また、今回の話を境に、改訂前の話は一通りは【改訂終了】ということになりますが、タイトル及び各章の【改訂版】という文言を取り消すことは致しません(改訂した、という事実は変わらないためです)。また、タイトルの前書き部分における注意書き(のようなもの。つまり、※の部分ですね)を削除することも致しません。
次話は十日以内に投稿したいと思います。ご意見、ご感想などがございましたら、ご容赦なくお申し付けください。
満月が浮かぶ夜の下には、のっぺりとした幾つもの薄い雲が隙間を大きくとって広がっていた。夜が深まるにつれて、下降していく気温の中を、海中を泳ぐように夜鷹が飛び立っていく。夜鷹の羽が空気を叩き、あるいは裂く音は、足元に広がる森の中に吸い込まれ、木に止まる一匹の梟の首を傾げさせる。
首を傾げた梟の黄金色の瞳には、一人の少女が映りこんでいた。
大きな巻物を両腕で抱き、緑色の長いマフラーを首に巻いた、特徴的な髪の色をした少女。少女の全身は、大雨の中を駆けてきたのかと思えるほどにずぶ濡れになっていた。毛先が白く根元が黒くそして長い前髪はぴったりと少女の顔に貼りつき、衣服は重たそうに身体中にのしかかっている。
イロミはグローブを外した両の指に絡ませている黒い糸からの振動に意識を集中させながら、目の前の梟に大きく息をぶつけた。梟は瞼をしばたたかせると、その柔らかな羽毛を纏った両翼で音もなく夜空へと飛び立った。
「……ふう。……何とか、撒いたかな」
口端に入り込む水滴を、座り込む太い木の幹に吐き捨てる。
両の指に絡ませた、幾本もの黒い糸。それは、辺りに広がっている森の中に十重二十重と張り巡らせられている。
追跡者の存在を感知する為の【仕込み】。感知忍術を使えない彼女は、糸から伝わってくる振動のパターンによって追跡者の有無を知るという原始的な方法を用いるしかなかった。
木の上に身を潜めて、しばらく。
イロミの指には何の振動も伝わってこなかった。
獣が触れるには高い位置に糸を巡らせ、鳥が止まれるほど目視が容易くなく低い位置に設置してある。もちろん、完璧にバレないという保証はない。だが、出来うる限りの【仕込み】を使って、逃げたつもりだ。
小屋で大量の水を放出して―――。
イロミは徹底的に逃げに力を注いだ。
相手が二人いるということ、自身の実力を過信していないということ、そして戦うことが目的ではないということ。それらの要因を考慮した上で、イロミは戦うことを避けた。
大量の水を解放したイロミは、水が重力に従って広がる力に身を任せた。小屋の外にいた二人の忍は、流石にその事態を予測していなかったのか、抵抗する間もなく水に呑み込まれ、その隙にイロミは逃げ出した。
特に方向は決めていなかった。
もしかしたら木の葉隠れの里とは反対の方向に走っているかもしれないが、まずは逃げることが第一。進行方向には森が鬱蒼と広がっており、その手前でイロミは全力で【仕込み】を放出した。
巻物の中にある大量の煙玉をばら撒き、光玉と起爆札もばら撒き、さらには煙幕に乗じて無味無臭の眠り薬を粉末状にしたものも大量にばら撒いた。森の中に入ってからは後ろを振り向くことなく、糸の結界を張り巡らせ、そして今に至っている。
追跡者がもし、大量に放出した【仕込み】で気を失っていなかった場合、間違いなく自分は発見されている。身体から零れ落ちた水滴の痕跡はわざと残した。それを辿ってくるはずである。
しかし、しばらく時間を経たせて待機した結果、エントリーしてくる訳でも、糸に反応がある訳でもなかった。
撒いた可能性は高い。
だが、もちろん安心なんて出来ない。僅かな可能性が残っているなら、無闇に動くわけにはいかない。かといって、また仙人モードになれるほど身体に余裕は無い。
両の指に絡ませた糸を外し、近くの細い枝葉に引っ掛ける。
「―――解」
巻物に小さくチャクラを送り込むと、【窓】から黒い丸薬が十個ほど出現した。
兵糧丸と呼ばれる丸薬である。一粒使用するだけで、使用者のチャクラを一時的に増幅させる効能を持つが、イロミにとっては一粒ではほとんど効果はなかった。その本当の理由を、イロミ自身は知らない。体質の問題だろうと、医療忍者の人から言われている程度。一度に摂取しても良い数は十個という診断である。
ガリガリとそれらを噛み砕く。一個なら我慢できるが、十個ともなると口の中に凄まじい苦味が広がった。だが呑み込むとすぐさま身体中が熱くなり、力が漲ってくるのを感じる。【仕込み】の解放で消費したチャクラ分が湧き上がる。
口を大きく開け、猿轡で出来た口端の傷口をわざと大きくした。左手の親指で傷口からの血を掬い、火傷痕が残る額に押し付ける。巻物を背負い、印を結び、幹に左手を添えると、チャクラの放出と共に一瞬だけ術式が浮かび上がった。
口寄せの術。
手を離し、術式から出現したのは、一匹の雄狸だった。
両腕で抱えれる程度の大きさで、頭には一枚の木の葉を乗っけている。
その小さな雄狸は、しかしイロミに仙術を学ばせた秘境・夢迷原の主だった。
「ダルマ様、夜分にお呼びして申し訳ありません」
ダルマと呼ばれた狸はイロミの声にのっそりと艶やかな毛並みを持つ背中を動かし、眠たそうな目でイロミを見上げた。
「……な~んじゃ~、イロミか~? あ~いかわらずお前は~、空気を読めんの~。そしてお前は~、いつ~になったら~、ワシ全部を呼べるようになる~んじゃ~?」
普段から変に間延びした喋り方に眠気が拍車をかけて言葉を聞き取り辛くしたが「すみません」と、夜中に呼び出したことと、一部分しか呼び出せなかったことに頭を下げた。
目の前にいるダルマは、本体の一部でしかない。
未熟であると、遠回しにダルマに言われるが、今はそれを気にしない。
イロミは言う。
「ダルマ様、お願いがあります」
「なんじゃ~?」
「今、私は追われています。追跡者は二人です。近くにいるか探してください」
「……しかたないの~。仙術が未熟じゃからだぞ~」
