ONE PIECE~Two one~   作:環 円

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49-理由

 髪を切った。

 伸ばし続け、背の半分ほどまで届いていた黒髪をおつるに整えて貰ったのは昨日である。

 忙しいはずなのに時間を作り、何も聞かずハサミを入れる手は優しかった。

 

 17歳。

 出航の日と決めた年齢だ。

 日の出を迎え、アンはその年齢に達した。

 出航前にささやかだが、フーシャ村で誕生日会をしてくれるのだと聞いている。おもわず垂れそうになった口元を慌てて引き結んだ。

 せめて自分の誕生日くらいは大人しくしていろ、とエースからは言われそうだが一品か二品くらいは持っていっても良いかもしれない。アンは台所でひとりごちる。

 

 マキノはアンにとって料理の師である。包丁の使い方や出汁のとり方を始めとする基本を一から教えてもらっていた。目を離した隙にできあがった炭化物は論外であったが、それ以外の微妙な味付けをアンが出したとしても嫌な顔をせず、工程を聞いてこうすればもっと良いのよ、そう言いながら一緒に付け直してくれたのも一度や二度ではない。

 久々に食べる、まさしく母の味ともいえるマキノの料理を待ち遠しく思いながらアンは昨日を振り返った。

 

 はっきり言って、未だに半信半疑であった。後任への引継ぎもあっという間である。あっけないほど簡単に送り出されたのがものすごく気持ち悪い。 

 

 アンの後を継ぐのは義祖父の船に着任して間もなく、あちこちから声が掛かって忙しい彼女の補佐として付けられた五人の中から選ばれた。眼鏡をかけ、そばかすがほんの少し散らばった長い髪を三つ編みにして垂らしていた可愛らしい女性である。年齢は十八と士官学校を出たばかりならではの固さを最初は持っていたが、ガープ中将が醸し出す自由過ぎる気風に感化されたのか、程よい柔軟さが生まれてきてもいた。彼女ならば安心だとアンも太鼓判を押せる。

 ついさっきまで自分の机であった場所がそうでなくなる瞬間に立ちあうというのは、思いのほか寂寥を感じるものなのだとも思い知った。

 腹に一物あり偽っているのかと探ってみたが、別段、出てくるものは何もなく。

 最終日を迎えた日は本部での書類仕事であった。終業時刻プラス一時間ほどの残業を終えれば、義祖父の名で予約が入れられた近くにある居酒屋へ副長の数人と、補佐たち、仲良くなった下士官達によって連れて行かれた。アンに内緒で企画されていた送別会を開いてくれたのだ。

 その席で絶対に持ってると役に立つからと電伝虫の番や花束を半ば押し付けられるように貰い、嗜み程度にアルコールも口にした。

 

 楽しかった。

 

 コートをはじめとする支給品はクリーニングに出し、片付けは済んでいる。

 義祖父の家にはまだ服や本などの私物が山積みになっているが、家となる船を手に入れるまでは置かせて貰うつもりだった。

 ひっそりと瞬間移動で戻ってくれば、誰とも会わずに私物を回収できるだろう。

 

 時計の針は7を指し示していた。

 あと1時間もすれば、いつもならば。本部へと向かうが、退役した今はゆったりとしたものだ。

 

 「おじいちゃん、朝ご飯出来た…よ? ってあれ、やっぱり出かけちゃった、か」

 アンはどこかほっとしている自分に苦味を感じる。

 献立は青魚の味噌漬けとタコときゅうりの酢の物、そして貝の味噌汁だ。食べたいと義祖父から昨夜、頼まれた品だった。酢がきついだの、砂取りが未熟だの、味噌の付け具合が甘いだの、散々文句を言われながらようやく最近及第点を貰ったばかりの品々だ。

 

 アンは慌てず騒がず土鍋で炊いたご飯をおひつに入れ、テーブルに出していた品々を冷蔵庫になおしながら、見聞色を広く展開した。

 気配を探れば、本部に近い場所にある。

 そして余り感じたく無かったものが三つ、こちらに近づいて来ていた。

 

