ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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60-蒼穹の白(1)

 喧騒が溢れていた。客室はそうでもない。が、しかしその店の厨房は開店以来もっとも過酷な一日だとのちに記されること間違いなし、であった。客が望む料理を作りだす奥の様相はまさしく戦場といってしまってもいい。注文された料理数が半端では無く、しかもいかつい顔つきをした男や女が行儀よくテーブルと椅子に分かれ、次々と出される料理を胃に収めているのだ。作っても作ってもキリが無い。しかもその男達に混じって、女性と子供が和気あいあいとした様子で座っているのも不思議な光景だと、料理を運ぶウエイターと化した見習いシェフたちは思う。

 「お待たせいたしました、ピラフ大盛りはどちら様で!」

 「おーいオヤジ、こっちだ。ついでにこのロブスターの辛いヤツ、もう一皿持って来てくれ」

 酒が尽きた。樽ごとたのむ。

 注文がひっきりなしに飛び交い、店内は大わらわだ。

 

 盛大な喧嘩という名の局地災害が廃船島で起きた翌日、岬を中心に鳴り響いた爆音について様々な憶測が飛ぶ街中、スペード団の面々はお行儀よく集団で昼食をとっていた。

 ドックに入れた船を見に来たアイスバーグ曰く、

 「ンマー、5日もあれば出来るだろう。それまでのんびりしておいてくれ」とのこと。

 損傷個所は手直しがきく場所ばかりで本当は2、3日の、工程らしいのだが、特別にいろいろと改造してくれるのだという。

 

 「伝手というより、人脈ですね」

 20名を超える仲間たちが入れば、小さな飯屋は慌ただしくごった返してしまった。しかも普段、似非海賊、海賊もどきとして海を駆け抜けている荒くれ者達だ。食べる量も半端ではない。なので先に、これくらいになるだろうという金額を渡し、もしも食材を買い出しに行かねばならない場合をも見据えて、金銭を渡してある。その金額はこの店を仕切る女将が見たこともない額だったことは間違いない。とはいえありとあらゆる食材を食べきってしまう可能性もある。迷惑料込での値段であれば安いとアンは言い切れた。

 一皿目が出てからおよそ70分後。陣取った客たちは至福の表情で腹をさすり、また奥の厨房では燃え尽きた料理人たちが積みあがった皿を、疲労度が落ち着いた順に片し始めていた。

 個人行動をとるため飯屋から出る船員それぞれにに5日分の滞在費を手渡しながら、ツヴァイが息をつく。本日の金庫番はツヴァイだ。現金を大量に持ったまま、どこに居ればいいのだろうかと本気で悩む。

 しかもその大量の現金は、船の修理に消えるはずのものだった。この仕事を受けると決めたアイスバーグより、受け取り拒否されたのである。用意した金銭の殆どが手元に残る形になったのは、これからの航海を考えれば喜ばしいのだが、個人であれば豪遊しても5年は遊んで暮らせる金額を要らないと言わしめさせたアンに関して謎ばかりが深まる。例え海軍に所属し、かの英雄の孫であったとしてもここまで、友人の(よしみ)だと言われるものなのだろうか。

 「お前ら、無駄使いすんなよ」

 「船長はすぐに使い切りそうっすよね」

 主に食費で。

 笑い声と同意がいくつも上がる。

 船員の声に、本人も同意を示す。島に居た頃から、兄弟揃って食べる量が半端無いとは十分に解っていた事だ。皿を積み始めているエースがくい、と親指をアンに向ける。そしてごくりと噛んでいた食べ物を飲み込んでから、

 「それは心配いらねェ。アンが…」

 かくん。

 言葉が急に途切れる。

 フォークに突き刺したウインナーをそのままに、最後の〆にと頼んだ山盛焼き飯の皿の上へ顔が落ち……かけた。

 「まったく…」

 いつもの事だとは分かっていても、突然の失神に対し眉に皺が寄る。横に座っていたツヴァイが咄嗟に手のひらを出し、船長の顔がうずもれる前に受け止めたのだ。至る所で中腰になった面々が、ほっと一息をつきながら席に着き直した。

