太陽と砂と、風の国、アラバスタ。
延々とこの地に根付く命は干ばつと闘ってきた。
ごく少量降る天からの恵みと、位置を変えずこんこんと沸き出る水に支えられて命が育まれてきている。人々は与えられた水を大切に扱いながら生きていた。
あと数年でその平和が崩れる。
どういう理由で崩れるかは分からない。けれどそれまでに出来る事はしておくに限る。
友の有事には駆けつけるのが親しき者としての責だと思っていた。
ただその頃、住処としている海はここでは無く新世界であるはずだ。有事の際いち早く気付けるか、がネックと言えるだろう。
アンは王宮に続く階段を上る。
町の中央に建つ王宮からは広く町を見渡せた。宮殿を中心に東西南北に分けられた街並みが広がっている。町に入るための門は合計5か所にあり、それぞれの町を行き来する行商隊の行き来も頻繁だ。
ここ、アラバスタの王が座す洛(らく)は、砂漠の中にあって眠らない都とも呼ばれている。
この国の皇女、ネフェルタリ・ビビと出会ったのは世界会議の席だ。
かの悪食王に絡まれた後、落とした髪飾りを拾ったのがアンだった。その日は忙しく返せなかったが、翌日出会う機会があったらしく、その時に返却できたらしい。
推測が混ざっているのは、アン自身に記憶が無かったからだ。
その日のことを聞き出そうとすればやけにエースの機嫌が悪くなるため、聞きだすにも時間がかかってしまったのである。
けれどそのおかげでビビ皇女と文通をする仲となり、時々こうして家に招かれるまで良くして貰っていた。
王宮としても身元がしっかりとしている海兵であり、しかも年齢が近い者同士として温かく歓迎されている。
だがいつもは空からの訪問で、今回のように地上から訪れるのは初めてだった。
近衛隊とは顔見知りも増えたとはいえ、門番をしているこの人物達とまでは面通ししてはいない。
「こんにちは。ポートガス・D・アン、と申します。ビビ皇女との謁見に参りました。ご確認ください」
にこやかに訪問を伝えたがしかし。開門したのは1時間が経ってからだった。
門兵からひんやりとした陰を提供されながら、待つ事が楽しいかのように笑顔で景色を眺め続けていたアンが振り向く。
遠くに大砂丘が見え、太陽の光を受けて金色に輝いていた。
この国に長く住んだ事が無いアンは、その景色を美しいと思った。暮らす人々にとっては細かな砂塵が家のそこかしこにも入り込み、掃除するのも大変であろう。肺を犯す元にもなるため、掃いて出すのは自衛でもある。
壁があれば少しはましになるものの、砂漠の中にある家屋は特に風と共に舞う砂に埋もれ、刻々と姿を変えるうねりの中に消え去ってしまう事も少なくは無い。砂は人々の生活を脅かすものであった。されど人が立つ大地から生まれ、口にする食物が育つ素地でもあった。
害ばかりが先行し、役に立つことなど余り無い砂ではあるが、それでもアンは広がる景色を美しいと思った。砂の中で営み続けられてきた人の命が、きらきらと宝石よりも鮮やかな色をして輝いてるかのよに見えたからだ。
待つのは決して苦痛ではない。慌しい時間の中で生きているためか、こうして時間を無駄に使えることこそが贅沢であると思えるのだ。
会話を交わし程良く門番の兵と仲良くなった頃、不意に後方で鉄門が小さく開かれた。覗くのは幼い少女だ。
「ビビ!!」
「アン!!」
ふたりは駆け寄り、黄色い歓声を上げる。
会ってすぐだというのにお互いにまた少し背が伸びただとか、付けている髪飾りが可愛いだとか、女の子同士の会話に花が咲く。
そうしていれば、ふとビビが疑問を口にした。
「どうしていつもの海兵の姿をしていないの?」
「ああ、偶にはこういうのもいいかな、って。久々の休暇だし、お店を巡るのも楽しかったよ」
