で、統夜は自分の机の中から勉強道具を取り出し始めた。
「おーい統夜、この後少し時間あるか?」
「ああ。後は部屋に戻って荷物を取った後、帰るだけだからな。何かあるのか?」
前方から近づいてきた一夏に返事をしながら、教科書やらノートやらがぎゅうぎゅうに詰まった鞄を持ち上げる。席を立って二人揃って教室を出ると、既に他の生徒達で溢れかえっていた。
「ちょっと皆で写真取らないか?」
「写真?」
「一学期も今日で終わるからな。節目っていうか一つの区切りっていうか、そんな感じで。どうだ?」
「大丈夫だ。他に来る奴は?」
「ああ、箒とか鈴にはもう言ってある」
昇降口で靴を履き替えて、二人揃って寮への道を登っていく。もう何度往復したか分からないこの道も、しばらくお別れだと思うと感慨深い何かが込み上げてくる。
「じゃあ俺も連れてっていいか?」
「誰を?」
「簪。お前も知ってるし、仲間外れにはしたくないしな」
寮の玄関をくぐり抜けて、毛深い絨毯の上を歩いていく。人三人以上が並んで通れる広い廊下も、今日ばかりは帰省する生徒が多すぎて渋滞状態となっている。
「ああ、全然いいぜ。準備出来たら校門の所で待っててくれ」
「了解。じゃ、また後でな」
自室のドアを開けると、熱気を孕んだ空気に出迎えられる。鞄を自分のベッドに放り投げると、統夜はベランダに出て外を眺めた。
「……色んな事が、あったよな」
米粒程の大きさの生徒達がわらわらと出てくる校舎を見つめる。四月に入学した時には、自分がこんな感情を抱いているなんて思いもしなかっただろう。しかしそんな甘い考えは、同じ男子生徒と会ったあの時から融け始めていたのかもしれない。
「何か、ここで初めてラインバレルになったのが遠い昔みたいだな」
ドーム状のアリーナを見つめながら、過去を振り返る。五月、初めてこの学園でラインバレルになったあの時から、自分の中にある運命の歯車は回り始めた。今のひと時をこんな穏やかな気持ちで過ごせるのも、過去の積み重ねがあったからにほかならない。
「……後悔しない、絶対に」
六月には、初めて自分の秘密を他者に明かした。あの時の決意は二度と忘れないし、自分の心に一生残る物だろうと確信している。何より、大切な物が出来た時でもあった。体を動かして、空に浮かんでいる太陽を眺める。空に浮かぶ太陽は、少し手を伸ばせばすぐに掴めそうだった。軽い気持ちで右手を空に伸ばして、太陽を掌で包み込む。
「どこまでもやってやるさ……それが、俺の決めた──」
「統夜」
「うわっ!?」
傍からかけられた声に驚いて、思わずたたらを踏んでしまう。手すりを掴んで体勢を整えると、すぐ目の前にいたのは青髪の美少女だった。
「何……やってるの?」
「ああ、ここに来た時の事思い出してたんだ。ここに来てもう三ヶ月近くも経つんだなって思ってさ」
簪の脇を通り抜けて、自分のベッドにダイブする。スプリングが軋む音も、このベッドの柔らかさも、いつの間にか体に馴染んでしまっていた。簪も腰掛けながら、愛おしい様に自分のベッドを撫でる。
「夢、みたい……」
「夢?」
「私も……ここに来る時には、こんな風になると思っていなかった」
脱力しながら、簪も統夜と同じ様にベッドに体を横たえる。ぽふんと小さい音を立てながら、ベッドは簪の小さい体を受け止めた。
「弐式を完成させて、お姉ちゃんと仲直りして……こんな生活が夢みたい」
「夢なもんか。俺はここにいて、簪もここにいる。それが現実だろ?」
「うん……そう、そうだよね」
「そう。卒業まで続く、俺たちの現実だ」
「……教えて欲しい事がある」
何かを思い出したかのように急に体を起こした簪は、部屋の端に置いていた自分の鞄の中身を漁り始めた。やがて、そこそこ分厚い本の様な物を取り出すと一番後ろのページを引きちぎって統夜に差し出す。
「何だこれ?」
「そ、その……統夜の家の住所、教えて欲しい……」
「俺の家の住所?」
意味が分からず、反射的にオウム返しで返してしまう。簪は本を持った手を後ろ手にしながら、顔を赤らめた。
「お中元とか……暑中見舞いとか、贈るかもしれないから……あくまで、念のため」
「まあ、別にいいけど」
ベッドの上の鞄に手を伸ばして、筆箱からボールペンを取り出す。脇にあったサイドボードの上で住所を書いたあと、簪に紙切れを返した。
「はい。俺の家の住所」
「あ、ありがとう……」
