進撃の巨人 ―立ち向かう者―   作:遠野雪人

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第22話 トロスト区防衛戦⑨ ―近づいた真実―

 

 

 

 

 

「ジャン!」

 

 声に振り向けば、そこにはコニーを筆頭として見慣れた104期生を中心とした面々が駆け寄ってきていた。

 

「ん? 何だお前ら、わざわざ来たのか」

 

“その光景”を眺めていたジャンは「物好きな奴らだ」と言いたげな目をして言う。

 

 ジョシュアに付き合って細かな移動を続けているものの、基本的にジャンのその立ち位置は補給所より前衛よりだ。撤退を目的とするのであればここまで来る必要はないにも関わらずここまで来たのは、ひとえにジャン達を心配してのことだろうが……この状況で他人の心配をする必要もないだろうに、とそう思わずにはいられない。

 

 ――いや、その理屈で言うならあいつに付き合っている俺こそが「物好き」と言われるべきか。

 

 自嘲に顔をしかめるジャンに、ライナーが声を張り上げる。

 

「そりゃ来るだろお前ら残ってるんだから……! それより、何だこの煙!?」

 

 怒鳴り声を耳にしながら、よくそんな大声が出せるな、とジャンは思う。この戦場に身をおいてからそれなりに時間が経っているとはいえ、ようやく慣れ始めたばかりの身にこの臭気は流石に堪えかねるものがあった。

 

 ジャン達が屋根の上から見下ろす先は、幾筋も立ち上る白い煙に覆われていた。片手で足りる数ではきかない、視界を悪くするほどに白く煙る光景は遠目からでもよく目立ったことだろう。

 

「っ……この臭い、まさかこれ、煙じゃなくて巨人の蒸気か?」

「蒸気……? これ全部が!? 嘘だろ!?」

 

 瞠目する面々に、まあそうだろうな、と肩をすくめる。

 巨人の死体から発生する蒸気はその巨体に相応しく、一体だけでもかなりの量を放出する。それが無数に集まれば確かに、このような光景を作ることになっても不思議はないだろうが……理屈はともかくとしても、常識で考えれば「成程」と素直に飲み込めるはずもなかった。

 視界が煙るほどに巨人の死体を積み上げるなど――そんな常識外れの光景はいっそ悪夢といって差し支えない。

 

「それよりジャン、ジョシュアは一体――?」

 

 アルミンが駆け寄ってきてそう問いかけてくる。顔色も良く、最後に見た時のように魂が抜けているわけでもない。どうやら大丈夫そうだな、と息を吐いて答えようとした時、皮膚をびりびりと振るわせるほどの咆哮が空を奔る。

 

「あの巨人……さっきの奇行種か!」

 

 蒸気を裂いて現われた黒髪の巨人の拳が、自身にとりつこうとした巨人の一体の首を吹き飛ばす。その膂力に陰りは見られない。しかし身体に刻まれた傷は確実にその勢いを落としていると見えて、今も足にとりついてくる巨人を振り払おうと必死になっている。

 

「僕達より、あの奇行種の方を優先しているのか?」

「こっちを見向きもしねえところを見ると、どうやらそうらしいな」

 

 周囲を油断なく見回しながらライナーが言う。こちらへ来た人数は少ないとはいえ、それでも十人近くはいる。姿が目に入っていれば襲いかかってきてもおかしくはないはずだが、こちらへ駆けてくる巨人は脇目も振らずに黒髪の巨人を目指していた。

 

「まあ……あれだけ暴れられればそりゃ、なあ」

「統率のとれていない集団など烏合の衆です。狩りをする上ではあんな異物は邪魔にしかなりませんね」

 

 訳知り顔で頷くコニーとサシャ。狩猟が生命を繋ぐ手段の一つであった山暮らしの彼らの言葉は重い。普段はただの馬鹿だが、その発言には誰も異を唱える者はいなかった。

 

