ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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50-ありか

 じゃらり、と鎖が鳴る。

 手首は石壁に固定され、足首には鋼鉄の塊がふたつついた枷が嵌められていた。だが冷たさは感じない。金属があたる肌の部分にはサポーターがあった。女は体をひやしてはならない、という配慮がなされていたからだ。一応、囚人であるはずだ。ここまでされると反対に申し訳なく感じていた。

 枷も能力者の力をも奪ってしまう海楼石が含まれた特別製だ。牢の一角にはランプが置かれている。中に踊るものは炎ではない。

 プラズマだ。

 ボールの中で揺らめく繊維状の構造が揺らめいている。

 Dr.ベガバンクが作ったものなのだろう。アンが持つ能力の一切を無効化するなにか、を発生させていた。

 

 この場所に繋がれてそろそろ5日が経とうとしている。地下にあるとはいえ、五感が狂うほどなにもかもが奪われている訳ではない。アンはエースとも感覚が繋がっている。プラズマの効果のせいで細切れとなっているものの、なんとか大体の時間は把握できていた。

 食事や水は定期的に与えられてはいたが塩分を抜かれ、多少思考能力が落ちて来てはいた。がまだ無気力までは至ってはいない。

 

 衣類も毎日新しいものを義祖父が持って来てくれている。

 湯ではないが、監視付きで身を清める時間もあった。

 太陽の光がそろそろ恋しくなってきたが、それは我慢だ。

 

 そう、ここは海軍本部内にある牢だった。

 時折海兵が捕らえた海賊を収監するために入ってくる。しかし事情を知らされているのか、視線を合わせないように背けながら、目の前を通過してゆく。

 響くのは海賊が放つ罵声だけだ。

 

 (……ねぇ、エース。お願い。先に出発してて)

 

 意識で繋がる向こう側では、エースが待っていた。

 出航日をアンが海軍を辞める日とし、準備を整えていたのだ。

 しかしアンが捕縛されるという、エースにとっては予想内の展開が起り出航を遅らせていた。

 半身はあの日から、兄弟でサカズキを交わしたあの丘で青の先を見続けている。

 

 (明日まで待つ)

 (もう、そればっかり)

 

 アンは苦笑を浮かべる。

 その時、重い扉が開かれ、石畳を叩く革靴の音が響く。見知った気配だった。

 檻の前で止まる。

 

 「…やあ、おじいちゃん」

 「なんじゃ起きとったのか。アン」

 

 名を呼ばれゆっくりと視線を上げる。

 暗がりの中だとどうしてもうとうとしてしまい、昨日は義祖父が様子を見に来てくれた時には爆睡していたという。いつでもどこでもどんな場所でも、眠れるのは特技と言ってしまっていいかもしれない。

 鍵のかかっていない鉄格子を大きな体がくぐる。

 そしてアンは義祖父によりされる手入れを大人しく受け入れた。固く絞られたタオルで体が拭かれてゆく。他の誰かであれば徹底的に抵抗していただろうが、幼い頃から風呂にも入っていた家族である。真っ裸を見られたとて恥ずかしくもなんともない。手枷を外されても大人しくしているその姿に、ガープはほとほど困り果てていた。ほんの少しでも逃げる素振りでもしてくれたならば、着替えさせたあとに嵌めるこの枷に苦慮などせぬものを。

 

 「…やはり出来んか」

 義祖父の感情を押し殺した声に応えたのは笑みだった。

 「むーりー。以前から言ってるでしょ」

 

 瞳からは力が消えてはいない。

 幾日も最小限度の食しか与えられていないと聞いていた。気力を減退させる事のない孫娘にガープは嘆息する。よもや父を捕らえるために設えられた強固なこの牢に、その子が繋がれるとは思ってもみなかった。

 場所は違うが、同じように鎖で縛られていた在りし日のロジャーと邂逅しているような錯覚をガープは感じた。

 

 「お前も頑張るのう」

 「優遇されてるしねぇ」

 

 目が細められる。

 確かに、海賊達に比べればこうして体も拭いてもらえるし、傷の手当てもされていた。

 だが今、この牢の周りはかつてないほどの警備が敷かれている。

 