だがビビはこんな場所で待ちぼうけさせてしまったのが、嫌だったらしい。
海兵の姿であれば、いつもの通り来てくれてさえいれば、こんなに心配しなくても済んだのに。待ちぼうけしなくても、よかったのに。小さくつぶやかれた思いに、ほほ笑みがこぼれる。アンは膝を折って視線を合わせぎゅっと両手のこぶしを握った友達に、ごめんね、とありがとうを伝える。
「ううん、わたしもごめんなさい。アンったら名前しか言わなかったでしょう。近衛が止めてたの。イガラムが気付いて本当によかった」
門兵はふたりの姿を呆気に取られて見ていた。
会話からこの、楽しそうに景色を見ていた少女が海兵であり、王女の確たる御友人であると知ってしまったのだ。不審人物は役目として、門から先通さず、を文字通り仕事としている訳なのだが、判断を誤ったかと門兵達が視線をちらりと交わし合う。
「そうだわ、アン。パパも首を長くして待ってるの、こっちよ」
空と同じ柔らかな水色の髪の少女がアンの腕を引く。
お邪魔します、と今まで会話に付き合って貰っていた兵達へ向かい、
「大丈夫、ちゃんとお仕事していたと伝えます」
日陰の礼を言葉にしてから開かれていた狭間から中に滑り込んでゆく。海兵である証は基本、本部から支給される衣類だけだ。帽子もあるが、腕章はほとんど使われない。一番手っとり早い身分証明はコートだろう。あれには特殊な織り込み糸が使われており、偽物と比べればすぐ分かるよう縫製されているのだ。
だからその衣を纏っていなかったアンを、海兵だと知るのは難しいといえた。だからあなたたちは悪くないのだとアンは笑んだ。
少女達は中庭を通り、女官が使う細い通路を横切って王が座す宮殿へと向かう。
繋いだ手の主は柔らかだった。歳相当の、女の子という感じがする。
海兵となり、海での生活が長いアンは最低限の手入れはしているものの、どうしても疲労に圧されて何もせずに寝てしまう事もままあった。
「ビビの指、きれいね」
「うん、マニュキュア塗って貰ったの」
あちらにいた時は爪が割れないように、透明色を塗っていた。おしゃれの為では無く保護を目的として。
ビビの爪を彩る艶は愛らしいピンク色をしていた。
「アンもして貰う?」
肩越しに振り返りながら、小さな友人が笑む。
「うーん、どうしよう…かな」
語尾がだんだんと小さくしぼんでゆく。仕事柄を思えば綺麗に塗ったとしてもすぐにはがれてしまいそうな気もしたからだ。
「じゃあ後でわたしの部屋に案内するわね」
「あ、うん、ありが、とう?」
アンははにかむ。女の子らしいおしゃれなど、ほとんどして来なかったからだ。海軍に在籍しているため必要に駆られなかった、といえば聞こえはいいがぶっちゃければサボっていただけである。おしゃれしようと思えば出来た。するのが面倒だったのだ。
(……聖地で着させてもらったドレスとか、可愛かったなぁ)
デイハルドに仕える女官たちに全ての衣服を剥かれ、洗われ、いろいろなものを塗りたくられたあと、着せられるがままに袖を通したドレスは動きやすくしかも可愛かった。磨けば変わるものだとランからも褒め言葉を貰ったし、世界貴族が青海の王たちを招いて開いた立食パーティの席でもコングに、本日の装いは実に可憐ですな。と世辞も頂いている。
デイハルドの護衛で入ったはずなのに、見られると減る、触られると削れる、先に屋敷へ戻れとわがままを言う天竜人をなだめすかすのも慣れたものだ。
自身では馬子に衣装であるとは思いつつも、なんとか形にはなっているようで胸を撫で下ろしたのもつかの間。アンがしくじればデイハルドに迷惑がかかるのだと知れば、それだけは断固として阻止せねばならなかった。にわか仕込みであるが3時間ほどで仕込まれた礼法を崩さぬよう気を張り続けていた。
