「キヒ……ヒ、ヒヒヒ…………」
ふらふら、ふらふら、と。
瞳孔が開き切った赤い瞳を震わて、一歩一歩とフウコは、倒れているサスケとナルトへと近付いた。
「私は……守ったんだ…………皆を。だから、こんなの……こんな、幻術………不愉快だ」
苛立ちと共に視界が立ち眩みを起こしたように光の明滅を捉えた。込み上げてくる吐き気を匂わせる息には、きっと胃液だけしか混じっていない。力なく揺れる指先が、着物の帯で備えられた黒刀に伸びる。
まるで、心と身体が乖離しているようだった。
幻術だと
倒れる二人の前に立つ。
視覚が、はっきりと見下ろした。
嗅覚が、二人の匂いを感じ取る。
それでも、もう、彼女の壊れた心は呟いてしまう。
ココニフタリガイルハズガナイ。
刀をゆるりと抜き、宣戦布告するように切っ先を空へ向けた。黒刀は光に白く照らされる。だが、対してフウコの顔は影に染まる。赤い瞳は裏返らんばかりに上を向き、拒絶反応を続けたが、やがて、カクカクとした眼球運動がサスケを捉えた。
もう、止まらない。
止められない。理性は既に、溶かされ溶けて……過ちを──。
「まずは………キヒヒヒ、コイツから──っ!?」
超えてはならない過ちを止めたのは、タイミングだけを見れば奇跡的なものだった。
フウコの眼前をクナイが鋭く通り過ぎた。ピタリと、刀を静止する。
「あ……?」
苛立ちが、気狂いの笑みにヒビを入れた。
クナイは左から。そして、上方から下方にかけて投げられていた。斜めの形で地面に刺さったクナイとは反対方向を睨みつけた。四方が森に囲まれた土地だ。フウコが睨む先は当然ながら深い森が広がっている。太陽の光を浴びて、そして遮る暗闇の中。
そこに、一つの人影が、木の幹に佇んでいた。
影。そう呼ぶしか出来ない。
頭の天辺から爪先まで、フード付きの黒いコートがのっぺら坊のようにそこにいた。両手さえも、長い袖に隠れてしまい素肌は何も見えない。顔ですら、目深く被るフードと影のせいで伺えない。
「誰? ……お前」
悪意の黒に晒され続け。
毒と薬の鈍色に溶かされ続け。
空と海の違いも分からない、水平線さえも見当たらない、隔たりの無い世界だけしか見て取れないフウコであっても、不思議な事に、目の前に現れた黒いコートだけには、彼女自身の僅かに残った意識が嫌悪を示した。
振り上げて、幻術と定めた愛する弟への凶刃を完全に静止させて、カクリと、下手くそな案山子人形のように首を傾けた。
「お前、何?」
黒いコートは答えない。滝の音が、やけに五月蝿い。ざわざわと、首の裏が痒い。フードを目深く被っているせいで、顔は見えない。両手もグローブで隠れている。分かるのは、高くない身長と細い体くらい。
なのに、どうしてだろうと、ぼんやり思う。
もうこれ以上、ソレとは相対してはいけない。会話をしてはいけない。目を合わせてはいけない。頭の中で、何かが叫んでいる。絶叫している。
けれど、フウコの脳は殆ど、サソリの薬で緩んでいた。緩慢な口調で言った。
「どうせ幻術だろうけど、後で殺してあげるから、あっちに行ってて」
どこか整合性を欠いた言葉に、黒いコートは一歩、こちらに近付いてきた。短い動作。だけど、その動作には未熟な、あるいは無防備な震えがあった。指先が震えている。
殺そうと思えば、すぐにでも殺せる。間違いない。その確信があっても、振り上げた刀を向ける事が出来ない。
どうして?
どうして?
分からない。
どうして。
どうして。
幻術を消そうとして阻まれているから?
