「……南雲機動部隊?」
――南雲機動部隊。かつての世界、史実においては日本最強、どころか世界最強ですらあった空母機動部隊。
「はい、私の装備が到着したことで、この艦隊は正式に空母機動部隊として完成しました」
黒髪、少しだけ透き通るような糸紡ぎ。ロングのストレートは、飾らないが、その分楚々として、それそのものがひとつの宝石であるかのようだ。
――彼女と、満の身長はほぼ同程度であった。満が低身長だったのではない。彼女が高身長だったのだ。
「空母機動部隊、か。……よくわからないな、それはすごいものなのかい?」
満はあくまで無知で彼女に問いかけた。すると、温厚な彼女にしては珍しく、少しだけむっとしたような表情で、ジトッと満を睨みつけた。
多少冗談めかしたようではある。けれども、彼女の迫力に、満は思わず圧倒されるのだ。
「すごいものです。何せ空母――正規空母とは日本に六隻しかない貴重な艦種です。その内の一隻が参画する艦隊ともなれば、空母機動部隊は名乗らなければならないのです」
「……はは、それはまた。あーなんていうか、ごめんなさい」
「わかればよろしいのです」
そういってから、剣呑な視線を彼女は引っ込めて、それから優しげに笑みを浮かべた。ふと、気が緩んだようでもある。
「それで――? 南雲機動部隊というのは、その通称かな?」
「その通りです。南雲、というのは提督の苗字でありますが、同時に史実におけるある提督の名でもあります」
――南雲忠一。奇しくも満と同姓である、日本海軍の提督であった。歴史に名を残すほどの人物である。よくわからないが、史実と同じ名を冠するというのは、満としても悪い気はしない。
「へぇ……南雲、か。僕はその名前に、ふさわしい提督になれるかな?」
「どうでしょう。でも、なれないなんてことは無いと思います。提督は、まだまだ前に進むことができますから」
――彼女は、満を決して否定することはしなかった。希望を語る彼を、側でただ見守っていた。だからこそ、満はその希望を信じ続けることができたのだろう。
信じた希望を、自身の手で終わらせるその日まで。希望以外の何かでもって――前を見据えるその日まで。
「これは南雲機動部隊の栄光をこの手にする、という意味でもあり、同時に提督が道を間違えないよう、という戒めでもあります」
「戒め――?」
「そうです。史実において南雲機動部隊は多くの慢心によって壊滅しました。同じ轍を提督が踏まないように、と」
つらつらと言葉を並べ立てる彼女は、凛として、整然として、南雲満の前にある。――思わず見惚れてしまいそうなほど、彼女の姿は満の意識を大いに掴んだ。
――それが恋であるということに気がつくのは、もう少し先の話。
「……それは言いな! 実にいい。南雲機動部隊か……」
今はただ、右も左もわからぬままどことも知れぬ世界に放り込まれて、それでも一人の女性に救われた、少年が一人、救った女性と共にいる――
♪
カスガダマでの戦闘を終えたものの、それ自体は単なる前哨戦である。カスガダマには未だ多くの深海棲艦が潜んでいた。それと同時に、装甲空母鬼が再びカスガダマを奪取したのである。
復活した、ということでもあり、そしてそれは想定されていたことでもある。何せ装甲空母鬼という変種が出現するほど深海棲艦の発生源である怨念が吹き溜まっている海域だ。一度では済まないことくらい、だれでも解ることではあったのだ。
かくして、それから数度の海戦が行われた。そのたびに少なからず被害はでたものの、そのたびに南雲機動部隊は装甲空母鬼を撃破、海域から“嫌な気配”はそのたびに抜けていった。
おそらく次が最後になるであろうという前哨戦を終えた夜のこと、金剛は一人夜風に当たっていた。正確には一人ではない、一人であろうとしたのだが、直ぐに姉妹艦である榛名が金剛に気が付き、その側にやってきていた。
波止場に腰掛けて、海を物憂げに眺める様はさながら深窓の令嬢ではあるが、彼女は生来の賑やかしだ。榛名に気がつくと、即座に憂いを帯びた顔を引っ込め、笑みを浮かべて応対する。
「オー、榛名、どういたしましたカ?」