……のも、遠い昔の出来事に思えるほど普通の一般庶民の生活の中に今、身を置いている。
贅沢三昧するのも時には悪くないが、やはり普通がいい、と心底思うアンである。美味しいものばかりを口に放り込まれると、口が肥えて仕方が無いのだ。
休暇中の身であるし、海兵であることをこの間だけでも忘れて少しだけおしゃれしてみようかと。今だけただの女の子になるのも悪くは無いだろう。思い至れば行動するだけである。
2年後、ビビとの関係がどうなっているかはわからない。
ただひとつ確かであるのは、こうして気安く遊びに来られないだろう事だけは確実だ。
青海の王族の中でも頂きに近い高貴な身分であるビビと友達になれたのは、とても運が良かったのだろう。権力とは恐ろしいものだ。ただの海兵に王族と知り合えるだけのコネなどない。流行の物語のように、海賊に襲われている姫を海兵がドラマティックに助け恋に落ちるなど、絶対にない、とは言い切れないが1万回に一度あればいいほうだろう。
なにもかも義祖父という存在あってこそのアンである。
ガープ中将の孫という肩書と、天竜人であるデイハルドの影響が大きい。個人で積み上げてきた実といえば片手で数えられるほどしかない。もう少し年数が経てば独り立ちさせようと上層部は画策しているらしいが、その時にはもうアン自身が海兵では無くなっている……はずだ。彼女は良い王女におなりになるだろう。たまに行動力が飛びぬけてしまうのが気になるところだが、彼女には多くの手助けがある。払わず取り続けたならば、きっと良い未来がくる。
握られた手の温かさの心地良さに自然と笑みが浮かぶ。エースやルフィとはまた違う、凛としてまっすぐな気質は確かにこの国の王女らしい、人と国とする包容力を持ち得ていた。
宮殿の奥へ進む途中、出会った宰相や将軍に挨拶をしながら執務室で政務を行っていた王へ顔を見せた後は、手紙でやり取りしていたボードの話となる。
「すごく楽しみにしていたの」
「手紙にもそう書いてあってもんね。はじめて、はいつだって楽しいもの」
アンは早速、材料の調達をし始めた。
しかし木材はこの砂漠では貴重な資源だ。おいそれと切る事など出来ない。それならば、と王宮の一切を賄う厨房の裏口へと連れていってもらい、そこで替わりになる物を探した。大人の胸に届かない背丈のふたりが黄色い声をあげながら走りまわれば、いつもは静かな王宮内が急に慌ただしくなる。
「はいはい、そこのおふたりさん、宝探しは外でやって下さいね」
くるりと髪を巻いた女性にぽい、と外へ追いやられても、まだ行っていない場所があるとこっそり示し合えば、死角を利用して潜り込みを繰り返す。
砂漠で滑るボードは薄い板を使う。
元々はオーストラリアで生まれたとされる、サンボードは砂の斜面を板で滑り降りる遊びだ。
滑り降りる疾走感もさることながら、慣れれば空中遊泳も可能となる。滑空とまでは行かないが、ふわりと身が浮く感覚が気軽に楽しめるのだ。スノーボードにも似ているが、必要な道具がボードだけという手軽さも魅力だった。
「この樽使えそう。もう少し削って足止めをつけたら、すぐに滑れるかも」
使い古され黒くなり、半ば放置されていた樽をひとつ見つけた。早速、譲ってもらい中庭で槍鉋(やりがんな)を借りて、アンががりがりと削ってゆく。
道具の使い方は簡単に、ではあるが、トムに教えて貰った事があった。今でも見られればアイスバーグには危なっかしいと言われるだろう。職人の目から見れば素人であるアンの手作業はどれもはらはらとするに違いない。
その様子をビビはクッキーをつまみながら眺めていた。
しかし数十分で見ているだけ、であるのが飽きたのか小さな小瓶を持ちだして来、アンの靴を脱がせ、爪先へ液を塗り始める。
「ビビ、くすぐったいよ」
