エネルが来る。
その一言に住人達は身を固くした。
今まではうしろめたさもあり同郷の者の命を奪うのを良しとしなかったビルカの民だが、"エネル"が出張ってくるとなれば話は変わってくる。
雷はその放電でこの地まで一瞬で移動できた。だが雷男は形ばかりではあるがビルカの再興が成ってから、弄ぶように、思わせぶりな手を出しながらも、本格的に攻めてきたりはしなかった。
それはなぜか。
真意は雷男に直接聞いてみるしかないが想像はいろいろとできる。
今回、なにやら彼は故郷へと凱旋してくるつもりらしい。
一方的な通告ではあるがエマが受けてしまった。迎えにゆくから、支度をして待っているが良い、と。
住民たちは苦い想いを抱えながらも、迎え撃つしか方法がなかった。この町に唯一残った、未来を奪われる訳にはいかないからだ。
とはいえここに住む民は基本的、非戦闘員しか存在していない。雷に対抗する術を幾つか用意しているものの、効果的かどうかは試してみないと解らない状態だ。しかも肉弾戦に持ち込まれたならバットエンドという条件付き。何度も繰り返すが、ここビルカの民は頭脳労働を専門とする科学者であるがゆえに全員が非戦闘員である。
物事の真理や構成を長い年月をかけて読み解くのは得意としているが、脳みそまでもが筋肉となった輩がひとりでもやってくれば、逃げ惑うしか生き残る術がないのである。
だが彼らにはもしもの時のために作った
よってこの兵器は住人達によって運用されることになった。最後の砦扱いになりかけていたアンもこれで外部攻撃組に変更だ。使い方がわかる住民たちがツヴァイの指示で操作する。
そこで問題となるのが瞬間的な対応力だった。
無事に装置が起動したとして、それを展開させるために必要なボタンを押さなければもちろん、効果は発揮しない。
雷は光であり高速である為、秒速に換算すると30万キロメートルを進む事ができる。だが放電そのものは現象であるため、動くと言う概念は無い。ただ放電現象は電子崩壊によって出来る電子雪崩だ。雪が雪崩れるように、光という現象を伴って進む。その現象をとらえて発揮する兵器、らしい。ビルカの粋を集めて作られた兵器は雷そのものを捕縛するもの、とも言い換えられた。
わかりやすくかみ砕くと、空間をのべつ幕無し、縦横無尽に雷は移動できるわけではない。電子密度が薄い空間の隙間を縫って雷は進むのだという。それを捕まえる機械がある。起動できるだろうか。
もっと砕くと、どれだけ住人たちが雷男の行動についていけるか、が問題なのだ。雷を捉えたとしても、一般人よりは強いエネルである。ビルカまで侵入されてしまうと、やり直しのきかないバッドエンドの出来上がりであった。
ツヴァイも青海では強者の部類に入るだろうが、今の実力的に新世界では頭に殻がついたひよっこ扱いだ。確実にエネルは、ツヴァイよりも強い。
悲観的過ぎるのもなんなので最悪の想定を回避できて理論上、雷と化した彼を止められたとしよう。では彼をどの時点で足止めできるのか。ビルカの町の中はゲームオーバー、イエローラインで町まで10キロ、ブルーで15キロ以上だろうか。
ひとつひとつ問題点を洗い出せば、予定と予測のオンパレードだ。全く安心などできはしない。
となれば頼みの綱はただひとつ。エースに撃った、海楼石入りの矢だけになる。効き目は実証済みだ。力が抜け、当たれば実体が危険だと半身が判断したからだ。
兵器より既存の原始的な武器のほうが効き目がありそうだと思いながら、アンは雷の特性についての講義を受け続ける。
数学はまだ数式を解けば答えを求められたが、化け学と科学、物理の3項は余り得意では無かったため、額を押さえてきりきりと痛む脳に眉を寄せた。
アン自身がおもうに、理解力はきっと悪くないはずだ。時間をかければきっと、納得出来る答えも見つけられる。だが今回は、さっとざっと専門知識を持っていれば「ああ、うん、そうなんだ」となるのだろうが、如何せん基礎的知識が全くない状態での講義で、質問を投げかける土台が無かった。
