海兵が天竜人によって打ちすえられていた。
影から見守る人々も余りの悲惨さに顔を背けている。海兵は誰一人として動かない、否、動けない。
ぽたり、ぽたりと紅い滴が大地に落ちた。不発した鞭が叩きつけられられるのは緑が剥き出され赤に変った根だ。べったりと血がこびりついている。そして赤い色を混ぜたシャボンが大小様々な形を成しふわりと舞いあがった。
罪状は明らかであった。天竜人に直に触れた、接触の罪だ。
答えを出す存在が唯一しかない状態である。誰もが見ていたため、申し開きの必要すら論じられなかった。
眠る子が海兵の背から取り上げられる。余程深い眠りに入っているのだろう。抱き上げられても瞼は落ちたままだ。
聖は子を連れ帰った海兵に跪けと命じ、兵はその通りに両膝をついた。
詰問が始まる。
海兵は事実をそのまま口にした。しかし確証が無い。真実かどうか、黄猿は兵を向かわせる。
間を置かず舌打ちが鳴った。
次いで銃声が2発、樹林の中に響き渡る。地に付いた両手を撃ちぬいたのだ。
小さく震えるその海兵の手を、聖が靴底で何度も何度も踏み続ける。罪は罪だ。その身に刻みつけよ。
両目を吊り上げ、呪詛のように同じ言葉を繰り返しながらルナルディ聖は鞭を振るい続けた。
鞭がしなる。風切り音だけが何度も繰り返される。
なんども打ちつけられた部位は布地が裂け、白から赤へと鮮やかな色へと変ってゆく。
海兵は目を瞑り、唇を噛み締め続けていた。そうして多くが、事が終わるのを待っていた。正常な精神を持つ者であれば目の前で打ち据えられる誰かが居、喜びはしゃぐような真似などしないだろう。
しかし終わらない。
秒針が止まってしまったのだろうか。進んでいるはずの時がやけに遅く感じてしまう。
「天竜人である我らが追われるなど、ありえないえ! 嘘をついていたと、正直に言え!」
だが海兵は黙ったまま首を横に振り、眼と聖を見上げた。
聖はその目に胸騒ぎと怒りを覚える。
我らをなんだと思っているのだ! 海軍が天竜人をたぶらかしたのか!
聖の心に湧き出たそれが、言いようの無い不安を掻き立てる。故に聖は声を荒立たせた。
問うても海兵は答えない。
無言は諾と見なされます、そう役人が聖の耳に囁く。
諾か。そうか、無言の肯定か。
黄猿が動く。だが2歩目は無かった。
「次は外さぬえ?」
煙りが立つ銃口は海兵の肉にかすり新たな赤を生み出している。
体中が血みどろだった。
致命傷ではないものの、手足を撃ち抜かれた銃創からの出血で海兵の意識は朦朧(もうろう)とし始めている。
痛みには慣れてるだろう。日々の訓練の中で最も扱かれているのは、目の前で打ち据えられている海兵なのだ。
見ている、見ていることしか出来ない多くに海兵の痛みが幻痛として、伝播していた。
その海兵といえば既に痛い、を通り越している状態だった。痛覚が麻痺し、身体の異常によって精神が崩壊せぬよう脳内から生命維持に必要な物質が分泌しているのだろう。
(・・・痛覚の遮断は、上手くいったけど)
もう一人の自分、ともいえる片割れにはこの傷みは関係ない。
遠いところでエースが何かを叫んでいる気がした。なんと言っているのか。なんとなくだが分かる。
痛みの種類が今までとは全く違っていた。刺すような鋭い痛みでは無い。体のどこかが絶えず心臓の鼓動にあわせて波打つような感覚だ。鈍痛とはまた異なっている。時折、背骨に沿って何かが駆け上がっるような体感もあるが、痛みなのか悪寒なのか、それともまた別のものなのか。全く分からなかった。
呼吸が浅く繰り返される。次第に瞼が重くなってきた。
手足が冷えている。体内に血が溢れ、足りないのだろう。
始まりは殺害を明記された書きなぐりの文字が海軍の駐屯地へ届けられた事、だった。
天竜人のみが身につけられる特殊な衣類の切れはしと共に、丸められ滲んだ紙を持参した人物が居たのだ。その人物は既にこの世にはいない。事の顛末を知りたがったルナルディ聖に20番にまで呼びつけられ、到着したすぐさまその銃で心臓を打ち抜かれたのだ。
報は受け取った海兵が声を詰まらせながら報告した。
役立たず、気分が最悪である。
悪態をつきながら弾が尽きるまで撃ちつくし、天竜人はさぞすっきりとしたことだろう。しかし感情のまま行なった行為が周囲にどう受け止められているのか、全く考えてはいないのは確かだ。苦悶の表情を浮かべることなく、一撃で意識を失った善意の人物にとってはそれだけが救いだった。