「動いちゃだめ、指に付いちゃう」
真剣なまなざしで筆を動かす友人に、今で無くともいいのではないかと聞けば、
「だって、外に宿をとっちゃったのでしょ。お風呂上りに塗りあいっこできないもん」
ときた。子供ならではの直打である。なまじ素直であるから、その破壊力はかなり大きい。
(……若いって凄い)
アンは首をこくん、と縦にしか振れなくなっていた。大人の、裏の裏を読む会話が普通となってしまっている日常に咲いた久々の癒しである。言葉の裏にある真意を想像しなくていい。なんと楽なのだろうか。しかも女の友達である。
(ビビだけは絶対に守るから)
そう心の底から決めたアンであった。
時折、通りかかった護衛副官や王が、なにやら楽しそうにしているふたりの姿を眺めながら通りすぎてゆく。ナツメヤシの葉がさらさらと揺れれば、冷たい風が流れた。
アンが小さな白のトレイにあったクッキーを、足指を動かさないよう慎重な動きでひとつとり、ぱくりと口に含む。元から湾曲していた板の加工は意外と簡単だった。
凹凸を作らないように、先へ行くほど薄めに削ってゆく。ただそれだけだ。
あとは足を引っ掛けて固定するベルトをとりつければよい所まで仕上げ、アンは木くずをまとめる。
「あともう少しで完成するよ」
そうビビへ終わったと伝えれば、小指の小さな面をそっと塗っている最中だった。ふとその後方を見れば困った表情で何度も、お早く、と急かしている女官が居た。
「ビビ様」
「もう…本当に、これで終わりだから」
夕方前に伸ばしていた学びの時間だと、女官のひとりがさらに促す。
いつもは素直について行くのだろうが、今日ばかりは手こずっているようだと、引きつり始めた女官の感情を読み取ってアンは苦笑する。
だからという訳ではないが、気持ち良く誰もが王女さまを外に送り出せるよう声をかけた。
「ビビ、もう少し日が傾いたら行こうね」
「うん!」
戻ってきたのは大きな頷きだった。それでも最期の最期、納得するひと塗りがされるまでビビは動かなかった。
引きずられるように自室に持ち帰られた友を見送った後、アンは執務室で休憩中であった王の元を訪ね、夕方の外出許可を得る。
アンがその身を以ってビビを守るとはいえ、王族を外に連れ出すのだ。安全は保障するつもりではあるが、絶対に何も無い、とも言い切れない。割ける人員がいるのならばひとりでも、彼女だけの護衛が欲しい所ではある。
「王は政務がおありになるからご無理で……ですよね? え、行かれる? あ、でも、ほら。お仕事が。チャカさんかベルさんのどちらかが付いてきて頂けると助かるのですけれども」
わしが、と腰を浮かせた王を制止し、側近のどちらかをビビの護衛にお願いできないだろうか。と頼めば王があからさまに落胆した。どうもしなくとも、付いてくる気だったらしい。しかもどちらかひとりと頼んだ両者であるが、お互いが譲り合って決まらない。その隙を突いて王がゆるりと王座から階段を下り、外出用のターバンを身につける。
「王よ……私の仕事をさらに、増やすおつもりですね」
陽炎のようにゆらりと現れた護衛隊長イガラムにより、王がびくりとその身を縮ませる。そろりと首を動かしその姿を再確認すれば、脱兎の如く駆け出した。それを追いイガラムがなにやら叫びながら走り出す。一人残されたアンへ、いつものことだからそのうち収まるとベルが肩を竦めた。王宮とは思えないほどの緩さだ。
それが、この国の良さなのだろう。自然環境が厳しく、人が生きてゆくのは困難であろう砂の満ちる場所で、生きる為に作られた厳しい戒律を守りながらも人々の心はどこまでも豊かで柔らかい。まるで風が砂に描く文様のようだ。吹く向きにより、柔軟にその姿を変える。
平和な国だ。賢王を頂きに、盤石の固きに政を置いた穏やかな国の姿がある。