それでもなんとか、大まかに噛み砕く。何千時間と机の前にかじりついて受験勉強をしてきた元大学生を舐めるなと、自尊心と気合を引っ張り出して理解するため、最大限に頭を働かせる。
エースはとうに説明を聞かず、ツヴァイと新たな作戦をたてはじめていた。それをエマが横から覗いている。
アッシュの話を要約すれば、エネルという男はその身に宿した悪魔の実の特性により、多少の制限はあれど物質としてありながらありとあらゆる場所へ瞬時に移動できる。
アンのように点と点を結ぶように移動するのではなく、現象的に空に走る、雷と同じ動きをするのだろう。アッシュ曰く、雷速は秒速200キロメートルなのだそうだ。ちなみに光速は秒速30万キロメートル、音速は秒速0.35キロメートルなのだという。
「アッシュさんごめん、比べられても想像が追い付かなくてよくわからない」
素直な感想をアンは返す。
「でしょうなぁ」
知識としてはそうだと持ち得てはいても、実際にどういうものなのかは、人の身で体感する事は難しい。そう笑いながら言った。
とりあえずは彼は戦力格差ゆえか余裕に構えている。"神"として慈悲かどうかはわからないが、こちら側に準備の時間をくれるのは願ったりかなったりだ。ありがたく使わせて貰う事にした。
悪魔の実の能力者に対して、有効的な手段は基本的に弱点を突く事に限る。
一番良いのは海へ叩き落とす事だが、あいにく空にはあの波打つ塩水は存在しない。形を変え雲、としてならば在るのだが、そこへ落とす前に青の空に身を翻すだろう。
それとは別に、能力者の力を確実に削げる自然のものが存在する空に浮かぶ”ストロングワールド”もちらりと利用できそうではある位置にあるものの、出来ればそちらに関わりたく無かった。いらぬ敵が倍増してしまいかねない。
と、なるならば、だ。
個別の弱点を叩きつけるしかない。
弟を例にとってみれば、ゴムは弾力があり打撃系には傷つく事は無いが、鋭利な刃物で切られたり、凍らされた場合にはその弾力の効力は無くなってしまう。ゆえに本体へダメージを負いけがもすれば血も出る。 エースの場合をとってみても、炎は水に弱い。天候が雨である場合、水飛沫がたつ場所で戦う場合、その能力を存分に使えなくなる。
では雷の天敵は何か。直接的に考えて、電撃が通らないものを想像すればいい。
すぐに思い付くのは、はやりゴムだろう。だが弟をこの場に連れてくる訳にはいかなかった。呼びに行けば嬉々として楽しそうだから行くと言った口で、やっぱ約束があるから行けない、と酸っぱいものを食べたような口をしてへの字で耐えるかわいい顔を見せてくれそうな気はする。
けれどもビルカでの戦いは、エース率いるスペード団の冒険譚だ。ルフィ自身の物語はまだ始まってはいない。数年の後に始まりを封切る為、今という時間を最大限有効に使っているはずだ。
だから本当はルフィが居た方がきっと楽しいし、エネルに対しても最も有効な手段をとれるが、ぐっと我慢した。
次いで思い出すのは、ガラス、紙、テフロンといった絶縁物だろうか。
ビルカの応戦武器である自動掃射される矢には海楼石成分が含まれ、かつテフロン加工がなされていた。これはアンの案を取り入れて作られている。
青海で海楼石を採るには特殊な技術が必要なのだが、ここ空島では安易に生成出来た。なんでもパイロブロインという成分が空島や空海を形成しているそうで、地上であればわざわざ海楼石を採掘し、取り出さなければならない成分が空にはそのまま分子として固まったものが存在している。
なので地上から、鉄とテフロンのふたつだけを持ちこんだ。ポリテトラフルオロエチレンは耐熱性に優れ、摩擦係数の低い物質として知られている。加熱によっても熱流動を起こさない。イコール、雷によって生まれる電流で溶ける事が無い上、海楼石の成分が実体へ突き刺さり、能力を封印する。
矢の形状に固定したのは、作りやすさと加工のしやすさからだ。余り大きなものでは、住人の年齢を考えれば負担となる。
