朝の冷たい空気に目が覚めた。芋虫のように布団を引きずりながら襖(ふすま)を開け、廊下の向こう側に広がる庭をガラス越しに見る。視線だけを上げれば空はまだ暗い。東の空は白み始めているものの、空を全て青に染めきるまでには時間がかかるだろう。目を擦りながらあくびをひとつ。もう少し眠れるかと再び芋虫状態を保持しながら温かな布団へと戻る。襖を開けたままにしている事に気付くが、閉めにいくのが面倒だった。そのままでも良いだろう。夜気が緩んでそのうちに暖かい日差しが入ってくる。そうすればこの布団から抜け出て茶でも飲みに台所へ行けばよいのだ。
折角の陸なのである。しかも久し振りの半休だ。ゆっくりとしたい事をするに限る。
ふと昨晩を思い出しても、男達は妻や恋人の下へと飛んでゆき、独身たちは酒場へとなだれ込んでいた。女性士官たちも軍服を脱ぎ紅をさしてそれぞれの場所へと向かったのだろう。本部であれこれと差し出されてくる用件に右往左往しているうちに昼を回り夜となった。クザンに飯でもと誘われたが、夢見の悪さもあって遠慮したのだ。
家にははやり誰も居らず、軽く果物だけを口にしそしてさっさと床に就いた。動かない床は最高だった。ここには父の影が無い。だから思う存分、寝た。
目を閉じ数十秒、浮かんできた羊に小さくため息をつく。久々に揺れない安定した陸地での睡眠である。体が既に休息を取り終えてしまったらしい。
クザンの温かさも感じられない布団の中に居続けるのが心地悪くて、再度ため息が出る。慣れ、とは本当に恐ろしい。
布団をめくり伸びをした。体をひねり寝ている間に固まっている筋肉をほぐす。ぽきり、と関節が鳴った。
スイッチを押し点いた光へ、手を伸ばし手が届く位置にあった懐中時計を取り確認する。鼓動のように秒針を動かし続けている時計は4と2を指していた。日の出までまだ軽く一時間以上ある。
二度寝の習慣は残念ながら、ない。ごろごろするのは好きだが、そばに誰かが居て初めて楽しくなろう贅沢だ。目的無く時間を過ごすのは無駄だと起き上がる。眠くなれば昼寝でもすればいいのである。青雉の艦隊も久々のまとまった休みに歓喜の声を上げている。残念ながら将校には半休しか与えられていない。陸にいる間にさっさと事務仕事を片付けろ、という配慮なのだろう。全く必要の無い思いやりである。海兵といえど陸に上がればはめも外れた。アンが思い浮かべる顔の中に問題など起すような者などいないが、もし起きたとしてもすぱっと解決すればいいだけの話だ。
布団を畳み寝間着を脱ぐ。義祖父の家に居るときは筒袖の浴衣を着て眠っていた。浴衣といえば夏祭りなどで着てゆく浴衣を想像するだろうが、旅館などで容易されている寝間着と一緒だ。厚手の木綿で作られており、非情に丈夫で肌触りもいい。
箪笥を開け柔らかな生地で作られた十分丈のスパッツをひとつ。ついでカーキのハーフパンツと白のシャツ、ボーダーカットソーを手早く取り出せばささっと着替えてしまう。春島であるマリンフォードの朝晩は冷えるのだ。
今日という日の予定をを脳内で組み立てる。
掃除はしなくても良い。帰宅時、テーブルの上にメモを見つけたからだ。達筆な文字で書かれていた。昨日、義祖父の艦に所属する若手が畳の部屋を隅々まで掃き清めてくれたという。艶が出ている廊下などは雑巾競争によって磨かれた成果である。
足腰を鍛えるためとはいえ、無体な命令を義祖父はしたものだ。雑巾を片手に屈伸したり伸ばしたりしながら負荷をかけ続けた体はかなり疲れているだろう。
今年は外に食べに出かけたようだ。
去年は酷かった。家の中は綺麗に片付いたが、その後の食卓の凄まじい事。
孫娘の手料理で気力も十分養えただろうから気にしなくとも良い、とはガープ中将の言であるが、作り終わった後のアンが疲労困憊になったほどである。
(……あれは凄まじい量だった)
炊いた白米の量は思い出したくも無い。買出ししてきた野菜や肉、近海で捕って来た魚もきれいさっぱい無くなった。