簪は紙を四つ折りにして大事そうに本に挟むと、鞄の中に戻す。統夜はベッドに寝転がりながら何の気なしに外へと意識を向けてみると、先程より人の声が減っていた。
「さて、そろそろ行くかな」
体を起き上がらせて、ベッドの上の鞄と脇に置いてあった大きめのボストンバッグを持ち上げる。簪も統夜に習うように、自分の荷物を手に取った。二人揃って部屋の中を見渡して、忘れ物が無いかどうかチェックした後、部屋の外に出る。
「これで戸締り完了っと」
ポケットから取り出した鍵で、部屋を施錠する。ガチャリと音を立てて回った錠を確認すると、二人で人気の少なくなった廊下を歩く。
「あ、そう言えば簪、まだ時間あるか?」
「あるけど、何……?」
「写真取らないか?一夏が誘ってくれてさ。簪の事聞いたら連れてきてもいいって言ってたから」
「……うん。もしよかったら、行きたい」
「大丈夫だろ。すみません、お願いします」
寮の窓口の所で鍵を預ける。開け放たれた玄関口から見える空は、正に夏にぴったりな快晴だった。外履きに履き替えてから、寮を出ると歓迎とばかりにきつい日差しが二人に降り注ぐ。寮の前の坂道を降りた先に見えた校門の所で、数人が塊になっていた。半ば駆け足になりながら、統夜が声を張り上げる。
「おーい、一夏!」
「統夜ー!早く来いよー!!」
「ああ!今行くー!!」
校門の所で声を張り上げている友人の姿を見て、足が更に早まる。しかし、背中越しに聞こえてくる声によって統夜の足が止まった。
「と、統夜、ちょっと速い……」
肩で息をしながら、簪が何とか統夜についていこうと駆ける。いつの間にか高揚していた気分の中、統夜のその行動は極々自然に行われた。
「ほいっと」
「あっ……」
簪の肩に背負われていた大きめの旅行かばんと、手に持っていた鞄を半ば無理やり受け取る。肩に担いでいた自分のボストンバックと鞄を右手に持ち替えた後、簪の分の荷物も右手で握るとそのまま肩で担ぐように背負った。
「行こう、簪」
簪は目の前に差し伸べられた手と、統夜の顔を交互に見つめる。そして臆することなく、無言のまま簪は統夜の手を取った。
「……」
簪は無言を貫いていたが、決して何も思っていたわけではなかった。その顔は嬉しさの余り満面の笑みを浮かべ、統夜の速度に合わせて簪の足も早まっていく。まるで二人三脚の様に揃って走るその姿は、入学当初に初めて出会った時からは考えられない物だった。
「悪い一夏!遅くなった!!」
「ご、ごめん、なさい……」
「いいからいいから!早く並んでくれ!!」
荷物を地面に投げ出して、簪と統夜が手を握ったまま集団の和に加わる。目の前に置かれたカメラに移ろうと、彼女らは必死になっていた。
「箒!もうちょっと横に!!」
「これでいいか?」
「今度はシャルロット、もうちょいしゃがんでくれ!!」
「わ、分かった」
「一夏、まだなの?」
「あと少し……よし、OK!!取るぞー!!」
一夏が三脚に乗せられたカメラから離れて、集団に加わる。統夜の横に来た一夏は片手を伸ばして、男同士で肩を組んだ。統夜も、横にいる友人に笑顔を返しながらカメラの方向に視線を向ける。
「ちょっと鈴さん!もう少しそちらに寄ってください!」
「うっさいわね!あんたこそ私より背高いんだから座りなさいよ!!」
「よし、それでは私は嫁の横に──」
「行かせないわよ!」「行かせませんわ!」
ぎゃあぎゃあと背後から降りかかってくる音が心地よいのは、気のせいではないだろう。こんな日常が、たった一日が、少しの時間が。自分にとって守るべき対象なのだから。
「一夏……」
「ん?何だ統夜?」
「やっぱいいもんだな……こういうのって」
「ああ、当たり前だろ!」
肩に回された手に、更なる力が加わる。お返しとばかりに統夜も空いている左腕を、一夏の肩に回した。
「おーい、そろそろだぞ!!」
一夏の言葉に反応する様にタイマーのかかっているカメラの点滅する間隔が、徐々に短くなっていく。点滅する間隔が狭まり、とうとう連続的に点滅を繰り返して光り続ける様に見えたその瞬間、八人の内の誰かが叫んだ。
「いちたすいちはー?」
全員の息を吸う音が揃う。計ったわけでもないのに、事前に打ち合わせしたわけでもないのに、勝手に揃ったその音の後に再び、青空に響く大声が巻き起こる。
「「「「「「「に―!!」」」」」」」
たった一度の高校一年生の夏が今、始まる。