~キュゥべえ視点~
罅の割れた暁美ほむらの繭の中。亀裂から湧き出した使い魔たちに殺され、ボクらは数を減らしていった。
大規模な計画だったこともあり、それなりの数を投入していたインキュベーターだったが、見つけ次第に始末してくる容赦のない彼女の使い魔は一体、また一体と自動でボクらを潰していき、最後にはボクだけが残った。
いや、残ったのではなく、残されたが正しい。
何故ならボクは別に助かった訳ではなかったからだ。
ゴンべえという不確定要素がこの結界内に入り込んだ時にもっと警戒すべきだった。
そうすれば、ボクはまだインキュベーターで居られただろう。
あの男と対峙しなければ……。
***
暁美ほむらがボクらやゴンべえを殺すために生み出した使い魔たちを、ゴンべえは意図も容易く掻き消した。
魔法少女の浄化、ではない。感情エネルギーの転化による浄化とは一線を隔す『消失』という現象。
生まれた感情エネルギーをまるごと「存在しなかった」ことにする一種の因果改変に近い。長い間、感情エネルギーを研究していたボクらにすら理解不能の魔法。
どういう過程で生まれたものなのかという興味はあるものの、インキュベーターにとってそれは最も危険な力だった。
その能力だけでも特筆すべきなのだが、それ以上に彼の精神性の方が遥かに恐ろしい。
ゴンべえはその暁美ほむらのパーソナリティを理解し、その上で効率の良い精神的な攻撃で彼女を撃退にまで追い込んだ。
「まだ話は終わってないよ。逃がすと思う?」
圧倒的に優位にいたはずの彼女は彼から逃げるために、結界の最深部へと下降していった。
さしもの彼にも結界内の魔女が本気で逃げに徹すれば、自分を見つけ出す事は不可能だと考えたのだろう。
「ちっ」
事実、彼女を取り逃がしてしまったゴンべえは舌打ちをして苛立ちを見せた。ここに居る暁美ほむらを探し当てられたのもソウルジェムの欠片から発する魔力の波長を頼りにしたと言っていた。
であれば、完全に魔力の波長を消せば、彼では無理だ。その状態になった魔女を見つけられるのはインキュベーターだけだろう。
ちょうどいい。彼がここで足止めをされている間にボクはもう一度暁美ほむらに接触を取る。
そう考えていた矢先、視界の中に居た居た彼はおもむろにシルクハットを持ち上げ、内側に手を差し込んだ。
同時に頭上の虚空から白い手袋を嵌めた手が出現する。
まさか。と思った時にはボクはその手に捕まえられ、虚空の中へと吸い込まれた。
暗闇の中を潜り、再び視界に光が差し込んだ時には笑みを浮かべたゴンべえの顔が至近距離にあった。
「やあ、孵卵器さん。ご機嫌いかが?」
『ゴンべえ。そうか、ボクを一度潰したのはボクの肉片から波長を探し当てるためか』
暁美ほむらのソウルジェムの破片から彼女の居場所を突き止めたように、ボクの肉片からボクの居場所を把握し、位置情報を基にして魔法で空間を繋げて捕獲したのだ。
「手っ取り早く、単刀直入に言おうか。この結界の天井に張ったお前らの干渉バリアの撤去及び逃げた暁美ほむらの位置情報を寄こせ」
『何かと思えば、そういう事か。その要求にボクが素直に応じると思っているかい? わざわざ労力を掛けてまで円環の理を観測するために来たボクらが』
こちらにデメリットしかない要求だ。先ほどのように握り潰される事になっても、ボクら総体からすれば微々たる損失。応じる理由は一つもない。
本当にボクがその一方的な要求を呑むと思っているなら、彼の知性は想像よりを遥かに下回る。
しかし、彼はその返答を予期していたように笑みをより深くした。
「応じるさ。君らが大事にしているものと引き換えならね」
『大事にしているもの?』
彼はボクを掴んだ方と真逆の腕を伸ばし、指先でボクの背中にある蓋を力ずくでこじ開けた。
普段は感情エネルギーを回収する時以外には開かない部位だが、尋常ならざる筋力には抗えず、蓋はこじ開けられる。
