場面転換の際、記号を用いることにいたしました。記号の読み取り方は、以下の通りです。
☆ ☆ ☆ → 時間経過
★ ★ ★ → 時間が遡った
第三次忍界大戦が静かな終結を迎えて、およそ一か月が経過した。
これまでの忍界大戦とは比べものにならないほどの消耗戦は、多くの死傷者を生み出した。終結後に、すぐさま木ノ葉隠れの里の上層部は、傷ついた里を修復する為の復興政策と、他里との同盟締結などの外交政策に取り掛かったが、人手不足という物理的な要因と人々に刻まれた悲しみを払拭しきれていない精神的な要因が重なり、里を包む空気は未だ重かった。
昼下がり。
里に侵食する重い空気とは無関心に、馬鹿らしいほどの快晴から、日差しが真っ直ぐに降りている中―――うちはイタチは、里の外側に近い商店街を歩いていた。
商店街と言っても、今は、人はいない。大戦中の襲撃を受けて、軒並み建物が倒壊しているため、住人たちは別の場所に移動しているからだった。
復興の手は、まだ届いていない。
不気味な静寂が鎮座しているせいで、大人さえも不必要に近づかず、たとえ近づいたとしても重い空気のせいで頭を垂れてしまうような場所を、イタチの黒い瞳は辺りをはっきりと眺めながら進んでいく。
特に目的地は設定していなかった。
強いて言うなら、大人たちが口々に囁く【せんそう】という言葉が何なのかを知る為、というのが目的である。自我を持って一番最初に聞いた言葉が、それだったのだ。
『戦争をしているんだ。なら、今は悲しんでいる暇はない』
当時は、父―――うちはフガクの言葉も分からず、そして、普段の彼の厳格な雰囲気から離れた暗い表情の意味も分からなかったイタチだったが、四歳になり、人の表情と感情の連携を直感的に理解できるようになってから、疑問を抱くようになった。
フガクも、そして大人たちも【せんそう】という言葉を口にする時は決まって、悲しそうな表情を浮かべていた。
きっと嫌な言葉なのだろうという想像までは、イタチにはできたが、どのようなものなのかまでは分からなかった。他の大人たちに聞いても、教えてくれない。なら、自分の目で確かめるしかない、と思い立ち、今に至る。
―――これが、【せんそう】…………。
倒壊した建物の無残さを前に、そう思った。
まだ正確には、戦争の全貌は理解できていない。だが【せんそう】という言葉がもたらした結果が、今見ている酷い光景なのだということだけは、はっきりと分かった。
瓦礫の隙間や一部が赤い所もある。
血だ、とイタチには分かった。
巻いた風が微かに砂煙を作り、同時に嫌な匂いがして、片手で鼻を抑える。不快な臭いが、未だ発見されない瓦礫の下に眠る【物】から発せられているという知識がないは幸いだっただろう。イタチは臭いから逃げることだけを意識して、歩みを速めた。
イタチは以前から、落ち着いた子だと、同族の大人たちから評価されていた。しかし、その評価は厳密ではない。
彼には才覚があった。
忍術における才。身体能力における才。
だがそれらも、やはり、厳密ではなく、最も彼に秘められた才覚は、研ぎ澄まされた冷静さである。
―――ひどい。どうして、こんなことに……。俺は……何も知らないんだな……。
自分は何も知らない。
単純な事でも、気づくことが難しいそれを、イタチは四歳で感じ取った。自分がどのような位置にいるのかを理解できたのだ。何も知らない、ちっぽけな自分。普通の子供なら、感じ取った途端にいじけて、もしかしたら泣いてしまうかもしれない。
もちろん、子供であるイタチも、無知な自分にショックを受けていたが、そこで、彼の才能は発揮される。
つまり、冷静さ。
冷静さとは、思考が停止しないこと。
初めて見る光景に、初めて嗅ぐ臭い。不愉快な感情。何も知らない自分。
それらを理解しても尚、イタチの思考は淀みなく、前に進んだ。
―――どうすれば……知ることができる……?