「――本当にそれだけなのかな? それに、だとすると」

「あん? どうしたアルミン」

「あ……ううん、ごめん。何でもない」

 

 何やら考えていた様子だが、ジャンが問いかけると我に返ったのか首を振ってそう答えた。まだ本調子とはいかないだろうが、104期生の中でも最も優れた頭脳を持つアルミンのアイディアは馬鹿にできない。

 問い直すこともできるが――時間は刻一刻と過ぎていく。まして余裕もない今の状況で本人が何でもないと言っていることを蒸し返すこともない。

 

「まあ、邪魔だと思ってくれているなら好都合だ」

 

 ブレードを抜いてライナーが屋根の縁に足をかける。明らかに飛び込もうとしているその様子に周囲が俄に色めき立った。

 

「ライナー、何やってんだお前!」

「アレを生かしておけば、その分周りの巨人の目があいつに行く。万一生き残りでもしたなら――その時は何よりも強力な兵器になる」

 

 違うか? と訴えるライナーにコニーがごくりと喉を鳴らす。

 

 巨人を味方につける。そんな発想は昨日までは思いつくことさえなかった。意思疎通も図れず、目的さえもわからずに人類を侵略し続ける巨人は嵐や雷と同じ災害のようなものなのだと――そういう存在なのだと思っていたから。

 だが、あの黒髪の巨人がもたらす暴力は人類にではなく同じ巨人に向けられている。その姿を前にして――希望を見出すなという方が無理な話だ。

 

「……だからわざわざあの中に飛び込むって? 味方になるかどうかもわからない奇行種のために?」

 

 正気かよ、と震える声でコニーが言った。

 見下ろす先には無数の巨人が蠢いている。その矛先こそ黒髪の巨人に向いているが、こちらが襲いかかれば間違いなく向きを変えることだろう。

 ライナーがやろうとしていることは、蜂蜜をとるために、それをとろうとしている熊に石を投げつけようとしているようなものだ。それも一匹や二匹ではない――森中から熊を引き寄せるような真似をしようとするのを、黙って見過ごせるはずがなかった。

 

「何も全部の巨人を一掃しようってわけじゃない。せめて今奴の周囲に群がっている巨人を排除しておけば、その分他の巨人が奴に惹きつけられる時間が長くなる。俺達が撤退する時間も稼げるはずだ」

「だから、そのためにわざわざ飛び込む必要がねえっつってんだ! せっかく注意があいつに向いてんのに、それを無理矢理こっちに戻させてどうすんだよ!」

「この先何事もなく撤退できる保証はないんだ。少しでも生存確率が上がるのなら、やっておいて損はない。何より今なら――あの黒髪のに注意がいってる今なら、一撃目は必ず奇襲になる。このチャンスを逃す手はない」

「だけどよ……」

 

 生存確率を上げる――その魅力的な響きに躊躇するが、元よりそれは行う必要のないものだ。あくまで仮定にすぎないそれが面々を尻込みさせる。

 何よりライナーの案は、言うは易く行うは難し――一歩間違えれば反撃を受ける可能性を多分に孕んでいる。一撃目が外れてしまえば、そもそもブレードを振るうその瞬間に巨人が振り返ればどうなるか。それがわからないライナーではないはずだが……。

 

 ――何を考えていやがる。

 

 そのやりとりに苛立ちさえ覚えながら舌を打つ。

 

 元よりジャンは現実主義者だ。たかが一体ばかり巨人を襲う奇行種が現われたところで、それを味方につけるなんて妄想には到底賛同できるはずもない。時間稼ぎはできるだろうが、それにしたってジャンに言わせれば不要なものだ。全員のガスの補給が完了した時点でここに用はないのだから、未だに暴れている馬鹿を連れてとっととここを引き上げるのが最善のはずなのだ。