 誰と言わずともわかる。

 

 引きとめ工作である、とはわかっていた。

 Dr.ベガバンクがなにやらアンに手渡したいものがあるらしいのだが、部屋に閉じこもって出てこなくなった。もうしわけないが明日、訪ねて来てくれないかなどと。

 

 最後の夜をマリンフォードで過ごす、と伝えたアンにエースはため息をついていた。

 生まれる前からの付き合いである。予想していたのだろう。アンもこうなるだろうなと薄々は感づいていた。

 これはアンのわがままだ。そしてエースはそれを受け入れてくれた。

 

 エースに話しかけると既に、出航の準備は出来ているという。あとはアンがドーン島に戻るだけだ。

 このまま跳んでしまえば、例え大将でも追っては来れはしない。船を出しての追跡となるだろうが、10日前後の時間は稼げるはずだ。

 台所を綺麗にし、足早に部屋に向かう。そして最低限の荷物をまとめた肩掛けカバンを持ち玄関へと急いだ。

 

 靴を履きいつものように跳ぼうと試みるが、なぜか力は発動しなかった。

 何かに邪魔をされるような感じがしたのだ。例えるならばそう、ぷよぷよしたような壁のような何かが目の前に立ちはだかっている。

 

 なるほど、とアンはひとりごちた。なぜか笑いが込みあがってくる。これを使うならばわざわざ策を講じなくともよい。さすが大将たちである。

 

 

 (エース、お願い。日が落ちる前に出航して)

 通じてはいるが返答は戻って来ない。じっとこちら側の様子を見ているのだろう。

 跳べないとなると選択肢が大幅に減る。

 アンに残されているのは大きく分けて2択だ。生きるか死ぬか。

 前者ならば命は助かるが、海軍に死ぬまで繋がれ続けるだろう事は必然だ。手段を問わないのであれば、パシフィスタ計画に組み込まれる可能性も捨てられない。そしてその場で命を散らす後者。

 生き残ったとしても、右死亡、左死亡、前後、上下、どれをとっても嫌な結末にしかならない。

 

 普段であれば言葉で分かり合える彼らだが、海賊予備群となったアンの声に耳を傾けはしないだろう。

 「どうしたものかな。説得に応じてくれるとか、見逃すとかするような人達じゃないしなぁ」

 義祖父が消えたのは、介入しない為だ。

 家族を何より大切にする人である。アンの身に何事かあれば大将達の前に立ちはだかってしまうだろう。だから駆けつけられない距離を置いた。歳を取ってしまったとは言うものの、その底力は、未だにサカズキすら信頼を置いているのだ。

 若かりし頃の義祖父がどれだけ絶大な破壊力を有していたのか、歴然とした実績と大勢の信望が物語っている。

 「さあ、どうやって、切り抜けよう」

 アンは乾いた唇をちろりと紅で濡らし考える。自身が笑っているなど、全く認識していなかった。

 

 鞄は置いて行く事にした。荷物は邪魔になる。

 靴も頑丈な軍用のブーツに履き替えた。しっくりとくる履き心地に小さな苦笑が漏れる。紐をきつく締め、玄関の先を見つめた。

 付近には民家もある。住人の全てが海軍関係者ではあるが、よもやこんな住宅街で溶岩を流したり、氷漬けにはしないだろう。むしろしないで欲しい。良心を信じたいが、それぞれ各々の常識と信念で動く彼らだ。絶対はない。

 

 誰が指揮するかによっても変わってくるが、予想では先鋒に青雉、中堅で黄猿、そして抑えで赤犬だろうか。

 アンの見聞色はかなりの錬度を誇っている。実際の訓練でもボルサリーノの光に追いつき、避けることができるようになりつつあった。ならば攻撃の要はボルサリーノか。とはいえ光でも高出力となれば、貫通、溶解はあり得る。周囲の町並みが崩壊するだろう確率はほかの二人とさほど変わらない。

 

 周辺には気配が、いつものように側にあった。日常そのままである。勧告は出されていない。ある意味、アンに対する警告であろう。

 