だが忍び寄ってきている影がこの国の全てを飲み込もうと、嵐を起こす準備を始めていた。
未来を語れたらどんなに楽か。そう思い首を振る。
「アン!」
薄青の空を見上げている不意をつかれ、後方から何かが飛びついて来た。
「…ビビ」
確認するまでも無く、いつも以上のやる気を見せさっさと課題を終わらせてしまった王女様だ。
「ごめんなさい、わたし、いけない事、したかな」
「ううん、違うの」
敏感にアンの表情を察し、心配そうに瞳を瞬かせる友人に笑む。もし今、語る事が出来、未来に起る可能性の高いその計画を未然に防げるならばどんなに気が楽になるだろう。だが楽になるのは呵責を抱いたアンであり、伝えられる人物ではなかった。息が詰まる。
安易に時の流れは変えることが出来ない。やろうと思えば出来る。だが行うにも代償が必要とされた。
起るべき未来、多くの人々を巻き込んで起こる出来事全て、その因果を背負う誰かが必要となる。それをアンが全て承知し引き受けることができるかと言えば、無理だ。
アンは友の身を抱きしめた。出来ないかもしれないと思うのではなく、必ず来るから。その意志を込めて、抱きしめる。
「違うの、ビビがいっぱい頑張って来てくれたから嬉しくて。抱きしめたくなったの」
その瞬間をぱしゃり、とレンズが捉えた。押したのはイガラムだ。
町に砂砂団の友人が残るものの、友情を交わした王女を王女としてではなく友人として特別扱いしない人物は遠く、ユバというオアシスを囲む集落に暮らしている。
城内には同性の供は居ても、友は居なかった。
彼女の来訪が決まった時、王女の喜びようと言ったらお世話する者たちまで楽しみにしてしまうほどのはしゃぎようであった。
この地は捨の大地。人と人が手を携えなければ、生きては往けぬ過酷な地だ。王女は人の手を取らねばならない。民を導き支える者として、必要とする手を選び取り、使わねばならない。
海兵の少女は絶好の遊び相手であった。遊びの中で必要であるものとそうでないものを、取捨選択する予行演習が出来る相手である。
大人ばかりの集団の中で育てば、周囲の顔色ばかりを伺いながら年齢を重ねてゆくが、こうした子供同士のやり取りこそが豊かな人間関係を、そして人をどうやって使うのかの土台となるのだ。
王の血族、唯一の姫。その背に、肩に乗る未来は想像を絶するほど重いであろう。
だから今は、今だけは年相応な感情と思考を奪わないよう、細心の注意が払われている。故に客人が持ってきたナイフを借り、仕上げの削りを行なうビビの姿は、多くにとって微笑ましくそれらの頬をゆるませるに値した。
「ここに足を通して…足ベルトは調整できるように穴を多めに作っておくね」
ネジでしっかりとベルトを木に止め、木くずを払う。木樽を使ったにしては良い出来だろう。多少の曲がりは気にしてはいけない。
早速乗り心地を確かめるべく、木の上に足を乗せベルトを引っ掛ける。
「う…少し、足が突っ張っちゃう」
「幅を広くしすぎたかな。でもすぐだよ。ビビは成長が早いからわたしなんか、すぐに追いつかれちゃうね」
身長の伸び悩みに定評のあるアンが、ひとり内心で涙を流す。先週は遂に3歳下の弟にまで、身長を抜かれてしまったのだ。
得意げに胸を張って、アンを抜いたぞ、と喜ぶ弟がうらやまけしからん上に嬉しそうにはしゃぐ姿が可愛すぎるものだから、「そう、よかったわね」と背伸びをしてその頭を撫でてやるほかなかった。15歳にもなって身長ごときで悔しがるのも大人げない、という見栄もあった。地団太を踏めばよかったのだろうか。ジレンマに揉みくちゃにされた末、結局、可愛い弟の自慢を受け入れる方を選択したアンはひっそりと自分の心の狭さを辟易していたのである。