どうして戦争が起きたのか、どうすれば戦争を起こさせないことができるのか。
足りない知識を、今すぐ欲しいと思った。
歩いていると、道の真ん中に一冊の本が、無造作に落ちていた。
視線を横に向けて倒壊した一つの瓦礫の山を見ると、隙間から多くの紙切れや本の残骸がはみ出ている。本屋だったのだろう。はみ出ていた本はどれも表紙や本紙が破けている。どうやら倒壊した本屋から落ちたのだろう道中の本も、表紙すらない。
瓦礫に近づいて、一番手前の石をどかしてみる。本が知る為の手段の一つであることは知っていた。
本を読めば何か知ることができるかもしれないと、イタチは無秩序に本を探し始めた。石をどんどんとどかしていくと、奇跡的にほぼ無傷の本を見つけた。手に取って表紙を確認する。【忍の心得・その一】と書かれているが、まだイタチには読めなかった。
漢字を読み解けはしないものの、イタチは本屋から少し離れて、道の真ん中に腰を降ろして何ともなしに開いてみる。
子供の用の本とは異なり、縦書きの文字しかない。漢字ばかりで、やはり内容は分からないが、ページを捲っていく。
ページは左から右へと流れていき、文字の在庫は瞬く間に無くなった。
内容は……一厘も分からなかった。
―――大人は、きっと分かるんだろうな……。
イタチの中で、基準が生まれた。
まずは、言葉を知る、という基準が。
やはり彼の冷静さは、ただの子供が持っているものとは次元が違う。
本を片手にしっかりと持って立ち上がる。
そろそろ両親が心配して自分を探し始めるかもしれない。イタチは他に状態のいい本は無いかと一通り視線を巡らせるが、すぐには見つからず、とりあえずは諦めた。
踵を返す……と同時に、強く風が吹いた。突風だ。
風で舞い上がった砂埃が目に入る。空いている手で眼を擦って、瞼を開けた。
女の子が立っていた。
本が零れている瓦礫とは真反対に位置する、瓦礫の山。山は辺りの瓦礫の中で一番高く、元がどんな建物なのかも想像が難しいほど複雑に倒壊している。女の子は、その天辺に細い両脚で立ち、青空を見上げていた。
小さく、息を呑み込んでしまう。
うちは一族の家紋が背中に刺繍された青い半袖と白いハーフパンツ。黒い髪の毛は首筋を隠す程度に長く、風に流されている。見える腕と脚は健康的な肌色だった。イタチからは、彼女が横から見える。横顔は整えられた女の子顔で、赤い瞳が辛うじて伺えた。
快晴の青空から降り注ぐ太陽の光を一身に浴びるかのように、あるいは、戦争で無残になった地上よりも澄んだ青空の向こうに行きたいと訴えるかのように、女の子は一途に空を見上げている。
幻想的な、神秘的な、あるいはその中間。
とかく、女の子の姿は、自分とは違う世界に立っているような錯覚をイタチにもたらした。同時に、不可解さもあった。
うちは一族の子なのに、うちはの町では一度も見かけたことがなかったからだ。
「何をしているんだ?」
話しかけると、女の子は変わらず空を見上げながら、呟いた。
「空を見てるの」
高級な鈴ほどに澄みながらも、抑揚がまるで無い声は、明確にイタチの鼓膜を心地よく揺らした。
「何かいるのか?」
「空がある」
「空が無かったら、空じゃない」
「いい天気だなって。空、見てたの。きっと、どこの里も、こんないい天気なんだろうね」
いったい彼女が、何を言わんとしているのか分からなかった。わざわざ空を見るためだけに、こんな所に来る必要はないのに。
不思議な子だ、というのが、彼女への印象だった。
女の子がイタチを見下ろした。赤い瞳と長い睫。初対面にもかかわらず、微動だにしない無表情は、むしろどこか余裕のある大人びた雰囲気を感じ取ってしまう。
努めて、イタチは言った。
