空は思うように流れて行かない。雲はいつだって島風の上を流れているのに、どうにも島風はそれが気に入らないのだ。海に出るたび、空を遮るものがなくなるたびに島風は思う。
もっと速く。高速で流れていくフィルムのように、雲が水平線へと消えてゆけばいいのに。
彼らは表情を何度も変える。けれども彼らはのんびり屋、どれだけ島風が急かしても雲の速度は変わらない。それが変わる時があるのなら、それは島風が海を駆ける時。
鎮守府から出撃し、単艦で海を絶え間なく駆ける。遮るものは何一つ無い、沈む時だって、前に進む時だって、それを咎めないのが海なのだ。そんな一時は島風にとって最もかけがえのないものの一つである。
「提督ー! 聞こえますかー!」
とはいえ今は出撃の真っ最中、ここで手を抜いては間違いなく赤城に冷たい目を向けられるだろう。しかも笑顔でだ。これほど怖いことはない。
なんとなく、信頼できない理由もないのに、信頼出来ないのが赤城という艦娘なのである。
『あー、こちら鎮守府だ。島風の方は問題ないか?』
通信の相手は提督、南雲満だ。当然側には赤城が控えているだろう。満の心配そうな声音は電子音では隠しきれてはいない。しかし同時に、隣にいる赤城に対しての信頼もあるのだろう――無論、旗艦島風に対しても、だ――さほど気負いはないように思える。
鎮守府に着任して、提督としての初仕事。経験など一切ないはずだというのに、彼の様子は平然そのものだ。
面白い少年である。左官として鎮守府一つを任せられるには圧倒的に経験不足であろう年齢で、しかしその年齢に見合わない規格外の冷静さ、そして同時に知識面での未熟さも、また。
提督が、普通の事情でこの鎮守府を任されてはいないことくらい、島風だってわかっている。前例のないことは、まず行うだけの合理的な理由が必要だ。
それを見極めてみるのも悪くない。駆逐艦島風は、一応歴戦をくぐり抜けてきたエリートなのだ。
「問題はないですよー! 通信機は小型ですからね。音質は悪いですけどどこでも交信できますし、海の上を“走る”にも、戦闘するにも問題はないですよ?」
『走る……ね。そういえば疑問なんだが、艦娘は決して船にのるわけではないんだろう? だったら一体、どうやって海の上に浮かぶんだ? 泳いでいくわけじゃないだろう?』
「あー、艦娘の種類によりますけど、私みたいな軍艦型の艦娘は海の上を“走れる”ようになってるんですよ。赤城さんの靴なんかみるとなんとなく想像がつくんじゃないですか?」
島風が応えてから、すぐに返事は来なかった。大方赤城の足を見ているのだろう。もしかしたら、ミイラ取りがミイラになって、今は赤城の足に見惚れているかもしれない。提督だって男なのだから。
などと全くもって無責任なことに思いを馳せている内に、赤城の苦笑気味な声が、島風のもとに届いてきた。
「それでですね、とりあえずまずは鎮守府正面に出撃してください。羅針盤は回さなくていいので、すぐにつくと思います」
困った様子の彼女から、勝手に島風は照れているのだなと決めつけるといたずらっぽく笑い、それからすぐに頷いた。
「了解しました!」
両手で風を掴むように、阻むように大きく広げる。体いっぱいで風を感じながら、水上で静止していた島風はゆっくり前に進み始める。
――最大速度40ノット超。時速にして70キロを超える世界最高峰の高速駆逐艦、島風。
揺らめくスカートをたなびかせ、少しずつ、己のトップスピードへと、ギアを切り替えてゆく。
「島風、出撃しまーす!」
やがて島風は、海を二つに切り裂くような痕を残して、鎮守府正面の、港から姿を消していった――
♪
「今回想定される深海棲艦の駆逐艦です。おそらくは島風一隻に対して敵も一隻、一騎打ちの形になるでしょう」