はじめ新人たちは中将の家に招かれた事を喜んでいた。2年目以降の、海兵たちの生温かい見送りなど気付かなかったに違いない。そして今年もそうであったのだろう、と想像がつく。
ガープ中将の居宅は10人ほどの家族が住めるような広さである。
襖(ふすま)と障子を開けば基本全部が続き部屋となるのだが、12畳の畳部屋が三つ続くあの空間を掃除するのが最も苦労しただろう。
軽くは拭き掃除していた。しかしアンも航海に出る身だ。限られた日数で埃の全てを取り除くのは至難の業である。
中将職に就くガープであるならば余計だろう。なので義祖父はたまに部下を使う。旨い飯と金一封という餌に飛びついてきた、哀れな生贄たちをこき使うのだ。
義祖父が起きてくるのは5時前後である。寝坊したとしても半を越すことはない。年を取れば朝が早くなると言われているが、そのまま実話であった。まどろめるのは若者の特権であるというが、残念ながらアンには当てはまらなかったようである。本一冊あれば布団の中でいつまででも篭もっていられるが、目を閉じてうとうとと眠ることが出来ないのだ。
足音を立てぬまま台所へ向かう。月明かりも無く真っ暗な廊下だが、確たる足取りで到着した。
残る気配に首をかしげる。起してくれたらよかったのに。そうアンは振り返るがよほど熟睡していたのだろう。全く気付かなかった。義祖父の家、というだけで深く眠れるのだ。ありがたかった。
昨夜もなにやら遅くまで元帥と揉めていた……もとい、相談事を密にしていたようである。肉体言語で語り合っていないだけ穏便に事を進めているのだと思いたかった。義祖父と元帥がガチでやり合ったらどうなるか。若かりし頃の血気盛んなやりとりをおつるから聞いている身としては、そろそろ両者とも年齢的にも本格的に落ち着いて欲しいと願ってしまう。
元帥と義祖父が三つ首の金色怪獣と放射能を糧に巨大化した巨獣に思えてきて、思わず胃に手を当てる。
(……癒しが欲しい。ルフィを抱きしめて力の限りあのほっぺたを伸ばしたいっ)
限界が近いのだとアンは小さくため息を床に放置する。いくつ床に転がっていても誰も転びはすまい。
台所の電気をつけ、そしてやかんに水を入れ火に掛けた。珈琲を立てる用意をしながら、義祖父が所望するであろう緑茶の用意も平行してしておく。良い茶葉が手に入ったのだとコングに貰った、上品な缶に入った品である。
冷蔵庫を開けば昨日買っておいた牛乳の瓶が目に留まる。そのほかは…キャベツときゅうり、にんじんに…見事に野菜しか残っていなかった。
買出しに行くしかあるまい。
という結論に達し、アンは太陽が昇っていそうな地域を思い浮かべる。脳内に広げた地図は世界だ。
肉より魚が食べたい。塩焼きかてりやきか。酢の物と根菜の煮物。おひたしも外せないだろう。とろろいもといくらを合えた副菜も入れるか。ああ、あとはやっぱり柑橘系や辛味のある調味料とともに塩漬けにした塩辛、酒盗とともに米酒を少々たしなんでもいい。
考えただけで口元がゆるんでくる。朝から酒とはなんという贅沢であろう。
悪い大人に勧められるまま喉を潤してから、未成年であるが覚えてしまった酒をたまに口にしていた。多少ならいいかと、義祖父も舐めるくらいは目をつぶってくれている。階級が上に上がればあがるほど胃に穴を開けやすくなる職業だ。アンに対するおめこぼしはかなりある。
一応確認のため風呂場を覗いてみると案の定、湯船が空だった。朝風呂は心臓に悪いという。だがしかし、海軍将校たるもの、身支度が出来る場所に在れば身奇麗にしなければならない。戦場にあるなら仕方がないだろう。どんなに水をかぶっても、鉄錆びの匂いが取れないのだから。しかし通常任務時に薄汚れていては部下がたわいものとして下に見られかねない。上司の身だけではないのだ。後ろからついて来る多くに迷惑をかける。
切らずに伸ばしたままの髪を揺らせながら縁側の木戸を開け、家の中に招き入れた。