 至る場所で突然意識が落ちる。

 という現象はすっかりと船員におなじみのものとなっていた。

 これは特殊感染だと、アンは思っている。義祖父を初めとする、自分たちだけがかかっている病だ。何度も頑張ってみた。その瞬間を待ち構えもしてみた。しかし抵抗しようと頑張っても、意識が刈り取られてしまった。どんなに睡眠をしっかり取り、絶対に大丈夫だとしても起ってしまう奇怪な現象なのだ。

 これに関して聞くより見た方が早い。アンは新しく乗り込んでくる仲間たちに現象を見せ、助けてくれるように頼んだ。陸の上ならいい。ごはん中でも水分の中に突っ込まない限りまだ息もできる。しかしエースもアンも水中にどぼん、となれば、そのまま青の中に飲み込まれてゆくだろう。特にエースは誰のせいとは言わないが、海水に対する危険度が抜群に上がっているのだ。最近ようやく、なんとか全員に浸透してきたようで、誰も彼もが手を差し出してくれるようになったため安心していられるようになっていた。エースの方が回数は多いが、アンにも不意にやってくるからだ。アンはひそかにDの呪いだと疑っている。

 「…なんだったっけか」

 数分後、意識を取り戻したエースは寝落ちたことなどみじんも感じさせない様子でもぐもぐと再び食べ始める。これうめぇ。あまりの旨さに意識が遠のきかけた。などと言いながらだ。もちろん周囲は遠のきかけた、ではなく無くなってた、と冷静な突っ込みの視線を向けている。

 「そりゃね。買うもの殆ど無いし、エースの食費でも構わないのだけど…」

 渡される金銭は、滞在費という名の給金だ。普通の海賊船であれば衣食住を保障し、乗せてやっているのだから戦利品が手に入るまでは分け前を渡さない、必要無い、というのがまかり通っていると聞いているが、実際のところは詭弁だとアンは思っている。

 基本的に海賊は誰かを襲って金品や食糧、奴隷を得て売りさばくのが主なお仕事内容だ。犯す危険が大きい分、実入りも確かに桁外れである。しかしスペード団はピースメインであり、出自や以前の労働環境はどうあれ、エースが船長を務める船で労働してもらっているわけだ。なので商会という金銭供給源を持っている双子にとって給与を支給できる状態になれば渡してもなんらおかしくは無い。ならば普通に使える場所に降り立ったなら、渡すのが筋というものだと思っている。お金という物質は、使う人物によって有益にも有害にもなり得る不思議なものだ。懐に貯め込んでも死ねば宝の持ち腐れになってしまう。ならば放出してしまった方経済も潤うし良い、と考えていた。それに死人に口なし、金は死んだら使えない、を幼いころから身近に体現していた環境下で育ったふたりである。特にエースとルフィは宵越しの金は持たない、がもっとうだ。そもそも物欲がない兄弟だった。お金の管理もアンが行い、食べたいものが出たときにいくらか手渡していただけだ。

 アンの見解にエースやツヴァイ、乗組員達もその方針に誰も異を唱えなかった。なので立ち上げ以来、ずっとこの形式が取られ続けている。

 「わたしも何枚かさくらの服を買い足す予定なだけだし」

 ぴくりとさくらが身をこわばらせる。これ以上、かわいい系はいらないとふるふると頭を振る。

 「…アン様」

 「ん?ああ、今日はズボンとシャツを買いに行くつもり。成長してるものねぇ」

 なでなでと頭の頂を撫でられながら、さくらは安心したように卵をぱくりと口に含む。

 

 アンにとって今現在進行中で問題なのは、だ。

 ルッチがこの町に住んでいる、という一点だった。

 なぜなのかは推して知るべし、なのだがここに居る仲間達には説明しにくい事情も絡んでいる。昨日ルッチと話した時に、前回の約束を果たして貰いたいと言ってきたのだ。

 該当する約束はたったひとつ、明後日に休みがあるらしくその日、と指定もされてしまっている。

 確かに今のアンであれば即座に叶えられた。場所も瞬間移動で向かえば、どこへだっていける。

 しかも今回、宿は既に全員分確保してあった。以前義祖父と共に泊り、それからも何度か利用させて貰っていた中央街のホテルに頼んでみると、即座にOKが出たのだ。自身が海賊であると知れているはずなのに、支配人は快く部屋を貸し出してくれた事に、アンは黙って頭を下げた。

