静まり返った部屋の中、僕は無言で
――これでいい。
もう彼女たちに僕の助けは要らない。そして、僕は彼女たちの優しさを必要としていない。
目を曇らせるだけの存在になった僕は、裏方に引っ込もう。
そう思って、この部屋から出て行くために、机から両手を離し、前のめりに体勢を元に戻す。
ニュゥべえを呼び、この部屋から出て行こうと口を開こうとした時、隣に座っている鹿目さんが僕に話しかけてきた。
「ようやく、政夫くんの本音が聞けたよ。ありがとう」
彼女の浮かべている表情は微笑だった。
優しく、柔らかな純真な鹿目さんらしい笑み。
だが、明らかにこの場に沿わない顔付きだった。
「……鹿目さん。僕の話を聞いていたの? 僕は君の、君たちの優しさを拒絶したんだよ?」
思わず、そんな疑問が
ここは僕の暴言に対してショックを受けるか、怒るか、悲しむかするのが普通だろう。
そんな優しい笑顔を僕に向けるのは場違いもいいところだ。
そうさせるためにここまできつい言葉を放ったのだから。
しかし、鹿目さんは変わらぬ笑みを見せ付けて言う。
「聞いてたよ」
「だったら……」
「前の政夫くんは気を遣って、優しく笑顔で遠ざけるだけだった。でも、今ははっきりと面と向かって私たちに感情を見せて、思いを伝えてくれてる。それが嬉しいの」
「ば、馬鹿馬鹿しい。何を言い出すのかと思えば」
冷めた目で嘲笑しようとしたが、声が僅かに震えた。
予想外のところから、衝撃が飛んできたような感覚を感じながら、それらを抑え込み、言葉を紡ぎ出す。
「君のそういうところは相変わらずだね。何でも好意的に取る。――だから、旧べえなんかに騙されるんだよ。脳内お花畑のメンヘラ女」
優しくて純粋で、僕はそういう鹿目さんの優しさに憧れていた。
そういう人間になりたかった。そういう人間で居たかった。
でも、彼女のような優しい人間は悪意に付け込まれ易い。人間という種にとって、純粋さは美点であり、欠点なのだ。
その年齢まで純粋で優しい心を保ててきたのは、それこそ一種の奇跡と言えるだろう。
護りたいと、汚させたくないと心の底から思う。
だからこそ、僕は鹿目さんを拒絶する。彼女が僕の心に触れたら、彼女の優しい心が汚れてしまうから。
「そういう優しい言葉をかければ、僕が
僕が侮蔑の言葉を投げつけると、暁美が僕に怒りを
「政夫! 貴方、まどかになんて事を……!」
「黙ってろ、暁美。今、僕は鹿目さんと話しているんだ」
「…………」
静かな口調と共に睨み返し、黙らせると僕は鹿目さんに向き直る。
「ここまで言われてもまだ君のお優しい意思は変わらないの?」
「変わらないよ。私は政夫くんと本当の意味で初めて向き合えている気がする」
まっすぐな綺麗な薄桃色の瞳には僕の冷たい表情が映っている。
僕の酷薄な言葉に少しも揺らがない鹿目さんの視線は彼女の芯の強さを物語っていた。
……本当に。本当にこの女の子は強くなった。
頼りないイメージはもう今の鹿目さんには残っていなかった。
見惚れてしまいそうな彼女を僕は、奥歯を噛み締めて睨み付ける。
「政夫くんはやっぱり私の思ったとおりの優しい人だった」
「……どこがだよ。僕は自分が見たいもののために君らを利用してただけだ」
むきになって否定するが、鹿目さんは首を横に振る。
「自分の事を嫌いになってまで、政夫くんは周りの人たちのために頑張って来たんでしょ? やっぱり政夫くんは優しくて、思いやりのある人だよ」
「何でそういう好意的に僕を評価するんだっ!! 馬鹿じゃないのか!? 優しくて、思いやりがある? 本当に優しい人間なら、人の心を思い通りに動かそうとする訳ないだろう!? 本当に思いやりがある人間なら、嘘なんか吐いたりする訳ないだろう!?」