違う、違う。
何か、目に見えない壁が、そこにあるように思える。とても分厚い壁だ。窓ガラスのようにも、単なる距離のようにも、
いや、でも。
そんな壁は、いとも容易く壊せるはずだ。でも、その壁は、壊してはいけない壁なのだ。
大切にしてきた壁なのだ。大切な大切な全てをかなぐり捨てて積み上げた、壁なんだ。
だけど。
どうして。
どうして。
「どうして?」
と。
強固に積み上げたはずの壁は。
たった今、ヒビが入った。
震えたその声を出したのは、黒いコートの方だった。今にも泣き出しそうな、弱虫の声色なのに。いとも容易く入れられた亀裂はそのまま、フウコの恐怖心を突いた。
「ねえ……どうして?」
と、黒いコートは続ける。
「どうして、ここにいるの? こんな……こんな、簡単に…………会えるなんて……ふざけないでよ………………どうして…………」
震え涙の湿り気を感じさせていた声は、徐々に怒りを滲ませ始めるのを、フウコは恐怖した。
その声は、捨てた過去だからだ。
自分は過去に敗北した。いつだって、敗北は過去が連れてくる。
幻術だ、とフウコは逃げるように足元で気絶するサスケとナルトを見下ろした。
そうだ、そうだ。ああ、そうだ。
サスケとナルトは、木ノ葉隠れの里にいるんだ。二人の事は、ダンゾウに頼んでいる。たった二人でここにいるわけがない。やはり、ここは幻術の中なんだ。
だから──だから、こんな、懐かしくて甘い、綺麗な声を出す人間がいる訳がない。
幻術だと決めつけようとしたフウコの揺らぎを察してか、黒いコートは叫びながら俊足で地面を走り向かってきた。
「こんな近くにいるなら、連絡くらい寄越してよッ!」
まるで寂しがり屋が語る日常会話。そんな黒いコートが地面を蹴る度に高い土煙を生み出し、コートの裾を細かく靡かせて近付いてきた。右手の裾から刃が見え始める。
刃は日差しを怪しく反射させながら、フウコの首元を狙い突いた。
「五月蝿い。邪魔するなッ!」
振り上げていた黒刀を振るい刃を弾き、腹部を蹴り上げる。鈍い音と感触が足先に伝わり、小さな呻き声を出して軽く宙に浮く黒いコート。その際、距離が近付き過ぎたせいで、匂いがより鮮明に鼻をくすぐってきたのだ。
懐かしい匂いがする。
葉っぱの匂い。
僅かに血の匂いがするが、どうしても、懐かしい匂いに、過去の情景が思い出される。壊され、溶かされた脳が震える。
夕暮れの、冷たくなり始めた空気が。オレンジと紫と浅い青が広がる穏やかな空の下で、クナイを投げる子供たちが。
コン、コン、と。
情けなく丸太から弾かれるクナイを見て、口元をへの字にする友達の──。
「う、うぁ……あぁぁぁぁああああああッ!」
幻術だ。
これは、幻術なんだ。
幻術じゃなきゃ。
自分は──また、負けたって事に…………。
「フウコちゃ──」
「喋るなァああああああああッ」
黒いコートの胸倉を掴み、半狂乱に投げ飛ばした。その際の腕力は、掴んだ握力を支える左の二の腕から肩にかけての筋肉が膨張の果てに裏返り、あるいは千切れるほど。ブチブチと音をたてて振り抜かれた腕から放たれた黒いコートは、投擲槍のように離れた木に叩きつけられる。
もう、フウコには足元のサスケとナルトは見えてはいない。
50メートルは軽く超えた黒いコートとの距離を一心不乱に駆ける。一秒も時間は満たしていないだろう。叩きつけられた黒いコートが地面にすら落ちていない速度だった。
黒刀の切っ先を、勢いそのままに……黒いコートの腹部へと深々と突き刺した。
肉を割く感触。弾力のある内臓がプルプルと震える感触。それらの感触が、夜を思い出させた。苦しくても、泣きたくても、我慢し続けた、最悪の夜の一つ。
違いがあるとすれば、そう、刀が途中で骨を砕いた感触があったくらい。腹部の奥に眠る脊髄の端を砕いたのだろうか。だらりと、黒いコートの下半身が力を無くす。それでも、腹を貫き後方の木をも貫いた黒刀のせいで倒れる事が出来ないまま、黒いコートは激痛に肩を痙攣させている。