 ジャンがここにいたのはあくまで時間稼ぎのためだ――決してあの巨人を救うためじゃない。それはあの馬鹿とて同意するはずだ。

 

 見ていられない、と頭を掻きながら「おい」と声をかけようとしたその時、ミーナの鋭い声が響いた。

 

「見て、あれ!」

 

 振り返ると、一際大きい咆哮が耳朶を打った。見ると、黒髪の奇行種の左足に3メートル級の巨人が噛みついている。痛覚はあるのか、痛みを訴える咆哮を上げながらも黒髪の奇行種がそれを振り払おうとするが、その隙を待っていたとばかりに周囲をとりまく巨人が攻勢に出た。

 がしりと、丸太のような腕を持つ一際体格のいい巨人が黒髪の奇行種の腕を掴んだ。反撃をしようと拳を振り上げるも、背後から忍び寄っていた巨人が黒髪の奇行種の背中に鋭い牙を突き立てる。黒髪の奇行種が激痛に身を捩らせると、その首を正面の巨人が締め上げる。ぎちり、と肉を締め上げる音に、苦悶の声を上げて身を震わせた。

 

「おい、やばいぞ……」

 

 その光景を見ていた全員に緊張が走った。誰の目にも明らかな劣勢。もう一刻の猶予もない。今すぐ行動の決断をしなければ、どちらを選ぶにせよ誰も救われない。

 助けるか、撤退するか。

 誰よりも早く決断したのはやはりライナーだった。

 

「見てられるか、俺はもう行くぞ!」

 

 焦燥にかき立てられる声に、音高くブレードを抜く音が複数響いた。ミカサとアニの二人だ。ミカサは未だ迷いを残しながらも、アニはいつもの能面にわずかに緊張による汗を浮かべながら、それぞれが戦う意志を見せる。

 

「おい、お前ら!」

「もう迷ってる時間はない。撤退する時間を少しでも稼げるなら、今ここであの巨人を生かしておくのが最善」

「まあ、こうなってしまうとどちらにせよリスクは同じだからね。なら、少しでも助かりそうな方を選ぶだけさ」

 

 そう言いながら足を進める二人に息を呑む。

 三人は決断し、そして戦う『覚悟』を決めた。もう議論(いいわけ)を重ねている暇はない。必要なのは、決断だ。

 

 その時、その場にいた面々の心にあったのは恐怖だった。巨人に立ち向かう恐怖はある。が、それ以上に三人と別れる恐怖が面々を縛った。

 三人は104期生の顔だ。特にミカサが彼らに与えた衝撃は大きい。並の兵士100人に匹敵するとまで言わしめられたその能力は、この絶望的状況下にあって紛れもなく面々の精神的安定の支柱になっていた。三人と別れて撤退することは、未だ迷いの中にある面々にとっては到底考えられないことだった。

 

 迷いに揺れながらも、震えるその手が腰のホルダーに伸びる。各々が祈るように目を閉じながらブレードを引き抜こうとしたその時、

 

「その必要はない」

 

 風が吹いた。迷いも葛藤も、一切合切を断ち切りながら蒸気の向こうにその姿を現したのは、まさしく抜き身の刃のような男だった。

 

「ジョシュア!」

 

 返答は金属を掻き鳴らすような鋭い音。蒸気を撒きながら弧を描いたそれが、瞬く間に軌道上にいた巨人のうなじを切り落とした。血を撒き散らしながら糸が切れたように崩れ落ちるのは、黒髪の奇行種の首を締め上げていた筋骨隆々の巨人。

 その意図は、解放された黒髪の奇行種が雄叫びを上げて暴れ出すのを見れば一目瞭然だ。明らかに黒髪の奇行種を救うためととれる行動を、常日頃から巨人の殲滅を公言して憚らないジョシュアがとったことに感嘆とも驚愕ともとれる声が漏れる。

 