星の瞬きがまだ見える空には雲ひとつない。今日も一日、天気になりそうだ。洗濯物の籠の中身はいつもよりも多かったが、春の陽気が続くこのマリンフォードでは生乾きの心配はない。
シーツも洗ってしまおうか。
軍務については横に置いておき、先に家事全般の段取りをくむ。
実際のところ青雉艦での引継ぎがまったく終わっていない。アンが抜けることを見込み3か月ほど前から、多少、刀に対するものごとにいたく執着しているものの、その能力は高くエリキの補佐を任せるに適している、と踏んだ人物を育ててはいるのだが。なにやらケムリンと相性が良かったらしく、そちらの部隊に持っていかれそうな勢いであった。
(たしぎの希望はかなえてあげたいけれど。こっちも切羽詰ってるからなぁ)
湯船を沸かしつつ洗面所で歯を磨きながらアンはひとりごちる。海軍は万年、人材不足に悩まされている。ゆえに有能な人物はどこの隊も引き手数多だ。
脳内に取捨選択が並ぶ。ちらりと姿を見せたピンク色に思わず舌打ちを打つ。
午後からは運命の玉引きである。
意識の向こう側の動きを察知し、半身の名をそっと呼んでみる。すれば明確な意思が帰ってきた。
町に行くのだという。
(アンは、休みか)
(うん、半休。午後からは本部に行くよ)
うんざりとした言葉尻から、ああ毎年恒例のあれか、とエースは推測する。
去年、ガープによって引き止められ2年という短い時をうわのせし、今度こそ海兵生活を最期にすると言い切った件だ。
そうやすやすと辞めさせてもらえるのか。エースはすでに危惧していた。内部にまでどっぷり引っ張り込まれている状態でどうやって抜け出てくるのかと。
(なら一緒にめし食うか)
(う、あ、……魅力的なお誘い、だね)
なにを照れているのか分からないエースが首をかしげる。
(あのね、エース。町に行く用事、伸ばしたり出来る?)
(ん。別に誰かと待ち合わせとかはしてねェから、いけるっちゃあ、いけるな)
では久し振りにわたしが作った朝食などはいかがですか。とアンがエースにお伺いをたてた。
(食うにきまってる)
即答だった。決まればそこから話はとんとん拍子に転がってゆく。
ダダン宅では朝は決まって米の飯だけが出る。おかずは各自で用意しなければならない。ただこのところの稼ぎが悪く、薄い粥しか出てこない日もあるのだとか。ゆえにアンが作る朝食は、パンを主食に希望した。
もちろんアンに異存はない。買い物のリストに一品加えるだけだ。
(あ、エース。ごはんはこっちで食べてくれる? おじいちゃんも居るの。だから買い物行ってその帰りに迎えに行って、戻ってきて、そのあとに送るから)
(体は大丈夫か)
(平気。ちょっとした裏技使うし。その代わりエースが疲れちゃうかも)
意識の向こう側でくすくすと半身が笑う。
エースとしてはアンが無事であれば、別段どうでもいい。大切なのはアンであり、守るべきは弟だけだ。
あくびを噛み殺すことなく放ち真横に建つ小屋の中を見れば、藁で作った寝床の上に居るはずのルフィがいない。周囲を見回しアンに補助を頼んで見聞色を使った。エースはアンに比べこの色が得意ではない。使えはするが及第点ぎりぎりである。
夜中に厠へ行ったらしい弟が朝露にまみれながら草むらで眠っているのを回収し、文字通りたたき起こして身支度をさせたあと、飯の足しにと森へと入り手近な獲物を絞める。血抜きも手馴れたもので、動脈を切りあとは吊るしておくだけだ。
ルフィはアンの手作りを食べられると聞き、まだかまだかと待ちわびている。
去年、姉が戻ってこぬと聞いた弟は憤慨した。今すぐに迎えに行くと海に飛び込み沈んだ。
悪魔の実を食べ、海に嫌われた体になっているのだとすっかり忘れていたらしい。馬鹿である。休みの合間にアンが戻ってくればひっつきむしのようにくっついたまま離れなくなった。
大きな紙袋を腕に抱え現れた姉にルフィは飛びつくと、いつものようにその胸へ頭をこすり付ける。
「どうしたの、ルフィ」
頭を撫でられ満足するまで離れない。
いつの間にか太陽が昇り光が赤く伸びている。