呆れながらも、ダルマは下半身を切り離す。離れた下半身は三十ほどに細かくなり、蛇、鼠、兎、蝶など幾つもの生き物に変化し地面へと降り立つと四方八方へと駆けていった。
「もう一つ、お願いがあります」
「も~、なんじゃ~」
「木の葉隠れの里を探してください」
「お~まえは~、中忍にもなって~。しようがないの~」
追跡者、という話しからある程度状況を理解してくれたのか、これまた呆れながら残った上半身を四十ほどに細かくし、今度は全てを小鳥にして夜空へ飛び立った。
少しして。
まずは下半身のダルマが戻ってきた。三十ほどいるダルマの一部の内、一匹の蛇が報告した。
「辺りには~、だ~れもおらんぞ~」
その報告にイロミは胸を撫で下ろす。仙術チャクラを自在に使いこなせるダルマが散策したのだから、間違いはないだろう。続いて上半身の方のダルマも戻ってくる。四十もの小鳥たちは下半身のそれらと混ざり合うかのように一つになり、元の狸へと戻った。
「こ~こから~、南南西の方向に~、里が~、あった~ぞ~。あ~、つまりあっちじゃな~」
「ありがとうございます。この恩は、いつか必ず」
「月見うどん~、十杯~で、ゆるそ~。おやすみじゃ~」
眠たげな声が残響して、ダルマは煙と共に消えていった。すぐさま南南西の方向へと走る。ちょうど、自分が森の中に入ってきた道を後戻りすることはない方向だ。グローブを付け直し、糸をそのままに放置し、枝を蹴る。
暗闇の中には、自分が動く音と微かな風音しか響かない。
もう、追跡者が追ってこないことは分かっている。だからこそ全力で乱暴な動作で駆けるのだが、イロミの足を速くさせるのはそれだけではなかった。
里に戻れば、親友のフウコに会うことが出来る。
地面を蹴ると、木の太い枝を蹴ると、彼女に会うことが出来るという期待が膨らんでいく。
たった数日しか会っていない。なのに、友達に会えるというだけで、感情が身体を先行する。
濡れて重くなったマフラーをたなびかせ、進み、そして見慣れた森の風景になってきた。里の周りに広がる森に戻ってきたのだ。この辺りにもなれば、里の周辺を警備している忍が周回しているエリアになる。駆ける速度は向上しなかったが、気持ちは逸ってしょうがない。
止まることなく、スムーズに地面を蹴り、太く大きな木の枝へとしゃがみ込むように着地する。そのまま膝を伸ばして次の枝へと視線を動かす。
着地地点には右足で止まり、体勢は今と同じ、折れそうだからなるべく衝撃を抑えるように……。無意識にそんな計算が頭に流れる。
イメージした通りの姿勢で枝を蹴ろうと重心を前へ。
不意に風が吹いた。
風は真横からで、唇を優しく撫でた。
視界の端に見えたのは、ほんの一瞬だけで、けれどその刹那だけの情報によってイロミの中に保存されている記憶が呼び起される。
見えたのは、黒く長い、ウェーブのかかった髪の毛で、呼び起されたのは大切で大好きな友達の後ろ姿だった。
慌てて振り返ると、微かに見える黒い影は音もなく木々を駆けていくのが見え、瞬く間に遠ざかっていく。
そんなことが、ある筈がない。イロミは半ば停止しかけた思考の中で思った。
彼女は、今、里にいるのだから。
あらぬ疑いで、暗部に拘束されているのだから。
彼女が横を通り抜けるなんて、ありえないのに。
「……ッ、フウコちゃんッ!」
だがイロミは、影が消えていった方向に、そう呼びかけた。
たとえ一部分でも、大切な友達を見間違えることを、イロミの無意識は許さなかった。
影はイロミの呼びかけを一切に無視して、里があるのとは全く逆方向へと進んでいく。イロミは慌てて同じく方向を変えて、影を追いかけた。
―――どうして、フウコちゃんがッ!? ……まさか…………。
影を全速力で追いかけて、脳裏に過る不安。
暗部に拘留されているはずの彼女が、どうして夜の今に里を出ているのか。
容疑が解かれて自由になったのだろうか。しかし、その思いは、ずっと胸に秘めていた願いは、どういう訳かゾクゾクと寒気に震える頭が否定しようとする。
里に向かっていたのとは真逆の感情。その感情は先ほどよりも逸り、身体を先行させようとするが、影との距離は広がっていく。
なのに、距離が開けば開くほど、影が彼女だという判断が大きくなる。
「ねえ、フウコちゃんなんでしょ?! 私、イロミだよッ! 止まってッ!」
追跡者のことなど全く気にせず、声を張り上げる。間違いなく声は届いているはずなのに、影は止まることなく進んでいく。
「……ッ! 解ッ!」
背負った巻物にチャクラを送り込む。
解放された【仕込み】は、イロミ自身の体格よりも大きく、丸い狸の傀儡だった。頭には唐笠、左手には四角い箱、真ん丸と大きいお腹の中央には『誠』と書かれているそれに、イロミは両の指からチャクラの糸を伸ばし接続する。
傀儡の術・
イロミが唯一使える、忍術らしい忍術。わざわざ砂隠れの里に赴き、習得した忍術だった。
傀儡に接続したチャクラを動かす。カタカタと口元を鳴らしながら、大嘘狸はイロミを遥かに上回る速度で影に近づくと、そのままの勢いで影に体当たりをした。影は力無く身体を傾けて、地面に着地し、完全に足を止めた。
遅れてイロミも、地面に下りる。影との距離は十メートル後半ほど。イロミは傀儡を自分の後ろに置きながら、叫んだ。
「フウコちゃん……フウコちゃんなんでしょ!」
暗闇でも、はっきりと輪郭は見える親友の後ろ姿は、ようやく振り向いた。
満月の下に雲が泳いだのか、森の中ということも相まって、暗闇は深くなった。顔ははっきりとは見えないが、腰に挿している刀の輪郭や髪の毛、それらが全て彼女なのだという確固たる証だと判断できる。
「……イロミちゃん?」
どこか果て無く懐かしく聞こえる声。けれど、彼女が呼ぶ名前は、自分の大好きなあだ名ではなく、ただの名前で、違和感が胸に巣くう。
懐かしさと不安に眼の奥が、熱くなった。
「フウコちゃん、今度こそ教えて。何があったの?」
一歩、一歩。
月明りの届かない暗闇の中だけど、フウコの背中に近づいていく。少しジャンプすれば、手が触れられるくらいに。
「私、力になりたいの」
また、一歩近づく。