 「わしの跡を継ぐのがそんなに嫌か?」

 「ぶっちゃけると、嫌じゃない。おじいちゃんの隊はとても居心地良いし、海軍自体、肌にも合ってるから天職なんだろうな、ってすごく思ってる」

 ならばなぜ、とガープが言葉を発する前に、でも、とアンが小さいがはっきりとした声音を続けた。

 「わたしは、エースをこの手で、なんて、出来ないよ」

 

 このまま時が流れれば、アンはエースをその手に掛けねばならなくなる。そしてアンもまた、どういう理由で死ぬのかわからないが、二十歳という年齢で命を落とすことになる。

 

 「おじいちゃんは知ってるでしょう。万物の声のこと」

 「……継いでおるのか」

 

 「ん、まあ、中途半端に」

 

 ガープはこめかみを押さえ、眉の間に皺を寄せた。

 万物の声、とは未来を予知する能力であるとされている。簡単に言えば先読みだ。

 最近ではとんと耳にすることは無くなったが、随時、世界にはひとり存在しているとされており、占い師として高名を成す人物が多い。近年では生まれていないとされていたが、なるほど、ここに居たのだ。そして先代はその父である、ゴール・D・ロジャーであった。

 

 海賊王となったゴールド・ロジャーが万物の声を聞けた、と知っているのはごく一部の者たちだけだった。

 ガープがそうだと知ったのは、処刑前に会ったあの一瞬で白状されたからだ。

 なぜ子が生まれてくるのがわかるのだと問うたガープに、「おれには万物の声が聞こえるからな」とけろりとしてロジャーが答えたのである。

 

 アンは深くため息をつく義祖父を見上げる。

 嘘は言っていない。真実を全て告げてはいないだけで。

 

 父は世界の声を聞いた。アンはこの世界を流れる時間の前後を視覚として捉えることができる。

 足元に浮かぶのだ。物事の始まりと終わりが。浮き上がって見れば、先々をも眺めることが出来る。

 

 「…どう考えてもお前の身は海軍にあるほうが安全担保出来そうなんじゃがのう」

 「わたしだけじゃ意味無いよ」

 「ならエースも引っ張ってこりゃええじゃろうが」

 「んなこと出来たらとっくの昔にやってるっていうの」

 

 深い、深いため息がふたつ重なる。

 義祖父は昔、父と交わした約束を守ろうとしてくれている。

 仮にエースをもし、海兵として引っ張ってこれたなら義祖父はそれはもう喜んで奔走するだろう。だがそうなるとルフィが問題になるのだ。あの野生児が進む未来はどう転がったとて茨だ。先人が歩いた安全な路をわざわざ避けて、故人がここはどう見ても、どう足掻いたとて危険な場所だから入らないでおこうと避けた場所にわざわざ突っ込む猛者(ばか)なのである。

 

 その行為によって出会うであろうおのおのからどんどんと、波状効果がまた及ぶのはまだまだ先の話だが、その下地をアンとエースが作ってやらねば、出航の時点で詰むのは目に見えていた。

 未来は刻一刻と変化する。揺るがない確定したいくつかは存在しているものの、変えられない未来など無いのである。確定の直前で変えるためには様々な努力と代償が必要ではあるが、ゆっくりと過去から未来にかけて軌道修正を掛ければそんなに難しい手段ではない。

 

 父からラフテルへの鍵を渡されてから、かなりの広範囲を見渡せるようになり、見せ付けられた己の運命に愕然としてはいるが、あと三年もあるのだ。なんとか双子揃って生き延びる手段もあるに違いないと観測的希望を持っている。

 

 「と、いうことで、おじいちゃん。残留は諦めて、放逐して」

 

 未来は誰かの手に託すのではなく、どうなったとしても納得するために自分達の手で捥ぎ取りにゆくに限るのだ。

 意志は確固として揺らがない。

 「その頑固さは誰に似たんじゃろうのう」

 「おじいちゃん、と他三名ほどの保護者たち」

 

 地響きのような低い唸りを無視しつつ、青雉が語った話をアンはは思い返す。

 確かに義祖父はもう、良い年だ。とっくに引退していてもおかしくは無い。

 どうして義祖父が海軍に留まり続けているのか、その理由はひとつしかなかった。英雄の引退は世間の動揺を呼ぶ事になりかねないからだ。どんなに年を重ね、白く老いたとしてもモンキー・D・ガープという名の効力は衰えてはいない。ゆえに中将として在り続けなければならなかった。