 

 ウォータセブンはどちらかと言えば治安の良い町として知られている。

 ツヴァイが船員たちに渡した金額も結構な量で、歓楽街に個人的に繰り出してもきっと余るのではないかという量だ。日々を海で生活する男達を接待する色町も存在している。

 そこに出発の日まで籠っていても十分過ごせる程の金額が手渡されていた。

 ドーン島を出てからかれこれ3カ月、ずっと離れることなくエースや、途中乗船してきた仲間達と共に海を渡ってきている訳だが、そろそろ単独行動するのもいいかもと思い始めていた。

 たまに満月時以外にもひとりで出かけている時があったが、どの日も数時間程度で戻ってきている。

 単独で行動するようになれば数日、長ければ1カ月くらいは船を空ける事になるだろう。

 とはいってもエースにはなにをしているのか、必死に隠さねば筒抜けだ。こそこそとしていれば何か裏でやってるな、などと過去の蓄積経験で予測されてしまう。

 

 「ついてく」

 「…まだ何も言って無いよ、わたし」

 エースは真正面に座り、山盛りのサラダを突き刺しているアンを見る。

 「…あのね」

 「譲らねェ」

 

 昨日の喧嘩がこの場で再び勃発かと、船員たちがごくりと息を飲む。よもや店内では起こすまいとおもいつつも、たまに常識から逸脱するアンである。

 昨日、船員たちは天国と地獄を同時に見た。炎が乱れる様は、一言でいって恐怖以外のなにものでもない。これが俗に言う炎獄だと言わんばかりの灼熱が飛び交ったのだ。自然系の能力者であるエースと対峙しても、生身であるとは思えないほど引けを取らない双方のぶつかり合いに、船に乗る誰もがぞくりと身を震わせた。

 赤い土の大陸の先を知るアン曰く、まだまだふたりはひよっこの部類にはいるのだという。エースであろうとも、たぶん今のままでは四皇で齢70を数える白ひげの足元にも及ばないと言い切った。さらに言うならば、アン自身が挑んでも10分持てばいい方だと海兵時代の逸話も添えて説明された事がある。

 だが船員たちにとってみれば、既に双子の力は己たちを大きく越えており、それ以上にすごいと言われたところで、なにがどうすごいのか。さすがに想像域を突きぬけてしまっていた。だからこちら側は楽園、なんだよ。と言ったアンの言葉をスペード団の面々は、新世界で目の当たりにすることになる。

 

 大変お待たせしました、フィッシュアンドチップスとチキンのグリルでーす。

 ぱたぱたと店員が忙しそうにテーブルに料理を置いてゆく。双子はその間もじっと見つめ合ったままだ。

 「チキン半分食べてくれる?」

 「ん、食う」

 湯気立つ料理にアンが視線を落とし、再びエースを見た。

 折れるつもりは無いらしい。

 となれば、船員のまとめ役として残るのは副船長であり、航海士でもあるツヴァイの仕事となる。

 「じゃ、ちょっと散歩がてらに空島行く?」

 ご近所に買い物に行くような口調で言い放つアンに、仲間たちが目を点にした。

 エースも想像していた何かとは違ったようで、きょとんとしている。

 「ちょっと待って下さいよ。空島って、本当にあるんですか」

 「あるよ」

 事も無げに、アンは仲間の言葉を肯定する。

 青海では夢物語であるとか、伝説であると言われているが、上空1万メートルの空には雲の海が横たわっているのを知っていた。

 笑うべきなのか、それとも黙っておくべきなのか。乗組員達はごくりと喉を鳴らす。

 「普通は、にわかに信じられないよね」

 届けられたトマトソースのパスタをフォークでくるくると巻きながら、面々の顔を見る。

 口を開けて待ちかまえているさくらの口にそれを入れてから、ふたつある行き方を説明し始めた。

 