「フウコちゃんに比べたら、その、全然、力不足かもしれないけど……。でも」
また……一歩。
「ずっと努力してきたの。色んなこと学んで、フウコちゃんの力になりたくて……。だから……」
「……イロミちゃんは、私の友達だよね?」
「え? う、うんっ! 私は何があっても、フウコちゃんの友達だよ―――」
ずっと、何があっても。
その言葉を投げかけようとした、その時だった。
満月の下にあった雲が捌けて、鋭く白い光が、木々の枝葉の隙間を縫って、降り注いだ。
投げかけようとした言葉は喉元で堰き止められ、逆に肺に空気が送り込まれた。
涙を流そうとしていた眼の奥の熱が引いていき、同時に、顔の血の気が引いた。
フウコの姿が、あまりにも。
フウコの顔が、あまりにも。
血に染まっていたから。
「じゃあさ、イロミちゃん。私と一緒に行かない? 夢の世界に」
☆ ☆ ☆
中忍の任務では当然、血を見るものがある。
下忍から中忍へと昇格した当初のイロミは、生きている死んでいる問わず人の体から溢れ出る赤黒く、鉄臭さを出す液体への嫌悪感を抱かずにはいられなかった。だが、シミュレーション訓練を受け、任務途中で仲間が死ぬこと、大量の血に囲まれることなどの状況には耐性ができてしまっている。人を殺めることに何も感じないというほどではないにしろ、任務の為だから仕方がない、殺さなければ殺される、という言い訳の元に我慢できる。。
そうしてこなしてきた任務の中で学んだことは、どこを怪我すればどこの部分に支障を来すのかという人体のことについてと、どの部位を切断すればどんな風に血が噴き出すのかということくらいだった。
だから分かる。
月明かりに照らされて見えるフウコの顔に、そして体に付いている血が、彼女の体から噴き出たものではないと。
「……フウコちゃん…………その血って……」
返り血。
そのことが分かっていても、尋ねずにはいられなかった。もしかしたら、自分の見立てが間違っているかもしれない。そんな願い信じたいために。
「これ? うん。私のじゃないよ」
願望は、あっさりと否定された。
あまりにもスムーズな発音に、逆にイロミの頭には呑み込めなかった。
そして続く言葉を聞いて、ようやく理解した。
この現状があまりにも絶望的なことに。
「安心して、全部うちはの奴らの血だから。私のは少しもないよ」
至極当たり前のことのように、抑揚のない声で応えるフウコ。彼女は何も変わってない。体中に、顔中に、返り血を浴びているのに、態度も言葉も変わっていなかった。
ふと頭の中によぎったのは、うちはの町で会った、数日前の彼女の姿だった。
一歩、彼女が近づいてきた。
三歩、イロミは後ずさる。
「あいつら、弱い癖にしぶといから、首とか胴体とか刎ねないと死ななかったの。全然面白くなかった」
「……い、イタチくんや……サスケくんたちは…………ッ! それに、フガクさんとミコトさんは―――」
思い浮かぶ自分の友人たち、知り合いたち。
うちはの奴らというフウコの言葉の中に彼らが含まれていないことを祈った。
きっと……そう、そうだ……。
数日前みたいに、いや今日が何日なのか分からないが、あの時みたいに、彼女が、うちはの一部の人たちに囲まれて、しょうがなく。
正当防衛で、だから……でも、人を殺しちゃったのは事実で、逃げてきて……、きっと、でも、……イタチやサスケには、家族には、手を出してない。
そうだ。そうに違いない。
彼女は、優しいんだから。
自分は知ってる。
いつも無表情で言葉はストレートだけど、初対面の人にもしっかりと礼儀を以って接して。
すごい才能があっても驕らず、他人を見下さない。凡人過ぎる、もしかしたら凡人以下の自分の頼みにもしっかり応えてくれて。
いろんなことを教えてくれて導いてくれて、だけど何も恩返しできない自分を、それでも友達だと言ってくれて。
……そう、友達だと。
友達なんだと。
友達、だって。
言ってくれた。
アカデミーの頃に、木から落ちて頭をぶつけて、馬鹿みたいに泣きじゃくっていても友達になってほしいというお願いを聞いてくれるほど、優しいんだから。
知ってる。
彼女はとっても優しい人。
知ってる。
自分は、友達なんだから。
「アレは……つまらなかったよ……」
友達……なんだから―――。
「せっかくの眼があるのに。何の努力もしないで、ただ過去にすがった一族の末路は酷いね。やっぱり、努力は大切」
「……どうして…………?」
「何が?」
「家族だったんじゃ、ないの? 血は……繋がってなくても……ッ!」
フウコが養子だということは、知っていた。ひょんな日常な会話で知ったこと。
それでもイロミの目から見たら、フウコはあの家族の一人として過ごし、フガクもミコトもイタチもサスケも、彼女のことを確かに、本当に、血の繋がった家族のように思っていた。
人の思いの素晴らしさが。
家族という形が如何に、たかが血脈の有無を度外視することができる力強いものなのかと。
そう思えてしまうほどに。
「うん、家族だったよ」
フウコは頷いた。
「それが、どうしたの?」
「どうしたのって……ッ! 家族なのに、そんな……」
「邪魔だったら殺すよ。普通でしょ?」
「……酷いよッ、……フウコちゃん…………」
「そう?」
視界が揺らめく。
そこに立っているはずなのに、これまで蓄積してきた全てを嘲笑う幽霊のように佇む友達。
熱い涙が頬を伝って落ちる。
「フウコちゃんにとって……、家族って…………そんなものなの……?」
「私には行きたいところがあって、やりたいことがあるの。それに前から、うちは一族は嫌いだったし、どれくらい自分が強いか知りたかった」
「シスイ君を殺したのも……? 恋人同士……っ、だったのに……」
「好きだったよ、シスイのことは。うん、愛してた。でも夢の世界に行くって言ったら、怒って、私の邪魔をしてきたから殺したの。シスイを殺したのがバレたから、ついでにうちは一族も殺した。それだけだよ」
「やっぱり……殺したんだ……」
「邪魔だったから」
「じゃあ―――、」
じゃあ、友達の私も、
邪魔だったら、
殺すの?