「お待たせ、エース、ルフィ」
アンは海兵の衣を纏ってはいなかった。私服だ。珍しい、とエースは思う。
「ほら、ルフィ。ドーナッツだよ、離れないと食べられないよ」
弟の生態を良く知る姉である。荷物の中から取り出したものをにこりと微笑んで提示する。すきっ腹のルフィにチョコレートがたっぷり塗りかけられたそれを見せればどうなるか。
物質を瞬間的に移動させるのはすでにアンの十八番(おはこ)となっている。ちいさいものであり短距離ならば何百回と繰り返すことが出来るという。アンの手の中にあったものはエースの元へと渡っていた。
あ。といまさら悔やんでも後の祭りだ。ルフィはアンからであれば奪い取ることが出来るが、エースからとなると難易度がぐんと上がる。
「そろそろ解いてやれ、な」
紙袋の中からひとつとりだしぱくりと噛み付く。非難の「あー!」が上がった。
考えなしにそのときの感情で動くルフィはアンを逃がさぬよう、自分でもほどけないようにゴムの体をぐるぐると巻きつける。密着していればどこへ跳んだとしても一緒である。
「ふぁんがえ無しに、まきふくからだろうが」
「エース、おれにもひとつくれ!」
「口に咥えない。食べながら話すのは、行儀悪いよ」
三人三様に話しても会話がつながるからおかしなものだ。
ドーナッツを食べながら、弟の口にもときどき放り込んでやりながら、アンの体に巻きついたゴムを引き剥がしてゆく。エースが咥えた輪の一部を分けてもらいながら、アンも慣れた様子で待つことしばし。
アンが抱えていた紙袋を手分けして持ち、血抜きの終えた獣に触れて共にマリンフォードの義祖父の家へと移動する。
「これどこに置いておくんだ?」
「とりあえず庭に。解体しなきゃ」
足をざっと、庭に備え付けられている手押しの井戸ポンプから流れる水で洗いエースとルフィが縁側から中へと入ってゆく。
この家にふたりが来るのは初めてではない。両手には足りないが、片手をめいいっぱい使う程には来ている。
ダダンの家とは違い調理器具が揃っているため、調理もしやすいのだ。薪を集め火を起し焼いたりいためたりする時間を短縮できる。また義祖父の家にはオーブンがあり、焼き菓子を作るのも簡単だった。
手際よく買ってきたものを冷蔵庫になおし、使うものを台所に並べつぎつぎと形を変えてゆく。
「おじいちゃんおはよう」
「じーちゃんだ! おはようございますっ!」
「……、おはよう」
義祖父の顔が驚愕に彩られていた。湯から上がったばかりなのか、軍服ではなく着物に袖を通していた。
なぜかと言えば孫が三人、ここ、マリンフォードの家に存在していたからだ。夢でもみているのかといわんばかりに目を擦る。自身の頬をつねり、幻でないのを孫達に触れて確かめた。
料理はちゃくちゃくと作られ、テーブルの上に並べられてゆく。ことことと土鍋で炊いている白米の良いにおいがただよい始めていた。
「エース、ルフィ。お風呂入っておいで」
切った丸パンの端にジャムを塗り、それぞれの口に放り込みながらアンが指示を出す。もう一切れとお代わりを所望した弟の口にバナナを剥いて投げた。
「……アン、どういうつもりじゃ」
ふたりが大人しく風呂へと向かった後にガープが鋭く孫娘を見る。
「誰も来ないよ」
「わしが言いたいのは、そういうことじゃない」
アンの顔からは笑顔が消えてはいない。
義祖父がなにを憂えているのか、想像がつかないわけではない。
「ふたりがこの家から出ることもないよ」
ガープは知っている。孫ふたりが海賊にならんとしている事実を。そして目の前に立つ海兵のひとりもその職を辞し青の海に出ると意志を明確に示している。
孫娘がなんの脈絡もなく、ふたりをこの町に連れてくるなどありはしない。そうガープは考える。年齢に見合わない早熟した考え方を持つ人物だ。なにか、はあるだろう。ないはずがない。
「随分とわたしを買ってくれてるみたいだけど、おじいちゃん。本当になにもないよ。ただご飯を一緒に食べよう、ってなっただけ。本部に行く前にちゃんと送り届けるもの」