 ひとつは赤い土の大陸にある幾つかの山脈の頂きから至る方法。

 これは公式ではなかったが、海軍でも一度、まじめに試した事がある、空島へ行きつける手段のひとつだった。

 「ただしこのルートは100名で挑んだとしたならば、その内の誰かひとりでも到達すれば成功だと言われる(みち)なのね」

 もうひとつは"突きあげる海流(ノックアップストリーム)"に乗っていく方法だと笑む。

 「こちらは生か死、二択の方法」

 仲間の屍を越えて最後のひとりに到達の意志を託すか、いちかばちか、0か100かの賭けに出るか、だった。

 前半の楽園で起こる"突きあげる海流"に関してはジャヤの近くで数日に一度、空へ突き上げられている現象が確認されている。実は東西南北それぞれの海にも年単位であるが同じような現象が起こる地点がある。それを使って行く場所とはどんなところだ、というのが船員たちの感想だった。

 「そしてわたしだけの方法」

 全てを言わなくても、誰もが思い当たる方法だ。

 アンは空間と空間を結んで瞬間的に違うどこかに行きつく事が出来た。ただし、見知らぬ場所には行けず、同時に飛べる人物もひとりまでと制約がつく。が、海兵時代に様々な場所へ赴き、能力の開発を行っていた成果も重なって、写真や明確に風景を想像できる場所へならば行きつく事が可能になっていた。

 その他、エースと海に出てから思考錯誤しつつ、技を増やしてもいる。

 半身に至ってはその身に宿る炎の色を変え、技の種類も増やし、どんどんと先につき進んでいる状態だ。

 

 「私もご一緒したいのですが」

 その言に一番驚いたのは、アンだった。

 「ね。船長と副船長が居なくなったらこの集団、誰がまとめるの?」

 それは至極もっともな問いだ。

 「いけるだろ。先生もいるし」

 「そうですよ。数日不在でも、皆さん大丈夫ですよね」

 暴れると言ってもこの町は比較的、秩序がありますし、なにより。

 「偽船大工たちが強い、だろ」

 エースが最後のチキンソテーを口の中に放り込み、もぐもぐと咀嚼した。

 ああなるほど、エースはしっかりこちらの事情を理解しているのか。だからさっきの顔もルッチが絡んでると勘違いしたわけだ。

 アンは思考を隠さず、エースへと笑いかけた。まったくもってその通り、エースは肉を咀嚼しながらうなずく。

 

 実際的にこのW7に居る船大工たちは星の数ほどに溢れる楽園にたむろする海賊たちよりも強い、といえるだろう。日々の仕事が仕事だけに、十分に、例えるなら街で暮らす大三次産業を担う人と比べれば強く例え海賊に襲撃されたとしても撃退できるくらいの実力派ぞろいだ。しかもその中にCPが3人も紛れ込んでいた。今のところ誰にも知られていないようだが、心臓に悪い再会だった。だからこそではないが、どんな海賊が来ても瞬殺されるだろう未来は固い。ルッチも昔と比べ、海賊という文言に対し相変わらずの嫌悪感はあるものの、この潜伏を成功させるためなのか、むやみやたらに感情を荒立たせる事は無くなっている。

 「騒ぎは出来るだけ起こさない事を周知徹底さよう。もしトラブルに巻き込まれたら…アイスさんに頼んどく。みんな、先に出てった仲間たちにも伝えてね」

 

 予定が決まったとなれば、店内に残っていた船員たち善は急げと言わんばかりに注文した品々を胃に収めてゆく。

 宿を中心に行動する事。

 外出するならば、先生とさくらに必ず言付けて出ていく事。

 必ず誰かひとりはさくらの相手をする事。さらにツヴァイに代わりさくらが金庫番となったため、さくらのお付きは責任重大である。

 

 