そしてあろうことか、みっともなく右手を伸ばしてきた。距離はあるのに、空を指が虚しく掻き分ける。
こちらを追い求めるように。
「フウコちゃん。私だよ? イロリだよ?」
名乗って見せられる。
名前を呼ばれる。
まるで囲炉裏のような暖かさで。
だけど背筋が凍る。
それは、フウコだけじゃない。
中にいる
これは幻術だと、フウコは呻き声をあげながらストレスで自分のこめかみを掻きむしってしまう。
友達を傷つけたと、中の
視界が、黒いコートを中心に歪みを伴って虚実を生み出そうとした。
『すぐに、すぐに助けるからねッ! だから、頑張っでぇ!』
予想外の登場に、慌ててチャクラをフウコに送り込もうとする。兎に角、フウコが恐れている何か──そうだ、うちは一族を滅ぼした夜の再現を──……だが、フウコの感情はチャクラでコントロールできるほど、生易しいものではなかったのだ。
敗北。
それが、フウコの感情の全てを押し潰した。
負けた。
負けた。
負けた。
自分の持てるモノを全て投げ売って手に入れてしまった覆しようの無い敗北。
仮面の男に負け。心臓に呪印を打ち付けられ。もはや逆転の目を潰され、日に日に自分自身が内側の幻術から壊されていく焦燥に駆られながらもサソリと同盟を結び、自分が消えても過去を排する事を目指し続けた。
計画の果ては……大切な人たちの幸福。
木ノ葉隠れの里の中にいる人たちの幸せだ。
その幸せが、崩れた。フウコはそれを直感する。
こちらを安心させるように呟いた、イロミの声色が全てを物語っていた。大切にしていた自分だけの呼び名も添えて。
イロミは、まだ──友達だと思ってくれている。
全てを投げ出したのに、友達が手を差し伸べてくれる感動が……フウコの気を狂わせる。安全な場所に置いて
ふざけるな、と。
──違う…………違う違う違う違う違う。これは……イロリちゃんが、私のことを、追いかけてくるなんて、ありえなぃいいいいい。
眼球が
気が付けば、イロミの眼前に立ち、両手を伸ばしていた。柔らかく、細い首に手を這わせ、指で首後ろの猫毛のような髪を掴みながら──締めていていた。
「ぅぁ……あっ、…フウ…………コ…………ちゃ………ん……………?」
指先が深く皮膚に押し込まれていく。
柔らかい。温かい。
手のひらに脈が伝わってくる。圧力を加え続ける指を、イロミは自身の指を絡ませようと爪を立ててくる。引掻かれる痛み。不規則に溢れるイロミの息の匂い。
どれもが、否応なしに、押し潰さんと、現実だと伝えてくる。
──違う。違う。これは、幻術。最低最悪の……。
それをフウコは、否定する。
そして、中の人物もまた、現実から遠ざけようとしていた。涙をボロボロと零しながら、イカれにイカれたフウコを幻術に落として操作しようとした。
『ちぐじょうッ! よぐも……イロミぢゃんをッ!』
大切な友達を殺そうとするフウコへの激情が、大切な友達が殺されようとする悲劇が。
「────あ………」
屍を蘇らせた。
「あ、あぁぁ……………あっ」
視界が、うちは一族の屍に覆い尽くされた。
首が半分に裂けた女性たちが。
血に塗れた子供たちが。
クチャクチャと崩れた歯と歯茎を咀嚼する老人たちが。
フウコの腕に、首に、胸に、足に、鼻に、耳に、髪の隙間に、手を、舌を、腕を、体を。
寄せ、伸ばし、這わせ、入れ、蠢く。
「ひっ」
よくも、と女性たちが言う。
「わ、私は……」
よくもよくも、と男性が叫ぶ。
「だって………お前たちが…………」
酷い、と子供たちが足元に絡みつく。
「だって、だってッ!」
失せろと、死ねと、老人たちが祟ってくる。
「あ…………あぁぁぁああ………」
『キャハハハッ! 逃げろよッ! 離れろよッ! 私の友達からッ! 全部捨てたんだよね?! だったらみっともなく馬鹿みたいに尻尾巻けよッ!』
心が爆発の兆候を見せる。
恐怖に弾け飛びそうになる。
イロミの幻術を破壊してやろうという怒りに暴発しそうになる。
混濁する感情は、内側の少女の悪意を押しのけながらも侵食された。
結果。
視界が明滅する。
イロミの顔と、屍たちが交互に移り変わっていく。