 ピカピカの実を初めとする、大将達の能力を身をもってして知らしめさせられているアンとしては、出来れば避けて通りたい衝突である。

 が、それは叶わぬ願いだとも長い付き合いで分かっている。

 

 腰が重かった。意を決めて、立ち上がり玄関を出た。

 「おはようございます。こんなに朝早くから大将の三名が揃い踏みとは。どのような御用件でしょうか」

 にっこりと外面用の笑顔を張り付かせ、真正面に立つ3人の人物へしらじらしくも言い切ってみる。

 

 「なあに、昨日ガープさんに出した辞表をねぇ~取り下げてさえくれれば、あっし達はすぐにでも退散するよ~」

 直、本題だった。アンは眼を丸くし、ぱちくりと瞬かせた。そして噴出す。あまりにも直球だったからだ。

 黄猿は本来、このような話し方をしない人物だ。だからボルサリーノの言葉をよくよく反芻する。

 取り下げてくれれば、という事は、まだ受理されていないのだろう。おつるが管轄する事務処理班で止めているに違いない。

 そして昨日の送別会も実は別の目的にそって行なわれたのだろう。

 

 半日とはいえ温情により猶予を与えられていたようだ。だが答えはすでに決まっている。

 自分に課した誓いはなによりも重い。唇を結ぶアンの姿に、盛大なため息を吐き出したのは青雉だった。

 「聞き入れちゃあくれないか」

 クザンがゆっくりと唇を動かせば、白いもやがただよった。

 

 二年前もそうだ。

 あの時は義祖父が隣に居てくれたおかげで取り乱さずに済んだが、今はひとりである。

 冷気が足元にひんやりとした空気を運んできた。

 いつでも技を繰り出す準備が出来ているという合図だ。

 

 「……身に余るほどの良い評価を頂いているようで嬉しいのですが」

 アンは拳を握る。

 「少々肩が凝ってしまいまして……そこ、通していただきます」

 アンは笑みのまま言葉を結ぶ。今まで一度も勝利を収めた事のない、三大将戦が始まった。

 

 

 

 (しくった、な)

 いつもは聞こえるのどかな雀の鳴き声も、今日は遠い。

 海軍関係者しか住んではいない島とは言え、非常時における迅速な避難を誰もがとれるわけではない。根っからの一般人も居るのだ。だから本気は出すまい、と思っていたアンが浅はかであった。形勢ははっきりと言って不利だ。

 優位になるなんて事は天と地がひっくり返りでもしない限りありえなかったが、多少の希望くらい抱くだけなら自由だろう。もしここにエースが居たならば話は別だった。ふたり掛りなら逃げ出す隙を作ることも出来る、と数々の経験から断言できた。だがその半身は遠くドーン島にある。薄い膜がエースとの同調までも拒んでいる。やっかいだった。

 瞬間移動と一言で括ってはいても様々な手段と用途がある。アン自身が良く使う、自身の身をここではないどこかへ運ぶことや、目視できる範囲内の物体を手元へ持ってくる、などだ。

 

 アンはあえて、海兵である内はと能力の披露を抑えてきた。

 なぜなら全てを明るみにしてしまうと、海軍から出ることが出来なくなってしまうからだ。英雄の孫という称号だけでも特別視されているのに、世界のあちこちから人物を、物を手元に引き寄せ、もしくは放つことが出来るなど知れればどうなることか。

 

 この能力はとても使い勝手がいい。やろうと思えばいろいろ出来るのだ。

 道端に生える草を引き抜くように、または石を蹴るように、命を狩ることも容易い。

 以前ルッチからも聞かれたことがある。世界のどこかには必ずあると断定できる、一冊の書物を手元に引き寄せたりは出来ないのかと口頭で質問を受けたのだ。

 アンはやろうと試みて、難しいと答えた。だが内心ではその物自体を知っているし、条件がつきそうだけれどやれば出来そう、と確信めいた自信すらあったくらいだ。

 

 もしそれを手に出来たならW7での潜伏捜査が終わり、またアンと共に任務に就けるのにと残念そうに鳩が嘆いた。いやそこはちゃんと自分の口で言おうよ、と突っ込みを入れたのはまた別の話である。