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 船が収められている場所には人が溢れかえっていた。

 それもそのはずだ。ガレーラの社長自らが技術を披露しているのだから、職人たちがその技を目で盗もうと、囲いを作るのも分かった。

 人垣を掻き分けてアンはこっそりとアイスバーグへ耳打ちする。もちろんルッチやカリファ、カクへの対策をばっちりととって、だ。

 微かな舌打ちと、非難の視線がふたつほど突き刺さるが気にしない。

 そうしてアイスバーグに2、3日の留守を伝え、何かあった時の対処を頼む。それとは別に廃材として出ていた鉄の塊を幾つか使っても良いか聞いた。

 「ンマー、それは別に構わないが。なにに使うのか聞く方が野暮だな。なら何でもいい。その土地の土産を頼む」

 返事は承諾、町を歩く際には解体屋フランキー一家に注意するように言われ、アンも分かったと頷いた。

 

 そうなれば宿で支度をし、注意事を追加すればあとは空の上へと向かうだけとなる。

 荷物は少なく、いつも持ち歩いている肩かけ鞄のみだ。エースに至っては手ぶらだし、ツヴァイもベルトに止めてある小さなサップとナイフだけだった。スペード団は基本、荷物を持たない。食料をはじめ、必要物資諸々を現地にて調達するのだ。医薬品に関しては例外だが。

 「じゃ、行ってきます」

 船員たちの見送りを受けて、アンはエースとツヴァイを伴い姿を消した。

 さくらはすう、と視線を遥か上空、雲の向こうに投げる。

 「アン様」

 その声は小さく、船員の誰の耳にも届かない。

 

 

 「ちょっとここで休憩、させてね」

 体を慣らすためだとアンはその場で背伸びをしたり、柔軟体操をし始める。

 連れて来られたふたりは、まさしく絶句、だった。

 目の前に広がった景色に、エースは目を見開いている。

 間接的に触れるのとはまた違った体感に、その表情は宝物を見つけた子供のように輝いていた。

 「これは、一体」

 是非随行したいと名乗り出たツヴァイも声を詰まらせている。

 話に聞いていた通り、眼下一面に広がるのは白い雲だ。だがその白は見慣れた海のようにゆっくりと動き、淡い色合いではあるが青の彩りをしている。

 触れば水のような感触を指に残した。

 「すげェな!アン!」

 「ええ、確かに夢物語では済まされない現実感を感じます」

 「でしょう?ていうか現実だから。ツヴァイ、ほっぺた引っ張れば一発だよ」

 

 大きな弾力のある、クッションのような場所に寝転がったアンがふたりの体調を尋ねながら、かつての景色を今を重ね合わせる。

 そうして首をかくりと傾げ、やっぱり変わってるな、と結論付けた。以前来た時より島雲が増えているような気がしたのだ。青海と比べると限りある狭き海だが、緩やかな流れは存在している。

 とはいえ、以前、と言っても2ほど前になるのだから、変わっていてもおかしくは無い。今から向かう場所には半年に一度位は顔を見せてはいるが、アンにとって白海は久しぶりに訪れる場所だった。

 「エース、ツヴァイ、体の調子、どう?」

 アンが両名の顔を見れば、普段と変わらない面持ちをしている。以外に平気そうだ。

 自身も初めてここに来た時、空に住む人に驚かれたがなるほど、青海人の順応能力は凄まじいのかもしれない。

 「ここで大丈夫なら、一気に登っちゃってもいいかも」

 「まだ上があるのですか」

 こくり、とアンは頷き、もう一層上があると人差し指を指し示す。

 「ここは海抜7000m上空にある、白海。しっかりした足場のある白々海はあと3000m上空にあるの。でも目的地はもうちょっと上」

 海抜と標高、どちらも高さを表す言葉だ。

 エースもツヴァイも航海士としての知識がある為か、それはなにかと尋ねてはこなかった。

 「しかしすごいですね」

 先ほどから繰り返される言葉は、同系統のものばかりだ。

 それに関して解らいでもない。

 ツヴァイは特に、目に見える現実に、想像が追い付かなくなっているのだろう。

 それとは相対的にエースは先ほどからはしゃぎっぱなしだった。

 基本的にエースは全てを否定しない。例え誰からか聞いた話でも、へぇそうなのか、と受け止める。人によってひとつの物事に対し、感じ方は様々だ。だから自身が見聞するまで、それは違う、とは言わなかった。

 