「あのジョシュアが巨人を助けようとするとは……明日の空は槍模様だな」

「馬鹿なこと言ってるとピンポイントで槍が降ってくることになるぜライナー。今この瞬間にな」

 

 屋根の上に降り立ったジョシュアがじとりとライナーを睨めつける。一体何体の巨人を屠ったのか、至る所を返り血に染めたジョシュアの装いにさしものライナーも顔を引き攣らせて両手を挙げた。

 

「で――どう考えてるんだ? アレを助けようとしたってことは、ついに心変わりをする気になったってことなのか?」

 

 唇を釣り上げながらライナーが聞くと、全員が張り詰めた面持ちでジョシュアを見た。ミカサに次ぐ力を持つジョシュアが賛同すれば、恐らくこの場の空気は一気に黒髪の奇行種を救う方向に傾く。そうなれば勝率はどうあれ、自分たちは巨人に立ち向かわざるをえなくなる。ジョシュアの一言で死地に赴くかが決まる――そう思えばその緊迫した空気も無理からぬことと言えた。

 だが、次の言葉を何となく察していたジャンはただ吐息をついて肩をすくめた。それはありえない。今の今まで、ライナー達がここへ来るまでただひたすら黒髪の奇行種のサポートに回り続けていたのを見ていた上でも断言できる。たとえその姿がどれほど楽しそうに見えていたとしても、巨人を前にして心変わりなんてことはこいつに限ってはありえない。

 その予想に違わず、まだお前はそんなこと言ってんのか、と呆れ混じりにジョシュアは言った。その言葉に、否定の意を汲み取った面々から安堵の吐息が漏れた。

 

「第一、生かすも何も――そもそもあいつはもう長くねえよ」

「長くない、だと?」

 

 訝しげな声に、ジョシュアは親指を向けて黒髪の奇行種を指し示す。

 その姿は、傍目から見てわかるほどに疲弊している。人間とは根本的に生態の違う巨人を差して言うのもおかしな話だが、巨人とて無尽蔵のスタミナを有しているわけではない――その事実に安堵する。明らかに当初の威勢を落とした黒髪の奇行種がもたらす暴力は、単独で迫り来る巨人を易々と屠る力はあるものの、集団で襲いかかる巨人達を全て排除するには至らない。

 そのままでも、黒髪の奇行種は恐らく緩やかな死に向かうことだろう。だがその姿を落ち着いてよく見るにつれて、すぐにそれ以上に決定的な要因に気付く。

 

「身体を再生できてない……?」

 

 黒髪の奇行種の身体に今も残る、痛々しい戦いの傷跡。超常の再生力を持つという前提条件を思えば、そもそも身体に傷が残っていることの方がおかしい。傷口からは蒸気が吹き上がっていることを見るに、あるいは今まさに再生しようとしているところなのかもしれないが、その速度はあまりにも遅く、致命的だ。黒髪の奇行種自体の疲弊も著しく、その衰えは確実に黒髪の奇行種の命を奪うだろう。

 

「潮時だろう。アレは復活し、時間も稼げた。これ以上ここに留まる理由がない。違うか?」

「いやいや、あるわけねえよ! そうと決まればさっさと戻ろうぜ!」

 

 二の句を継げないライナーを余所に、一秒でも速くここから立ち去りたいとばかりにコニーが割り込む。

 まったくだ、とジャンも空を仰いで同意した。紆余曲折あったが、何とか生き抜くことができた――そう思うとどっと疲れが押し寄せてくるのを感じた。

 

「あれは……!」

 

 ようやく撤退を開始しようとしたその時、アルミンが常にない怒りを滲ませる声を上げた。その目は黒髪の奇行種を追って新たに現われた巨人に向けられているが、理由のわからない面々はただ困惑の視線を返すことしかできない。

 

「アルミン、どうした?」

「……あいつ、トーマスを喰った奴だ」

 