その言葉は怖くて、涙が溢れるのに伴って震える喉が止めてしまった。
両手が握られる。涙に歪んだ視界を上にあげると、真っ赤な血に彩られた友達の顔の―――笑顔があった。
優しい、子供っぽい、笑み。
「ねえ、イロミちゃん。私と一緒に、夢の世界にいこ?」
羽毛のように柔らかな言葉なのに、首筋が痺れる。熟し過ぎた林檎よりも甘ったるい声質は、これまで一度も聞いたことがなかったからだ。
目の前に立つ友達は、友達の姿をした、知らない誰か。そんな錯覚を思い浮かべてしまうほど、もはや彼女への信頼は消えていた。
「そこで、いっぱい遊ぼ? ずっと何も考えないで、邪魔なやつとかいない、綺麗なところで。空も綺麗で。誰もイロミちゃんのこと馬鹿にしないから、いっぱいいっぱい、遊べるよ? 初めて会った時みたいに、でも、あの夜よりもずっとずっといつまでも、遊べるの。だから、ね? イロミちゃん。一緒に来て」
優しく包まれる両手。けれど、温度は伝わってこなかった。グローブ越しだから、という訳ではないだろう。
心が温度を失って、死にかけてしまっているのだ。
恋人を殺して、家族を殺して、なのに、平然としている彼女。
いや、平然などではない。
笑っている。
微笑んでいる。
その笑顔が怖かった。
得体の知れない、真っ赤な他人のようで。そう、アカデミーの頃に持っていた人見知りの気質を思い出したかのような、恐怖だ。
「ね、ねえ……フウコ…………ちゃん………」
「なに? 私と一緒に来てくれるの?」
顔を挙げて、だけど真っ赤な瞳がこの上なく恐ろしくて、赤ん坊のように涙を大量に流しながら、無言にゆるゆると首を振った。
彼女の目が微かに、鋭く細くなる。
「……イロミちゃん。私たち、友達だよね?」
「フウコちゃんは……どっちなの…………? あの夜に友達になったフウコちゃんなの? アカデミーで友達になった、フウコちゃんなの?」
「私は私だよ。でも、入学式の時に気付いてあげれなくてごめんね。後から気付いてたんだけど、言いだすのが恥ずかしくて」
「……嘘だ。私の知ってるフウコちゃんは、そんなこと、言わない」
「友達の言うことを信じられないの?」
「……貴方は…………誰、なんですか……?」
身体が浮いた。
後方へ。
視界が一瞬だけ暗くなったことだけは覚えていて、後頭部が地面にぶつかり、回転して転がる身体と視界。身体の勢いが止まったのは、背負っている巻物越しに木に背中をぶつけたからだ。
遅れて、左頬に違和感。
痺れたように、左頬の感覚が喪失している。だが、上顎と下顎が上手く噛み合わず、ガチガチと不器用な歯噛み音が頭に届くだけだ。
おそらく、殴られた。全く視認できなかったが、きっとそうなのだろうと思うと、遅れて痛みが顔面を支配した。
三十メートルほど離れた先に、彼女が立っている。
「イロミちゃん、最後のお願い。一緒に夢の世界に行こ? こんな馬鹿みたいな世界じゃなくて。もっと綺麗な世界に」
馬鹿みたいな世界?
綺麗な世界?
それは……今までの世界だったはずなのに。
「……ねえ、フウコちゃん」
「なに?」
「私たちは、友達、だよね……?」
「うん。友達だよ」
「ずっと……ずっど…………どもだぢ………………なんだよね…………?」
「泣かないで、イロミちゃん」
「でも……どもだぢでも……………じゃまだっだら……、わだじも、ごろずの……?」
「うん、殺すよ」
―――ああ、もう、ダメだ。
決定的だった。
もう自分と彼女は、立っているところが違うのだと確信するのに、十分過ぎるほど十分だった。
友達という言葉。
それが、彼女と自分では使い方は同じでも、発音は同じでも、認識が―――。
自分にとって友達は、何があっても裏切らない大切な人という意味で。
けれど彼女にとって友達は、状況によって切り捨てることができるという意味で。
自分は絶対的な認識で。
彼女は相対的な認識で。
どっちが良いというわけでもなく、どっちが正しいというわけでもなく。
ただの歴然とした違いという事実。
もしも。
もしも、彼女の友達という言葉の認識を予め知っていたら、きっと自分はそういう風に認識しようと努力できたかもしれない。
あるいは逆に、彼女に友達という自分なりの解釈を教えて、話し合って、改善して、理想とした関係が築けたかもしれない。
前者だったら、ここまで悲しい思いをすることはなかっただろう。
後者だったら、こんな悲惨なことになることはなかっただろう。
生まれてくる後悔は、しかしすぐに消え失せて、代わりに生まれるのは約束の言葉。
あの時の、フウコの家の前での、ミコトの言葉が頭を思い出した。
―――ねえ、イロミちゃんは―――
「私、待ち合わせをしてるの。早く応えて。夢の世界に来てくれる?」
「……どこに、行くの?」
流れていた涙が止まっていた。
ゆっくりと立ち上がり、彼女と対峙する。
「イロリちゃんが知っても意味ないよ。早く応えてよ。来るの? それとも、来てくれないの?」
「……一緒には、いけないよ」
「そう。残念。じゃあ、殺すね」
―――何があっても……―――
「………………殺されない」
「え?」
「私は……フウコちゃんに負けない」
そのために努力してきた。
彼女と対等になるために。
彼女の横に立つために。
いや、もしかしたら……、自分が努力してきたのは。
彼女を止めるために、してきたのかもしれない。
赤の他人と思えてしまうくらい、変わり果ててしまった彼女を、止めるために。
そう、イロミは未だ、彼女を、友達のフウコだと認識していた。
姿、声、追いかけていた時の速度やスキル、殴られた時の力強さ。
それらどれもこれもが、イロミの記憶にある友達のそれだと認めていた。
どれほど赤の他人のように思えてしまっても、拒絶したくても、信頼を失っても、温かな記憶たちはそれを許さなかった。
最後に残った思いは。
きっと何か事情があるに違いない、という願望。
そして友達として、彼女を止めるという使命感。
それだけだった。
「私に勝つつもり?」
「ううん……そうじゃないよ……」
頬を伝っていた涙を拭い取った。
彼女を止めるのに、視界が不十分では到底できない。さらに下顎を手で調整して、上顎と噛み合うようにさせる。
それらの行為は小さな決意だった。
「私はフウコちゃんを止める」
「……イロミちゃんは、私を楽しませてくれるの?」
「絶対……、絶対に行かせないッ!」
―――あの子の、友達でいてくれる?―――
当たり前だ。
どんな時でも。
友達という言葉が食い違っていても。
それでも。それでも―――!