「戻ろう。きっと、君の親も心配してる」
「心配なんてしないよ。いないから」
いない。
その言葉が示している意味を瞬時に理解してしまう。
ごめん、という言葉を寸での所で飲み込んだ。そういう言葉を言ってはいけないことだというのは、大人たちの対応を観察して学んだことだった。
彼女にはイタチの戸惑いを感じ取ったのか「気にしなくていいよ」と言った。
「私だけじゃないから」
軽やかに女の子は瓦礫から飛び降りた。音もなく着地をして、女の子は一人で歩き始める。イタチも後ろを歩いて、すぐに並走する。自分と同じくらいの身長だと、そこで初めて分かった。
ねえ、と女の子は言う。
「どうして、戦争が起こったのか、知ってる?」
「……分からない」
「そう」
素っ気ない返事だったが、彼女が言うと、妙に様になっていて不快さは感じなかった。
きっと【せんそう】が起きた理由を知っている子供はいないだろう。もしかしたら、知らない大人もいるかもしれない。そもそも、子供と大人の境界線が曖昧な気がした。隣の女の子は、少なくとも、自分より大人だ。なんとなく、そう思う。
雰囲気が、特に。
逆に、道の向こう側から近づいてくる男の子の雰囲気は子供っぽい。
彼よりは、自分は大人だろうな、と思う。
男の子が目の前にやってくる。癖の強い黒髪に負けないくらいの明るい笑顔を浮かべると、イタチと女の子は必然的に足を止めた。
「よ、イタチ」
右手を力強く上げて、いつものように声を掛けてきた。
「探したぞ。もう大人たちがカンカンでヤバい」
言葉とは裏腹に楽しんでるかのような抑揚に、イタチは肩を小さく透かした。
「嘘をつくな、シスイ。もし本当に大人の人たちが怒っていたら、お前じゃなく、他の人が俺を探してるはずだ」
「ニシシ、まあな」
うちはシスイは、並びの良い白い歯を大きく見せて笑った。彼は一番最初にできた友人だった。明るく、物怖じしない性格なのは知っているが、同時に、変に狡猾で悪戯好きであったりもすることも、よく知っている。最近になって、彼の嘘や冗談を見抜くことができるようになっていた。
あっさりと嘘を見破られたことに臍を曲げることなく「でも」とシスイは流暢に呟いた。
「フガクさんもミコトさんも、心配してたのは本当だからな。だからシンユーとして、俺が探しに来てやったんだよ」
「礼は言わないからな」
素直じゃないなあ、と笑顔を崩さないシスイにつられてイタチの頬も軽く緩んだ。いつも彼と会話をすると笑ってしまう。いつも、彼のペースだ。同年代の子でペースを崩されるのは、彼だけである。だからこそ、有意義な友達関係を築けている。
対して、隣で木のように立っている女の子は、違う意味で自分のペースをいつの間にか乱している。シスイとは真逆の毛色だ。
シスイが不思議そうに、イタチの隣に立つ女の子の顔を覗きこんだ。どうやら彼も初対面のようで、不思議そうな表情を浮かべている。
女の子は逆に、変わらない無表情を保ちながら、瞳の動きだけでシスイを見た。
「で、イタチ。この子、誰?」
「この子は……」
そこで、そういえば、少女の名前を知らない事に気付いた。
「なんだよイタチ、名前も訊いてないのか。恥ずかしがりなやつだなあ」
「うるさい。……名前、訊いていいか?」
女の子の髪の毛が、そよ風に揺れた。彼女は小さな手で髪の毛を抑えながら、イタチ、シスイの順に細かく目配せを一秒ほどした。
「フウコ。―――うちは……、フウコ」
風が止む。
「俺はうちはシスイだ。よろしくな、フウコ」
「うちはイタチ、よろしく、フウコ」
「……うん、よろしく」
☆ ☆ ☆