 震える声が仇を訴える。常ならぬ怒りを滲ませる声に場の空気がざわりとどよめく。胸に湧いた感情はそれぞれ違えど、この場にいる全員の意識がそれに集中し、しかしそこで留まる。

 

 撤退の準備を始めようと動き始めたその矢先に仇が現われた――だが普通であればそこへわざわざ飛びかかろうとはしないだろう。巨人に喰われることは災害に巻き込まれたに等しいことだ。仇を討ったからといって何が変わるわけでもない。それを理解しているからこそ口にしたアルミンも激情をその目に浮かべながらも歯を食いしばってその場に留まっているのだから。

 

「おい、ジョ――」

 

 嫌な予感しかしなかった。しかしそれへの反応が一瞬遅れたのは、ジャンもまたジョシュアのことを侮っていたと言えよう。即ち、「撤退を始めるべきこの状況で仇討ちを優先するような真似をするはずがない」と。

 直後、屋根の上から訓練兵団の制服を着た狂犬が飛び降りた。

 

 

 

 

 

 舌の根も乾かないうちに前言撤回することになった。そのことに気付いていないわけはないが、だからといって行動を止める気にはならない。

 仇を訴える声が耳に残っている。怨嗟に満ちた声が胸を焦がす。

 それは正しくあの日の俺だ。ならば今俺がすべきことは撤退ではなく、《奪われた》ものを《奪い返す》ことだ。殺すための刃を手にしたのはまさにこの時のためで、断じて仇を前にして逃げ帰るためじゃない。

 

 目標を観察する。生気の薄い表情をした金髪の奇行種は茫洋と視線を中空に漂わせながらふらふらと接近している。黒髪の奇行種のように知性を感じるわけでもなければ、他の巨人のように黒髪の奇行種に対する明確な目的を感じるわけでもない。

 

 ――大丈夫だ。やれる。

 

 通常の奇行種であり、特別脅威も感じない。油断は勿論禁物だが、後ろには急に飛び出した俺を見守る同期達の視線を感じる。より迅速に終わらせるのであれば《スタンド》を使うことがもっとも手っ取り早いが、この目の中ではそれも難しそうだ。

 ならば《スタンド》を使うことなく、速やかにアレの首を落とす。そう決めてガスを吐き出そうとし――直後、背後に膨れ上がる死の気配に戦慄する。

 

「ぅ――おおッ」

 

 咄嗟の判断。前方へ吹き飛ばそうとした身体の向きを強引にねじ曲げる。予備動作もない方向転換に全身がギチギチと悲鳴を上げるが、構ってなどいられない。半ば投げ飛ばされるような格好で当初の軌道から外れた俺の軌道をなぞるように“死”が通り過ぎていく。

 黒髪の奇行種が振るった拳が、無防備を晒す仇の顔面に突き刺さった。

 

「何だ……?」

 

 ややたたらを踏んで着地しながら、零れるのは疑問の声。つい先程訪れた生命の危機などすでに頭にない。状況を見れば殺されかけた、と言えるのだろうが――続く二撃目が金髪の奇行種の首を吹き飛ばす光景にその可能性もなくなった。

 

 だからこその疑問。付近には未だ巨人がいた。それを差し置いてまで、それも自身に向かってきていない金髪の奇行種を狙った理由は何だ?

 そして、振るわれた二つの拳。

 

 理性はそんなことはありえないと叫んでいる。だが戦場における第六感――本能じみた部分が確かに言った。

 あの攻撃には、確かに意志があったと。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

 ありえないことを囁く本能に唾を吐いた。巨人は巨人、知性もなくただ人を襲う化け物だ。殲滅すべき敵であり、それ以上でも以下でもない。

 

 血を振り払ってブレードを収めていると、ぐらり、と黒髪の奇行種が不意に大きく傾いだ。そのまま糸が切れたように砂塵を巻き上げながら倒れ伏す。

 付近に巨人の姿はない。黒髪の奇行種がこのタイミングで倒れたのは敵がいなくなったからか、それとも単に力尽きただけなのか、あるいは――。

 