「お姉さま、こんなところにいたのですね? そろそろ夏になろうかというところではありますが、夜は寒いです。体が冷えてしまいます」
寂しげな長女を気遣ってのことだろう。榛名は開口一番そう告げた。とはいえ、金剛を無理にその場から引き剥がすつもりもないらしく、金剛の横にペタン、と座り込んだのであった。
「そうは言いますが、私はヴェリーヴェリーストロングな艦娘デース。そう簡単にヒエーてなどいられまセーン!」
「艦娘が冷気に強いのは換装があるときだけです!」
パッと、詰め寄るように榛名は言った。思わず気圧されたのだろう、苦笑気味に金剛は弁解する。
「ソーリーソーリー、艦娘も無敵ではありませんからね、精進精進ー」
とはいえ、そう言って誤魔化すには、そも自分の感情がそれをさせてくれなかったのだろう、直ぐに金剛はまたもの寂しげな顔をして、言った。
「……少しだけ、このままにさせてくだサーイ。直ぐに戻りますから」
風邪をひくなら、自分一人でもいいだろう。そうやって金剛は、から笑いをしてみせた。榛名は一瞬表情を歪ませて、それから決意を決めたように瞳を鋭くした。
「嫌です」
「……え?」
「私も一緒にいます。おねえさまが寝るまで一緒にいます。だから、嫌です」
思わぬ答えだったのだろう。金剛は、榛名に言い切られてからもまたしばらく目を瞬かせていた。その間、あっけにとられたような表情で、口はずっと開けっ放しだ。
そうしてから、ようやく浮かべた笑みは、普段の彼女らしくはない、それでも先ほどのから笑いよりはずっと自然な笑みだった。
「榛名は、悪い娘デース」
「ふふ、榛名を悪い娘にしたお姉さまは、もっと悪い娘だと思います」
「それもそうでしたー」
二人揃ってすごく悪い子だと、互いに含むように笑いあった。
そうしてから、少しだけ空白が夜に溶け込んだ。海面は闇に濡れ、水平線の向こうには手を伸ばしても届かない、小さくて丸い月。黒ずんだ空を照らす白肌。
辺り全てにばらまかれた星々と、それに照らされ少しだけその存在を示す雲。もはや幻想としか言えない世界で、金剛と、榛名は二人きり。肩を並べ合って、それを眺めた。
やがて、話を切り出したのはやはりというべきか、金剛であった。
「……私は提督が好きです。山口提督ではないです。私の提督が、デス」
最後だけ、戸惑うように言葉を濁らせて、彼女はぼんやりと、一人の少年――一人の男の事を思い浮かべた。
「ただ、提督はやっぱり私を見てくれるわけではありません。……辛いというわけではないデス。ただ、それでも良いという自分と、それじゃ我慢できないという自分がいる、それだけデース」
ままならない感情。というのは、何事にもあるもので、まさしく金剛はそれだ。割り切れないのではない。割り切ったからこそ、辛い。割り切ったのに未練を感じる自分が、あさましく思えてしまうのだ。
「それは、別におかしなことではないのでは? ……ごめんなさい、榛名にはお姉さまを助けられそうにないです」
榛名には、かけられる言葉が無いように思えた。金剛が答えをだすしか無い問題を、榛名はどうすることもできない。
そもそも、艦娘にしろ、提督にしろ、榛名の周りには心の強い者が多い。榛名が何かを言う前に、一人で完結してしまう者がほとんどだ。そして――金剛もそうだ。
「榛名には、なんでもいいから話を聞いて欲しいのデース。不幸自慢ですから、同情してくれないと、それはとってもサッドデス」
「お姉さま……」
「ふふ、金剛はとっても悲しいのデース。バッドでバッドで、ヴェリーバッドで……」
金剛は、右手をかざして空を仰いだ。月影は手を焦がし、金剛の瞳は青に揺れ、どことなくきらめいて見える。
「でも、やっぱり好きになっちゃうって、感情って、一人じゃ全然どうしようもないネ」
それはきっと、金剛の本当の本当に、心の底から漏れだした本音なのだろう。金剛と榛名の付き合いは決して短くない。それでも、その短くない付き合いの中で、ここまで金剛が意思を露わにするのは、初めてのような気がした。
「好きになって、どうしようもなくなって、そうやって思うデース。好きになることは理由があってなるんじゃなくて、“好きになっちゃう”から好きになるんだって」