 

 そこに出てきた孫娘の存在は、海軍にとっては救いだったのだろう。

 英雄の孫は果たして英雄の素質を持ちえていた。

 だから元帥であるセンゴクは最初からそのつもりでアンを育てたのだ。そして程よい年齢に達したならば義祖父を補佐につけ、英雄の名を告ぐ孫に世代交代させるつもりだった。

 だからアンにはどんな手段を用いても、残留してもらわねば困る事態となったのだ。

 

 退役願いを義祖父に出し、留まる事を否定したアンは出発の日、3大将と対峙した。

 このまま海軍に根を下ろすなら良し、もし出るというのならその屍をそこに晒すことになるだろう。そう、立ち塞がった。

 

 瞬間移動で逃げられぬように、特殊な磁場を発生させられたアンは善戦する。

 だがしかし、その他であれば潜り抜けられた戦線もたったひとり、赤犬大将が提案した通り行っても、阻まれてしまい成す術なく捕らえられてしまった。

 

 止めを刺そうとする青雉を制したのは赤犬だった。

 「禍根が残ればわしが刈り取る」

 青雉もまさか赤犬が止めるとは思わず、目を見開いていたのが印象的だった。

 だからアンもその時は抵抗を辞め、大人しく牢まで赤犬に手を引かれやって来たのだ。

 

 葛藤が無かったわけではない。

 6年近くを過ごした場所だ。

 繋がりある全てを投げ捨てるには余りある様々がここには詰まっている。

 

 「このまま残って、死を待つの?」

 既にエースの船出は決定的だ。ルフィーも3年後に出てくるだろう。

 自身の死は病気か事故か、それとも突発的ななにかであるのか、わからない。ただエースは、エースの死にはアンが直接関わっていた。

 

 「わたしは嫌だ。エースを殺すなんて、そんなこと出来ない、したくない」

 

 エースを殺すならば、自分が死んだほうがまだましだった。海兵として残り、エースやルフィに縄を掛けるのも以ての外だ。やりたくない。例えそれが正義という名の下に望まれたとしても、もしアンが海軍に捕らえられたまま行えと強制されたとしても、順ずる気は無かった。

 アンにとって地位も名誉も、金銭さえもこの場所へ留める制約とはならない。たったひとつだけ、望むのはエースの傍らに在る事だけだ。この思いだけは何があってもぶれないたった唯一の決心だった。

 

 ならばどうすればいいのか。答えはおのずと導き出される。

 

 「だから諦めて、おじいちゃん」

 

 にっこりと笑む孫娘にガープは額を押さえる。この話の持って行き方は、亡きロジャーと瓜二つだった。まったく血は争えない。

 「また明日来る。もう一晩ゆっくりと考えてくれい」

 

 靴音が遠ざかり、重い扉が閉められた。

 いくら時間を掛けても、変わるわけがないと義祖父も分かっているのだろう。

 しかしそれしか言葉が掛けられないのも、アンは分かっていた。それに今日はぶっちゃけた。ボルサリーノやサカズキ、クザンには言えなくとも、義祖父ならば言える。

 

 ガープは海軍本部中将だ。

 海賊となりゆく人物を野放しには出来ない。海兵としてのアンならば同意できる。

 3人の大将や元帥もそうだ。しかも自分達が育て上げた次世代でもある。解き放つわけにはいかなかった。

 内にあれば頼もしい戦力だが、対抗勢力となれば、アン一人に幾人を向かわせなければならないのか。損失を考えれば眉間のしわも増えるだろうし、重い溜息が落とされるのも解る。

 

 ベガバンクの研究が実を結び、効果が発せられたプラズマで何とか捕らえてはいるものの、海原に解き放たれれば、その身に纏う力を如何なく発揮し、すぐに台頭してくると思われているのは間違いない。

 しかも海軍から海賊に身を落とした英雄として、情報を扱う者達は書き立てるだろう。

 

 予想はしていた。過去と未来が並ぶあの場所に降りたときから、こうなるだろうと。サボが行方不明となったあの日、盃を交し合った兄弟たちの進む未来は決定されたと言っても過言ではない。