 雑念を振り切るように黒髪の奇行種に背を向けると、違和感に気付いた。終わったぞ、とでも言うように視線を向けたその先。屋根の上に集まっている面々は、巨人がいなくなったことに安堵の色を浮かべてこちらを見ているかと思いきや、誰もこちらを見ていなかった。

 それ自体は別に気にならない。むしろ気になるのはその顔色だ。

 

 全員が全員、ただ一点を見つめて、まるで死人が起き上がる様を眺めているかのような凍り付いたその表情。

 背筋に氷柱を当てられたような悪寒に、危険を感じて視線を追う。それは今まさに背を向けた、蒸気を噴き上げて消えていく黒髪の奇行種に向けられていて――。

 

「え――?」

 

 心臓が、止まった。

 

 蒸気を上げて俯せに倒れ伏す黒髪の奇行種のうなじから影がむくりと起き上がる。人だ。黒髪の、細く引き締まった、未だ成長途中と見える少年の体格。白色のインナーに、幾本も腰に巻かれたベルト。

 まるでそこから今生まれ落ちたかのように目を閉じるその顔立ちは――第104期訓練兵、エレン・イェーガー。

 

(……待てよ)

 

 呼吸が速まる。心臓が激しく脈を打つ。

 

(待て)

 

 空白に染まった思考が、目の前の事実を認識するにつれて――次第にめまぐるしく回転していく。

 

(巨人だけを殺す黒髪の奇行種)

 

(そのうなじから這い出たエレン)

 

(巨人のたった一つの弱点は――後頭部より下、うなじにかけての縦1メートル・横10センチメートル。理由は未だ明かされていない)

 

(それは――今、あいつが出てきた、場所)

 

 寒い。まるで氷の中にいるようだ。

 点と点が線で繋がっていく。恐ろしい速度でその思考は飛躍していく。ありえない妄想だと断じたいのに、全てがそれで説明できてしまう気がした。

 

 震えを隠すように拳を作って握り込む。いつの間に降りたのか、ミカサやアルミンが――その全身によくわからない粘液が塗れているにも関わらず――エレンにすがりついて泣いている。

 

 あいつらは知らなかったのだろう。本当に。

 三人が同郷の幼馴染みであることは聞いている。こうなることを知っていた人間にあのような態度がとれるとは思えない。あの絶望、そして今彼らが流す涙は本物だ。

 

 だとするなら、少なくともエレンは彼らに対して秘密を一つ抱えていたことになる。それも人には言えない恥ずかしい趣味や性癖、などというレベルではない。その秘密は、もし明らかになるものなら今までの常識を破壊するほどのものだ。

 

(どっちだ、エレン)

 

 お前は、知っていて隠していたのか。それとも本当に何も知らなかったのか。

 巨人をこの世から駆逐する。そう語っていた決意は、嘘だったのか。

 

 ――ああ、そうだ。

 

 ここでうだうだ考えている必要はない。全ての鍵を握るのはエレンだ。エレンに尋ねれば全て解決するのだから、その通りに行動すればいい。

 

 ――だが(・・)それにはエレンにすがりつく(・・・・・・・・・・・・・)あいつらが邪魔だ(・・・・・・・・)

 

 すらり、とブレードを抜く音が冷たく響いた。

 

 

 

 

 

 




「お前前回論破されたばっかりじゃん!」という突っ込みがライナーに対してありそうですが、理由をつけて生かしたいと思うくらいには執着している、ということで一つ。
 言葉で納得させられる程度の執着なら執着なんて言いませんしね。

 ここまでそこそこ原作通りの展開ですが、次は少し展開が変わる予定です。
 巨人の真実に一歩近づいてしまったジョシュアがどう動くか、という点をお楽しみいただければと思います。


 それでは、よいお年を。

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