通信を――切ったわけではないが、一度置いて、赤城の話に満は意識を傾ける。接敵まで数分。島風の全速力でも少し時間があるそうだ。その間に今回相対する敵艦の戦力を満は赤城に問いかけていた。
その答えだけで、疑問が終わるわけではない。
「解るのか?」
「他の鎮守府でもそうですが、鎮守府周辺に敵はほとんどいません。ですので近づいてくるのは別の艦隊が壊滅した際のはぐれか、そのはぐれ艦隊が出した偵察くらいなものです」
一つの戦力が近ければ近いほど、敵はそこには近づかなくなる。アタリマエのことだ。もしそうでない艦隊がいるとしたら、そこが敵の拠点であることに気が付いていないのだ。
「まぁ、さすがにここまで来たらこっちから補足して殲滅に行っている、か。正直現在のこの鎮守府の戦力じゃ、大型の艦隊に来られても困るが」
「あちらは本拠地から出てくることは中々ありませんよ。それに不毛な鎮守府特攻よりも、商船を叩く方が理にかなっているのは、理解しているようです」
敵が人間ではなく、闘うのが兵器を背負った少女であるという点から見落としがちだが、深海棲艦との戦いは戦争である。現状違いにそれぞれの拠点、それもダメージを与える上で致命傷となりうる程の決定的な本拠地には、一歩足が伸びていないのが現状だ。
そもそも、艦娘も、そして深海棲艦も、人の手の届かぬ場所から生まれてくる存在だ。この戦いに終わりはなく、そして同時に始まりすらも忘れられてしまっているのである。
それでも戦争は戦争だ。結果としての死がひとつの可能性としていつだってありうるのだし、いつか終りを迎えるその時まで、戦争という事実を忘れることはできない。
「戦争が恒常化し、人々の中で深海棲艦との戦闘が日常化して久しい中、私たちはそれを忘れないようにしたいものですね」
「戦争は、長引いても長く起こることがなくとも、人々から忘れられるってところかな。少し、ピンとこない話だけど」
満は戦争を延々と続けてきた世界を知らない。しかしその世界が、戦争を長く忘れてきた世界のそれとさほど姿を変えないというのなら、それはある種の皮肉であり、どうしようもない時流とでも呼ぶべきものだった。
――そんな折、沈黙していた島風の、機械越しの甲高い声が提督の座する執務室に響き渡った。
『敵艦見ゆ! これより砲雷撃戦入ります!』
それは、戦闘開始の合図だった。
♪
敵の数は一、種別は駆逐艦ハ級。それぞれ敵艦船は弱いものから「いろは」順に名を付けられ、この駆逐艦はその三番手。三種類存在する駆逐艦の中で、装甲が特に高い種類である。
とはいえ相手はたかだか駆逐艦。少なくとも単騎で駆逐艦の最高峰、どころか戦艦にすら比肩しうる実力を持つ島風には、到底及ばない程度の相手だ。
通常であれば、の話だが。
たとえ敵との間に大きな差があろうとも、彼らは時には必殺となりうる火器を存分に操ってくる。直撃すれば島風とてただではすまないだろう。
「――それを考慮した上で、勝利するための戦略を練るのは、実際に戦う私たちですよ、提督!」
未だ途絶えない無線の向こうで、何かを考えるように沈黙する満に対して語りかける島風。呼吸の間すら与えず後方へ消えてゆく無数の雲は、水平線の向こうに見える深海棲艦が駆逐艦のハ級へとつながっている。
『それは……そうだろうな。君たちに僕が乗艦することはできないのだからな』
「えぇ、だからそこで待っていてください。必ずや、完全勝利で終わらせて見せますから」
『了解した』
端的な返事を持って通信を終える。ここから先は島風の戦場だ。報告が必要ならばする、しかしそれをする必要がないのだから、後は目に映る敵を、叩き潰すだけでいい。
戦闘の合図は島風の主砲、『12.7cm連装砲』。それを模した兵器妖精と呼ばれる、魂のみを拠り所とした動物程度の意思を持つ特殊な兵器。
響き渡る音は衝撃となり海を割る。発射のために急停止した島風の速力による反動を伴って、島風の後方、波が大きく、吹き上がる――!