「私は、フウコちゃんの友達だからッ!」
☆ ☆ ☆
忍の勝負は単純な強い弱いだけで決まるものではない。
枕詞のように何度も何度も、特に中忍になってからというもの耳にタコができるくらいに聞かされた言葉。だから戦闘になっても思考を停止しない、そして恐れてはいけない。一瞬の油断が強さと弱さの差を縮めることになる。
だが、これまでの忍の世界を築いてきたのは、天才と呼ばれたり最強と呼ばれたりしてきた、天に愛され躊躇いのない努力を行ってきた者たちが先駆となったこともまた、事実である。
つまるところ、強い弱いの差が逆転するには、そもそもの地力がある一定程度、差が小さくなければならないということ。
「―――ッ!」
イロミは大嘘狸を跳躍させ、フウコに襲わせる。
敵に接近することなく、尚且つ大嘘狸に仕込ませている多くの仕掛けには痺れ薬から肉体を蝕む致死性の強い毒などは単純な迫撃戦では一撃必殺の力を発揮させてくれる。少女であること、また筋肉が付きにくいという体質であること、そんな不利な立場にいるイロミにとっては、傀儡の術は都合がよかった。
指を複雑に動かすと、大嘘狸の口がカタカタカタと鳴りながら大きく開いた。どの指を動かせば、どのように指の動きを連動させれば、どの部位が動くのか、把握するのに多大な時間を要した。またどこにどんな仕込みがあるか、チャクラ糸が切れないように長さと比例して一定のチャクラを放出する、からくり人形を操りながら視野を広く確保する。
たった一つの術なれど、この術は多くのことを学ばなければならなかった。時には同盟国の砂隠れの里に赴いて、本格的に修行をつけてもらったこともあった。
そしてカラクリ人形の作り方も学び、作り上げたのが大嘘狸だった。
自分の才能を見つけるために。強くなるために。
大嘘狸の口の中には、粉状の痺れ薬を仕込んでいた。辺りに広がればフウコはもちろんイロミ自身にも及んでしまう。だが、イロミの背中に背負っている巻物には解毒剤が封印されていた。決して闇雲な手ではない。
「イロミちゃん、忘れたの?」
大嘘狸の口が開いた瞬間フウコの姿は影になる。
音無し風。
それは一流を超えた
音のない風はもはや察知することができない。
気が付けば首をなぞり、背筋をさすり、気が付けばいなくなる。
彼女が何故、風と呼ばれるのか。それは、あまりにも一瞬の世界をうごいているから。
「大嘘狸の仕込みを一緒に考えたのは、私だよ」
声は大嘘狸の真後ろ。黒羽斬ノ剣を抜いたフウコが、チャクラ糸をバラバラにしていた。イロミには切断された瞬間を目撃することはできない。
「これの使い方、今更だけど教えてあげる」
言うや否や、彼女は剣を握っていない手の指からチャクラ糸を伸ばすと大嘘狸に接続した。息を吹き返した大嘘狸は、先ほどイロミが操作していたよりも速く、複雑な軌跡を描く。丸い尻尾が大きく震えようとした。そこには、致死性の強い毒針と、それらを任意の方向へ飛ばすための射出口が仕込まれている。
「させないッ!」
イロミは再びチャクラ糸を伸ばし、何とか、大嘘狸に接続し、その動きを制止させることに成功した。
しかし、それが限界だった。少しでもチャクラ量を緩めてしまえば、一気に主導権を握られてしまう。
「ふふふ。イロミちゃんは弱いね。ほら、もっと全力だして」
「……くっそぉ…………!」
フウコは片手の指五本。自分は両手の指十本。
二倍のチャクラ糸を使っているのに、静止させるのが精いっぱい。
自分はこれまで何度も何度も傀儡を操るために努力してきた。指がツルまで、時には指先の経絡系に激痛が走って一日二日物を握れなかった日もあったし、激痛で眠れなかった夜もあった。
なのにフウコは、ほとんど傀儡の術を使ったこともなかったのに、あっさりと片手の指だけで。
大嘘狸をより長く使っていたのは自分なのに。
見下される言葉と自分の努力が彼女にとってどれほど塵芥に等しいのかを実感して、悔しくなり、奥歯を強く噛みしめた。
だが。
だが、頭に血が昇るほどではなかった。
彼女と自分の実力は、ずっと自覚してきていたが、天と地ほどある。
それを始まってしまった戦いの最中に縮めることは可能でもゼロにすることはできない。なら全ての手札を広げるしかない。
つまるところ全力を出すということ。
単純で絶対の法則。
イロミは思考を巡らせた。
忍はいついかなる状況においても思考を止めてはいけない。
そしてそれは誰にでもできることであって、名を残す忍は皆それを怠らない。
フウコから教えてもらった言葉だった。
「解ッ!」
チャクラ糸から大嘘狸にチャクラを送った。
いくら主導権が拮抗していると言っても、では互いに大嘘狸を全く動かせないかとなるとそうではない。
互いに細かく動かすことができる部分はある。イロミは動かせる部分にチャクラを送った。
途端、爆発。二人の間に紅色の煙が四散した。
―――たしかにフウコちゃんと一緒に、大嘘狸を考案したよッ! でも、私の目標は、ずっと……ッ!