ビルカに住む人々だけならば防戦しか選択肢がないが、今回はエースとアン、そしてツヴァイが居る。
攻めは最大の防御なり、という名言通り、この人員が揃っているならば守るよりも打って出る方が効果的だった。なぜなら双子が覇気の使い手であり、ツヴァイは彼の故郷が誇る、知略戦の専門家だからだ。
町の守備と撃ち逃した残党の処理を副船長に任せ、船長とその片割れが頭を砕く。
武装色の覇気、これは体の周囲に見えない鎧のようなものを纏う力だ。鉄の鎧など比では無いくらいの固さを誇る。またこの力は身を守るだけでは無く、攻撃にも転用できた。実体の無い
エースも悪魔の実の力を得て、実体をおぼろげな炎と変えた。
普通の、なんの特技も無い、ただ武器を振りまわすだけの相手に対しては自然系の特色通り無敵となるがしかし、アンや他の覇気使いに対しては今まで通り回避もしなければならないし、拳を受ければ痛みもあり血も流れる。
使い手を選ぶ覇気という能力だが、自然系だけでは無く悪魔の実の能力者全体へ、傷を負わせる事が出来るのだ。
雷を弾くのも、もちろん可能となる。
しかもアンは、限られた範囲ではあるものの海軍時代に能力者の力を封じる空間を生成出来るようになっていた。
今後一切、ビルカに手出しが出来ないよう、仕置く事も可能だ。
「数年ぶりの帰郷を忘れられない思い出にしてあげましょう」
仄暗い、邪な笑みを横眼で見ながら、エースはほどほどにしろよ、とその頭をくしゃり撫でて後を双子が信頼を置く、副長に任せて共に往く。
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頬に当たる向かい風は行く手を阻むように吹きつづけていた。
だが白の雲海を進む
「エネル様、ああ、エネル様。あなた様の高潔なお心を痛ませ悲しませる、害悪までもう少しでございます」
うっとりととした表情で語るのは、エネルを神と崇め、神官のひとりとして数えられる人物だ。名をタットワ、と言い、彼女は唯一エネルの側に侍る事を許された神官でもある。
両手を組み、うっとりと彼女は瞼を閉じた。
思い浮かばせるのは、
神々しい存在感は当たり前だが、空を統べるにふさわしい雷光の力を持ち、そしてあの万物を見下すかのような視線を思い出せば、心身が喜びに打ち震える。
超特急カニの背に乗せられた、貝船の上でタットワはよれよれとしなだれた。
「ああ…エネル様。あなた様の御許から離れるなど…この胸張り裂けてしまそうです」
ビルカに向かう船に同乗している神兵たちは皆、神官の姿を視野の外に出し、出来るだけ関わらぬよう努めていた。もし目があったならば、そこからどれだけエネルが素晴らしい存在であるかを懇懇と、説き聞かせ始めるからだ。もしそうなれば目をそらすこともできず、中途半端に聞けば怒りを買い、まじめに聞けばそうでしょう、そうでしょうと終わりの見えない話が続くのだ。
「ああ。エネル様。ワタクシの声が聞こえておいでですか」
タットワは潤んだ瞳を神が座す島へと向けた。既に彼女にはエネルの存在を感じる事が出来なくなっていたが、それでも胸の内にある"神"の姿を思い描き、恍惚とした表情を浮かべる。
スカイピアを出発した一団は、エネルが神の国を建国するにあたって尽力した、元ビルカに居住していた者達が中核となり編成されていた。
そう。
彼は、彼の両親が背負っていた栄光という陰に埋もれながら、ビルカという都市の中で同じく落ちこぼれ、日の目を見られない者らを取りまとめ、ひとつの集団を作り上げ軍団と化した。
それが現在、スカイピアにて神と称するエネルの手足として動く者達だ。
その中でも特に力を持つ、エネル自らが手を下し、鍛錬を積ませ
そしてその下部として前"神"が使っていた神兵が居り、
本来はスカイピアの治安維持を任務とする神隊であるホワイトベレー部隊も今は住人を監視し、スカイピアへ辿り着いた入国者へ刑罰を宣言する番犬としての役割を、自ら喜んで買って出ているという。