鹿目さんの優しい言葉に耐え切れず、声を荒げて怒鳴りつけた。
僕と鹿目さんを見つめる皆の視線がより一層強くなったことを肌で感じ取りながら、それを無視するように鹿目さんと対峙する。
「……政夫くんはそれが許せないんだね。自分が周りの人を幸せにする時に、その人たちを自分の思い通りに動かしちゃった事や嘘を吐いちゃった事が」
「…………」
「自分に厳しくて、誰よりも『正しさ』を求める政夫くんだから、そういうちょっとでも綺麗じゃないところを認めてあげられない。――でも、私は政夫くんのそんな潔癖なところは間違ってると思うよ」
断定するように。断言するように。彼女はぴしゃりとそう言い切った。
鹿目さんは僕の心の中に踏み込んできた。
かつて、誰にも入れさせたことのないほどの深部へと足を踏み入れていく。
「どこが……それのどこが間違っているっていうんだ!」
僕の根源的な部分を否定する鹿目さんに問い詰める。
もう嘲笑も浮かべる余裕もない。不敵な仮面も取れていた。
ありのままの、等身大の夕田政夫がそこに居た。
「だって、政夫くんは私や……さやかちゃんたちの弱さはちゃんと理解して、許してくれるのに何で自分のそういうところは許してあげないの? そんなのおかしいよ!」
「おかしくない! 世界や他人に妥協しても、自分自身に妥協したら終わりだろうが!? 自分の汚さを許したら切がない! 絶対に完璧になれなくても、自分に完璧を要求することは止めちゃ駄目なんだ!!」
目の前に居る鹿目さん以外のものが見えなかった。
自分と彼女の声以外の音を耳が遮断した。
この瞬間だけは僕の世界は二人だけしか居なかった。
「それが間違ってる!」
「どうして!」
お互いの思いを声に乗せて、相手にぶつけ合う。
間違いなく、それは戦いだった。
手に武器はなく、相手を害する意思もない。
しかし、どうしようもなく自分の心を相手に理解させて、屈服させようとするこの議論は戦争と形容する以外に他なかった。
「それじゃ、政夫くんが救われないよ! 政夫くんのいう『優しい世界』は政夫くんには優しくない!」
「僕はそれで構わない! ううん、それで『正しい』んだ」
「正しくないよ! 清く正しく頑張った人間が報われる世界が政夫くんの『優しい世界』なんだよね……。だったら、周囲の人たちが幸せになるように頑張った政夫くんが報われないのはおかしいよ……!」
「前にも言ったけど、大層な理由があれば何をやってもいいって考えは間違ってる! 報われていいのは『正攻法』で頑張った人間だけだ! 嘘を吐いたり、人を騙したりする奴が報われていいはずがない!」
いつの間にか僕も鹿目さんも椅子から立ち上がって口論していた。
自分が立ち上がったことすら知覚できないほど、思考が熱くなっていたらしい。
周りのことはもちろん、自分のことも見えなくなっていた。
視界に映るのは桃色の髪の分からず屋の女の子の顔だけだった。
声を荒げていたせいか、顔は紅潮し、瞳も
けれど、強い意志のこもった視線だけは健在だった。
「そんなの嫌だよ!! 政夫くんが報われないなんて嫌っ!!」
「どうして! 何でそんなに僕に拘るんだよ!!」
いくら、彼女が優しい女の子だからといって、ここまで噛み付いてくるのは想定外だった。
他の女の子は僕に対して、諦めさえ見せていたのに、鹿目さんだけはこうして僕の歪んだ信念を否定してくる。
「そんなの……政夫くんが好きだからに決まってるでしょ!」
途中で息を止めてから、吐き出された鹿目さんのその言葉は僕の思考を一時的に止めるほどの破壊力を秘めていた。
好き?
僕を?
こんな嘘とはったりくらいしか能のない僕を好き?
