大きくなったら、外に出たい。
そう言った俺に、姉は困ったような笑みを浮かべた。
「どうしたの、急に」
その反応は当然のものだ。むしろ声を荒げて「馬鹿なことはやめなさい」と頭ごなしに怒鳴りつけないあたり、姉の性格の良さがうかがえた。
五十メートルの壁に四方を覆われた町、ウォール・マリア。そのうちの一区画、シガンシナ区に俺達は住んでいた。
人類の活動領域をここまで限定させた脅威の外敵、巨人。
うなじという弱点も、立体機動装置という巨人に抗う術も生まれたというのに、未だ人類は巨人を駆逐するに至っていない。
壁の外へ派遣される調査兵団は芳しい成果を得られることなく、重軽傷者・死者を増やすばかりだった。
だからこそ、この町で外に出たいと口にするのは禁忌に等しい。事実、今まで生きてきた中で他にそう口にした人を俺は見たことがなかった。
「姉さんは思わない? ここから出たいって」
「そうね、外の世界に憧れがないとは言わないわ。でも、私はこのままでもいいかな」
「どうして?」
「だってここにジョシュアがいるもの」
そう言って、姉は両手を後ろから回して俺を抱きしめる。長い黒髪が頬に触れて少しだけくすぐったい。
「……もしかして、俺って邪魔?」
姉は駐屯兵団に所属していた。成績も優秀で立体機動装置も上手く使いこなした姉が調査兵団ではなく駐屯兵団を選んだのは、俺という存在があったからだと姉の同期に聞かされていたこともあって、どうしてもその考えを捨てきれなかった。
姉の返答は残念な子を目の当たりにしたような深いため息と、両頬を優しく引っ張ることによるお仕置きだった。
「どうしてそういう考えになるかなー。本当よ、本当に私はこのままでもいいの。あるかどうかもわからない《外の世界の綺麗な所》に期待して、外の世界に出るような度胸は私にはないもの」
「でも、姉さんって強かったんでしょ? 学校でも成績優秀だったって聞いたけど」
「……なるほど、ジョシュアがそんなこと言ったのはそいつらのせいか」
後でシメてやる、と暗い声で呟く姉がちょっと怖かった。
「ま、確かに成績は良かったわね。だけどそんなもの何の意味もないわ」
「ないの?」
「ないの。……ねぇ、ジョシュア。ジョシュアは遠征から帰ってきた調査兵団を見たことがあるよね?」
頷く。実際に見たことがあるのは片手で数えられるくらいのものだが、そのどれもがただの失敗という一言で済ませられるものではないものばかりだった。
片腕を失った人。片足を失った人。そのどちらをも失った人。そのどちらかしか残らなかった人。その凄惨な光景は巨人の脅威を知らしめるに十分すぎ、人は改めて外の世界がどれほど恐ろしい場所かを知る。
「怖くなかった?」
姉の問いに一瞬迷ったが、素直に頷く。
「……それでも、外の世界に出たいと思うの?」
次は自分がああなるかもしれない。そのことを理解した上で、それでも外の世界を望むのか。
「うん。俺はここで終わりたくない。もっと広い世界を見たいんだ」
「死ぬかもしれないのに?」
「何もしないままでいるよりはずっといいよ」
男の子だねぇ、と姉が笑う。少しだけ、俺を抱きしめる手に力がこもった。
「うん、その決意が本物なら、ジョシュアはきっと大丈夫。その芯が折れない限り、きっとどこまでも進んでいけるわ」
「姉さんも一緒に行こうよ」
「私は駄目よ。きっと足引っ張っちゃうわ」
「強いのに?」
「私より、ジョシュアの方が強くなれそうだもの」
そう言われてしまえば、男の意地というのもあって否定するのも難しくて。「来ればいいのに」と口の中で呟いて、不満そうに唇を尖らせることくらいしかできなかった。
姉が強いと聞いた時から、姉は俺の目標であり、憧れになった。そんな姉と一緒に外の世界を見に行くというのは俺の夢でもあったのだ。
その姉が、外に出る気はないと言うのであれば――。
「なら、姉さんの分も俺が見てくるよ。見てきた綺麗なもの全部、姉さんに持ってきてあげるから」
「私は……」
そこで姉は言葉を一度途切れさせた。
口にするか否か、迷うような間が空いて、
「――ん。わかった、楽しみにしてる。きっと綺麗なものを持って帰ってきてね」
もう一度。この手の中の感触を忘れまいとするかのように、俺に抱きつく力を強めた。
その手がわずかに震えていたことには勿論気付いていた。姉が俺のためを思って口にしなかっただろう言葉も、姉が口にしなかった想いも、恐らくは全て正しく把握できているだろうと思う。
俺達の両親は調査兵団に所属していた。
父は何度目かの遠征で帰らぬ人となり、母も俺が小さな頃に病気を患って亡くなった。
二十歳にも満たない歳から俺の世話をし、俺をここまで育ててくれた姉には本当に感謝している。姉に憧れていたのもそういう理由からだ。
姉に恩返しをしようと思うのであれば、駐屯兵団か、憲兵団を選ぶべきだろう。
わざわざ死ぬ確率の高そうな場所に飛び込んでいくような真似をして、姉を悲しませるべきじゃない。
そういう考えは勿論俺の中にもあったし、実際姉の同期にもそう言われた。
それでも――腹の底に燻り続ける《熱》があった。このままでいいのか、と問いかける声に是と応えることができなかった。
