仮面ライダーディケイド Another End 作:オンドゥル大使
遠くの潮騒の音が、不意に耳に届いた。
その音に気づき、青空に固定していた目を向けた。打ち寄せる波が砂浜を浸食し、黒色の足跡を刻む。砂浜はすぐに乾き、波が刻んだ足跡を打ち消していくが、その上からさらに波が覆いかぶさり、先ほどよりも大きな黒色を刻み付けた。その反復運動が数メートルも離れていない場所で繰り返されている。
遠い、と思った潮騒は意外と近くにあったのか。そんな感情が彼の中に浮かんだ。彼は体重を柔らかく受け止める砂浜の感触を裸足の裏に感じながら、ゆっくりと海に向けて歩みを進めた。近づくほどに、淡い潮の香りが鼻腔をくすぐった。
少し顔を上げると、晴天の眩しい青が網膜に突き刺さる。まるで久しぶりに見たかのような感覚に襲われ、彼は視界を埋め尽くす青に目を細めた。
空の青は水平線で海の青と交差し、それぞれ溶け合って境界を曖昧にしている。ともすればどちらの青が本物なのか分からなくなってしまいそうだと、彼は思ったがその思考がどうでもいいことだとすぐに気づいた。
本物、偽者などということは、どうだっていい。ただこの光景を永遠にしたい。
彼はそう感じ、首から提げたトイカメラを持ち上げた。そのレンズのピントを水平線の中心に合わせ、彼はシャッターのボタンに指をかけた。
乾いたシャッター音が潮騒に混じって響く。彼はトイカメラから排出された写真を手に取り、それを見つめた。
だが、目の前の美しい光景はそこには収められていなかった。
あったのはぐにゃぐにゃに曲がった水平線らしきものと、紫色の海と血のように赤い空だ。彼は写真と実際の光景を何度も見比べた。
おかしい。そんなはずがない、と何度もシャッターを切る。しかし、撮影された被写体はどれも一様に歪んでいた。
わなわなと震える指先から写真達が零れ落ちる。彼は失意のまま膝を折り、「どうして」と呟いた。
「……何故、写真が撮れない。何故、世界は俺を拒絶する」
その時、不意に砂浜を歩く足音が耳に入った。どうやらこちらに近づいてくるようである。彼はその足音の主に視線を向けた。
瞬間、彼は驚愕に目を見開き、慄かせた。
そこにいたのは白いコートを羽織った青年だった。首からは自分と同じデザインのトイカメラをぶら提げている。それはまるで自分の分身、いや、自分そのものだった。
彼は立ち上がり、歩いてきた青年を見据え、震える声で尋ねた。
「……誰だ? お前は」
その声に青年は足を止め、澄んだ瞳で彼を見据えた。その瞳の中に映る黒いコートの自分の姿に、やはり自分自身だと彼は感じた。
青年はゆっくりと口を開き、応える。
「――門矢、士」
その名に彼は驚愕した。思わず、言葉を返す。
「ふざけるな。俺が、門矢士だ」
彼の言葉に、門矢士と名乗った青年は残念そうな顔をして首を横に振った。
「確かに、そうだった。だけど、今は」
門矢士の澄んだ瞳が彼へと向けられる。その瞳に映り込んだ自分の姿が紫色の鎧を纏った異形の悪魔になっていることに彼は気づいた。覚えず、手元に視線を落とす。手の甲を紫の鎧が覆い、生身の部分は黒くなっている。
「……これ、は。どうなっているんだ。俺は、誰なんだ?」
「世界の破壊者、ディケイド。それが、お前の今の名前だ」
門矢士が彼――ディケイドを指差し、告げる。その宣告に、ディケイドは眼前に震える指先を翳し、自らの顔に触れた。そこにあったのは人間の顔ではない。黒い板が突き刺さり、角のようになっている。掌越しに感じる複眼の感触が、体温のまるで感じられない体表が、人ではないと物語る。
「俺は、何者なんだ? 何だ、この手は? 何だ、この顔は? 何なんだ、この鎧は? ……俺は、どうしてこんな姿に」
眩暈のような感覚に、ディケイドはふらついた。門矢士はディケイドへと、ゆっくりとした歩調で歩み寄る。
「お前はディケイドだ。この世界にいる限りはな。だが、まだ繋がりが消えたわけじゃない」
門矢士はディケイドと真っ直ぐに向かい合い、緑色の複眼を臆さず見つめた。その眼に宿る強い意思をそのまま体現したような口調で、門矢士は言葉を発した。
「――士。消えるな」
それは切実な願いのようでもあった。その言葉にディケイドは何も言葉を返せなかった。
潮騒が遠くに消え、青空が灰色の雲に覆われていく。また、あの見知った世界に戻るのだ、とディケイドは感じた。『ライダー大戦の世界』。世界の破壊者としてしか、存在できない歪な世界への扉が音もなく開く。
灰色が世界を覆い尽くす瞬間、門矢士はもう一度、ディケイドに向けて言葉を放った。だが、その声は突然降りてきた灰色に遮られた。