 義祖父も兄弟全員を海兵にしたければ、もっとやり方があったはずなのだ。

 しかしすでに過ぎ去った日々をとやかく言っても意味が無い。悔やんでも後の祭りなのである。昨日には手を振って見送って明日を見るほうがまだ建設的だ。

 

 「おじいちゃん、ごめんね、ぶっちゃけちゃって」

 

 悩むだろう。そして悶絶するに違いない。分かっていて、伝えた。

 アンが発した言葉が石畳にぽとりと落ちて崩れてゆく。

 

 

 

 

 牢から出た先に、青雉が立っていた。

 「…今日もダメでしたか」

 「ああ」

 返答は短い。

 こうなるだろうとは予想はしていた。

 ここまで頭角を現すとは思いもしていなかったが、さすがに血は争えないのだろう。

 3年という約束が終わりを迎えた日に、覚悟はしていたつもりだった。

 

 出来れば手の内に残ってくれるようにも、この1年、尽力してきたつもりだ。

 「さすがに一筋縄にはいかんわい」

 いつまでも腕の中で大人しく見上げる子供であって欲しかったと願う半面、意志を貫く姿にさすがわしの孫だと誇る気持ちもあった。

 子供はいつか巣立つ。その瞬間は子供たちが決めるため、大人の都合などお構いなしだ。

 

 親とは別の道を歩んで欲しかった。強い海兵になれと口やかましく言っていたのも、もしかすれば少しでも興味を持ってくれたならば、と期待していた。

 

 「…上手くいかんもんじゃ」

 コートを揺らしいつもと変わらぬ調子で歩き抜けようとする、かつての恩人に青雉は視線を動かさず問う。

 「それでいいんですかい、アンタは」

 絞り出すような感情が込められた言葉に、ガープは応える術を持たなかった。

 クザンにも、望む答えは戻っては、こない。

 

 

 

 ……

 

 

 

 鍵束の音が聞こえ、アンは浅い眠りの中を波に揺れるようにたゆたっていた意識をゆっくりともたげる。

 鉄の棒が回され、形ばかりで役目を果たしていなかった錠が外された。

 格子をくぐって中に入ってきたのは、心地いい衣擦れの音の元となる人物だ。

 久しぶりの姿に自然と表情がほころぶ。

 「やあ、ディ。ラン。久しぶり。今日はどうしたの?」

 ぽやぽやとした寝ぼけ眼のアンを見て、デイハルドは嘆息した。悠長に挨拶してくるなど、お前は馬鹿かと言いたくなってくる。

 しかもこんな場所で膝立ちのまま眠れるとは、神経が太いにもほどがあった。だが考え方を変えれば、この環境がアンにとって苦痛では無く、気負うものではないのだろう。

 「僕との待ち合わせを放置するとは。仕方のない奴だ」

 

 「あ。満月…」

 そこまでは認識していなかったと表情が語る。

 「まったく、お前は思慮深いのか浅はかなのか。時々分からなくなる」

 そこがまたいいのだが。

 と、デイハルドは極上の笑みを零した。その表情がいかに残酷な思考の最中であるのか、何度もその現場に立ち会っているランがひっそりと喉を動かす。

 

 今まで約束を破った事のない想い人をデイハルドは待った。

 貴族間で行われる会議が翌日控えていたが、そちらよりも待ち合わせを優先したのだ。

 しかし、朝日が昇るまで待てど、その姿は現れなかった。

 

 待ち人がなぜ来ないという怒りよりも、何事があったのかと胸騒ぎが先立つ。

 その実力は海兵であれば中将に任命されてもおかしくは無く、海賊にあっては七武海とも対等にやりあえる程と言われている。事実、彼の従兄弟が事あるごとに面白いほどやられたと喜々として愚痴を零しに来るくらい、アンが優秀であるという証だといえた。

 

 そんなアンが行方不明になれば海軍の方でも動きがあるはずだ。ゆえにデイハルドはランを呼び、すぐさま状況を調べるよう指示を出し、今に至る。

 

 

 「で、僕の狗はどうなりたいのだ。聞いてやろう。言ってみるがいい」

 