 

 世界はアンにとんでもない力を与えている。

 本来ならば隠し通すべき力だろうが、幼い頃は脳内お花畑、というより使い勝手の良いこの能力を伸ばしてもらえるなんてラッキーだ、なんて思っていたくらいだ。だから能力の開発に関しては文句を言わず、淡々と従ってきた。

 

 はっきり言ってアンの能力はセンゴクを始めとする大人たちにとって、始めこそ眉唾物であったのだろう。

 だが正体が明らかになるにつれ、いかにそれが規格外であるかを悟っていった。臆に一人現れるかどうかも定かではない能力者が失われる。由々しき事態だ、即刻止めねばならない。と事態を含んだ現状によって描かれる未来の中で、海軍にとって最も良い選択が選ばれるのは至極最もな話である。

 

 何が徒となったのか。

 わかりきっている。アンが自分自身の価値を見誤ったせいであろう。

 低く見積もり過ぎたのは、今まで積み重ねてきた価値観が基本にあるからだ。これは誰にでも出来る事。だから自慢したり、威張ったりするようなことではない。

 そう、アン自身が思ってやってきたことの多くが、簡単であるからこそ継続できずに難しいといわれるあれや、これや、であったのだ。

 

 そして何よりも長く居過ぎてしまった。

 善を知るには、悪を知らねばならない。なぜなら悪という汚濁を知らなければ、善行という尊いものが浮き上がってこないからである。

 

 幼い頃から海賊になるのだと言って憚らなかって来なかった兄弟たちだ。

 ならば今後、必然的にやり合わねばならないだろう海軍とはどんなものなのか。また孫をどうしても海軍へ所属させたい義祖父が当時、絶対にしてくれるわけが無いと思っていた、ケーキを持参しての誕生日会をわざわざ行なったのである。ちょっとだけ中身を見て、エースと共に海へ出るための力をつけようと入ってみたわけなのだが、思っていた以上に水が合ったのがいけなかった。

 

 三人はかつてアンの上司でもあった者たちだ。当然、アンの能力も把握している。

 

 右、左、左、下、上。

 左、右、右、上、下。

 

 動体視力に頼る回避はかなり精神を消耗する。

 見聞色との併用によりどうにか三人の動きを避けているが、この集中も長いことはもたない。

 エースの助言が薄い膜を突き抜けて来ない秒間は特に必死である。黄猿の初手にあわせて動いた青雉の手をすり抜けられたのは半身のおかげだ。そもそも視野に写らない光を物質として捉えようと思ってはいけないのである。行過ぎたその先の行動を読みながら行き着く先の、アンが動ける最大の素早さでとらえられるその瞬間に当てるのだ。

 

 大将たちは悪魔の実の能力を使わなくても、十分に強いのである。

 悪魔の力を使うとより強くなり、戦略が広がるから使うのであって、アンひとりを捕獲するためにわざわざ大技を繰り出す必要などないのだ。

 

 しかも赤犬、サカズキはまだ参戦していない。

 

 すでに黄と青だけでお腹一杯の状態である。赤まで加わったら一巻の終わりだ。

 

 「辞めるんじゃなく、休養ってことかねぇ~」

 「いち、ど、海軍は、辞めて、普通の人に、もどる、んです!」

 「……あぁ、良く聞こえなかったんだが」

 

 余裕のあるなしが如実に会話に出る。アンはわたしも強くなったからちょっと位のピンチは抜け出せるはず、と思っていた昨日の自分を叱咤したかった。見逃してもらえる確率はゼロを通り越してマイナスである。朝日が昇った段階で、なぜドーン島に戻れると思えたのか不思議でならない。

 

 酒か。

 と、思い至るまですぐだった。

 

 「いいねぇ~、考え事出来る位まで慣れてきたんなら、もう少し速くしようかぁ~」

 「手加減、して、下さっても、いいんですがっ」

 