徐々に、徐々に、けれど加速していく視界の変化。
まるで虫が飛び立とうとする瞬間のような速度だ。ゆっくりと見えていたはずの二つの視界は、やがて重なり、唯の光のようになって、感情を──弾けさせた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁああああああああああッ!」
爆発したエネルギーは両手に全て押し込まれた。
「──ッ?! フウ…………ゴ……? ぢゃ…………」
イロミの口が開ききり、口端から涎が溢れた。小さな舌が空気を絡め取るように伸び切って右へ左へ。その姿はもう……フウコには届かない。
「消えろッ! 消えろッ! もう、消えろよッ!」
指がめり込んでいく。イロミの顔は滞る血液に赤く染まり、紫へと変色し始めた。下唇から顎にかけては、泡になった涎が光を反射していた。
イロミは何かを訴えようと、必死に唇で言葉を作ろうとしている。それでも、届かない。
大丈夫だよ。
大丈夫だよ。
必死に、辛うじて、その言葉を唇で形作る。息も乗らない、音無き声。
目が血走り、締める腕がガタガタと震えるフウコを、まるで宥める母親のようにイロミは唇を動かした。
怖くないよ。
私、知ってるから。
ダンゾウから、情報を引き出したんだ。
全部、知ってるから。
だから──フウコちゃん。
怖くな──。
「消えろぉおぉぉぉオオオオオオッ!」
人間の頚椎が手折れる音が、響き渡った。
残ったのは、肉体が弛緩しきった一人の少女と、
「……へ?」
あまりにも生々しい現実を叩きつけられた、少女だけだった。
☆ ☆ ☆
泣き声が聞こえる。
視界は暗闇。夜のようだ。
黒い景色の中で聞こえる泣き声というのは、悲しいけれど、聞き慣れた安心感があった。
──……ああ、フウコちゃんも………イタチくんや、シスイくんも…………泣き虫な私を、こんな気分で見てたんだ…………。そりゃあ、心配するよね……。
身体に力が入らない。首から下の神経の働きが、頚椎を境に分断されてしまっているからだ。呼吸も出来ない。内蔵も筋肉も、信号が分断されて動かせない。視界が暗いのは、眼球運動が出来ず裏返ってしまっているからか。
本当なら、普通の人間なら……凡人なら。
ここで、脳に残った血液の酸素だけを寿命に、虚しく死んでいくのだろう。親友の悲しい嘆きを最後に、人生の幕を閉じていただろう。
「嘘、だ………。こんな、幻術のはず………だって……………だって………っ、わ、わた……私っ、が………殺すわけ、ない……イロリちゃん………嘘? だよね…………」
幻術。その言葉が引っ掛かる。
誰かが幻術を?
分からない。彼女が安々と幻術に落ちるというのは、想像が出来なかった。
──大丈夫だよ………大丈夫、だよ。私は、死んでないから……。
だって、友達だもん。
友達に殺されるなんて、ありえない。
身体が勝手に修復を開始する。顎を掴まれた蛇が、さも当然のように相手の腕に絡みつくように、反射のように粘っこく、しぶとく、身体を直していく。これまで食い散らかした他者の細胞を運用していく才能を遺憾なく発揮していく。
細かい肉体の損傷は瞬く間に元に戻り、腹部の刀の傷は、刀ごと溶かして修復する。頚椎が徐々に回復されると同時に、身体に感覚が戻ってくる。
瞼をゆっくりと開ける。
視界の中には、今ちょうど、身体を突き刺していた刀がコロリと地面に落ちる瞬間が映し出される。もう痛みは身体には無い。
ただ、顔を上げた瞬間、心に激痛が走った。
大切な友達が、血塗れだったから。
「幻術だ、幻術だ。そうだ、そうに違いない。幻術だぁ。早く、早く覚めろ……。イロリちゃんを私が、殺すわけないんだぁ」
身体を修復している間に、どれくらいの時間が経ったのだろうか。
幻術から逃れようとしたのか、それとも心が壊れたからか、彼女は、自傷行為を行っていた。
頭部から出血し、雫となった血液が顔を伝い、白い浴衣の襟を染めている。きっと、爪で引っ掻いたのだろう、両手指の爪の殆どは捲れ上がっている。硬質を失った指先はそのままに、頬や腕、首筋をガリガリと引っ掻き続けている。皮膚は赤く腫れるだけで、爪が捲れた指先は損傷を激しくして、出血は大量になっていく。