空気を文字通り“抉る”用に噴出する弾丸は、即座に駆逐艦ハ級の元まで接近すると、その上方をかすめて、消える。
「――外した!」
ろくに狙いも付けずに、開幕の一撃として放った一発だ。当たるとは思っていないし、そもそも当てるつもりすらない。だがそれにより、得られた成果がひとつ、ある。
島風が第一射を放った時、駆逐艦ハ級もまた一つの行動を見せていた。後方への退却、すなわち逃亡である。この一発にはそれを防ぐ意味がある。背を向けようとしたその瞬間、逃さないということを明白にするかのように、駆逐艦ハ級の後方で特大の爆音と水しぶきが噴出したのである。
浮かび上がり島風の足元まで伝わってくる波の揺れを感じ取ると、即座に島風は身をかがめ、最大速力で水上を駆ける。音はない、置き去りにするほど、彼女は速さを信奉している。
狙いをつけようとして、やめる。これ以上は無駄弾だ。そもそも目視では水平線に浮かぶ異物程度にしか見えない敵を、どう射抜こうというのか、島風の射撃精度では到底むりというものだ。
しかし敵にはそれを考える余裕すらないのだろう。砲雷撃戦第二射目は、駆逐艦ハ級のそれであった。音を置き去りにするほどの爆発的な加速を伴う砲弾は、しかし島風には届かない。
それから何度も駆逐艦ハ級の連打が続く。目的は明白だ。照準をあわせている。全速前進で進む島風を、必死に捉えようとしているのだ。
「撃ちながら後退して、逃げ切れるはずないもんね!」
撃つ、撃つ、撃つ、撃つ。何度も何度も何度も何度も、繰り返すように発射する。その感覚はやがて少しずつ早くなっていくのだ。何としても島風をうがとうという一閃は、幾重にも広がる弾幕へ変わる。
それでも島風は止まらない。己を穿ちうる、一撃がないことを知っているから。焦らない、たとえ一発一発が、少しずつ己に近づいてこようとも。
その時、島風の進路上を一発の砲弾が真正面から通り抜けていく。無駄に思えるような乱発が、しかしここで島風を捉えたのだ。そして敵もそれを偶然のまま終わらせるほど、低い練度をしていない。
即座に照準を固定させると、構え、そして放つその一瞬まで――トリガーに手をかける直前にまで持っていく。
しかし、穿つはずだった島風が、消えた。
――すでにその進路上から、駆逐艦島風は消え失せていたのだ。
衝撃。単なる棲艦の末席に過ぎない駆逐艦が、果たして感情と呼べるものを持つのか、それはまったく定かではないが、それでも目の前から消え失せた島風を追うその姿は、右往左往し驚愕しているようにしか、見ることはできない。
それが解るほど、島風の行動は圧倒的だったのだ。
消え失せる、など普通ではない。島風はそんなありえないとしか言い用のないことも、当たり前のようにこなしうる“速度”を持つ。
その上で、駆逐艦もまた優秀だ。即座に高速で“ずれた”島風を発見、射線を合わせる。すでに両者の距離は目視で測れるほどに接近していた。弾丸の先に、敵を映すのはさほど難しいことではない。
一つ、二つ。まずは駆逐艦ハ級の音を切り裂く一条が奔った。
耳を劈くようなそれ、弾丸は直後島風の“いた”照準の先を、通り抜けていった。
そう、いた。島風は直前までそこにいた。だというのにそのすぐ直後にはもう、その場から離れ、更に駆逐艦へと接近しているのである。
「あはは、その程度じゃ島風にはあたらないよ! 速度が足りてないんだから!」
何を、したか。
単純である。砲弾を、“見てから”即座に回避したのだ。
迫り来る速度は音速を超える。しかし島風に到達するには、ある一定以上の時間を要する。それは一瞬ではない、それ以上に短い刹那だ。その瞬きほどの一時で島風は見切り左右へ回避する。
まさしくそれは、弾幕、弾丸のカーテンを切り裂いていくかのような、電光石火の閃きだ。
両者の距離が、あっという間に詰められていく。一刻の猶予はない、すでに島風は駆逐艦ハ級をその一瞬で“捉えて”いた。
迫る。迫る。迫る。
もう一刻の猶予はない、あるのは駆逐艦ハ級が島風を捉えるか、島風が駆逐艦ハ級を轟沈させるか、その二択。その決着に、一秒という瞬間は短すぎるものだった。
島風の体が、いよいよ持って加速する。最速40ノット、それは前方にいる駆逐艦ハ級にすら威圧を与えてしまうほどのものだ。
駆逐艦の砲塔が、寸分違わず島風を狙う。発射されれば確実に中破、ないしは大破すらもありうるクリティカル確実の状況で、それが一発放たれる。
時間が歩みを止めたように、シャッターを切る一瞬へ変わった。
近づいていく双方。必殺のそれと必中のそれ。交わるように弾丸は、やがて島風の眼前へと迫り――――