 ボルサリーノが繰り出す体術には気軽に触れてはいけない。なぜなら触れた瞬間に高速となった光が身を貫くからだ。クザンも同上で凍りつく。サカズキの場合は燃えて火傷してしまう。よっていくら、アンの体内に流れる血が海桜石の代用品になるのだとしても、本来、安易に触れられる体ではなかった。

 

 人生とは本当にままならないものだ。

 

 海へ出る。

 ただひとつの望みをかなえるために支払った代償が、ここまで大きくなるとはアンも考えていなかった。

 

 急がば回れ、急いてはことを仕損じる。

 同じような意味を持つ格言が多く残されている物事ほど、先人達が失敗してきた談話の数となる。

 堅実に進めてきたはずだった。固い部分を選び過ぎたのが悪かったのか。

 

 「海へ、出るの!」

 

 出て、どうする。

 どこへ、ゆく。

 海兵として、今までも海に出ていたではないか。

 

 アンは口を噤む。答えられなかった。

 彼らに目的地を伝えられぬ理由がある。

 

 「海軍じゃ、だめなの!」

 

 わがままを言うな。

 必要とされているのは、わかっているだろう。

 

 諭す声が聞こえる。

 分かっている。多くがアンをその他大勢のひとりではなく、代わりの居ない存在として必要としてくれており、居場所を作ってくれていることは。

 それが如何に幸せなことか、十分理解していた。

 

 「だけど、居られない! 居られ、ないの!」

 

 それは悲痛な叫びだった。

 その声に一拍、青が遅れる。

 

 その瞬間、手を出せばこの場をきりぬく切っ掛けが生まれた。しかしそれをアンは躊躇する。

 覇王色の使い手であるアンにとって、自然系(ロギア)特有の防御力はたいして意味を成さない。そしてクザンの遅れを利用して嵐脚を放てば、今回の仕掛けの範囲外に逃げられたのである。

 

 だがアンはしなかった。戦いを忌避したからだ。

 海に出て自由に海を渡りたい。目的を持たず、ただ青の海を羅針盤が指し示すままにエースと共に旅をして、ラフテルに往く。そして父が残した言葉の意味を見に行くのだ。アンは決して海軍を敵に回したいがために海に出るわけではない、と声を大きくして言いたかっただけなのだ。

 

 だから貴重なその瞬間を自身の手で潰した。

 

 「ほぉんと、強くなったよねぇ」

 

 アンは肩で荒く息をつく。いつの間にか真正面に黄と青、そして後方に赤という絶体絶命の布陣となっていた。

 だが動いていてわかったことがある。封じられているのは瞬間移動系だけであった。覇気及び肉体への阻害は起きていない。

 

 そういえば博士(ベガバンク)が面白い発想を形にしたと言っていたのをふと思い出す。

 効果がアンの能力開発に効果を示すかどうか、動作環境の確認のためにも今度遊びにおいでと誘われていなかったか。

 パシフェスタ計画も順調に進んでいるから、多少寄り道をしても問題ない。アンが自身の体へ行なう実験の見返りとして博士へ望んだ研究も、根毛胚から培養した細胞が幾つかの実験段階を経て予想よりも上出来な結果が上がっているとも聞いていた。

 

 不意に後方の気配が動く。

 ぞわりと背筋を這う逆撫でにアンは咄嗟に黄猿が繰り出す腕の突きをいなし、青雉の股下を掻い潜った。

 目の前に立ちはだかったのは赤犬だ。青と黄が後方から追撃に迫る。

 

 アンは思わず空間を掴み、風を起こした。これはジンベエが水を掴んだのを真似してみた結果、出来た裏技である。無論、大将たちの目の前では初披露であった。

 彼女を中心とし暴風が吹き荒れる。その隙に移動しようと思ったものの、サカズキは動かなかった。

 「サカズキおじさん、どいて!!」

 

 「そりゃあ聞けん願いじゃのう」

 帽子の向こう側にある眼光が細まる。

 「どこに行こうとしちょるのかは聞かん。が、みすみすお前を放流してやれんのは、わかるじゃろ」

 