三人は並んで歩いた。フウコを真ん中に、彼女の右手にイタチ、左手にシスイ。よく喋ったのは、シスイだった。彼の饒舌さは今に始まったことではないけれど、その時は、舌によく油が乗っていたのか、すごかった。フウコに色んな質問をした。
うちはの町で見かけたことはなかったけどいつもは家にいるのか、何歳なのか、忍術に興味があるのか等々。質問の字数に対して、フウコの返事は、
「うん」
「四歳」
「ある」
など、非常にコンパクトなものだった。けれど、面倒臭そうな雰囲気を感じなかった。歩く動作や目配せなどを見ると、コンパクトさが彼女のポリシーのようだった。
時には、イタチにも話題が振られた。
「その本、どうしたんだよ」
片手に抱えた本が気になったようだ。フウコも、視線だけをイタチに向けていた。
「拾ったんだ」
「どんな本なんだ?」
「分からない。でも、面白そうだった」
「分からないのに面白そうって、凄いこと言うな。まあ、俺も全然、漢字は読めないから人のこと言えないけど。フウコはどうだ? 漢字、読めるか?」
「見せて」
イタチは表紙をフウコに見せた。彼女の表情は微動だにしない。
「忍の心得・その一って、書かれてる」
「こころえ?」
首を傾げるシスイに、フウコは頷く。頷く、と言っても一センチも落差は無い。
「こう考えておいた方がいい、っていう意味」
「へー……。フウコって、もしかして滅茶苦茶頭いいのか?」
「え? …………ううん、その、普通」
微かに言葉の抑揚に乱れが生まれたのを、イタチの耳は捉えていた。どうして驚いたのか、分からない。
その後も何度かシスイがフウコに質問するが、抑揚が乱れたのはその時だけだった。
商店街から抜け出して、うちはの町に近づくにつれて、徐々に、人の姿が見え始めた。先ほどまでいた所に比べれば活気は当然あるが、やはり陰りがあると、三人は感じ取っていた。
人と人の間を進んでいくと、うちはの町の入口が見えてきた。重厚な木造の門である。幕がかけられていて、そこにはうちはの家紋が書かれている。
フウコが突然足を止めた。イタチとシスイは三歩進んでから足を止め、振り返る。
どうした? とシスイが尋ねた。
「……私は、こっちだから」
顔だけを彼女は別の所へ向けた。どこを見ているのか、未だ里の建物の並びを知らないイタチからすれば分からない。彼女は両親を亡くしたと言っていた。親を亡くした子供が集まる建物があると、聞いたことがある。きっと、彼女が向いている方向にあるのだろうとイタチは当たりを付けた。
事情を知らないシスイは意味が分からないように、視線がフウコと同じ方向を見ていた。イタチは頷いた。
「またな、フウコ」
「バイバイ、イタチ。シスイも」
「ん? ああ、じゃあな。今度は遊ぼうぜ」
二人は軽く手を振って見送るものの、遠ざっていくフウコが振り返すことはなかった。
最初から最後まで不思議さとコンパクトさだけを伝え、そして何より、大人びた雰囲気と聡明さを纏っていた、女の子。
今度会った時は、色々と教えてほしいと、イタチは思った。
そして、次の再会。
イタチとフウコが二度目の邂逅を果たしたのは、およそ一ヶ月後の事となる。
☆ ☆ ☆
木ノ葉隠れの里と砂隠れの里の間に同盟条約が結ばれ、後に四代目火影が選ばれた。
四代目火影の名は、波風ミナト。黄色い閃光という異名で、第三次忍界大戦において他里から畏れられ、木ノ葉隠れの里に多大な貢献をした忍である。
良い意味でも、悪い意味でも、第三次忍界大戦終戦という時代の節目を迎えたこと、そして老齢という事もあって、三代目火影である猿飛ヒルゼンが勇退を決意したため、次代の火影を選定した末に、彼が選ばれた。
ミナトは、戦争に対する深い悲しみと、それによって散っていった多くの命たちに報いるために尽力した。
その一環として、孤児への環境整備が行われた。