姉に抱かれながら眺める景色は、水平線の彼方に陽が沈んでいく夕焼けの空。世界が燃え上がるような、言葉を失うほどの美しさが視界いっぱいに広がっていた。
壁の上で眺める夕日。一度内緒で姉に連れ出してもらった時から、この光景は俺の一番のお気に入りだった。
だからこそ。このままでいいはずがない、という強い想いがこの胸にある。
遠い先祖が壁を構築した百年以上も前から、人類は巨人に何もかもを奪われ続けている。土地を奪われ、自由を奪われ、そして俺達に限って言えば父をも奪われている。
――奪われたままでいるのは、嫌だ。
燻り続ける《熱》がある。けれど今は、幼い今では負け犬の遠吠えでしかない。
巨人に負けない力を手に入れて、いつか、あの空の向こうへ。
けれど――世界は、そんな甘えた子供の願いを受け入れてくれるほど優しくはなかった。
「姉さん」
呼びかける声は、どこにも届かない。それに勝る轟音が周囲を支配している。
地面を震わせる巨大な足音。家を崩し、瓦礫を踏み砕き、荒れ地と化した町を我が物顔で歩く人外――巨人。
突然降って湧いた災厄は壁に穴を開けられてから随分経った今でも、全く手を緩めることなく蹂躙を続けている。
絶望に塗れた悲鳴が聞こえる。助けを求める怒号が聞こえる。歩き続ける巨人の足音がすぐそこまで迫っているのが聞こえる。
けれど――頭が働かない。足が動かない。魂を抜かれた人形のように呆然とその場に立ち尽くしていた。
「姉さん」
声を落とす先に姉がいる。それは間違いない。それは間違いないはずだ。
何故ならそこにある手は姉のもので、姉が手だけを残して巨人の口の中に消えていくのを俺は為す術なく眺めていたのだから。
「ねえ、さん」
応える声はない。応えられる口はない。
姉が確かにそこにいたと示すものは最早肘から下しか残されていない右腕と、姉が最後まで戦ったことを物語る固く握りしめられたブレードしかない。
「う、そだ」
こんなことが許されるはずがない。こんなことがあっていいはずがない。
否定の言葉ばかりが溢れて頭の中を埋め尽くす。零れ落ちていくものを掬い上げるように姉の右腕を抱きかかえる。けれど流れ落ちる血は止まらない。熱が、命が、姉がここにいたという証が大地に吸われて消えていく。
「ああ……くそ、くそっ、やめろ、やめろよ……くそ、くそぉぉぁっ」
尾を引く絶叫を上げながら姉の亡骸を抱きかかえる。溢れ出る血が服を汚し、頬に触れる右手から姉の熱を奪っていく。
身を裂かれるほどの悲しみと怒り。けれどそれに浸る暇さえ与えられない。
巨大な足音が、すぐそばで大地を震わせた。
わずかに身体が地面から浮いたような錯覚に、初めて顔を上げる。
体長は五メートルほどあるだろうか。そばに立つ家よりよほど大きな巨体が俺を見下ろしていた。
にっこりと。唯一の肉親の死を悼む俺を、嘲笑するような笑みを浮かべて。
口の端に血を――姉の血を滴らせた巨人が、新たな獲物を見定めた。
「――けるな」
腹の底で燻っていた《熱》が、弾けた。
「ふざけるな……ふざけるな、ふざけるなふざけるなァッ!」
激昂。烈火のごとく燃え上がる怒りを打撃として地面に叩きつけた。
「お前らは、どれだけ俺から奪えば気が済むんだ!」
土地を奪われ、自由を奪われ、父を奪われ、そして今――住み慣れた家を瓦礫の山にされ、最愛の姉さえも奪われた。
姉は俺にとっての憧れであり、そして生きがいでもあった。ここまでずっと姉に育てられてきて、その恩を返していくことが俺の生きる意義だったのだ。
それをいとも容易く踏みにじった奴が目の前にいる。姉を無残に殺した巨人が、ついにはたった一つ残された俺の命さえ奪おうとしている。
地面に叩きつけた拳を握りしめる。散乱した破片か何かで切ったのか、手のひらの側面には真新しい切り傷のようなものができていた。
「奪われて、たまるか」
絶対に奪わせない。ただ一つ残ったこの命さえ奪われてしまったら本当に何もかもが終わってしまう。
けれど、世界はあまりに残酷だ。子供の足で逃げ切るには彼我の距離はあまりに短すぎ、少しでも逃げようとする素振りを見せようとすればすぐさま目の前の巨人は俺を捕まえることだろう。
かといって、目の前の巨人をどうこうできるような力は俺にはない。身体も出来ておらず、巨人に対抗する唯一の術である立体機動装置も持ち合わせていない。唯一手元に残された武器は――姉が最後まで握りしめていたブレード一本。
心許ないにもほどがある。
けれど、逃げるという選択肢などありはしない。
「必要なのは、覚悟だ」
姉の右手を優しく置いて立ち上がる。右手にブレードを握りしめて立ち上がった子供に、目の前の巨人は何を思うだろう。
「覚悟が道を切り開く」
背中を見せる気など毛頭ない。奪われたくないのなら戦うしかない。その残酷な摂理を俺は身をもって理解した。
否。それも少し違うだろうか。
奪われたくないのなら――
「《奪う》しかない」
背後に気配が生まれたのは、その時だった。
「あれは……」
ハンネスはエレン達をシガンシナ区から脱出するための船着き場に誘導させた後、生存者を探して奔走していた。
(蒸気……か?)