その【仕込み】はイロミが独自に作ったもの。
たとえば大嘘狸の仕込みを全て使い切ってしまった場合、相手に仕込みを理解されてしまった場合、あるいはまともに機能できないほどに破損した場合、そんな最悪の状況を想定した時に仕込んだ自爆機能。
ずっと、目の前に立つ友人を超えようと考えに考えた末の、使えなくなった道具の使用方法だった。
仕込まれた煙はしびれ薬。一たび吸えば呼吸器を痙攣させ、目に入れば視界を奪い、皮膚に少しでも触れようものなら体が震えて動けなくなる。
風を感じた皮膚がストレスを抱き、筋肉が痙攣するように。
イロミは肺に大きく空気を溜め込み、背中に背負う巻物を広げて、それを体中に身にまとった。さながらミノムシ。ただミノムシと違うのは、表に見えるのが巻物の内側であり大小さまざまの「封」の文字がおびただしく書かれていることだった。
フウコの影が自分と一緒に飲み込まれるのを巻物の隙間から外を見えていた。
「―――いい使い方だね、イロミちゃん。でも、甘いよ」
彼女の声が聞こえた時に、既にしびれ薬の煙は霧散した。
フウコの影だと思っていたそれが突如爆発したのだ。
影分身。
大嘘狸を斬った時には既にオリジナルと代わっていたことをイロミは察した。凄まじい印の速度だが、驚くことではなかった。
影分身が立っていたその奥にオリジナルがいた。
分かってる。
彼女にこんな程度の威かしは通じないことは。
何度彼女と忍術勝負を行ってきたことか。数えきれないほど、そして同じ数の負けを経験してきた。彼女との戦闘で確信を持てる時なんて一時もない。
彼女が距離を縮めようと小さく膝を曲げようとした最中にイロミは動いていた。
「―――解。忍法・
イロミを中心に分厚い黒い壁が広がった。それは巻物に封印されていた膨大な忍具が群れを成した、壁。手裏剣やクナイ、矛に剣に鎌に鋭利な盾や―――。全てを見て種類を判別しようものなら壁に呑み込まれて骨すらも粉々にされる。それを証明するかのように、一番近い木々がなぎ倒された。
避ける隙間もない、円形に広がるこの術に、二次元的な回避は許されない。
上か下か。
あるいはこれを弾き飛ばす術を展開して回避するか。
如何にフウコが強い忍でも、人間であるのならその三通りに絞られる。
だが、それでも足りない。
彼女を止めるには、まだまだ足りない!
「口寄せ・
印を結んで地に手をかざす。この術もフウコが知らないもの。
口寄せしたのは千本の鋭く尖った竹。地面を貫き、夜空へ届こうと伸びるそれはイロミの周りから順次現れ、壁に飲み込まれ刈り取られ、壁の速度を飛び越えて先にフウコの足元へと伸びていった。
足元から突如伸びる槍の如き竹を術で弾き飛ばすことはできない。案の定壁の向こう側からフウコが飛んだ姿がはっきりと見えた。おまけに鶴竹林は地面の下までを貫く長いもの。地面に潜ることも許されない。
烏俱壁がフウコのいたところを飲み込んだ。
中空にいる彼女の選択肢は着地をするか、そこから術を展開するかの二択に絞られた。だが、まだ足りない。
体に巻き付けた巻物を解く。巻物の芯にチャクラ糸を繋げ動かした。
それはまるで大蛇を思わせるような動きをしながら、フウコの元へ。
もはや勝負を決めるつもりだった。
弱い者が強い者に勝つには、短期決戦しかない。
それも、彼女が教えてくれたこと。
そして勝負を決する時は、必ず相手に防がれない技を使用すること。
【相手の攻撃から目を反らさない、逆に相手の目を反らせるように】
【音は立てない】
【手加減はしないこと】
【相手を信頼すること】
【怖いと感じるよりも前に動くこと】
どれもこれもそれもあれも全部が全部……フウコが教えてくれたことが、どういうわけか頭の中に浮かんでくる。
子供の時の自分と彼女。
中忍になった時の自分と暗部の彼女。
下忍だった自分と中忍だった彼女。
時間なんか滅茶苦茶で、でも浮かんできたのは辛くても楽しくて楽しくて楽しい時間だった。
―――フウコちゃん。これが、私の一番のとっておきだよ。
子供のようだった。
親に自分がどれほど成長したのか、教えたくて示したくて、背伸びをしながらも全力で自分を表現する、子供の心。
紙の蛇は尾を長くしながらもフウコの三百六十度、上下左右斜め全てを球状に覆い尽くしていく。
フウコの視界には、ゆうに千を超える「封」の字がうごめいていた。
イロミはチャクラを送った。
その数千の封印を一気に解放する、大量のチャクラを。
着地をすることを許さない紙の蛇の胃の中。
術で防ぐにはあまりにも多勢の暴力。
フウコの選択肢はもはや、ゼロに等しい。
だけど心の中には微かな、ここでようやくの、確信が持てた。
これを発動しても、彼女はきっと死にはしないということ。
けれどそれで十分だった。死にはしないものの、大きなダメージを与えることはできるはずなのだから。
「―――解ッ!!!」
数千の封印は解放され、けれど、何も現れることはなかった。
悲鳴のような音以外は。
その悲鳴が、数千と束になって襲い掛かる。
「忍法・
紙の蛇の胃の中で、数千もの悲鳴が混ざり合い、反響し、そして共鳴し、空気を爆発させた。
★ ★ ★
ねえねえ、フウコちゃん。
なに?
フウコちゃんは将来、何になりたい?
なりたい? それって、火影とかに、ってこと?
うん。火影だけじゃなくても、うーん、こういう人物になりたい、とか。
あまり考えたこと、ないかな。
どうして?
どうしてって、どういうこと?
だってフウコちゃん、いつも修行頑張ってるから、何か、すごい目標でもあるのかなって、思っちゃって。
夢ならあるよ。
どんな?
ある人のね、お願いを叶えることなの。
え、もしかして、その……お父さん、お母さん、の?
ううん。
じゃあ、イタチ君?
違う。
大穴で……シスイ君だったり? 恋人だし。
全く違うよ。
じゃあ誰?
これは、ごめんね。教えることができないの。
酷い。教えてよ~。
うーん……じゃあ、どんなお願いなのかだけ、じゃダメ?
うん。それでいいよ。それで、どんなお願いなの? 結婚してくれ、とか?
イロリちゃん、何言ってるの?
なんだろ、フウコちゃんは女の子なのに、この乙女心が全くない方向に行ってしまう会話は。
里を平和にしてほしいっていう、お願いなの。
じゃあ、火影になるの?
それで里が平和になるなら。
フウコちゃんならなれるよ。絶対に。
イロリちゃんは火影になろうって、思わないの?
ううん。全然。
そうなんだ。
理由を訊いてよ。どうしてって? さんはい。
どうして?