この戦争で多くの子供が戦争孤児となってしまった。
戦争のために忍術を学んだ子から、まだその年齢にまで達していない子、揚句には戦争で負傷してしまい生活弱者へとなってしまった子まで、様々に。
しかし今の里には、それら全ての戦争孤児を保護するほどの余裕はなかった。
建築物の復興や砂隠れの里以外の他里との細かい同盟。戦後の荒れた里の近辺や内輪の警備と統制。新たな里のシステムの構築など、やるべきことは数多くあれど、けれど中心となって指揮する忍や手足となって実現していく忍の数は圧倒的に少なかったのだ。
そこで提案されたのが、養子縁組。
忍として既に教育を受けている子は里の中で、教育を受けていない子、または生活が困難な程に被害を被ってしまった子などは、火の国の一般的な孤児院へと移す。里の中に残る子は、有志で作った孤児院へと預けられるか、大人が養子縁組として受け入れるかのどちらかとなったのである―――中には、暗部が密かに所有する孤児院へと人知れず送られる子もいたが―――。里に残る大抵の孤児は、戦争前に親同士で親しかった相手方の元へ養子となることが多く、戦後に残った孤児院へと行く子は少なかった。
その中でうちは一族での戦争孤児は少なかった。
元々、忍としての才がある一族である。第三次忍界大戦でも、戦死したうちはの者は少なく、そのため戦争孤児も他の一族に比べれば圧倒的に少ない。
しかし、少ないというだけで、ゼロというわけではなかった。
現にうちはの一族内でも、養子をとっているところはある。
イタチの家も、その一つだった。
フウコがイタチと再び出会うことになったのは、これを経緯としたものだった。
彼女がうちはフガクによって、養子となったことがきっかけである。
家に帰ってきたフガクの手に引かれて姿を現した彼女に、イタチは瞼を大きく開かせた。
「……フウコ」
自然と、彼女の名を呟いてしまった。開いた玄関から入ってくる夕日を浴びて、影で顔が暗くなっているものの、間違いなく、フウコだった。
フウコの小さな手を握っているフガクは、まさかイタチが彼女の名前を言い当てるとは思っていなかったようで、瞼が微かに動いた。
「なんだ、イタチ。知っていたのか」
「前に会ったんだ。まだ、自己紹介しかしていないけど……」
「そうか、それは良かった。イタチ、これからこの子が、俺たちの新しい家族だ。……フウコ、もう一度、イタチに挨拶をしてあげてくれないか?」
フウコは頷いた。やはりコンパクトに、ほんの少しだけ顔が上下すると、彼女の前髪もそれに合わせて微妙に揺れた。
「うちはフウコ。よろしく、イタチ」
「ああ。よろしく」
子供同士の挨拶に、上から眺めていたフガクが小さく笑顔を浮かべた。するとすぐに、家の奥からゆったりとした足音が聞こえてきた。木の床をしっとりとした足が叩く音。フウコとイタチが、同時に音の方を見る。
「あら、可愛い子」
イタチの母であるうちはミコトは、フウコを見るや柔らかく笑った。長い黒髪を右手で撫でながら、膨らんだ腹部を左手でさすっている。来年に、第二子―――うちはサスケが生まれるのだ。
「フウコ、この人がこれから君のお母さんになる、ミコトだ」
と、フガクが呟くと、フウコは礼儀正しく頭を下げた。まだ短い時間しか彼女と顔を合わせていないイタチだったが、その中で最も大きなアクションだった。
「これから、よろしくお願いします、ミコトさん」
「ふふ。よろしく、フウコ。もうすぐ御夕飯が出来るから、ゆっくりしてて。イタチ、フウコを部屋に案内してあげて」
框を跨いだフウコの手を握って廊下を歩く。背中からフガクとミコトの会話が聞こえるが、すぐに遠ざかってささやかな笑い声だけが耳に届くだけになった。