 傲慢に見下してくる黒の瞳にアンは思わず破顔した。さすがデイハルドである。こうでなくては。

 

 報告を受けたとき、デイハルドが抱いた最初の感情は愉悦であった。軟禁されている事実にさもありなんと納得した。だれだってそうであろう。大切に飼ってきた狗が逃げ出そうとしたら少々痛めつけた上、厳重な折の中に入れて二度と脱走せぬよう躾ける。

 

 また同時に海軍を辞めようと思っていた、など一言も相談されていなかったデイハルドは呆気にとられた。

 少々自由に遊ばせ過ぎているようだと目を細めれば、咳払いするランを無視しつつ家令を呼びつけ、とあるものを注すぐに持ってくるよう申し付ける。

 

 デイハルドにとってアンがどこに所属していようが問題など無い。海軍でも海賊でも、アンという存在が損なわれることがないからだ。ただアンがどんなに望んだとしても海軍を辞められるわけがなかろう、とは思った。なぜならば世界政府としても、ポートガス・D・アン・という存在は使い勝手の良い駒であるからだ。ただひとつ忘れてはならないのは、その所有者が天竜人であるデイハルドだ、という一点であった。

 

 「首輪だけで足りぬのなら足すしかないな」

 

 ランは小さく息を吐く。

 デイハルドという人物は年齢に反し、主人として仰ぎ忠を尽くすに値する人物である。ただ、優秀な人物には総じてなんらかの、常人には解り得ない思考を持っているものであった。

 デイハルドの場合、狗への執着だ。

 

 所有物である狗を苛めていいのは所有者だけという頭がある。

 ランが他の天竜人に罵られ頭を下げようものなら罵った天竜人へデイハルドが出来る最大限の報復をしつつ、頭を下げたランが二度と頭を下げようと思えない責めを行なった。

 人間は痛みや屈辱に膝を曲げず、どんな拷問にも耐えられるものだと思いがちだし、思いたいのもわかるが、そんなに持たないのが事実である。

 

 朦朧とする意識の中に刷り込まれると、どんなにしたくとも出来なくなるのだ。

 ただ手間がとてもかかるため、多くの天竜人は奴隷に首輪をつける。そうして手間を省いた。

 

 しかし本当に従順な下僕を作りたいのであれば、デイハルドが行なうそれ、のほうが最も効果をあげるだろう。

 

 情報を受け取ったデイハルドの行動は素早かった。地下牢に囚われているアンに会うための手続きを喜々としてランにさせたのだ。それと平行して首もとだけではなく、デイハルドのものであると知らしめる印の製作に当たらせた。

 

 決定事項であった。満月の日にデイハルドの元へアンを送らなかった咎を海軍はこれから受けることも。そしてアンも満月の日に訪れられなかった躾をこれから、その身に受けることも。

 

 公式にアンはデイハルド聖の所有物と発表されている。本来ならば聖の手元にあるべき所有物を海軍に貸し与えているのが現状なのだ。満月の晩だけは戻すように、と通達されているそれを破った。由々しき事態である、そう世界政府より通達されたならば、海軍は組織として諾と受け取らねばならなかった。

 

 

 「アン」

 デイハルドは名を呼んだ狗の顎を指で上に向かせる。

 血色の良かった桃色の頬が、白く見えた。

 今頃本部の上階では慌ただしい事になっているだろう。

 世界貴族がわざわざ、こんな場所まで足を運ぶ事など前代未聞だからだ。

 そう、わざわざやってきてやったのだ。所有物を受け取りに。

 その際ひとつやふたつの特権を発動しても、文句など言えまい。

 デイハルドは薄く笑む。

 

 そもそも世界貴族とは下々民にとって不条理な存在だ。いずれはその権力が地に落ちる未来であるが、今はまだ、政府が偽りの歴史を世界へ必死に流布している。ならばありがたくデイハルドとしては使うだけだ。組織として下部にある海軍相手に”我がまま”を発動させてしまっても、なんら問題はない。なりもしない。

 海軍にとって最も深刻になる事態とは、アンが海軍から外へ出る事だ。

 この人物が第三勢力の中に移動する事により、3つの均衡が崩れるのは目に見えて分かっている。

 だから、こそだ。

 鳥かごの中に収めてしまうのは余りにも勿体無い。

 そもそもアンはデイハルドの目と耳であり、その手足なのだ。こんな場所に繋いでいい存在ではない。

 