タットワにとって、否、彼女だけでは無く支配側にとっては、まさに神が支配する理想郷へと至る礎となっていた。
悪い統治の仕方では無い。
アンは何度かビルカを訪れ、スカイピアの現状を知るようになった時、エネルのとった支配の形を秀逸だ、と評した。
なぜなら彼の目的はスカイピアに眠る、己の夢を現実にするための船を手にして運用することであり、スカイピアに住む者たちの感情などどうでもよかった。その土地を支配し、住人をも統治するのであれば、住民感情も視野に入れなければならないが、エネルにとって道端に転がる石よりも、空島に暮らす人々の命は軽く、生まれ故郷そのものへの嫌悪もあいまって、自分を慕う神官たちでさえ便利な道具としか見ていない。彼は手にした能力で恐怖を蒔き、罪悪感を育てた。そして咲く花の名は絶望という暗色の感情だ。
そうそう出来る事では無い。だがこの支配方法を採れる人物もまた珍しい。
その点に関しては、エネルという男は評価できた。効果的であるが継続性のない誰もがとらないであろう方法を自らの存在力を利用し、存分に行使しているのだから。
エースはあからさまに嫌悪するアンに、不思議なものを見たと表情で語る。
「わたしだって嫌いっていう感情くらいあるよ」
頬を膨らませ、心外だと口にする。
「行くぞ」
アンはエースの言葉に頷く。手のひらを結び、向かってくる先兵が立てる蹄が聞こえる場所へと跳んだ。
現れたのは白い雲を切りながらビルカに進行してくる船の真上だった。
隻数は5、それぞれに5名ほどが乗っている。エースたちが居ない場合での30名は、侮ることなく兵力を差し向けてきた結果だろう。だがしかし、スペード団が助力している状態では足りない、と言わざるを得ない。たった30人。最低でも1000は持ってきてもらいたいものである。
どこに誰が居るのかを把握さえすれば、後は殲滅するだけだ。
アンはエースを、先頭をひた走る船の甲板へ飛ばし、自分も身を捻りながら、まずは雲海を横向きに走るカニへと向かう。そしてカニだけを、どこかに転移させた。座標などは決めずに、思い描くのは"どこか"という事だけだった。その後を深く考えていなった、というのもある。
出現したとある青海のとある島ではとんでも無い騒ぎになり、ふわふわの身をふんだんに使ったカニ食祭りが行われるのだが、それはまた別の誰かの物語だ。
カニが突如消えてしまった後の落下をものともせず、船は白海を進む。
アンは雲海へ落ちる手前で、後尾を走る船の一隻へと転移した。
奇妙な形の船だった。中央の甲板だけを覆い隠すような部位がある。今は開いているが、一体なんのためについているのかが解らない。
前方では赤の炎が渦を巻いていた。まずは小手調べ、といったところか。
悲鳴が上がり、一体何が起こったのかと確認を求めるいくつもの声が飛び交っている。アンが現れた船上でも、襲撃者を告発する声がいくつも発せられた。
「何者だ!」
何者かと尋ねられて馬鹿正直に答える義理もな無ければ、この船を襲撃してはならない、とでもいう定めがあるのでも無し。確かにいつもの心の状態では無いと認めはする。
この不愉快さに名前を付けるのだとすれば、嫌悪、が似つかわしいだろう。
にこりと笑み、アンは包帯がかかっていない腕を伸ばした。そして掌を上に、指を内側に何度か招く。
「さあ、誰からでもどうぞ」
後方で船が勢いよく二つ折りになり、炸裂音を響き渡らせる様子を眺めながらエースは、必要最小限度の被害にておさめました、と胸を張るだろうアンのにこやかな笑顔を思い浮かべる。
最近の進化が、ふたり揃ってとめどなかった。
エースもそうだが、手にした力を試したくて仕方がなかったのだ。
そしてどう使えば一番効果的なのか、有効使用するにはどういう条件下なのかを知るには、はやり実践するのが手っ取り早いともいえる。