えへへ……それはねえ……。
☆ ☆ ☆
自分が持っている術の中で、殺傷力が一番高い術だった。
どんな相手だって「蛇狂破音」は相手の鼓膜どころか空気の振動で全ての骨を粉砕する術だ。土遁だろうと水遁だろうと振動を防ぐことはできないし、そんじょそこらの風遁なんかでも簡単に防ぎきることはできない。
大量のチャクラを送った反動で、チャクラ糸を維持することができなくなった。気が付けば地面に膝をついて、肩で呼吸をしていた。酸素が足りないのか、頭がぐらぐらして重い、首に巻いている邪魔なくらいに熱く感じた。体の節々に力が入らない。
しばらく休憩しないいけない。紙の蛇と共に落ちてくるはずの彼女を担いで里に戻ることができないほど、身体が―――。
「もう、終わり?」
たったその言葉だけで、体の体温が急激に下がっていくのを感じた。
「あれが、イロミちゃんの全部なの? 全力なの?」
ため息交じりに聞こえてくる声はイロミの耳には絶望の陰りを潜んでいた。
そんなはずが……そんなはずない……。
心の中で否定し続けるが、重たい顔を上げるとあっさりと確定される現実がそこにはあった。
体どころか、衣服にすら傷を負っていないフウコの姿が。
「ど……うして…………」
「……みんな、それを言うんだね。自分の自身がある術を使って、私がこうして立ってると。術にも勝負にも、絶対はないのに」
「うそだ…………」
「でも、イロミちゃんのは、危なかったかな」
危なかったと、フウコは言ったが、その言葉の軽さは歩いていて転びそうになる子供が言うそれと同じものだった。
食らえば死んでいたかもしれないけど、油断していなければ食らうことなんてありえない。はっきりとフウコが言ったわけではないが、イロミにはそういう風に言っているようにしか思えなかった。
死にはしないと予想していた。もしかしたら、その後に戦闘が続くかもしれないと予測していた。だから、地面に倒れながらも意識のある彼女の姿を発見した時は、懐にある残り少ない兵糧丸を使おうと準備していた。
なのに、それらは全くの夢物語となった。
いや元々、夢だったのかもしれない。
実力的に形成が不利だとか有利だとか考えていた。考えていたから、短期決戦に持ち込んだ。蛇狂破音が成功した時は心の中で微かに、優位を感じていた。
けれど、そんなものはそもそも、彼女と自分の間にはなかったのかもしれない。
彼女を止めようとしていた時に既に、負けていたのかもしれない。
―――だけど……、
「うちはの連中より、楽しかったよ。うん。イロミちゃんの術、後で試してみるよ」
だけど、たとえ最初っから負けているこの状況でも、諦めたくない。
諦める理由が、どこにもない。
「もう立ち上がらなくていいから。痛いのも、感じないから」
震える膝に手を置いて体を立ち上がらせる。朦朧と揺れる意識を意地でも叩き起こし、手を考える。
まずは距離を取らないといけない。辺りは森。姿を消して、それから―――
「イロミちゃん? 何をしても、無駄だよ」
「……まだだよ。忍法―――」
「ねえ、イロミちゃん。しっかり教えたよね。
どんな時でも、相手の目の前で印を結ぶなんて馬鹿だって。
残念だな。教えたことをやってくれないなんて」
「え―――」
音が無かった。
それこそが彼女の所以。
音なし風という異名を形作った原点。
音を出さない無音殺人術。
近づいていることが見えず、通り過ぎたと気づいた時には全てが終わっている、まさに風。
その時に気が付いた。
彼女の異名の意味を。
どうして彼女の速度に自分が追いつくことができ、自分の最強の術をあてることが許されたのか。
つまり、手加減されていたということを。
そして、腹の表面の感覚が一部区切られている感覚と、胃ではない所の腹部内にある異物感、そして分厚い背中の筋肉から何かが飛び出している違和感。
いつの間にか立っていた近距離の彼女の写輪眼から目をそらし、下へ、下へ。
すると腹部に、彼女の手が当てられていた。何かを握るようなグーの形。
その手はつい先ほどまで、黒羽々斬ノ剣が握られていた手だ。
しゅひん―――。
フウコのその手が引き抜かれる。
赤い。
うちはの血で染まった、刀身が黒い刀が姿を現す。
本当に?
その赤い血は、今さっきまで漬けられていたかのようにみずみずしい。
本当にその赤い血は、うちはの血なのだろうか。
選ばれた一族が身に宿した、上位の血なのだろうか。
心なしか、色が汚い。
まるで何の才能も持たない人間の血のようだった。
「―――あれ……?」
腹に力が入らない。内臓が腹から零れだしそうだと勘違いしてしまいそうになるほどに。
熱い、熱い。
何が?
お腹が。じわーっと、熱くなる。
咄嗟に印を結ぼうとした両手をそこへ。
ぺちゃ。
あ、この音、聞いたことある。
雨が降らないって思って外に出たら土砂降りの雨が降っちゃって、慌てて雨宿りをした時に、服と肌が水を挟んで揺れる音だ。
ぺちゃ、ぺちゃ。
両の手を離した。
赤い。
「―――ぅぁ」
遅れてやってくる強烈な痛みに悲鳴を……あげることは許されなかった。
髪の毛を引っ張られ、前かがみに。
やってきたのは、フウコの膝が自分の喉を思い切り蹴り上げる衝撃。声は出ず、代わりに出たのは口から吐き出される血と鼓膜の奥に届く何かが潰れた音。
視界が、一度前後すると、真っ暗になり、すぐに開ける。彼女の膝が、今度は鼻を潰した。
痛みが来るよりも先に、自分の鼻の形が変わったということを鈍重に伝える得も言えぬ不愉快な感覚。
反射的に血に染まった両の手が顔を抑えようとしたが、フウコの空いている手がそれを許さなかった。
両手を掴まれ、そのまま、握られる。
そう、握られた。
まるでおにぎりを作るかのように握られた。
イロミの両指が知恵の輪みたいに難解な形に組み合わさる。
合わせて一秒。
たったそれだけの時間で、風は自分の体を壊していった。
「イロミちゃん?」
腹部からの痛みしかまだやってきていないのに。
イロミの意識はもうほとんどなかった。
あるのは強烈な眠気だけ。
あまりの痛みに脳が体の神経から離脱しようと避難体制に入ったイロミの肉体は、優しくフウコに真正面から、抱きしめられていた。
これまで幾つもの命を刈り取ってきた、風に、体が包まれた。
「バイバイ」
背中までに回されたフウコの両の腕が締め付けられた。
自分の両腕とあばらの骨が折れる音を、イロミが聞くことはなかった。
★ ★ ★
えへへ……それはねえ……、フウコちゃんを助けることができないから。
私を、助ける?
うん!
私別に……、その………、困ってないよ?
困る時が絶対に来るよ。間違いない。悪い予感はよく当たるんだ、私。多分だけど。
いや、言ってることが分からないんだけど。
絶対に来るよ~。
根拠は?
ない……けど、でもさ、やっぱり忍はチームで動かないと。暗部でだって、一人で動くっていうことはあまりないでしょ?