 「アン、じっとしていろ」

 

 デイハルドはアンの耳朶に触れる。そして小さな何かを取り出した。

 ランタンの火に揺らめいて見えたのは。

 

 「ピアッサー?」

 

 こちらの世界でもピアスはある。針でぶすっと刺し、ピアスをねじ込むという強硬手段をとらずとも、ちゃんとした装着機器があるのだ。

 

 「アン、お前は僕の狗だろう。ちゃんと自分が何者であるかを熟知させるために用意させたんだ」

 

 付けられている石は赤かった。消毒用の綿を用意していたランが希少なレッド・ベリルという石だと教えてくれる。

 満月の日に行けなかった、その罰でもあるという。

 確かにピアスがあれば、その痛みが消えても耳元に留められた石がある限り、満月の約束は忘れようにも忘れられないだろう。

 

 痛みは一瞬だった。

 取り外しが出来ない、もし取ろうとするならば穴を拡張させるか、耳を切らねばならないタイプのものであると言われた。

 

 「断ち切れ」

 

 命ずる声は単調であった。

 すらり、とランが刀を抜く。デイハルドの言に従い、ひずめの印を押された従順な(しもべ)がアンを縛していた鎖を一閃で断ち切る。居合いであるとアンはすぐに察した。

 

 「持っていけ。使い方はわかるな」

 

 こくりとアンは頷く。消毒用のキットをランから貰い立ち上がった。足の裏にひんやりとした冷たさを感じる。

 

 「海へ出るのだろう。気をつけて行くのだぞ。次の満月は忘れるな」

 「はい」

 

 アンはしゃがみ、デイハルドの頬にくちづけする。

 キスはする場所によって意味を持っているという。知ったのはつい最近だ。デイハルドが知っているかどうかはわからないが、ありったけの想いを込めてそっと触れた。

 

 三人の大将がわざわざ迎えに行き、遁走を食い止めた存在をいとも簡単に放流できてしまう天竜人の権力にアンは今更ながらに滅茶苦茶な威力だと再認識した。

 

 「アン、お前は誰の狗だ」

 「…ディの、です」

 

 数秒の沈黙ののち、ゆっくりとアンが言葉にする。

 ならば忘れるな。

 そう耳元で囁かれながら触れられた耳がちくりと痛んだ。

 

 「海軍にも言い渡しておこう。僕の狗を今後一切、縛するなと」

 

 その声は甘い。もしこれがアンでなければ、勘違いしてもおかしくはなかった。

 成長過程であるデイハルドはまだ幼い面持ちを残してはいるが、青年となり大人の男へと達すればかなりの美男子になるはずである。整った目鼻立ちは観賞用に適している、と断言してしまってもいい。さすが天空の園で粋を集めて作られただけのことはある。

 

 アンが手首をさすっている間に、プラズマ発生器をもランに破壊させた支配者が鷹揚に腕を組んだ。

 

 「忘れるな、次はないぞ」

 「はい」

 

 しっかりとした声音で返答し、満面の笑顔のまま一瞬にして姿をかき消した狗にデイハルドは「まったく世話の焼ける」と嘆息する。しかしその顔がにやけていたのをランは目の端にとらえていた。なんだかんだと主人はあの少女を慕っているのである。

 

 英雄の孫。英雄を継ぐ者。言い方は複数あるようだがその称号は決して仮でつけられたものではない。彼女の身にしっくりと馴染むふたつ名であろう。

 最初こそ居心地が悪かった屋敷にも、彼女の信奉者が増えている。その際たる人物により、主人がかなり複雑な心境となっていることも把握済みだ。

 

 優雅な身のこなしでランの主が地上へと繋がる石階段に足をかける。

 失礼します。そう声し、ランは主人の体をその肩へと持ち上げた。筋肉が持ち上がり、座り心地の良い場所に腰を落ち着けるのを待ち、ランが動き出す。

 

 「さて、なにをどうしてみせようか」

 

 くつくつといつにも増してどす黒い気配を漂わせる主人に、ランは心の内でなにものかに祈った。

 


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