暁美の時は、彼女の心が孤独で弱っていたところに僕が手を差し伸べたから好意を持たれたという理由が分かっていた。
しかし、鹿目さんにはそれがない。
せいぜい、工場で二人して追い詰められた時の吊り橋効果が尾を引いているくらいしか思い当たらない。
でも、それだって時間が過ぎて、とっくに効果は解けているはずだ。
硬直する思考と身体。
「政夫くん」
傍に寄ってくる鹿目さんを呆然と見つめることしかできない。
言葉すら思いつかず、無言で立ち
「私は好きな人が幸せになってくれない世界なんて認められない」
身長の低い彼女は爪先立ちになり、そう言って僕の顔を前に引いた。
鹿目さんの顔がクローズアップされていき、僕の唇に柔らかい感触とほんのり甘い香りが広がった。
キスをされたと自覚するのに、およそ一分ほどの時間を要した。
そして、理解した瞬間、弾かれたように彼女から後退し、後ろにあった自分の椅子に
上半身だけを辛うじて起こして叫ぶ。
「ばっ……馬鹿じゃないの、お前!?」
素だった。
かつてないほど、素の自分の発言だった。
頭の中を真っ白にされた僕は自分の部屋の中でさえ出さない、本当に何も考えない無地の自分が出た。
「それが……皆にも見せない政夫くんなんだね」
「あ……」
指摘されて口元を覆う。
だが、吐いてしまった言葉が消える訳でもないので、その行為は何の意味ももたらさなかった。
鹿目さんは上半身だけ起こした僕の傍に膝をついて、正座をするように座った。
「政夫くん」
彼女は優しく僕を抱き締めた。
僕の腋の下から両手を通して、背中に回す。
柔らかくて、温かい感触が身体を包み込んだ。
「私は政夫くんが自分にも優しくなってほしい」
穏やかな僅かに甘い女の子特有の香りが鼻腔に届く。
自然に涙が涙腺から、滲み出してきた。
誰かを抱き締めることはよくあった。でも、誰かに抱き締められるのは六年ぶりだった。
だから、忘れていた。
抱き締めてもらえると、どれだけ心が安堵するのかを。
「う……うう……」
ひょっとしたら、僕はずっと誰かにこうしてもらいたかったのかもしれない。
嫌いになってしまった自分を許してもらいたかったのかもしれない。
「うああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
涙が止まらない。
声が抑えられない。
感情が止め処なく、
僕は六年ぶりに人前で声を上げて泣いた。
鹿目さんは泣き叫ぶ僕を嫌な顔せず、ぎゅっと抱き寄せる。
僕も彼女の背にしがみ付くように腕を回した。
幼子が母親に抱き付くような、何もかも
どのくらいそうしていただろう。
涙が止まり、呼吸が元のテンポを取り戻す。
思考も落ち着くと、同級生の女子の胸で号泣したという事実に急激な恥ずかしさを覚え、抱き付いていた鹿目さんから離れる。
「あの、鹿目さん……ごめん。泣き出しちゃって」
「ううん。政夫くんの素顔が見れてよかったよ!」
「素顔って……」
にこっと目を細めて笑う鹿目さんにたじろぎながら、周囲に目を向けると椅子に座っていたはずの皆は知らぬ間に僕と鹿目さんを囲むように立っていた。
一番僕の傍に居た織莉子姉さんが、僕に尋ねるように聞く。
「まー君。他にも謝るべき相手がたくさん居るんじゃないかしら?」
僕はもう一度皆の顔を眺め回した。
誰もがまっすぐな瞳を僕に向け、俯いている人は一人も居ない。
「酷いことを皆に言いました。……本当にごめんなさい」
「まだ言葉が足りないわよ? 夕田君」
今度は巴さんが僕に発言を促す。
一瞬、それが何だか分からなかったが、すぐに気が付く。
そして、頬を掻きながら口に出した。
「これからも……僕の友達で居てください」
一斉に異口同音の答えが僕に返ってくる。
今まで一歩離れて見ていたはずの『優しい世界』は気が付かない内に僕を取り囲むように存在していた。
――もう少しだけ自分に優しく生きてみよう。
憧れていた『優しい世界』はここにあった。
いやー、まどかがメインヒロイン度高いですね。
でも、これ残念ながら、ほむらルートだから、何があろうと政夫とくっ付く事はありませんけど。
政夫の歪んだ信念は、まどかの愛に完膚なきまでに叩き潰されました。
政夫的にはもうこれ以上にないハッピーエンドですね。ここで終わった方が彼にとっては幸せでしょう。
でも、これ、ほむらルートだから仕方がないですね。うん。
それと活動報告にも書きましたが、『第九十一話 たった一つの願い事』にニュゥべえの挿絵が付きました!
やったね! ニュゥちゃん! 挿絵が増えるよ!
すごく、あざと可愛いのでぜひ見てあげてください。
書いてくれた絵凪さんには心から感謝を申し上げます。