「子供ができるみたいだね」
代わりに、フウコの落ち着いた声が後ろから聞こえてきた。
「ああ。弟ができるんだ。もう、名前も決まってる。サスケだ」
心なしか、声が弾んだ。事実、イタチは、まだ幼いながらも、弟ができるということを楽しみにしていた。
部屋についた。そこが、これからフウコの部屋になるところだ。イタチが戸を引いて二人は中に入ると、八畳ほどの空間があった。
部屋に入って、フウコは三秒ほど中を見回した。そして、顔を傾ける。
「……ここは?」
「フウコの部屋だ」
「物があるけど」
部屋には既に物が設置されていた。
右手には押入れ。真正面には、カーテンが全開になっている窓がある。窓から入ってくる夕焼けは、部屋を彩っていた。左手には本棚と机があって、それらには生活感があった。
明らかに、誰かが使っていた痕跡がある。疑問を抱くフウコに、イタチは当然のように言う。
「俺の部屋だからな。これからは、フウコと一緒だ」
「いいの?」
おそらく、自分がいることでこの部屋が小さくなるけど、という意味だろう。彼女の表情からの情報はあまりにも乏しい。ああ、とイタチは頷いてみせたが、やはり表情は揺るがない。ただ、そう、と呟いただけだった。
「この本……前のだよね」
フウコの視線が、本棚に収まっている本に止まった。並んでいる本はどれも背表紙がまだ清潔だが、フウコが見たのだけは汚れていた。
それは、フウコと初めて会った時に拾った本だった。
彼女は手に取る。
「読めるようになったの?」
「まだだ。今は漢字や言葉を、他の本を読んで学んでる」
あの日を境に、イタチは言葉を学び始めた。本棚に並んでいるほとんどは、漢字や言葉を学ぶためのものだ。中にはミコトから貰った忍術書もあるが、ようやく一冊を読み終わった程度で、拾った本も読破できていない。
フウコの視線が一通り泳いでから、何も言わずに座って、窓から空を見上げた。イタチも座って、読みかけの本を手に取って腰を落ち着かせる。
気まずさは、不思議となかった。
むしろ、彼女の雰囲気が部屋の空気を整理しているような気がする。嬉しい事だった。
あまり、賑やかな空気は得意ではない。嫌いと言う程ではないが、そもそも、賑やかな空気に合わせて自分も、という事が出来るくらいにエネルギーがないのだ。そのことを十分に理解している。かといって、同年代の子たちからの忍者ごっこの誘いも断り辛く、苦労しながら輪の中に加わることがあった。他の子たちと一緒にいる時は、静かな時間というのを獲得するのが困難だった。
ページを捲る音さえ聞こえてくる静かさが、しばらく部屋に漂う。おかげで、本の内容がクリアに吸収されていく。
「忍術、使えるの?」
そんな中、不意に、フウコの声が意識に割り込んできた。本から顔を上げる。彼女がいつの間にか手に持っていたのは、イタチが読破した忍術書だった。
「それに書かれている術だけは、なんとか」
忍術書には、火遁の基礎に関する記述があった。印やチャクラコントロールのイメージなど、どうにか漢字や言葉の壁を乗り越えて学んだ。
イタチの才能は、わずか四歳にして、たったの一ヶ月で火遁・鳳仙花の術を習得させた。
「……イタチは、天才なんだね」
「フウコは忍術を使えないのか?」
皮肉や遠回しの自慢ではなく、素直な疑問。
何となくだけれど、彼女は自分よりも遥かに、優秀なのではないかと思ったからだ。
少しだけフウコは口を閉ざしてから、
「火遁の基礎と、軽い幻術くらい」
あと、
「写輪眼くらい……かな…………」
イタチの瞼が大きく開いた。
火遁が使えるのはまだわかる。自分でも、習得できたのだから。
幻術が使えるならまだわかる。幻術は女性の方が得意だといわれているからだ。