他の忍はそうだけど、私は基本一人だよ。誰かがいると却って邪魔。
うっ…………、それは、まあ、フウコちゃんにとってはそうかもしれないけどさ。歳とったりするとさ、身体が動かなくなるじゃん。その時は大変だと思うよ?
その時は私もイロリちゃんも、引退してると思うけど。
ごめん、今の忘れて。女の子が歳とった自分の未来を話すのはいけないことだから。
じゃあイロリちゃんは暗部に入りたいの?
フウコちゃんがそのまま暗部に居続けるならね。でも入ってくるなって、フウコちゃんは言うでしょ?
じゃあ、どうやって私を助けるの?
……そこは考え中。
なんだか、いい加減だね。
いいの! 私はまず根本的に、実力がないんだから。そこをまずしっかりしないと。大きな山をどうやって登るよりも、山を登り切れるのかをまず考えろっていうのが、忍の原則なんだから。
まあ、そうだね。でもさ、
ん?
イロリちゃんは、イロリちゃんのしたいことをすればいいと思うよ。私のことなんて考えないで。イロリちゃんだったら、大分かなり頑張れば火影になれるって、私は思うよ。
やだよ。
……イロリちゃんって、意外と強情だよね。
そりゃあ、フウコちゃんとイタチ君とシスイ君に散々矯正されたし、フウコちゃんのストレートな言葉にも耐性がついたからね。今じゃ木の葉一メンタルが強いって言われてるよ。
誰が?
私が。
どうして?
どっちの? 私の目標? 私のメンタル?
目標の方。どうしてイロリちゃんは、そうなの?
友達だからね。そしてフウコちゃんは私のヒーローだから、一緒に任務とかしたいなって。別に、単純な理由だよ。
単純、なの?
すごい単純。いつか私はすごい忍になって、フウコちゃんと二人ですごい有名なタッグを組むんだ。
でも、イロリちゃんは……。
足手まといにならないから! 大分すごい頑張れば火影になれるくらいの実力なんだから! それに来年再来年っていう近い話じゃないし!
そうだね。だけど私は
うん、なに?
イロリちゃんと、ただ遊びたい。
………………
いつか私たち忍って、いらなくなると思うの。世界中の人が平和を守ったら、無くなる。その時代の子たちは、私たちみたいに修行とかしたりしないと思う。私は、その子たちみたいに、ずっと遊んでいたい。
そういう日って、来るのかな?
出来れば、私が作りたいなって、思ってる。
あ、じゃあさ、私もそれを手伝いたいな。うんうん、きっとその時に、私の助けが必要になる時があると思うよ?
あまりイロリちゃんには、危険なことはしてほしくない。でも、うん……簡単な任務なら、一緒にしたいかも。猫探しとか、鳥探しとか、宝探しとか。
もっとカッコイイのがいいな。まあ、その、私は確かに……才能とか、まだ見つかってないし、フウコちゃんの足元にも及ばないけど……。
才能とか関係ないよ。友達と一緒にいるのに、才能なんて、くだらないよ。
悔しいなあ。
どうして自分に、才能がないんだろう。
ただ、ずっと―――
ずっと、一緒にいたいだけなのに……、
任務とか、助けるとか、もう、どうでもいいのに、
友達と、大切な、友達と、一緒にいたいだけなのに。
どうして、自分は忍なのかなぁ。
フウコちゃんは、どうして、忍なのかなぁ。
悔しいなぁ。
「……なに?」
もう、意識は白かった。
どうやって自分の体を動かしたのか、記憶にない。
心地よい眠気と上半身のほとんどを飲み込む感覚の不連続感は未だに残ってる。
だけど口元の感触は、確かに自分の歯は何かを噛んでいた。
力の加減は分からないし、自分がどこにいるのかも全く分からない。
まさに気が付いたら、だ。
ただ分かることは自分の体が地面にうつ伏せに倒れていることと、大切な友達の声が真上からしたことだった。
その声も、何を言ってるのか、もう頭では理解できない。
ただ、思ったことを、思っていたことを口にするしかなかった。
「……ゔぃがば、ぶ」
行かないで。
潰れた喉で呟くがもはや言葉の体をなしていなかった。
それでも、止まらない。
「……ぶぁ、がぁ、ぶぶ、ご、ぢゃ」
行かないで、フウコちゃん。
「ヷブ、ジャ、い」
私、何でもするから。
「……ダぎゃ、」
だから。
噛んでいた何かが離れる。
ただそれだけで、心が半分にされたように錯覚してしまう。
前髪を持ち上げられた。額の火傷痕があっさりと表に出る。友達の彼女に見られても、もう怖がったりはしない。だけど、今、この状況では、悲しかった。
ああ、もう、終わりなんだ。
終わり。
何が?
頭の中にこれまでの彼女との思い出が無秩序に溢れ出てくる。
これまでの全部と、これから合ったと思っていた夢のような日常。
それが、終わる。
「もう、話しかけないで。気持ち悪い」
冷え切った声。朦朧と視界に映る彼女の顔はもう見えない。
「ヴゥ、ゴ……ぢゃ…………」
私たち、友達だよね?
ずっとずっと、友達だよね?
潰れた喉とぐちゃぐちゃの意識では、それら全てを発せれない。
身体中の痛みが頭に集中して、頭も痛くなる。
そうだ。
彼女とアカデミーで友達になった時も、頭が痛かった。
ならきっと、もしかしたら、今回も―――。
「才能も無いくせに、私のお願いも聞けないくせに、まだ友達だと思ってるの? 気持ち悪い」
ちくしょう……。
才能があれば。
才能さえ、あれば。
終わらなかったのに。
止められたのに。
「……ヂグ……じょ…………う」
涙が、止まらない。
イロミは意識を失った。
左頬に感じた衝撃を最後に。
【孤独にワラウ】
全てが終わり、全てを終わらせた森の中で、一人の少女は嗤っていた。
夜空に浮かぶ満月の光は、わざとらしく少女の真上で枝葉に堰き止められている。全身を血糊に纏われた少女は、両手で身体を支え、膝を地面に付けたまま、肩を震わせている。
「……ははははは。あっはっはっはっはッ!」
獣も鳥も、誰一人として彼女の嗤い声に耳を傾けない。
壊れた振り子時計のように嗤い続ける彼女の周りには、何一つとして近づこうとするものはなかった。
そう、辺りには誰一人として無い。
絶対の孤独だけが、横たわる。
「あっはっはっはっはッ! ……ざまあみろ。………ざまあみろッ!」
フウコは、嗤う。