どんどんと周りから置いてけぼりを食らっているような気がしてしまう。どんなに足掻いても結局は追いつけずに、追いかけてきた背中を見送るだけになるのではないか。嫌な予感ばかりが胸に留まる。
ふるふると首を振って嫌な想像を振り払った。しかし消えはしない。影を薄め、存在し続けるからだ。
時がゆっくりと流れゆく。
太陽が砂の海へと傾いた頃、アンの来訪を聞いていたテラコッタが、外出の準備が進む厩舎に顔を出した。柔らかく巻かれた外向きのカールがぽよんと揺れる。彼女はイガラム婦人でありかつ、王宮の食を取りまとめる料理長であった。彼女のように繊細かつ豪胆でもある料理の腕に近づけるよう願いを込め、厨房の料理人たちは彼女のトレードマークとも言える髪形を真似していた。彼女特製のマフィンはしっとりとしているがしかし、かりっとした歯ごたえも楽しめる、どの店のものとも違う特別な品だ。柔らかなマフィンの上部をメロンパンのような生地が乗っているといえば分かりやすいだろうか。もっちりではなく、焦がして噛み応えある食感は一度食べたらもう、虜にならざるを得ない。それを持たせ見送ってくれた。
超カルガモというアラバスタ王国最速の動物と言われるカルーと、護衛隊副官ふたりを伴って町へ繰り出す。
町のはずれにはナツメヤシが立ち並んでいた。
農園には細く長い用水路があり水量豊かとはいえないが、細い流れが人々の命を支えている。
砂漠に住む人々にとって欠かせないのがこのナツメヤシだ。僅かな雨でも生き続ける事の出来るこの植物は砂を含んだ強風から、地上を這うように広がる緑を守る柵のような役目を担っている。またその実は貴重な栄養源として重宝されていた。
水が豊富にある地域では余り食べない木の実だが、実は食物繊維やビタミン、ミネラルが豊かなのだ。食べ方としては乾かすのが定番か。アラバスタの人々は日々の営みの中で培ってきた知恵を上手く使いながら暮らしていた。
金色の光が砂漠を黒と白に分け、空には薄くたなびくような雲が広がっている。
昼間のような刺す熱さから、からりとした動きやすい熱気へと変わった夕闇迫る僅かな刻に、少女達の歓喜が風に混ざり広がってゆく。
ナツメヤシに囲まれた畑で汗を流す農夫達がふと顔を上げた。日差しが強い日中は作業に向かない。だから朝と夕にクワを持ち砂を土に変え、作物を世話するのが彼らの仕事である。楽しげな声は大傾斜から聞こえてくるもののように思え、手をかざし橙の光を遮りながら視線を向ける。
目を凝らすと小さな影があった。それはまるで砂地を泳ぐ魚のようにも見える。
上空には大きな鳥が舞っていた。それはこの国を守る隼(はやぶさ)の姿だ。
「ああ…ビビ様がご友人と遊んでいらっしゃるのか」
「この国は恵まれている。善き王が続くこの国は…」
農夫たちの声は、生まれてきた国に誇りを感じさせる思いを含んでいた。与えられた恵みの土地を、彼らは再び耕し始める。
歓喜の絶叫が黄金の丘に響いていた。
流れる景色は刹那に姿を変え、遠くの町並みが一気に迫って来る。
毎年雪の季節にはボードに行っていたから任せて、というアンにしがみつき、浮遊感を感じたのもつかの間、ビビはその景色に目を奪われてしまった。いつも見ているはずの景色がまるで違う世界であるかのように思えたのだ。
大砂丘をベルの足にぶら下がった状態で登り、砂丘を滑り降りてゆく。今までとは全く違う。砂にきらきらと輝いているだけなんてなぜ思ったのだろう。単色で砂ばかり。だけれどこの王国にはなんと多くの生の匂いが、色濃く人々の営みが立ち上っているのだろう。
高い壁の向こうには緑の畑が広がり、視線をゆっくりと動かせば商隊なのだろうか。率いられたラクダの列が見える。
王国を包む砂漠は人の生活が行われている地点に比べ圧倒的に広大だ。だからこそささやかな営みに愛おしさを感じるのだろう。