立体機動装置を使って飛び回りながら周囲を捜索していたところ、不自然に蒸気が噴き出している箇所を見かけた。
巨人が高温の蒸気を纏う、というのは聞いたことのある話だ。元々巨人は体温が極端に高いこともあり、周囲の空間が歪んで見えるほどの高温の蒸気を纏っていたところで何らおかしいことはない。
しかし――それにしては。
「頭が見えねえな……」
建物の陰に隠れているとはいえ、屋根の上の景色が歪むほどの蒸気を噴き出しているのなら、二十メートルは離れたこの距離でも頭くらいは見えても不思議ではないはずだ。
気になることは他にもある。この蒸気、他の巨人とは比べるまでもなく大量に噴き出していることから遠目からでも非常に目立つのだが、移動しながらしばらく眺めていても全く移動する様子がないのである。
「奇行種か、あるいは……」
――今誰かを、まさに襲っている最中であるか、だ。
ぶるり、と身体に震えが走った。それは巨人と相対した者にしかわからない恐怖だ。まして誰かを襲っているのであれば――
「――っええい、遠くからなら問題ねえだろうがよ……!」
使命か、命か。あまりにも魅力的な後者との葛藤を何とか制し、アンカーを射出して蒸気の元へ向かう。
すでに一人見捨ててしまったばかりなのだ。これ以上見殺しにしてしまうようなことがあれば自身の心が壊れてしまう。
悲壮な覚悟とともに向かった先で――しかしハンネスは自身の予想を大きく裏切る信じられない光景を見た。
「何……?」
大きく迂回し、建物の隙間から窺い見た先に巨人の姿はなかった。
より正確に言えば、そこにあったのは巨人の死体だった。殺されてから間もないのか、骨だけになった巨人の死体が俯せの状態で転がっており、大量の蒸気を噴き出している。
誰かが巨人を討ち取った。
その事実にハンネスは驚き、視界に映り込んだ人影に更に目を見開いた。
「子供……?」
巨人が死体であるとわかった以上、迂回する必要もなくなった。アンカーを射出して最短距離で現地に辿り着くと、高温の蒸気を放つ巨人の死体のそばに血塗れの子供がうずくまっていた。
「おい、大丈夫か坊主!」
屈み込んで黒髪の子供の容態を確認する。
血で全身が汚れており、気を失っているようだが、外傷は特にないようだ。強いて言うなら血に塗れ、刃が半ばほどで折れたブレードを持つ手が軽い火傷を負って赤くなっているくらいか。
「……火傷?」
不審に思い、ハンネスは周囲を見渡す。すぐそばで死体となっている巨人が相当暴れたのか、周囲の家屋は全壊して見る影もない。
しかし、どこにも火の手など上がっていない。
もう一つ気になることがあった。子供が握りしめているブレードだ。ブレードは当然一般人が手にすることなどないもので、だから恐らく子供が握りしめているこれも誰かの落とし物か何かだろう。
だが――刃が半ばほどで折れた、血塗れのブレード。
それは果たして、
最初に確認した時も、そして接近してからも付近に近づいた駐屯兵団の人間はいない。
ならば、この巨人を倒し得たのは――
「冗談、だよな……?」
信じられない想像が閃き、ハンネスはもう一度巨人の死体を見た。
物言わぬ巨人はハンネスの疑問に答えることなく、虚ろな眼窩で恨めしげにこちらを見つめている。
「これをこいつが、やったってのか……?」
己を殺した者を怨むように、死体が子供を見つめている。
アニメが予想以上によくできてたのと、今更ながらにジョジョを全部読み終わった衝動でついやってしまった。
「こんな組み合わせはどうでしょう」くらいの気持ちで書いているのであまり長くなる予定はありません。
なので気楽に、気長にお待ち頂けたら幸いです。
とりあえずASBが楽しみすぎて。