アンが青海だと呼んでいた、空に白海があると知っているからこその呼び名だったと今なら分かる---|偉大なる航路≪グランドライン≫では、これらの力を試す前に終わってしまうのが常だった。そう、スペード団が保有する戦力が、すでに前半の楽園で必要とされる実力を大きく上回っていたのだ。だから障害をものともせず、折り返しまでもうすぐというここまで上って来られた。
ただ今回ばかりは、いつもとは何か違う。アンの感情が乱れている。
理由も歩きながら教えられた。
見聞色を苦手としているが故なのか、なんとなくしか分からない感覚だった。エースにしてみれば船で寝食を共にする仲間と、弟、特定の人物以外の心情に対しては雑音にしか聞こえない。後は戦いの時に相手の動きが見えるくらいだ。関わる人間が少なすぎるとは言われるものの、なぜ無関係の生きていくうえで関わらなくていいものたちにまで気をかけなければならないのかがわからなかった。
「その杖を下からこっちに振りあげて斜めに、か。芸がねェな」
まさしくその動きをとろうとしていた男が目を見開く。
「おのれ心網の使い手か!」
たん、とその男は後方に跳び体勢を立て直す。心網を使う相手にはそれなりの戦い方があると言わんばかりに、口角を上げた。だが次の瞬間、男の東部だけが炎に呑み込まれその場で喉をひっ掻きながら事切れる。エースは一瞥すらせず、半身に立ち、船上に降り立った人物を見た。
「容赦の無い。ですが面白い戦い方をなさる。どのような技で?どのような道具で?どのような方法で?」
「障りはお気に召しませんでしたようで、なによりですわ」
くつくつと細長い指を紅の唇に当てて笑う女にエースは応じない。
男の行動を読むまでも無かった、それだけの話だ。
「下がりなさい。これの相手は私がしましょう」
両手の指をすべて揃えたまま空に突き上げた女は胸の前で腕を交差し、
「ワタクシの名はタットワと申します。死にゆく定めのものに名乗ることこそが"神"の威を死の国にも轟かす得策かと。ねえ、そう思いません?」
そう、女は疑問符を口にした。
船上に立つ姿は確かに妖艶といえるだろう。男であれば思わず見てしまう位の容姿だ。
長く伸びた金を細く何本も編み、さらにそれを後方の一か所に集めて束ねている女は体の線がくっきりと出る薄手の服に身を包んでいた。それが己を引き立たせるのに、最も効果的だと意図しての意匠であると知っていたからだ。
周囲に立つ男達も目のやり場に苦労している。
うわ、すごい美人さんだ。
違う船で船員を締め上げているアンの声が聞こえた。聴覚には木の破砕音がさらに大きく鳴り響いた。
「そうか? おれはあんまりだと思うけどな」
呑気にもそんな会話を交わしながら、エースは女と真向かう。
見ているようで見てはいない。その双眸が映しているのはエースの像だが、その実、遥か彼方のなにかを結んでいた。
「…そいつが元凶か」
うふふふふ。
なにが楽しいのかうっとりとタットワは青の空を見上げる。
「解らないのですね。解るはずもございませんね。偉大なる"神"のご意思など、所詮、俗物には理解しえないのですわね」
それも仕方がありません。
女はエースににこりとほほ笑む。
「"神"のうたたねを終わらせぬよう、ワタクシがお相手させていただきますわ」
"
名乗りは上等だ。だがエースはその名を告げている最中に、女を炎の渦で巻いた。卑怯者と橙色の向こう側で女が叫んだものの、何事も先手必勝である。物語にあるようなどこかの王国に仕える騎士でもあるまいし、明確な敵対を表しているのだ。攻撃して何が悪い。
そう思いながらエースはアンの攻撃パタンに似てきたなとほんの少し苦笑する。
だが効果は上々だったらしい。
「崇めよ。我が、神なり」
その男はまるで最初からそこにあったと言わんばかりに現れた。
ぱりぱりと金のほとばしりが走り、白雲を進む船上へと突き刺さる。
その表情は不機嫌だ。表情は無に近く、下がった両の口角は不平の心境を示していた。
額から上を白の布で覆い、気だるく開いた三白眼、長く伸ばした耳朶が腰近くまでになっている。片膝を立てて座し、その肩に立掛けるのは金の杖だ。