けれど、写輪眼は違う。血継限界の写輪眼は、学べば使えるというものではないからだ。
開眼できるかどうか、それは一種の―――才能なのだ。
「本当に、使えるのか?」
「うん。使える」
フウコの両眼が、いつもの赤い瞳よりさらに赤くなる。瞳孔の両左右ななめの位置に勾玉のような黒い点が二つ浮かびあがった。父であるフガクが一度だけ見せてくれた写輪眼とは、一つほど黒点の数は少ないものの、紛うことなき写輪眼だった。
イタチは顔を近づけて、じっと彼女の両目を見た。
部屋の外からミコトの「夕飯ができたわよー」という声が入ってくるけれど、二人は静かに互いの目を見ていた。
「夕飯を食べ終わった後、少し勝負しないか?」
「勝負?」
「忍術勝負」
☆ ☆ ☆
夕飯は賑やかだった。
賑やかと言っても、ワイワイとしたものではなく、互いに気を使わないという賑やかさだった。
フガクもミコトも、フウコのことをある程度理解したらしい。静かな子は多くいる。これが大人だと問題かもしれないが、フウコはまだ子供だ。ましてや、イタチというかなり落ち着いた我が子を持っているため、二人の対応は冷静だった。無理な会話、無遠慮な態度はせず、必要最低限でありながらテンポの良い慎ましい会話を交わしながら、互いに家族になる、ということを実感するという食事だった。
楽しい夕飯が終わり、寝静まる前のささやかな雑談を経て、フガクとミコトが寝静まった、深夜。
イタチとフウコは家を抜け出し、広場へと向かった。
そこは子供たちがよく忍ごっこをするところで、用途が分からない土管が積まれていたり、寂しそうに立つ木が一本だけある簡素な場所。それ以外はただ平らな地面があるだけ。子供の二人が【忍術勝負】をするにはちょうどいいスペースだった。
「どうしたら勝ち? どうしたら負け?」
フウコはイタチと離れて呟いた。静まり返った町は、不思議な緊張感を二人の間に置いていく。
「お互いに決定打を入れたほうの勝ちだ」
「忍術は使ってもいいの?」
「写輪眼も使っていい」
「いいの?」
「写輪眼がどれくらいの力を持っているのか知りたい」
純粋な気持ちだった。
同年代の子で写輪眼を使える子。それがどれほどの力なのか。
この時に既にイタチの頭の中には、知識と力を求める感情が強かった。
戦争の被害を目の当たりにし、もう二度とあんな惨劇は見たくないという、小さな願い。
普段、同年代の子とは話しかけられたり、遊びに誘われることはあっても、自分から頼みごとをすることはしなかったイタチである。忍術勝負をしたい、という申し入れだけで、その意思が強いことが伺えた。
イタチはすぐに構えをとった。
まだ詳しく体術の事を知らない彼の構えは子供らしく無駄が多いが、集中力だけは伝わってきた。
対してフウコは、静かに両目を写輪眼へと変えるが、幽霊のようにぼんやりと佇んでいるだけ。
二人の間に、一つの生温い風が吹いた。
「ッ!」
「……ッ」
勝負は数秒だった。
「私の勝ち」
「………………」
イタチは、夜空を見上げていた。その手前には、自分を見下ろすフウコの顔がある。彼女の右手が自分の襟を掴み、左手は自分の右手を掴んで、地面に押し付けられている。倒された拍子に巻き上がった砂埃が、冷めた夜風の匂いと一緒に鼻に入った。
時間が止まったように動かない二人の周りを、火花がゆったりを漂っていた。それらは、二人の火遁の術がぶつかり合った結果だった。
まずイタチは火遁・鳳仙花の術を放った。たったの一ヶ月で覚えたばかりの術である。人に向けて放つのは初めてでありながらも、印を結ぶ手の動きは洗練されていた。印を結び終わってから術を放つまでの動作も同様に。内心では、上手くできたと思っていた。フウコを相手にするという状況が、集中力を高めたのかもしれない。