伸びた黒がさらりと視界を流れる。
ガープはゆっくりと息を吐き、椅子に座った。ことり、と目の前に置かれたのは緑茶だ。良く蒸されており、香りがたっている。
孫娘は義祖父に背を向け、朝食の準備を再びし始める。ガープ独りで暮らしていた頃は、明かりもつかぬ寂しい家だった。人の気配が全くしない、家であってそうではない場所。長い航海に出、暮らす職場でもある軍艦のほうがよっぽど生活の匂いがしている。
だが孫娘がやってきて変わった。
たまに帰ってきているのだろう。淀まぬ、入れ替えられた空気が静かに家の中にあるのだ。
洗われたてかけられた食器や、口が寂しいときにつまむ果物、隠し戸の中にはセンゴクすら手に入れるのが難しい米酒がこっそり鎮座もしている。コングさんに貰ったの。と随分と先代に孫娘は可愛がられているようであった。
アンが両手を差し伸ばせば、いくつもの手がその掌を掴むだろう。
世界中に散る、義祖父も知らぬ人と人のつながりを持っているとガープはCPからの報告で聞いていた。追いかけようとしても煙に巻かれるという。どういう手段を使ったのか、情報収集を主としているCP5の諜報員たちを震え上がらせており、もしアンに関する秘密を少しでも外に漏らしたならば制裁を加えるとしていた。その横にはドレスローザの国王でありかつ王下七武海のドフラミンゴが立っていたとの報がある。これは事実だとガープは断じていた。
長年、海軍に身をおいていると人脈が伸び様々と繋がるが、孫娘はかなりきわどいところまで至っている。
それを分かっているのか。それとも気付かぬふりをしているのか。ガープには判断がつきかねていた。
味噌の匂いに瞼を開く。
朝にしては豪華な食事が広げられていた。
孫娘は別として、無限に近いだろう胃袋を持つルフィの食べっぷりを知る祖父としては、これくらいが妥当かと思いもする。
入り口に届いていた新聞を指を鳴らして義祖父の目の前に出し、減っていた茶を継ぎ足す。
良く出来た娘だ。どこに嫁にやっても恥ずかしくはない。
そう考えているうちに、孫達が風呂から上がってきた。着替えを探しにアンの部屋に真っ裸でかけてゆく。腰にタオルを巻いたまま追いかけるのがエースだ。
和食と洋食の皿が混然と並ぶ。
Tシャツにラフなズボンといういでたちで孫達が戻ってきた。頭にはタオルをかけたままだ。
つまみ食いを企むルフィにアンが小鉢を渡す。イカの煮物だった。良く噛んで食べるように言い、頭を撫でる。
姉の言う事をよく聞く弟は、言われたままにもごもごと弾力あるそれを噛み続ける。噛めばかむほど味が出てくると知っていたからだ。さと芋もやわらかく、たれをまぶせば何個でもいけそうだと笑う。
これは夢見ていた食卓だ。
孫達がみな海兵になりこの家に集う。現実にはならない夢だ。
「アン、おれ肉食いてェ」
「まだ解体してないの。お昼でもいい?」
頭の中で時間配分していた予定の間に、兄弟が確保してくれた獣肉の解体を無理矢理ねじ込む。一緒に昼食を食べる事は出来ないだろうが、部隊が決定した後ほんの少し抜け出て送り届けようと思う。
獣は若い雄鹿だ。皮を剥いで各部位ごとに切り分けるには、どう見積もっても1時間はかかるだろう。持ち運びはエースに頼むとしても、だ。
時間があるならこの広い、義祖父の家の庭でルフィに六式の稽古をつけようと思っていた。
元々から肉弾戦の、義祖父の血を引いてるからして肉体的な素養が高い弟だ。柔軟性もある。超人(パラミシア)系という独創的な変化に富む、一見すればはずれをであるかのような能力だが、ルフィにとっては大当たりであったのだろう。機知ある能とあいまって面白いほどよく弟になじんでいる。
しかもゴムの体は六式を体得するに有利であった。真っ当な方法では不利である。ふつうの人間とゴムとでは力の入れ具合が全く違うからだ。アンやエースは人間の骨格そのままであるが、ルフィは似非である。可動域を超えて骨格が伸び動く。
剃と紙絵は早かった。嵐脚もまあまあ様になってきている。