「どうして? どうして、どうしてどうしてどうして。幻術が解けないのぉ? イロリちゃんが、消えてくれない………。やだぁ………嫌だよぉ…………。イロリちゃぁん」
壊れる。
大蛇丸の言葉が自然と思い出されてしまった。
その言葉通りだ。
今、フウコは壊されている。幻術──いや、眼球運動が明らかに幻術に落ちている際のモノとは違う。薬物による中毒症状に近い。そして、精神状態は恐慌。立ち上がって見せても、視線はこちらを向かず、フラフラと斜め上の中空を見つめては痙攣していた。
フウコなら、この挙動だけでこちらに反応を見せてくれるはず。
なのに、自傷行為を止めないままに、着物を赤く染め続けている。
「ああ……もうっ。困ったなあ!」
身体の修復が完全に終わったのを確信して、イロミは一歩踏み出した。不思議な感情を胸にして。
ナルトを追いかけて、木ノ葉隠れの里を抜け出した。悲しさがあった。
抜け出す前に、ダンゾウと争った。怒りがあった。
そして、どういう奇跡か、親友と出会った。強い怒りがあった。
親友が自分を痛めつける姿を見た。酷く悲しかった。
今は、不思議なことに、半ば不謹慎に──喜びがあった。
ずっと、ずっと、彼女の為に強くなりたかった。
でも決して彼女は、弱い姿を見せてくれなかった。
いつも平坦で、強くて、頑張って。
うちは一族の一件でも、心を水墨のように染めて伸ばして溶かしてまで、事実を隠した。
そんな彼女を、助ける事が出来るかもしれない。
そのために努力をして、不本意な才能を見つけてしまったのだ。
──医療系の知識は一応あるけど。どんな中毒症状か分からない……もしかしたら、幻術かもしれないけど………こういう時に大事なのは、荒療治!
呪印を解放する。
呪印が身体に馴染んだのか、身体が呪印を順応させたのか、よく分かる。呪印には段階があることに。
呪印の段階を一つだけ上げて、波紋の模様が全身に張り巡らせる。力が有り余る感覚が二の腕に纏わりついた。
拳を握り、
「起きてよッ!」
フウコの顔面を振り抜いた。
自分でもスッキリしてしまうほどの清々しい打撃感。鼻を折りながらも、首の骨を痛めない程度の分かりやすい刺激を脳に与える。
雲のような軽々しさでフウコの身体は浮き、後方へ転がった。だらりと大の字になって仰向けに倒れた。長い黒髪は乱れに乱れ、顔全面に貼りついて表情すら見受けさせられない。
完全な無防備。ピクリとも動かない様子は、気を失ってすらいるのではないかと予想させてしまうだろう。
しかし、イロミは跳躍し、再び拳を握る。気を失っている訳が無いと、イロミは判断したのだ。相手はフウコだ。油断できない。ここで徹底的に、フウコの選択権を奪い去る。
ただ、昔みたいに接したいから、奪う。
──ほんの少しだけ……ほんの少しだけでも、話ができればいい。あるいは、安静にしてくれれば良い。そうすれば……。
そうすれば?
そこで、考えが足を止めてしまう。
ここに来るまで、木ノ葉隠れの里の忍と、音隠れの忍、そしておそらくフウコの同盟者たちがいた。しかしいずれも、素直にこの場へ馳せ参じる事が出来ない状況だ。辺りにいるのは、気を失ったナルトとサスケを除いて誰もいない。
フウコを同盟から離反させたとして、どうする?
木ノ葉隠れの里に連れていく事は出来ない。イタチが火影になっていても、里は彼女を許さない。
だが、離反させ続けるには、今の──いや、これから向かう伝手では危険過ぎる。
単独で動くべきか?
──考えるな、考えるなッ! 私は……凡人なんだッ! 今だけは、壊れていても、フウコちゃんを止めるのに、無駄な思考は……邪魔でしかないッ!
殆ど直上から迫り、拳を腹部へと狙い澄ます。
──届
「うるさいなぁ」
「ッ!?」
右手で顔を掴まれる。
そう感じ取れたのは、
あの夜の、単純な速度によるものじゃない。
本当にただ、
──何が……ッ!