これがボクの大事にしているものだというのなら見当違いも甚だしい。
『ボクの肉体ならいくら壊したところで……』
「ああ。違う違う。そうじゃないよ」
ゴンべえは頭を振るった。それから指をパチンと一度鳴らして手の中にステッキを生成する。
「君の背中はエネルギー回収のための部位で、奥は溜めた感情エネルギーを貯蓄している。そうだろう?」
こじ開けた蓋の隙間に彼は自身のステッキをすっと差し込んだ。ステッキの先端は何の抵抗もなく、背中の穴を通りエネルギーの回収するための空間へと到達する。
「なら、僕の魔力を消失する魔法をこの部位から捻じ込めば、どうなると思う?」
目を細め、酷薄な薄笑いを顔面に引き延ばす。
理解した。理解した瞬間、この男の思考回路が相手を追い詰める事だけを淡々と弾き出す悪魔の計算機だ。
「ねえ、孵卵器さん。『よくばりな犬』ってイソップ童話をご存知?」
『知っているよ』
肉を咥えた強欲な犬が橋の上から川面に映った自分の姿を別の犬と勘違いし、咥えた肉を奪おうと吠えて最終的に自分の肉を川の中に落としてしまうという童話だ。
余計な欲を出したばかりに自分が手に入れたものさえも失うという、教訓話としての側面が強い寓話。
「今持っている感情エネルギーだけで満足するか、円環の理に手を出して両方とも失うのか。好きに選ぶといいよ。念のために言っておくけど、僕の魔法に量は関係ない。一瞬ですべて消せる」
彼の言っている事が事実かどうかは分からない。けれど、彼の魔法の性質が魔力――感情エネルギーを完全に消失させるものだという事は嫌と言うほど見せ付けられた。
集めて来た感情エネルギーの全損の可能性は十分にある。いや、溶け残った彼の魔力が魔法少女システムにさえ致命的なエラーを引き起こす可能性もある。
だが、ここで彼の要求を全て呑む事はすぐ目の前にあるエネルギーの宝庫を見す見す逃がす事に他ならない。
『取引しよう、ゴンべえ。暁美ほむらの居場所を教える。だから……』
「そうか残念だよ。でも、仕方がないね」
ため息を一つ吐いてゴンべえはボクにそう微笑んだ。
良かった。交渉は成立した。ここで暁美ほむらが消えてしまえば円環の理を観測する事が多少難しくなるが、まどかは既に結界内に居る。
ゴンべえが暁美ほむらを消そうと襲えば、彼女の意思に関わらず何らかのアクションを起こさざるを得ない。
これで円環の理の観測も今まで集めたエネルギーも失わずに……。
「君らがコツコツ気の遠くなるような時間を掛けて集めてきたエネルギーがたった一度のつまらない答えで失われるなんてね」
『……うん?』
「ああ。可哀想な孵卵器さん。エネルギーの枯渇したさむ~いさむ~い宇宙で惨めに凍えて死ぬんだろうなぁ」
彼は掴んでいたステッキから手を離した。穴へと先端が差し込まれていたステッキはボクの背中の穴の中、感情エネルギー回収機関へと吸い込まれていく。
『なっ!? そんな!』
「そんな怯えた声を出さないでよ。感情豊かだな、もう」
ステッキが完全に穴の中へ落ちる寸前に彼はその柄尻を指先で摘まんで止めた。
僅かな瞬間、ボクは自分が集めていたエネルギーがすべて失われる想像をしてしまった。そして、それが現実のものとならなかった事に安心してしまった。
それはボクらインキュベーターが精神疾患と呼ぶべき状態だったと言ってもいいだろう。
彼に弄ばれたと理解するのに数秒の時を要した。
『ゴンべえ……』
「ねえ、孵卵器さん。取引っていうのはさ、ある程度お互いの立場が対等な時にしかできないものなんだよ。そこで聞くよ? 僕と君は対等? 一瞬で君らの大切なもの全てを奪い去る事のできる僕と、僕に対して何ら有効なダメージを与える要素を持たない君は果たして対等なのかなぁ? ねえ、答えてよ」
口元は頬の辺りまで伸びて笑みの形を作っている。だが、頬の筋肉は僅かも弛んでおらず瞳だけは形を変えずにボクを眺めていた。