弟に追い越されるのも時間の問題だろう、とアンは思いながら食卓についたルフィをちらりと見やる。豊富な実戦経験のおかげで、まだ、なんとか勝率は6割を超えているものの、体格差がこれ以上広がるとどんどんと下がっていくだろう。予感ではなく確実だ。
2斤買ってきた食パンをぺろりと食べ終えた兄弟たちは義祖父用に炊いた白米に手を伸ばし始めていた。
アンも軽くお味噌汁でご飯を流し込み席を立つ。義祖父と兄弟たちの会話を聞きながら廊下に出、血で汚れても構わない着物に着替える。血抜きをしてくれているとはいえ、体内には大量に残っているものなのだ。
包丁を手に持ち、解体作業に入った。
覇気はこういう時も有効だ。武装色を極めると肉体を黒く染めるまで至るが、アンにはとてもじゃないがそこまで出来ない。見せてもらったこともあるが、見聞色に大きく振ったアンでは手に持つ武器の強化がやっとである。エースならばそのうちできるんじゃないか、とはシャンクスの言だ。
手早く皮を剥ぎ取り、肉を切り分けてゆく。太い骨もさくさく切れるのがいい。硬直が始まっていても関係なかった。
寄生虫が住処とする内臓系はごっそりまとめて分解しながら水でよく洗い、銀のたらいの上にわけてゆく。すっかり体が真っ赤に染まっていた。血の臭いに疎くなっているアンはたいして気にしていなかったが、義祖父が眉をひそめるのを敏感に感じ取る。
わかっている。なぜ階級が上がるたびに衣服に白が増えていくのか、それなのにいつも真っ赤に染めてしまうアンを心底案じていることなど。
食べ終えて満腹になった弟は縁側でひっくり返っているが、エースの手助けが入り着実に全てが切り進まれる。
「おじいちゃん、これおすそ分けしたほうがいいよね」
「……冷凍庫には、入らんのう」
アンはただこくりと頷く。
ドーン島に広く生息分布する角鹿は骨まで、全てあますところなく食べることが出来る。骨は煮込めば薫り高い白濁したスープになるし、虫さえ排除すればどの箇所も美味だ。焼いても良いし煮てもいい。
「ダダンおばさんに、これ持っていこうか。漬けにしたら日持ちするし」
厚手のビニール袋に調味料とモツ系を入れる。ご近所さんに配るのは扱いやすい肉の部分だ。
血みどろの体を水で洗い流し、風呂へと向かう。隅々まで洗ってすっきりすれば、台所に山済みされている食器類を片してゆく。回り終わっていた洗濯機の中身を取り出して庭に戻ると骨ひとつ残らず片付けられていた。
ささっと洗濯物を干し終わる。
弟の口があらぬ形に変わっていたのを見ぬふりをして、向かうは台所だ。昼に兄弟が食べやすいように取り分けていた肉をオーブンへ塊ごと入れる。そのまわりに野菜を配するのを忘れてはいけない。
懐中時計を開くと10時を回っていた。
土鍋で白米を炊き、蒸し終わればしばしのくつろぎの時間となる。
すでに兄弟たちが庭で組み手をしていた。柔軟体操を軽くしてからアンもその中に混ざる。
義祖父がスーツに着替え、手酌で緑茶を飲んでいた。
正式な訓練を受けていないにもかかわらず、エースが形どるのは自己流も入っているが海兵の型だ。双子であるエースとアンは、大人にはわからぬ不思議なつながりを持っている。まるでコインの裏と表のようだった。そしてじゃれつくようにして兄姉に飛び掛っている孫は、まるで猿である。本能のおもむくままにあちこちに手を伸ばしていた。しかしその動きが妙に、堂に入っていた。
「ルフィ、動きの先を読みすぎてる」
笑みながらアンが相手の先の先を予想しすぎている弟の手首を掴み引いて転がした。動きの先々を読めたとしても、相手がそのとおりに動くとは限らないからだ。ひとつひとつ先の、区切られた行動にどう対処するのか。最も難しいながら、瞬時に判断する能力が必要となる。と、説明するその背後からエースが膝をかくんと曲げれば、重力に従いアンも前のめりに地面へうつ伏せる。下が芝生のため痛みはさほどではないが、予想していなかった不意打ちにきょとんとした顔をしていた。