 ちくりと胸に痛みが刺した。サカズキの願いが流れてくる。

 この人物は出会った時からは考えられないほど、穏やかな表情をするようになった。これは諭す時の声音だ。

 だが苦虫を噛み潰すかのような表情をアンは浮かべる。

 自分の存在を必要としてくれるのは嬉しい。けれどアンは、命の使い先を既に決めてしまっている。ここでは無い。

 奥歯を噛む。そして放ちかけた言葉を必死に飲み込んだ。

 

 どんなに所望されたとしても、ここには留まっていられない理由があった。

 義祖父が何とかしてくれるだろう、そんな展望を持っていた時期もある。だが未来はある一点を違えなかった。

 脈々と名に受け継がれてきた意志がその先へ進めと急かすのか、それともそれはもう動かせない決定事項であって、どんなに足掻いても無駄なのか。

 自身の糸も大きな絡まりに捕まってしまっている。ほぐそうと懸命になっているが、頑丈すぎるそれにぐいぐいと引っ張られているような気すらする。

 

 「どいて…下さいっ」

 アンは拳に力を込める。両側からは、左に黄猿、右に青雉が迫って来ていた。

 赤犬は武装色だ。見聞色で先を読み、剃と紙絵で合間を縫えば突破できる。

 そう踏み、左右へ嵐脚を放ちながら赤犬の脇をすり抜けようと試みる。いうまでも無く見せかけの動作も忘れない。

 

 「無駄じゃけ。どれだけ見てきとるとおもう」

 手のひらが目の前に、路が閉ざされる。だがそれは予定に折り込み済みだ。

 その腕をとり、重心を乗せて跳ぶ。

 空中に逃げればアンには月歩がある。そのまま青を背に、瞬間移動が出来る範囲に逃げてしまえばこちらの勝ちだ。

 

 「甘いねぇ~」

 実の能力が無くとも、大将格は体技だけで中将を得る人物たちを凌駕する。

 アンも今まで十二分に味わされてきた。甘いと言われても油断している訳ではない。

 「ボルおじさんが、わたしの癖を知っているように、わたしも知ってるよ」

 

 足技を使う時、僅かに揺らぐつま先のブレ、そのわずかの空間を上手く利用する。

 「さすが子飼いの部下、きっちり育ってくれちゃって~」

 つぶやきを耳に受けつつアンはさらに上空へ逃げる。

 

 「しまっ!!!」

 いつの間にか上空にあった姿を捉えきれていなかった。青だ。アンは両腕で振りあげられていた踵落としを受ける。体勢が崩れ頭が下となり、落下速度があがった。

 重力に引かれる重さは、クザンの方が強い。それを利用、加速し青雉はさらに追い打ちをかける。

 

 咄嗟に鉄塊を使うが、僅かに衝撃が鳩尾へ入った。

 痛みに視界が一瞬ぼやける。動きが止まったアンを青雉が見逃すわけがない。

 そのまま地面へと叩きつける蹴りを放つ。

 エースの声でアンはくるりと空中で体勢を変え両腕でそれを受けるが、流しきれる力では無い。

 

 容赦のない一撃だった。

 地面がべこりと、アンの背を受け止めへこむ。骨がみしりと軋む。その際の衝撃音が耳に二度響くほど大きなものだった。

 朝食を食べずにいて良かったと、アンは胃液を吐き出しながら思う。衝撃で落ちた地点から口元を拭いながらゆっくりと視線を上に上げた。さすがに半端ない。たったひとりで億を超える賞金首を何人も相手にできる大将なだけはある。

 ただ。骨にも、内蔵系にもそんなにダメージはきていない。

 まだ動けた。

 

 

 「さすがに丈夫だな」

 そういう風に躾けたのはおれだが、と青雉がゆっくりと歩みを進める。

 「…後悔?」

 「いんや…もっと手放せなくなった」

 そもそも大将がわざわざ三人そろい踏みで自分を留めに来るなど、海軍の歴史をひっくり返しても前代未聞の出来事になるだろう。

 