 「なあツヴァイ、ここならおれ、泳げるかな」

 能力者となり水面に浮けなくなったエースが興味津津に副船長を振りかえっている。

 「どうでしょうね。空と言っても海のようなもの、のようですし」

 なら試してみよう。百聞は一見にしかず、とエースはテンガロンハットを雲において、ていや、と飛び込む。

 白の飛沫があがると同時に、アンが口を開き、

 「あー。そうそう。言うの忘れてたけれどこの空海、海楼石成分で出来てるから飛び込んだら溺れるよ…って遅かった」

 ぶくぶくと残念な表情で沈むエースをツヴァイが必死に引き上げている姿を見て、アンが笑う。

 

 「すげェ変な海だ。塩の味がしねェ」

 抵抗が少なく、それでいて沈む速度は海水よりも早い。しかも底が無いと追加説明するアンに、落ちれば青海真っ逆さまだと聞けば、エースは眉を寄せて嫌な顔をした。

 アンは肩かけかばんの中から小さなコップを3つと水筒、そして幾つかの果物を取り出す。

 片手が包帯で塞がれているため、落とさないように気を付けながら。そこにツヴァイが合の手を出し、コップに水が注がれた。

 「ほどほどの運動も終わっただろうし、水分補給しようか。はい、レモン、あとエースはこれ」

 仰向けに寝転がるエースにレモンと小粒の赤い実を投げる。

 ツヴァイには丸ごとの果実を手渡した。

 

 ありがてェ、とエースは迷い無くぱくりと赤い実を口に含む。そして外皮を噛み、中の果実を舌で転がす。

 ミラクリンとこちらで呼ばれているその実は、あちらではミラクルフルーツと呼ばれるものだ。

 酸味を苦手とするエースの為に味覚の変化を起こさせる、ミラクリンをアンは宿に向かう途中、市場で買ってきた。アンにとってこちらがいつまでたっても異世界であると余り思えない原因のひとつに、食べ物が挙げられる。以前暮らしていた世界とこちらは、植物の分布だけでみると、結構重なり合っていた。

 例えば名前は違うがキャベツやニンジン、トマト、なすび。イチゴやスイカ、パイナップルなんてものまである。ウォータセブンから線路で繋がる、セントポプラの市場でミラクルフルーツを見たときには、驚いた。これでエースの酸味対策が出来る。内心で拳を握ったのはここだけの話だ。

 果物系で一番嬉しかったのがバナナがあった事だ。

 食べても良し、牛乳とジューサーで粉砕してもよし、腹持ちもいいし、食を胃に詰め込むのが苦手なアンにとってこちらでも無くてはならない果物となっている。

 

 バナナといえばよく、バナナケーキをマキノに作って貰っていた。島の女たちにしてみればケーキらしくないとの言であったが、シンプルだからこそ作り手の腕がよく出る。

 柔らかなケーキスポンジにたっぷりと生クリームを乗せ、その上にバナナを一本乗せてくるりと巻く。

 あちらでは男性も激甘スイーツを取り寄せで楽しむようになってはいたが、こちらでは余り、男がケーキをぱくつくと言う現場にお目にかかった事が無かった。

 砂糖などの甘味料は広く出回っているものの、甘いものははやり、女子供の食べ物とされているらしく、酒場に入れば、もっぱら男達は塩辛い食べ物ばかりをつまんでいる。

 お酒に甘いものと重なれば、成人が罹ると言われている三大疾病になりやすく、おなかが出ている大きな人が多いのはそのせいだろうなぁとアンはしみじみと思ったことがあった。だがしかし、酒類は別としても、甘味だけは譲れなかった。

 そのせいで、というのもなんだが、兄弟達は幼い頃からアンに付き合ってケーキを食べたり、プリンやパフェ、エクレアに砂糖まみれのドーナッツ、マシュマロなどをマキノの店で口にしていたおかげもあって、すっかりと甘党に育っていた。

 フーシャ村には幾つも、あちら風にアレンジされた食べ物が並び、壁の向こう側からわざわざ食べに来る人まで居ると聞いている。

 