だが、それでもディケイドには門矢士が最後に言った言葉が理解できていた。
「……自分自身のために、戦え」
それをディケイドはまるで自分の言った言葉を反復するように口にした。
誰かに身体を揺さぶられ、門矢士は薄く目を開けた。
「……くん。……かさくん。……士くん、起きてください」
覚醒の途上にある耳に、断続的に自分を呼ぶ声が届く。その声に、士は顔を上げた。ぼやけた視界の中に、自分の紫色のトイカメラが揺れているのが見える。その上に視線をやると、こちらを見下ろす夏海の顔が映った。
「――夏海。どうして」
「心配だから戻ってきたんです。……やっぱり、放っておけなくて」
少し伏せったその顔が、先ほどまで見ていた自分の顔と重なり、士は眩暈のような感覚に襲われ、思わず額を押さえた。押さえた掌の表面に体温を感じる。それに士はハッとして、顔を手で触れた。複眼も角の感触も感じられない。
「大丈夫ですか? 士くん」
夏海が士の様子がおかしいと感じたのか、顔を覗き込んできた。その瞳には、黒いコートを着込んだ自分の姿が映っている。
ディケイドではない。門矢士としての姿だ。
「……夢、だったのか」
自身の手に視線を落としながら士は呟いた。
だが、夢にしては現実味を帯びすぎていた。波打ち際から香る潮の匂いも、打ち寄せる潮騒の音も、もう一人の自分が発した言葉も全て夢だというには感触が明確すぎる。蓄積した経験を整理する夢の中の出来事というよりは、まるで別の世界に行っていたような感覚に近かった。
「……士くん。何を言っているんですか?」
夏海が怪訝そうに士の顔を見つめている。士はその言葉でようやく現実に引き戻された。立ち上がりかけると、胸を横一文字に走る痛みに顔をしかめ膝を折った。ブレイドにつけられた傷跡を思い返し、士は胸に手をやった。傷は塞がっているようだが、傷口を覆うざらざらとした皮膚の感触が気色悪かった。
だが、出血していないのならば動ける。そう思い、奥歯を噛んで痛みを押し殺し立ち上がった。
その時、夏海が士のコートを掴み、「駄目です。まだ、傷が」と叫んだ。士はコートから夏海の手を引き剥がし、突き放すように言った。
「平気だ。それよりも、なぜここに戻ってきた? ライダー達のもとへ戻れと言ったはずだ」
その言葉に、夏海は俯いて首を横に振った。
「……もう、ライダー達はいません」
夏海の口から放たれた意想外の言葉に、士は座り込んだ夏海へと視線を落とした。
「それは、どういうことだ?」
夏海は俯いたまま不自然な様子で立ち上がった。それはまるで上から糸にでも吊るされて、無理矢理立たされたように士には見えた。
「言葉通りです。もう、いないんですよ。ライダー達は。残りのライダーは、あと一人」
「……あと、一人。馬鹿な。クウガのほかにキバがいたはずだ。だったら、あと二人なんじゃ――」
「そのキバは、先ほど殺しました。私の手で」
夏海が俯いたまま、無感情に言葉を並べる。その声にはまるで現実感がなかった。誰かに舌を奪われ、与えられた言葉を言わされているような感じだ。士は言い知れぬ不信感と共に言葉を搾り出した。
「何を、言ってるんだ? 夏海。……夏海、だよな?」
最後の言葉は思わず士の口から出たものだった。目の前の夏海が士の知っている夏海とは思えない。その疑問がつい口をついて出たものであり、全く確証などなかった。だが、夏海は士のその言葉を聞き、徐々に肩を振るわせ始めた。
嗤っているのだ、と気づいたとき、士は寒気を覚えながら口を開いた。
「……お前は誰だ?」
その言葉に夏海は顔を上げた。その眼は虚ろで何も映していなかった。感情を排した瞳で夏海は士を見つめ、言葉を発した。
「まさか、ばれちゃうとは思わなかったわ。流石ね、ディケイド」
夏海の声に混じり、何者かの声が嘲るように響き渡る。その声を士は知っていた。
「――キバーラか」
「当たり。結構、上手く化けられたと思ったんだけどなぁ」
おどけるような口調で夏海の姿のキバーラは言った。士は覚えず片手にカードを掴み、叫んだ。
「夏海はどこだ! 返せ、キバーラ!」
「あら。夏海ちゃんはここよ。この身体は正真正銘、夏海ちゃんのもの。なんなら試してみる?」
夏海が扇情的な眼差しを士に向け、自分の胸の中心に手を当てる。その言葉に士は激昂したように夏海を睨みつけ、カードを構えた。
「ふざけるな! なら、俺はお前を破壊する!」
激しい怒りを宿した士の視線を、夏海は事もなさげに受け止め言った。
「そんなに夏海ちゃんが大切なのね。でも、あたしにだって都合があるの。有無は言わせない。一緒に来てもらうわ、ディケイド」