「…おれの勝ちっ」
「っ、あー、それはずるい、それはずるいよエース!」
「そうだそうだ!」
待てぇ、と姉弟が兄へと拳を振り上げた。いつの間にか追いかけっこに転じた組み手である。
島に戻った際、何度か相手をしてやったことのあるガープであるが、思わず髭に手を伸ばし厳しく目を細めるほど、兄弟の実力が上がっていた。ひとりでここまで這い上がったならば天賦の才である。東の海で奮闘している海兵など取るに足らない相手であろう。偉大なる航路(グランドライン)の前半もそうだ。新世界に入ったばかりの新人であればなにかと戸惑う多くにあたるだろうが、アンが共にあるのならばすいすいと切り抜けていくに違いない。
かなり、由々しき事態である。
望めるのならば孫達が全員、海軍に入りガープの手元にあり続けることだ。生まれよりも育ちである。
孫娘が海兵になり、歩いてきたみち筋に残してきた実績はあまりにも大きい。親の七光りを振りかざす者もなかにはいるが、ガープの孫というレッテルも上手く利用し渡り歩いている。その様は子供ではない。子供だからこそかと思いなおす。
惜しい。
もてる力を裏ではなく表側で発揮してくれたなら、どれだけ幸福なのだろうと家族として思う。
残り一年、だいたいの未来予想は結ばれている。
従順なようでいて、曲げぬ一本を持つ孫娘だ。あの日に聞いた宣言は折らぬだろう。
ふたりは両親に良く似ている。エースの面影は母だろう。ふと真剣な目をし、青を仰ぐアンは父似だ。
そして兄と姉にじゃれつく、ガープの血を引く孫は。
考えても所詮ない。駄目だと諭しても、むろん手を上げたとしても、孫たちはめいめい自分達の好き勝手に動き回るだろう。
(知らぬ間に海賊となって、手配書を刷られるよりかはましかの)
ガープは残っていた茶を飲み干し、縁側から立ち上がる。
同時にアンもそろそろ着替えないと、と兄弟たちから離れたところだった。
台所で昼食の最終仕上げとして、冷めても美味しいものを鍋に蓋をし、置いておく。その後すぐに着替えをはじめ、コートを手に廊下をとてとてと玄関に小走った。持ち帰った書類はない…たぶん、なかったはずだ。
汗を流しに風呂場へ向かったふたりへ着替えを用意し、おすそ分け用の袋を布袋へと詰めた。
「アン!」
風呂場の方角から聞こえてくる、明らかに叱責じみた声音を無視する。
忙しいのである。
「それしかないの! それ着てて!」
ぶつくさとエースが何かを言っているが、聞こえない振りをした。弟の方は別にいいじゃん、と袖を通しているようである。
先日。
ドーン島へまとめて衣類を持っていったばかりだ。破れた箇所をマキノが修復してくれるものの、このふたりの行く先々は道なき道の先である。繊維が磨耗するのも早い。
この家に残っていたシャツは、東の海で行なわれた『海兵祭り』で売られていたプリントTシャツである。左官となれば仕立てたスーツに軍からの支給品であるコートの着用が義務となるが、一等兵までの間は制服と制帽が軍服となる。Tシャツはその制服、セーラをプリントしたものであった。子供たちが喜ぶように、背中には一枚、ぺらりとした布がついている。
売れ行きは好調だった。
勧められたわけではないが、アンも2枚購入した。ちょっとした悪戯心が動いたのだ。しかし出す機会もなく箪笥の中に仕舞われたままのものだった。
義祖父がぎょっと目を剥き、おずおずと孫に向かって手を伸ばしていた。
「なんだよじいちゃん、気持ち悪ィな」
逃げ切れなかった弟がすりすりと、痛みの方が強い白ひげをこすり付けられているのを、兄と姉は残念なものを見る目で生暖かく見守っていた。
真顔で孫に罵られてもなんのそのである。
義祖父を弟から引き剥がし、兄弟たちにはご飯を食べた後のことを伝える。ふたりはいつものことだと頷いてくれた。
アンはガープ中将を引きずりながら玄関へと向かう。
「中将、参りますよ」
「…よかろう」
部下としての口調を整えた将校に不敵にひげ面を歪ませ笑った。