 いつもはみかんすら嫌がって余り食べないエースが、剥いただけの黄色い果実を丸かじりする様をツヴァイは信じられないといった様子で見ている。試しにどうかな、と勧めてみれば、レモンを恐るおそる齧った瞬間、私に隠れてはちみつをかけましたね?と言わしめるまでの甘味を感じたらしい。

 「人によってどこまで甘く感じるかはそれぞれなんだけどね」

 エースに剥いて貰った房を口に入れ、酸味に唇をすぼめながら食べる。

 と。

 横でもぐもぐと口を動かしていたエースが噴き出した。

 「お前っ、わざとだろっ」

 いえいえ、酸っぱいのが苦手なエースに味覚を同調させたなど、そんなことあるわけないよ。そうにっこりと可愛らしく小首を傾げて事も無げに言うアンと、目尻に涙を浮かべるエースとの間に入ってしまったツヴァイは、ふたりが仲直りするまでその場から動けなかった。

 

 

 「さて、残りの行程、行っちゃいましょうか」

 仲が良いほど喧嘩するもんなんだよ。なんだぞ。

 双子は和解後、すっかりと疲れ切ってしまっていたツヴァイへと胸を張って言い、鞄を肩にひっかけ、それぞれの腕に自分の腕を絡ませる。

 手のひらの傷は船医によってしかと固定されており、昨夜の激突の際も外れないくらい頑丈だった。空島に出かけると言ったアンに船医は外れた時に巻き直す包帯と、薬をたっぷりと持たせたのは言うまでも無い。傷の癒着が既に始まってはいたが、油断は禁物だとツヴァイや船長は余り暴れさせないようしっかりと言い願っていたくらいだ。

 

 エースとツヴァイに高山病の兆候が全く見えない事にアンは安堵しつつ、更なる上へと視線を向けた。

 通常ならば低地から高地へ移動すると、酸素濃度の低下と共に、体への負担が大きくなってゆく。そして様々な障害が起きてくるのだ。その主な症状は頭痛及び吐き気、倦怠感や虚脱感、めまい、朦朧なのだが、このふたりには当てはまらないらしい。

 アンは目を瞑り、今から跳ぶ場所への像を描く。そしてしっかりと更なる空へと視線を向け、空間を結んだ。

 

 意外だがこちらの世界でも登山の文化は確立されていた。著書も数多く出ていて、高山病、という名目ではないが、それなりに平地から高地へ上る場合の注意点や、病状が示されている。

 探検家が主にその引率役を果たしているのだが、ただあちらのように、「明日山登りに行かないか」などという気軽さはなかった。衣類や道具ひとつとっても基本的にあちらの方が機密性、便利性に富んだ装備が揃っていたし、どちらかと言えばこちらは、山に住んでいる人達が雪解けとともに平地から登ってくる行楽客を迎える姿が一般的ではないだろうかと思う。

 だが高地の環境に適した者達も、確かに存在していた。

 そう、海に魚人や人魚が居るように、人里離れた高地には獣人が暮らしている。

 ただ獣人の数そのものが世界で少なく、そのほとんどがモコモ王国と呼ばれるゾウで暮らしている。アンが把握している世界の集落もひとつだけしかない。しかもそこは隠れ里で、見つけたのも偶然だった。細々と血を繋ぎ、人間の社会と交わろうとせず、安全が確保されている地域から出る事は殆ど無い。

 ちなみにこの隠れ里にも歴史の本文が存在している。ちなみに、獣人たちの故郷は月だ。

 どうしても月に戻りたかったのだろう。手段を試した遺跡が世界に点在しており、ここ空島も彼らが試した術の過程でできた遺物だった。

 

 「到着!」

 次の瞬間、3人の視覚を染め上げたのは蒼だった。

 そして大きな緑の大樹だ。

 海抜12500メートル。久々に仰ぐ宇宙の色は相変わらず、濃い藍が広がっていた。

 「船に戻ってこれをみんなに話しても、絶対に信じて貰えない自信、ありますよ」

 ツヴァイのつぶやきが耳に届いているのか、エースは息を飲んでそれを見上げる。

 これ、どっかで見たことあるぞ。

 その声にアンはとある有名なアニメに出てくるイメージを思い浮かべたが、まさかね、とエースをちらりと見た。


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