語る彼女は、どこまでも一人の少女であって、いつまでも一人の恋する乙女であるのだ。金剛はその瞳を揺らめかせていた。意図したものではないだろう。意識してそれを抑えることだってできないだろう。
そういうものだ、人間というものは。
「別に誰かのためって言う訳じゃないデース。ただ自分のために、ただその人を愛していたいから……浅ましいかもしれませんネ。でも、好きネ。ラブデス。好きになって、好きで、好きで、好きで好きで好きで仕方ない。愛したくてたまらない」
それだけ思いを込めて、それだけ願いを溜めていたとして、それでも、それでもやはり金剛は――
「それでも――ダメだったネー」
金剛は、彼の愛する人を知っている。とても真っ直ぐで、とても強くて――そしてとっても、自分勝手な人だ。
「私も、それは知ってます。それだけは知っています。南雲提督のことも、あの人のことも榛名はよくわかりません、それでも、それだけは知っています」
「――勝手な人デース。でも、提督はそんな彼女を好きになったのデース。……そして、そんな提督は、彼女がいたから提督であれたのだと思いマース」
金剛は思う。金剛は満が、“面白い”存在であったころに出会った。それより前は、きっと“つまらない”存在であったはずだ。彼女が導いていなければ、満は何もできずに“頓挫”していたのだから。
自分自身、“金剛”に、それと同じことができるとは思えなかった。その一点において、金剛と彼女の間には差が生まれている。どうしようもない差。埋めようのない溝が。
「だから……」
金剛は、そこで詰まった。――事の次第はすでに満から聞いている。彼がここまで歩いてこれたのは、ある一つの事実があったからだ。
それを榛名が知っているのかと、ふと口を噤んで考えた。榛名は北の警備府旗艦であり、金剛と同じある事実を知る艦娘である。
深海棲艦の源流と、艦娘の源流が同一であるという事実。だからこそ、これから満がしようとしていることは、きっと榛名も知っているのだろう。
だが、知らなければそれは問題だ。ここで、金剛が語るべきことではない。
――そんな金剛の様子を察したのだろう。榛名はだから――と、続けるように言った。
「やはり、南雲提督は――いえ、南雲提督“達”は、“あの人”を救おうとしているのですか?」
――きっと、それはこの時、初めて明確に口にされたことなのだろう。金剛も、それを口にした榛名自身も、明確に意識を切り替えて、顔を見合わせた。
「こっちの提督とそっちの提督――決して、単なる師弟関係を築くために手を取り合ったわけでは無いのデース」
「そうですよね……結局のところ、こちらの提督にそれをする“利点”は結局無いわけですし」
それは、当たり前といえば当たり前のことなのだ。南雲提督と山口提督は、現在師弟関係のような形で連携を取り合っている。
だが、それは山口の心情を考えれば些か不自然だ。そして、そもそも“彼女”と親密であった加賀が、まさか南雲満の味方をするだろうか。しかも、南雲機動部隊に配属されるなど、状況がそれを許しても、加賀の心がそれを許すかどうか。
だというのに加賀は言った。――気にしていない。満と加賀の関係は、彼女が沈んだ時からだ。
山口と、加賀と、南雲満――三者を結びつけたのは、ある一つの目的だったのだろう。それがそう、彼女――南雲満の想い人を救うということ。
「提督に、フォトグラフは見せてもらいました。……時は来たのだと思います」
「――救えるのでしょうか」
「……考えはある、と。であるなら、きっと救えないことはないと思いマース」
二人は、そうして会話を一度中断させた。――それから金剛は何度か口を開こうとして、そのたびに失敗させた。
大きく何度も深呼吸をして、ようやく次を口元から運び出した時には、すでに数分も時間が立っていた。
「私は――あの人を救いたい。たとえそれがどれだけ自分を苦しめるとしても。だから榛名……」
一拍。
「――私に、力を貸して下さい」
言葉とともに漏れだした何か。榛名は金剛の顔を見ることはしなかった。ただただ俯いて、何かをこらえるように――一言、ハイ、とだけ答えた。