感情を理解していないボクらにさえ分かる。それは敵対者を恫喝するだけの笑顔だった。
獰猛な肉食獣が獲物となる草食獣を喰らう時に見せる、牙を剥く瞬間の顔に似ている。
この少年はボクが彼の望む答えを吐くまで、彼はボクへ精神的攻撃を止めないだろう。
ボクはこの目の前に居る存在を形容する言葉を知らない。知りたくもない。
少なくともこれに類似する少女など出会った事もなかった。
「ねえ、孵卵器さん」
彼の発する言葉が、声が、音の波がボクという個体を通してインキュベーター全体に語り掛ける。
『……何だい?』
「それじゃおまけとして、僕がどうしてこんな力を得たのか教えてあげるよ。君も知りたかったんじゃないかな?」
それは先ほどまでは知っておきたい事象だった。だが、今では何故か聞きたくないとさえ思えてくる。
分からない。それほどまでこの少年とのやり取りがボクらに影響を及ぼしたとでもいうのだろうか。
「この魔法は僕の宇宙に居る孵卵器さんがくれたんだ」
『あり得ない。そんなボクらの目的は感情エネルギーの収集だ。それを阻むようなものを生み出す訳がない』
それだけは絶対にない。確かに仮説として魔法少女システムの応用でその力が生み出されたものではないかとは考えていた。だが、そうだとしてもそれをインキュベーターが作り出すはずはない。
下手をすれば、集めたエネルギーを消失させるような力を、インキュベーターに対して非協力的な人間に渡す訳がない。
ゴンべえは、ゆっくりと穏やかな声で語る。
「そうだね。彼らが君らのようにまともな思考であったなら、そんな暴挙はしなかっただろうね」
『まさか……』
「孵卵器とだって友達になれる。僕は彼らに仲良くしてくれるように
『支配したというのかい。ボクらを……人間の君が?』
胸の奥がざわつく。何だ、この感触は。ボクの中で、いや、インキュベーター全体が変だ。
分からない。分からない。分からないわからないワカラナイワカラナイワカラナイワカラナイ。
これは、ナニ……?
何が起きている?
大きな
「そうだ、君も僕のお友達になれば素直に言うことを聞いてくれるようになるのかな?」
ちょっとした思付きの提案でもするような軽い呟き。だが、その台詞の中に内包された意思は魔女が生み出す呪いよりも残酷で救いのないものだった。
ああ。もう否定できない。ボクの感じているこれは紛れもなく、『感情』と呼ばれるものだ。
今まで積み上げて来た価値観を完膚なきまでに破壊されている感覚があった。
『わ、分かった。要求を呑むことにするよ』
苦しい。辛い。
声が、視線がボクを刺す。
『撤退する。今後、円環の理にも関与しない』
気持ちが悪い。怖い。
向けられた感情から一刻も早く逃げ出したい。
『暁美ほむらの居場所も教える。だから……』
だから。
ダカラ。
ダカラダカラダカラダカラダカラダカラダカラダカラダカラダカラダカラ。
これ以上――ボくヲ壊サなイデ。
***
彼はボクらに要求すべて呑ませると「ありがとう」と感謝を述べてこの場所から去って行った。
ボクは……ボクらは知ってしまった。
感情という概念を。恐怖というものを。
そして、悪意という
もう二度と近付きたくない。見たくない。聞きたくない。
あんな存在を認識したくもない。
言語化する事さえ躊躇われる邪悪な存在。それが彼だった。
触れてはいけなかった。触れるべきではなかった。
自分の中に湧き上がる何かを押さえ、ボクは天井を見上げた。
先ほど大きく結界内が揺れた。きっとゴンべえに遭遇した暁美ほむらが魔女を呼び出したのだろう。
崩壊し始めた天井の破片がボクへと落ちて来る。その隙間から見えた空にはボクらインキュベーターが作っていたバリアが解体されていく光景が映る。
大きな破片がボクの身体を押し潰す、その瞬間。
――ボクは酷く安堵した。
――経験者は語る
Nべえ氏「彼のそこがいいんじゃないか!」(恍惚とした表情)
キュゥべえ「ええ……」