フウコはそのままに起き上がり、イロミの顔面を鷲掴んだまま後頭部ごと地面へと叩きつけた。
頭蓋骨が凹む音が耳の奥にこだました。
「ああ。やっぱりぃ、幻術だぁ。
指の合間から僅かに見えるフウコの狂い笑みがこちらを見下ろしている。
「ブウ……ゴ………ぢゃ……………」
「ごめんねぇ。ごめんねぇ、イロリちゃぁん。こんな幻術と見間違えちゃってぇ」
力が増す。より、後頭部が歪まされる。
駄目だ。
このままだと、殺される。
ふざけるな。
殺されてたまるか。
──どこの……誰が原因か分からないけど。
私は、友達なんだ。
邪魔するな。
「ぅぁあああああああッ!」
身体を変容させる。
両腕を突き出し、腕の肉を小さな蛇に。
全身に絡ませる。引き剥がすのが目的じゃなく、拘束し、首を締めて窒息させること。関節を適切に固めて、残った蛇たちを首に巻き付ける。
が、首元の蛇は完全には締まらず、蛇と首の間にフウコは空いていた左腕を滑り込ませて、圧力を軽減させていた。
「大蛇丸……?」
と、フウコは冷たい無表情になって呟いた。
「最低な幻術。イロリちゃんは、あんなに純粋なのに……アイツみたいに蛇を使わせるなんて…………」
更に、頭を押し込まれてしまう。髪の毛が血に濡れ、地面に吸い込まれていくのがはっきりと分かる。
蛇の関節拘束は、自傷行為で溢れた血液が潤滑油となってしまって弱くなっている。
止める事が出来ない。
かといって、力で引き剥がせそうにない。呪印を一段階しか上げていないとは言え、フウコの筋力とチャクラが振り切れてしまっている。
もう一段階上げるか?
──それだと………私自身が、正気を保てる自信がない…………それじゃあ、意味がないッ!
フウコを殺す事が目的じゃない。
友達なんだから。
コートの仕込みも、ダンゾウとの争いで殆どストックも無く、残っているのは殺傷能力の高いものばかり。そもそも、フウコと遭遇する事を想定なんかしていなかった。
肉体の変化じゃ、力負けする。
なら、
「おね……がい…………。
使えるモノは、何でも使う。
たとえそれが道中で自来也から助け、あるいは、ヤマトとの争いの最中で声を掛けた他者でも。
「早蕨の舞」
イロミの背。それはつまり、地面から。骨が、イロミの肉体ごと貫きながら、突き出した。
骨はそのままに、蛇たちの殆どをを貫き、フウコの肉体を浅く突き刺し、筋肉を損傷させる。
顔面を掴む握力が弱まった。残った蛇を動かし、顔を開ける。口が自由に動かせる。
「多由也ちゃん、幻術を乱してッ!」
「ったくッ! もし大蛇丸様の子供じゃなかったら、後で覚えてろよッ!」
荒々しい口調の声がどこからか。口調に反して奏でられる笛の音は流麗で美しい完全一度。チャクラの乗る音に、フウコの表情が、心の乱れをそのまま映し出すように歪んだ。
「うるさい……何…………この、音」
「目覚まし……時計かな?」
「何……言ってるの?」
多由也の音のおかげか、なんだか普通の会話が成立しているような気がした。
気のせいかもしれない。
昔から、彼女との会話は微妙に噛み合っていなかった。
懐かしい。
そんな気分に、後頭部の激痛も、骨に身体を貫かれた痛みも、和らいでしまう。
和らぐと言っても、身体の修復が追いついていないせいで、四肢は碌に動かせそうにも無いのだけれど。
それでも、首は動く。
ちょうど地面に押し付けられたせいで振りかぶるスペースは、僅かながら確保されていた。
「そう言えば、アカデミーで友達になった時も、こんな感じだったね」
また、友達になろうね。
そんな意味を込めて、また蛇を動かし、フウコの頭部を引き寄せ。
自分は渾身の力を込めて、頭部を振りかぶる。
「これで今度こそ、起きてね………私を、思い出してねッ! だって、」
私は……友達だからッ!
アカデミーでは、自分は上で、友達は下だった。
でも、今は逆。
思いは変わらない。
友達として隣に立てるように。
同じ視線で見られるように。
追いつけるように。
そんな想いを込めて、親友の脳天に頭突きを食らわせてやった。