幼い頃、友の契りを交わした彼が暮らすのは川を超えた向こう側にあるオアシス、ユバだ。
時折手紙が届く。男ゆえか、筆まめではないが必ず返事を返してくれる律儀な友だ。
人と人が繋がり、手を携えながら砂の大地に生きている。人々を支えるのはこの国に住まう多くの名も知らぬ同郷の者たちだ。父は民の声を聞き何をなせば民が生きやすくなるのか、日々多くを考えながら国を成している。
「人が国、いい言葉だよね」
聞こえてきたそれは、父王が良く口にする言葉だった。砂を手のひらにすくい上げさらさらと零しながら、ビビの友が言葉を続ける。
「でもね人はすぐに忘れちゃうんだ。こつこつと積み上げる事の大変さを」
だから既にあるモノを、奪おうと画策する。
誰かが頑張って頑張って作り上げてきた成果を奪っても、その人から奪った段階で砂の上に建てられた幻になってしまうのに。奪い、掌中に収めた興奮からなのかそれに気付かない。
何のことかビビには分からなかった。けれど、胸の片隅にそっと友人の言葉を包み込む。
意味のない事をこの友人は口にしなかった。いつかどこかで必要となるのだろう。
「信じていてね。誰もが疑いを持ち、もう駄目だと諦めたとしても。信じる事を諦めないで」
そうすれば必ず、合いの手が入る。わたしも必ず、駆けつけてみせるから。
聞こえた囁きに、頷く。
ほんの少し年上の友人が語った言葉を、ビビは胸に刻んだ。
その夜はささやかながらに夜会が催された。
王族だけの食卓では無く、近しい臣下やその家族をも交えた立食だ。
近海で採れた魚介類が豊富に並べられ、厨房が力んで作ったという湯気立つパスタも数種類あった。砂漠でも力強く育つ、小ぶりのトマトをソースに使ったものと、山羊の乳とチーズをふんだんに投入して作られたスープパスタ。揚げ物や乾燥野菜を使ったマリネなどに舌鼓(したづつみ)を打つ。
「ねえアン、明日もだめかな」
ビビは事の他、サンドボードが気に入ったらしい。アンと共に滑り降りながら感覚を掴み、板を譲られた後は翼に何度も運んでもらいながらひとりで小さな砂丘で日が暮れきるまで乗り続けていた。
「そりゃ毎日乗ったほうが上達はするだろうけれど」
そんなに頻繁に外出すると、近衛達が大変になってしまいかねない。ついでに王の業務も遅れてしまうに違いない。
「…だけど」
ビビが不満げな声を出す。表情もしかめっ面になってきていた。
「それに明日は高名な学士がいらっしゃるのでしょう」
それもわざわざ航路を変え、とある論文を提出したビビの為にやって来るのだという。
「…ねえ、アンも一緒に」
「お邪魔…にならないかな。ビビが専攻しているその文学、わたしには難し過ぎるよ」
ある程度の基礎知識はあれど、専門的な語彙が出てくると全く分からなくなってしまう。
さらにビビに会いに来るというやってくる学士は帝王学についても著名な人物だったはずだ。王までもが受けてみてはどうかね、と誘ってくるがアンとしては受ける気などさらさらなかった。
なぜなら人の上に立つつもりなど無かったからだ。義祖父も元帥も中将の席にアンを座らせたがっている。
そもそも資格が無いだろう、と思うのだ。
生まれに関しては仕方が無いとは言え、義祖父の守りが無ければ今頃、捕らえられて既に故人となっていただろう。もしくはオハラの子と同じく、逃亡生活が待っていたかもしれない。
中将になれば。
世界政府が手出し出来ない位置に潜りこんでしまえば。
それはとても甘美な誘惑だ。だが受ける事は出来なかった。
アンはビビと好きな物、嫌いな物をこっそりと交換しながら食事を楽しんでいた。しかしふたりの口にそれぞれ苦手な食物をテラコッタにより突っ込まれるという、涙目の事態になったり。白乳色の飲み物を山羊のミルクと間違って飲んでいたりと、躍然(やくぜん)とした夜が過ぎてゆく。