――その後方へ、通り過ぎていった。
島風は身をかがめ、弾丸が耳元を横切るように回避。その上で、すでに彼女は兵器妖精、二丁の『12.7cm』を構え終えていた。
「じゃあね。海の、怨念さん!」
超至近距離、土手っ腹を“殴りつける”かのように放たれたそれは、何ら留まることすらなく、駆逐艦ハ級へと直撃。さしものハ級も、この至近距離から砲撃を受けて耐え切ることは不可能だ。
その一発で、戦局は完全に決していた。
♪
『というわけで、完全勝利ですよ、提督ー』
のんきな声が再び繋がった無線から響いた。そこから聞こえてくる声は、何ら先ほどと変わりなく満の耳へと届いてくる。何にせよ、戦闘はこれで終了だ。
予定通り、後は島風を帰投させるだけ。
「ご苦労だった。ではこれで――――」
それを口にしようとして、しかし、それは島風の声によって遮られた。
『それで提督、』
思わず、と言った様子で口をつむぐ満。しかし島風は全く来にした様子もなく、次を続けた。確かめるように、問いかけた。
『“進撃”、しますか?』
まず、思考に空白が生まれた。満の想定から飛び出した答えだ、無理もない。その上ですぐさま、意味を理解した上で問いかける。
「……どういうことかな?」
ちらりと、赤城の方を見ようとして、やめる。今話しをしているのは満と島風だ。間違いなく島風は、赤城の存在を考慮してはいないだろう。それで満が赤城に頼っては、ある種マイナスであることは、間違い用もない。
その上で、言葉を待つ。
『私は無傷です。このまま前進しても問題はないと思います。進撃して、敵の主力を叩ければ今回の任務は終了するはずです』
「なるほどな、一理ある。……それで、勝算は?」
まずは、そこ。何を判断するにしても満には圧倒的に情報が足りない。足りないのなら、その場で聞いて補う以外に方法はないのだ。
『あります。間違いなく戦闘は単対複数の戦いになりますが、旗艦さえ潰せばいいのなら、敵をかいくぐってそこだけ潰してきます。……戦術的勝利なら、見込めるんじゃないかな』
すべてを潰すことは不可能だ。弾薬も、燃料も足りず、圧倒的に不利な状況で島風は戦わなくてはならないのである。
「了解。……一言聞かせてくれ、できるか?」
情報は、得た。ならば後は、島風本人の意思である。今日のように進撃を望むのか、その上で勝利を保証してみせるのか。満は一言、問いかけた。
『やって見せますよ。不可能なことじゃないですから』
答え。
満は顔を伏せ沈黙した。満だけでない、応えた島風も、そして見守る赤城も全員、たっぷり沈黙を保ち続けた。それはほんの数秒であるはずの出来事。
だというのに感じられる時間の規模は、永遠とも、無限とも取れるほどのものだった。
そして、たっぷり悩んだ満が、ゆっくり顔を上げ、宣言する。
それは、
「――ご苦労だった。第一艦隊は即座に撤退、これより鎮守府に帰投せよ」
『はいっ! わかりました!』
即座に島風の、返答を呼んだ。そこで通信は途絶える。必要はないと島風のほうが判断したのだろう。実際満も、すぐにこれ以上の通信は必要ないと、どことなく前かがみになり詰め寄るような形になっていた通信機から離れ、司令室の椅子に、どかっと体を思い切り良く預けた。
革のこすれるような少し重い音が、響いて窓の外へと消えた。
「お疲れ様です」
そんな満に、赤城が優しげな声で話しかけてくる。
「あぁ、おつかれ」
そうやって吐き出した満の言葉は、必要以上の緊張が見て取れた。平然としているようでどこか大きな緊張はあったのだな、と満のみならず赤城すら感心したようにそれを見る。
「……最期の判断、もしあそこで進撃を選んでいれば、私は即座にあなたを提督から解任するよう上層部に掛け合っていたと思います」
「だろうね。……まったく島風も人が悪い。明日には第六駆逐隊が到着する。それを待つのが普通だろう。今日は、むしろイレギュラーな出撃だったんだからまったく」
「島風は、勘のいい娘ですから。こうやって、必要なこともしてくれるんですよ」
側によった赤城が、満の髪を一度、二度なでる。きっと、彼女にとって満は少し年の離れた弟のような少年なのだろう。そうやって考えれば悪くない。嬉しいという気分なのだろうと感情に思いを馳せながら、
――満は、緩んだ瞳で眼を細めるのだった。
ヒトロクマルマル、提督の皆さん、心機一転夏の終わりを感じる皆さん、こんにちわ!
今回は島風の初出撃をお送りしました。
連日更新は今日までとなります。明日からは大体三日ごとの更新となるので、次の更新をお待ちください!
次回更新は9月4日、時刻同じくヒトロクマルマルにて、またお会いしましょう!