「"
歓喜の声を上げたのはタットワだった。焦げた皮膚のまま服の端を揺らしその足元に這い、見上げる。
「…未熟。折角の戯れも飽きてしまった」
タットワはぶらりと垂れていた片足の下に自ら、体を差し入れ神の台座となる。
その態度に幾分かは心象を満足させたのか、ヤハハハハ、という特徴的な笑いを上げ余りに退屈であったため、少しばかり早くに着たと告げる。
「まだまだ甘い。帰って久々に修業を付けてやろう」
それは彼、独自の支配の形だった。
「…あ」
小さく声を上げたのはアンだ。両者の間に黒薔薇背景が見えてしまい、思わず数秒呆けてしまったのだ。一隻の船を雲海内に逃してしまった。なんの為に使うのかと訝しんでいたものは、潜水時に使用する囲いだったらしい。
さすがのアンも雲海に潜ってその船を追いかけられるほど、空に浮かぶ海を熟知している訳ではない。
町に到達されるだろうが、ツヴァイに任せる。エマがこちらの声を拾っていると信じて、後は宜しく、と、メッセージを思う。
アンは足場にしていた船に踵を落とせば船は真っ二つに割れ雲間に沈んでいった。この下に島がありませんように、とだけ願って。
月歩で最後に残った船へと移動すれば、そこに残るのは神を名乗る男と、それに使える官、そして青海からやってきた双子だけとなる。
「神を目の前にして頭が高い」
顎を上げ、男はふたりを見下ろす。だがされているふたりは涼やかだ。
「神様ごっこは楽しいか」
口角を上げ、エースは余裕の装いのまま白い歯を見せた。
瞬間、金の光が伸びるが、甲板にささった一本のなにかによって阻まれる。
エネルは片眉を跳ねあげた。
「女、なにをした」
しかしアンはなにも答えない。心にも思わない。
見聞色は大得意と言っても良い能力だ。自らを神だと名乗る、痛い人物に心情を悟らせるのは癪だ。これがまだヒーローに憧れる年頃ならば生暖かく見守れるだろうが、確実に、生まれはふたりより先であるだろう。
不意にエースから名を呼ばれる。
「なあに、エース」
「顔に出てるぞ」
「はっはー。隠すつもり無いもの。痛いよねぇ、ホントに。中二病は思春期で終わらせておかないと!」
アンはにっこりと、これ以上無いという極上の笑みを浮かべ、毒を吐いた。
真っ先に動いたのはタットワだった。
敬愛する神に対して余りにも屈辱的な言葉を並べられたのに我慢が成らなかったようで、"
だがそれしきの事で使えなくなるなど、ちゃんちゃらおかしな話だ。
動揺などいくらでもする。その状態にたとえ陥ったとしても、冷静に判断を下せるように訓練するのだ。それを人は、緊急対応マニュアルとして文章に起こす。
もしくは定期的に自分を断崖絶壁まで追いやり、精神的抑圧を経験しつづければなにが起こっても瞬時に動けるようになるだろう。
双子の場合、大体が後者で成り立っているのだが、周りから言わせれば異常だと言われるに違いない。
しかし素質があるとはいえ、5人もの人物に見聞色を開眼させたエネルという男は確かに才能を持っているのだろうとも思えた。
ただ。そう多少目のやり場に困るくらいだろうか。
胸のラインや腰、色づきなどが透けて見えてしまっている。
恥じらいもひとそれぞれで、道徳が一律では無いこの世界で、恥ずかしいと思っているのはアンだけかも知れなかったのだが、それは二重の意味で仕方の無い事だと自分に言い聞かせた。
「じゃ、女同士の戦いってことで」
大きな島雲の群れへ、アンは掴みかかってきたタットワの手首をむんずと掴み、転移する。
船に残された雷も、多少、日頃の運動不足を解消するかと言わんばかりに、怠惰に立ちその場で能力を解放した。
「"
普通の人間ならば電流を受ければひとたまりも無く、通電した体内は焼き焦げて命を失ってしまう。だがエースは炎でありかつ、武装色の使い手だ。
「うまく避けたか」