「ねぇアン。唄って。約束してたでしょ」
「んー。いいよう。唄う!」
上手くないけれど、それはごめんねー。と酔っ払った少女がいつもとは様子を違え、年相応なはしゃぎっぷりを見せながらビビと手を繋ぎ黄色い声を上げていた。ここに集う人物達は皆、アンの素性を知っている。世界会議の席で知己を得た者たちもまた多い。
あの場所での振る舞いと今を比べれば、天と地ほどの差があった。どちらが本当の少女なのか。誰もがその動向を見守っていた。
唄と聞けば腰を浮かせたのがイガラムである。そそくさと21本の弦が通された長いネックとひょうたんのような共鳴胴をもった楽器を抱えてやってくる。つまんで弾く独特な民族楽器が滑らかな音をはじき出しはじめればざわめきがしぼんでいった。
伸びやかな声は満天の星空に吸い込まれてゆく。
La、から始まる悠然な調べに、誰もがそちらに視線を向ける。音が声に寄り添い、混じるように螺旋を描く。
声が発する音は、この世界ではとうに忘れられた言葉の羅列だった。アンにとっては使い慣れ親しんだ音だが、こちらではまだ聞いた事が無い。
過去の出来事を未来に伝えるために、強度だけを最大限に高めて残された遺失物。それを読み解ける者がこの場にいたならば、顎を外して目を剥いていただろう。
石碑は作り手が目論んだ通り、残りはした。刻まれた文字は欠けることなく今も在り続けている。
しかし音までは残らなかったのである。
驚くこと無かれ。アンが知るとある国の発音に、遺失文字をそのまま当てはめることが出来た。
歴史の本文(ボーネグリフ)に秘められた願いは、音を知らなければ読み解けないようになっている。
この唄は、はじまりの歌だ。
意味を解き明かせる人物が聞けば、声を失うだろう。知りたいと願うその文字の意味そのままであるからだ。
もしかすれば、シャンクスならば分かるかもしれない。父と旅した者たちであれば、知っていてもおかしくなかった。
調べを音に乗せる。届いけばいいのに。わたしは、ここにいるよ。歌詞の内容に心が乗る。脳裏にちらりと浮かんだ、異国人であるかもしれない存在に想いを馳せた。
こればかりは兄弟たちが妬んだとしてもどうにもならない。近代化された、戦争を知る世界からの旅人がもし、こちらの世界に来ているならば力になりたかった。アンはこの世界に生まれた。だから生きていくための心積もりも出来たし、どうすればいいのか冷静に判断することができた。
もし20という年齢のまま世界を渡っていたならば、どうしていいのか全く分からず失意のまま命を絶っていただろう。
なぜならば自分はこの世界の人間ではないという区別を自らがしてしまうからだ。生きてゆくための手段と、地盤が無い状態では取っ掛かりを得ることすら難しい。
かの人は旅をしているという。
たらればになるが、まだ地球上であればいつかはたどり着くだろう、生まれた国がある。親しんだ言葉や文化が存在している。だが庇護なく放り出された言葉も分からぬ遠い世界で、帰る場所を作るのはどれ程の悲嘆と苦しみが伴うのだろうか。
かの人と比べれば、多くを与えられて生まれてきたアンには分からないことが山のようにあるだろう。
アンは会ってみたい、と思う。
もしかしたらありがた迷惑だと罵られる可能性もある。
それでも。会って話をしてみたい。
唇から紡ぎ出される音の葉がゆるやかな旋律の中で踊り、そして。
星が瞬く音すら聞こえて来そうな静寂がおりた。息を呑み、ごくりと喉が鳴る。
一拍の後、鳴った拍手が重なった。
「ねえ、どこの歌なの? すごく綺麗だった!」
もう一度とねだる友の声にはにかみながら、アンは小さく唇に人差し指を当てた。