その言葉と共に夏海と士を挟み込むように灰色のオーロラが出現した。咄嗟のことに士はディケイドに変身しようとカードをバックルに入れようとしたが間に合わなかった。
灰色のオーロラが夏海と士の姿を飲み込み、廃駅は元の静謐に包まれた。
静寂から一転して鼓膜を突き破るような音が響き渡った。
地を強く叩きつける弾丸のような音。一瞬にして体温を奪う冷たい雨。この世界に来てから何度も経験したスコールだった。泥の臭いが鼻腔に充満し、士は一瞬口元を押さえた。
士は状況を理解するために辺りを見渡した。先ほどまで目の前にいたはずの夏海の姿がない。周囲はコンクリートの壁に囲まれており、廃駅とはまるで違う場所だったが士は崩落した白い建物を視界の中に見つけ、ここがどこだか判別した。
ここは海東の隠れ家だ。同時に今朝方まで自分がいた場所でもある。何故、ここに戻されてきたのか。夏海、いや、キバーラの意図は何なのか。士は警戒しながら、スコールによって灰色に染められた景色の中を今一度見回しながら、歩を進めた。
歩くたびに泥が体重によって押し潰され、水溜りの底から気泡が上がった。先ほどまでの砂浜の感触とは正反対の不快な感触に士は顔をしかめる。
その時、士は視界の端に映ったコンクリートの壁に何かが凭れていることに気づいた。この雨風の中、それは微動だにしない。何なのだろうと、士はそれに向かって歩き出した。
一歩進むと、それが自分と同じほどの背丈だということに気づいた。二歩進むと、それが人間だということに気づき、なぜ全く動かないのかと疑問を覚えた。その疑問のまま三歩目を踏みしめたとき、ようやく、それが全く動かない訳とその人間が何者なのかが分かった。
士は目を見開き、コンクリートに打ち付けられた人物を見据え呟いた。
「……海、東」
呟いた言葉がスコールにかき消されていく。士は泥が跳ねるのも構わず走った。粘性を持った地面が士の足を何度か絡めたが、それを振り切るように士は海東に向けて灰色の景色の中を駆けた。
海東は腹を剣によって貫かれ、コンクリートの壁に固定されていた。血色が抜けきった白い顔を項垂れさせ、海東は沈黙していた。
海東、と士は呼びかける。しかし、海東は返事のひとつも寄越さずに風に煽られるまま首を傾けた。
もう一度、士は呼びかける。しかし、海東の唇は閉ざされたままだった。士は海東の肩を握り、揺さぶって叫んだ。
「海東!」
海東の首が何度か上下する。だが、海東が目を覚ますことはなかった。海東の肩から士の手が滑り落ちる。士はそのまま海東の足元で膝を折った。泥に手をつけ、懇願するようにもう一度、叫んだ。
「死ぬな! 海東! お前は、俺を倒してくれるんじゃなかったのか?」
その叫びは空しく、スコールの中に消えていく。士は顔を上げ海東の顔を見上げた。必ず、自分を倒す。そう言って不敵な笑みを浮かべていた面影はそこにはない。ただの屍だ。こんな場所に晒し者のように打ち付けられた、哀れな屍。
士は視線を海東の腹部を貫いた剣へとやった。その紫色の柄と、そこに刻まれた古代文字には見覚えがあった。
「クウガの、古代文字。まさか、ユウスケが海東を……」
「――その通りよ」
背後から響いたその言葉に、士は振り返った。そこには灰色のオーロラ越しに夏海が立っていた。士は立ち上がり、夏海を操っているであろうキバーラに向けて怒号を発した。
「お前が、ユウスケに海東を殺させるよう仕向けたのか! 答えろ! キバーラ!」
「――いや。彼自身の意志だよ」
士の言葉に応じたのはキバーラに操られた夏海の声ではなかった。夏海の後ろから新たに灰色のオーロラが出現し、そこからこちらに人影が歩いてくる。
ベージュ色のフェルト帽と、それと同じ色のコートを羽織った壮年の男だ。口元に笑みを張り付かせ、眼鏡越しの視線が士を射抜く。その視線を真っ直ぐに見据え、士は全てを理解したように呟いた。
「そうか。全部お前の筋書き通りというわけか。鳴滝」
鳴滝は士の言葉に、満足そうな笑みを浮かべながら頷いた。
「その通り。全てとはいかなかったが、ライダー達と貴様はほぼ私の思惑通りに動いてくれた。俯瞰している身としてはとても気分がよかったよ。そして、ようやくこの時を迎えられた」
鳴滝が両手を広げ、スコールを割るように叫んだ。
「さぁ、最後の審判の時だ! ディケイド!」
その言葉が響いた瞬間、士は鳴滝に向けて駆け出していた。拳を強く握り、思い切り振り上げる。
海東の命を奪い、夏海を利用し、ライダー達をも利用した目の前の男に、白熱化した思考が叫ぶ。
――お前だけは許さない!
士は固く握った拳を鳴滝に向けて振るった。
刹那、灰色のオーロラが士の視界を遮った。