 「ガープさんも歳だ。いい具合に育ったお前が跡を継げば、おれもまあ…なんだ」

 「わしらもそれを望んじょる」

 赤犬が青雉の言葉を繋ぎ、前へ出た。

 地面に座り込んだままのアンの腕を取り、立ち上がらせる。

 「あの人は先代、今代の元帥と共にこの海軍を率いてきた。その功績をお前が引き継いでも誰も文句は言わん」

 

 「…わたしじゃ、ダメなの」

 黄猿はここまで強情に我を張るアンを訝しんでいた。力不足とはもう言わせない。ではその他になにがそうさせるのか、理由が見当たらなかったからだ。御老人が隠し続けている何か、に由来するならば、それを聞き出せない限り首を縦に振らせる事は出来ないだろう。

 「わっしにも話せない事かい」

 

 優しげな声音にアンは目を見開く。だが顔を曇らせ、眉を寄せて首を振る少女に苦辛が漏れた。

 「困ったねぇ~」

 

 ならば、と赤犬はアンの身をボルサリーノに渡し、草陰に隠してあった何かを溶岩によって破壊する。

 「覚悟はようわかった。ならばわしを倒してゆけ」

 

 これはどこの頑固親父かと。アンは瞼をゆっくりと開閉する。不器用にもほどがあった。

 

 (アン)

 遠くから自分を呼ぶ、半身の声が聞こえた。

 (大丈夫、……迷ってなんか、ないよ。わたしはエースと共にあると決めてる。だから、留まらない。死んでも帰る)

 能力を封じていた何かは感じなくなっていた。サカズキが壊したそれが今まで妨害していたのだろう。

 

 「瞬時に動くそれも、お前の持ち味じゃけ。わしを納得させてみぃ」

 サカズキの額に刻まれた深いしわが見てとれた。だがそれは、怒りからでは無い。

 選択を悔いてはいなかった。全てを分かって欲しいと願っていた訳では無かったが、過ごした年月は確かに、絆を繋ぐには十分な刻を刻んでいた。

 「わしに勝てばもう何も言わん、じゃがわしが勝てばどうなるかは」

 

 こくり、とアンは首を縦に振る。そして口を真一文字に結んだ。

 

 もしこの場で、アンがゴール・D・ロジャーの血を継いだ子供であることを。今のままであればとある年齢でその命が尽きてしまう可能性が高いことを。そして、……この心の内を叫べたら、どんなに楽であろうかと力なく笑む。

 この身に流れる血が、その血がもたらす世界への影響力を、話せる時代であればどれだけ良かったか。

 すでに幕は切って落とされているのだ。投げ入れられた舞台の上から降りることなどできはしない。

 

 逃げ出すのは簡単だった。サカズキの言葉を真に受けず、跳べばいいのである。

 けれどアンにはそれが出来なかった。無理を押し付けているとは分かっている。分かってもらおうと思うほうが間違っているのだ。なぜなら海軍にとっては、ピースメインもモーガニアもひとくくりにして海賊なのだから。

 

 「…わかった。でもここじゃ周りの人達に迷惑がかかるから」

 いつもの施設でいいかな。アンは静かに発する。

 

 送り出して欲しい、とはなんと自分勝手な願いなのだろう、とアンも思う。

 このままだとあと三年しか命が無いといえば、延命するため足掻きに行くのだといえば手を離して貰えるのだろうか。

 だがきっとそれは悪手だ。

 

 各々の行動が手に取るようにわかってしまう。だからこそ伝えられない。

 

 「先に行って、待ってるね」

 切なさを含んだ表情を残し、その姿は瞬時に消えた。誰もが逃げたとは思ってはいない。手塩にかけて育てた若き英雄はその言葉通り訓練場で待っているだろう。

 

 「まったく、サカズキさんは甘いんだから」

 その声を背で受け、赤犬は歩きだす。居ない、とは露も思っていない足取りに黄猿がゆるりと唇だけを動かす。

 「これはガープ中将に問い質すしかないねぇ」

 ボルサリーノも赤犬の後に続いた。行き先は違うが、途中までは同じ道だ。

 

 それぞれの意図を胸中に秘め、足が向かうその先へと急ぐ。軍靴の音も小さく消えた。

 


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