落雷による災いは、大電流によってもたらされるジュール熱が物体に被害を発生させるのが主な原因だ。普通の人間は電撃による感電ショックにより、髄に通電し死に至る。そもそも人間の神経は微弱な電気信号であり、ここに受け止めきれない大きな容量が通過すればどうなるか。さもあらん、である。
しかし今回の戦いでは、物体に触れる事で起る熱の損傷は起らない。
それはエースが自然系の能力者であるがゆえの特別仕様だ。
足場にしていた船は見るも無残に炎上し、白の海上で煙を上げている。
エースは空中でくるりとバク転し、そのまま月歩で身をひるがえした。
「逃げるか」
「お前こそ逃がしてやってもかまわねェんだけどさ」
エースは余裕綽々のまま、肩越しに雷を見た。
「けど悪い。何発か殴らせて貰うな」
その言葉にエネルは薄い唇を歪ませる。神に歯向かう不届きさに加え、雷である自らを殴れるなど在るはずも無い。
自らの体の事を、能力をエネルは調べ尽くした。どんな武器を使おうとも、物理攻撃に対しては絶対的な無効を誇る。
どんなに、例え青海にあるという能力者の力を奪う石があったとしても、雷であり続けるならば存在し続けるだろう。まさしく無敵、絶対的な支配者であるのだ。
「やれるものならば、やってみるがよい、小僧」
エネルは明白な事実を思い知らせるため、背に負った太鼓により龍の顎門(あぎと)を開く。
その頃アンは、弾力ある不安定な足場の上でタットワの主要関節を全て外し終えた所だった。虫の息となっているタットワに最後を下すか否か、思案していたのだ。本当であれば苦痛を長引かせるのはアンの本意に沿わない。だが流れ出して来る思考を遡れば、このまま放置し、生死の運命を世界にゆだねるという手もある。紅の誘惑がちらりとかすめるが溜息と一緒に捨て去る。
「さてどうしようかな」
手にしていた武器は雷男と同じ杖だったが、その錬度は半分にも満てはいないように思えた。いろいろと仕込んだのはエネルなのだろう。だが弟子は師匠が持つ実力の半分しか、教えによって会得できないといわれている。そこから自分なりに技の熟練度や自分にあった形を模索し、落とし込んでゆく。その過程を与えられていないのだろう。
「十分なんだろうけれど。弱い者いじめをするならば」
そう、その技をなんの受け身も取れない一般人に行うのであれば脅威だろう。
訓練を受けた青海4方向の支部勤めから出た事の無い海兵でも危うそうだ。
本部で日々、上官の元で心も体もぎりぎりまで追い詰められている兵たちであれば良い勝負となるだろう。そして少佐か中佐位になると、現在のアンと同じく物足りなさを感じながら倒す事も出来るレベルか。
「…ああ、エネ、ルさ…ま」
タットワは5人の神官の中で最も優れた能力の持ち主だった。
『沼』『鉄』『玉』『紐』の試練を受け持つ同士達のさらに奥、生贄の祭壇を担当し、ゆるゆると生贄に選ばれた者達をその場では無く、森へと誘い神の偉大さと威厳を語りながら安らぎの彼方へと送り出してきたのだ。
神兵よりも、神官よりも神であるエネルの側に侍る事こそが矜持だった。
負けるはずがない。
負けるなどあってはならない。
甲高い叫びが放たれる。
本来あるはずの場所から外した関節は、激痛を発する。動くことなど出来ず、動いたとすればそれは、神経を押しつぶすと同意だ。気を失ったとしてもおかしくは無い。
「…すごい精神力」
アンは、女の妄執ともいえる感情に声を漏らした。
ふらり、ふらりと不確かな足取りのまま立ち上がれば、体中に激痛が走っているのだろう、息を吸うのも吐くのも、引きつる高音が赤に染まった唇から出る。
「神の恩名を、讃えなさい!」
タットワは既に戦う力を失っていた。だがそれがどうしたのだ。痛みなどその内に、快楽へと変わる。痛みなど神の元に居られなくなる事を考えれば、些細だった。
唯一残っているのはこの心だ。
指をかぎ状にし、声を上げて走った。
実際には走れてはいないのだろう。
だがタットワはその爪で一撃を与え、崇拝する神の絶対が揺らがぬように努める事も、神官である意義であると固く信じた。