渾身の力で放った術は―――しかし、フウコには届かなかった。
イタチは見た。
術を放った後、自分と全く同じ動作で、けれど、自分よりも遥かに速度を凌駕した動きで、同じ術を放つ彼女を。
彼女の赤い写輪眼は、印を結んでいる時でも、はっきりと、自分を視ていた。
フウコの放った術は、まるで鏡合わせのようにイタチのそれと同じ軌道を描いて、相殺されて、花火のように二人の中間で弾けた。
火花が散る中を、フウコは躊躇いもなく突き進み、イタチの襟と左手を掴んで倒したのだ。
たった数秒のこと。イタチの感覚的には、一瞬に近い。思い出そうとしても、フラッシュバックだ。だからこそ、イタチは、素直に自分の言葉を言うことができた。
「……すごい」
悔しさなどは微塵もなかった。
感心というか、尊敬というか。
とにかく、見上げる夜空のように吹き抜けた感情に従って出た言葉だった。
フウコはイタチから離れて、服についた砂を払う。けれどイタチは上向きに横になったまま、里の夜空を見上げ続けた。
「いきなり、忍術を使ってくるなんて思わなかった」
驚いた風もなく、彼女は呟いた。
「どうやって写輪眼になったんだ?」
そう尋ねるイタチに、フウコは淡々と応える。
「知らない。気が付いたらこうなってた」
「天才なんだな」
「知らない」
フウコも夜空を見上げ、
「今日も、いい天気」
と呟いた。
確かに、とイタチは静かに思った。
☆ ☆ ☆
静かな夜だった。
夜なのだから当然といえば、当然かもしれない。そんな当たり前の静寂を獲得するのに、先の大戦で、どれほどの命が散ったのだろう。そして今も尚、閉め切られたカーテンの向こう側で、戦災によって命が失われているのだろうか。
フウコは、眠ることが出来なかった。真新しい布団に身体を包まれながらも、意識ははっきりと身体から手離していない。
興奮しているわけじゃないと、フウコはぼんやりと自分を分析する。そんな豊かな感情を発揮するほど、元気な人格じゃない。けれど、もっと子供らしくした方がいいのだろうか、とも思う。
子供らしい、というものが、どういうものなのかは、分からないけれど。
部屋に、規則正しい寝息が聞こえてくる。横を向く。前髪が視界を微かに遮るけれど、気にしないままに、フウコは髪の毛の隙間から覗くと、眠っているイタチの横顔が見えた。しかし、すぐに彼は寝返りをうって顔の真正面が伺えた。
才能溢れる、不思議で、優しい子。
それが、フウコから見た彼の評価だった。その評価には、彼が自分の兄という、霧の向こうに並ぶ木々のようなぼんやりとした付加価値が付いている。
―――こんな時代でも……優しい子がいる。
平和な世なのかは、まだ判断できない。間違いなく、その方向へは向かっているが、それが必ず、実を結ぶかと言われれば、そうではないことは知っている。
そして、どれほど長く続いた平和でも、たった一夜で崩壊することも。
―――もしも、また、戦争が起きたら…………私は……、
そこまで考えて、フウコは思考を止めた。
今は、止めよう。
まだ自分は、子供なのだから。
フウコは瞼を閉じて、意識を沈めていった。
深く、深く、暗闇に。
暗闇の奥は冷たかった。深度と共に、寒くなっていく。
やがて暗闇は晴れて、蒼い世界に意識は下りる。
蒼い空と、砂塵のような雲。それらを鏡のように反射する海。太陽はなく、空と海は水平線の彼方で交わっていた。
意識が海に降り立つと、無音な波紋が一時、生まれる。
目の前には、幾本もの柱が、それぞれ無秩序に傾きながら立っていた。柱は、円形に並んでいる。
フウコは柱の前に立った。
「話しをしない?」
声は、蒼い世界に吸い込まれていった。