だから己の身がどうなろうと、神が神の座にあるのであればそれで満足できたのだ。それが狂気であるというのなら、喜んで彼女は肯定するだろう。
「ならばそれを、わたしは否定しよう。たとえ偽善と言われたとしても」
アンは伸ばされたタットワの掌を受けた。
包帯が巻かれたその上に、手入れされた爪が突き刺さる。
もうひとつの手が首へと伸びるが、それは手刀により払う。そしてアンは手首を手前に曲げ爪を抜くと、そのままタットワの手首を握り肘の関節を折る。
人骨がどういう風に軟骨により繋がっているかを知っていれば容易い。
そして腰紐に挿していたナイフを引き抜く。10年以上、使い続けている手の延長ともいえる道具だ。
そのまま後方へ回り込み手にしていたナイフに覇気を込め、無感情に首を刎ねた。
赤が噴出し、くぼみへと貯まる。
ほんの数秒、意識は残るだろうがもう、痛みは感じないはずだ。
アンは足元に転がり、骸と化した元神官へ憐れみ線を落とす。
タットワと名乗った人物は、ものの数分でただの肉の塊へと化した。
息を、つく。
噴出が止まった体を横たえ、転がった頭部を拾い元あった場所に近い所へ置いた。
「恋は人を盲目にするっていうけれど」
アンは息を、もう一度ついた。
女にとってはきっと、心の救い主だったのだろう。
ころり。
女がしていた腰の飾り布から、
「使えなかった?それとも使わなかった?」
空に住む人々はこれらを武器に戦うのだという。拾いあげながら、揺らめく陽炎から目を逸らし、アンは今も続く青い空に咲いた金と赤の色彩に視線を向ける。
エースは楽しんでいた。同じ自然系である雷男を相手に、今まで試したくても出来なかった、温度変化を初めとする技など用いて戯れている。
対するエネルは必至の形相になっていた。
怒りや焦り、そして恐怖。
今まで与える側だった男が、享受する側にまわっていた。
しかもまだ20という年月も生きてはいない、青年によっていいようにあしらわれているのだ。井の中の蛙ならぬ、雲の上の雷とでも言うべきか。
エネルが
腕を性質である雷に変え肉弾戦を始めれば、指先から炎を弾丸のように撃ち出しつつ、ふたつ名の由来となった火拳による攻撃で雷を透過させる。
同じ自然系同士の戦いにおいて、最も重要になってくるのは
例えばエースが食べたメラメラの炎は、ケムリンの煙に対して相殺の関係にある。なぜなら炎が発生した後、燃焼された物質の残りかすの証として発生するのが煙だ。同系列の近しい間柄、というより事後であるためお互いに技を放ったとしても殺傷には至らない。煙は炎の威力を弱められないからだ。
そして雷男とエースの関係だが、これもまた同系列の近しい間柄となる。
電気抵抗により生まれるのは熱だ。エースはその熱の塊ともいえる炎であり、その温度は瞬間的であれば白、にまで至る。
よって幾ら両者が攻撃しあったとしてもダメージを蓄積することはない。
ただエースは覇気使いだ。
エネルはなにが起っているのか解らなかった。
手足である神官も、手負いの小娘の手により消失した。想定外が次々と積み重ねられる。驚愕の表情をさらけ出していた。
相手は自らと同じ自然系の能力者であり、同じく物理攻撃が効かない炎であるとは解った。その力もお互いに無効化し合い、全く無益であるとも撃ち合い解った。
だがしかし、青海のサル一匹はエネルの体を傷つけていた。
無効化ではない。
天敵でも無い。
炎である事に理由があるのか、それとは違うなにかがあるのか。
どちらも心網の使い手であるのは確かであった。
「ならば!」
形ある雷であるならばどうだ。
エネルは手にしていた杖を"
伝導率の良い金属であるからこそ出来る、武器の生成だ。
エネルはその身を雷に変え、瞬間的にエースへと切迫する。目で追える早さでは無い。呼吸をする行為が終わらぬ間に、姿がそこに現れる。
だがエースはエネルの行動を前もって予測したかのように、掌を雷が持つ矛があるだろう場所へ伸ばされていた。
熱源により矛が溶け、どろりと雲間に金が落ちる。
そしてエースは叫ぶ。双子の名を。