海兵たちは解読が難しいななめくねった文字羅列をどうにかこうにか解き明かし、警戒体制を取るため捜索隊が引き取りを示唆しているだろう無法地帯に現存する場所へ散開する。
黄猿はその状態を親権者であるルナルディ聖にもことごとく伝えなければならなかった。
捜索にあたる多くの海兵にしてみれば、指揮を混乱させる天竜人など邪魔以外のなにものでもない。犯人と接触した唯一の民間人を銃殺したのも忌々しいが、この島全ての海兵をこの男の息子を探し出すためにだけ使えとのたまう。今以上の人員以外、割けない事情がこの島にはある。だがそんな事情など世界貴族は全く考慮に入れてくれないのだ。細かく噛み砕いて説明した上で、そうなのである。
激しい叱咤を受けたのは黄猿だ。それを世間ではやつあたり、という。
ルナルディ聖は息子をなぜひとりで行かせたのだと、海軍関係者をなじった。
7歳にもなったのだから、ひとりで行動する事も覚えなければならない。
お前の好きなようにするが良い、海軍もあれの後を追うな、あれの言うとおり今動けばその海兵に名誉の死を与えてやろう。
デイハルド聖の邪魔をしてくれるな。そう何度も繰り返していたのにも関わらず、だ。
世界貴族は人間を、同じ生き物として見てはいない。
愛玩動物でも、血が通わぬ人形でも無い。
家畜は腹に収まるという栄誉すら得るが、人間はそれ以下だと明言している。言葉が通じない以前の問題だった。
無理に護衛をつけても良かったが、動かすなと言われてしまったならそれまでだ。
黄猿は殺されると分かっていて、それでも部下を死地へ出す、という選択を断じたのも一度や二度では済まない。今回の場合は息子の背が見えなくなるまで、じりじりと動こうとする海軍に向かい銃を、聖だけではなく役人までもが構えていた。
海軍にとって世界貴族の命は絶対だ。反した場合、大将といえども処分は免れない。階級が下であれば尚更だ。生きてこの件が終わりこの島から出航し本部に戻ったとしても、そこで殉職処分が下される。
いつもなら別働隊として動いている班も本隊に合流していたのもあだとなった。
少し間を置き、探して後をつけるよう数名に指示したものの、この広いシャボンディ諸島だ。少人数で事に当たるのは難しい。子供の足であった事だけが幸いであろう。見つけたと報告を受け、追尾させていた。
しかし邪魔が入った。
いつの間にか海兵の後をつけていた役人が幾人かの海兵の肩を叩き、追うのを止めさせたのだ。
己が追うからお前達は必要ない、と。
また都合の悪いこと、は重なるもので、新たな天竜人が今日と言う日にシャボンディにやって来ていた。
黄猿としては目の前にあるルナルディ聖よりも扱いやすい、天竜人と、然(ぜん)としている親子だ。
それが奴隷市から奴隷市へ向かう道程の最中に出くわしてしまった。
「丁度良いところに海兵が居たアマス。そこの海兵。この奴隷は飽きた、ここで引き取るアマス。ふふふ、無理とは言うまいよな。さらば今ここで楽しい余興を催しても良いアマスが、気分が乗らないアマス」
そう言って聖の追跡を行なっていた海兵を全て呼び止め、捜索隊を瓦解させた。この時、デイハルド聖を探している、と口答えしていたならば彼女の余興が現実となりこの場で惨殺が行なわれていただろう。
打った手をことごとく破ったのは天竜人の『存在』だ。
しかしその責めは全て海軍に押しつけられる。海兵達にとって、これが日常茶飯事だった。
この島では海兵は感情を押し殺し、天竜人の御用聞き、手足だ、小間使いだと言われても、その声すら聞こえないふりをしてやり過ごすしかなかった。己の中に生まれる矛盾を押し殺し、蓋を閉めて隠すしか出来なかった。
目の前で公開処罰されている同僚が、まだ年端もいかない子供が体罰を受け、死に瀕していても手を出せない立場に、歯を食いしばっている人員は多かった。中には鼻持ちならない新人の失態にざまあみろ、と影で笑っていた者たちも度を越えてゆくそれに表情を引きつらせ始めていた。死、までは望んでいない。ただ身の程を知り、先んじて海兵となった者を抜かさず順番を待つ程度、の痛みを知ればいい。そう思っていたのだ。
アンはそんな、様々な心の声に痛みも忘れてく興味深い、という感情を抱いていた。
嫌い、と好き、は表裏だ。そして黄猿に直接指導を受けているアンに対し、気に食わない感情と同時に羨ましいという感情が混ざりあい独特な心模様を描き出されていた。
ひたむきに努力するあいつのように俺もなれるだろうか。努力すれば、報われるだろうか。やってみよう、目の前に頑張っている存在がいるではないか。
なぜ自分ではないのか。なぜあいつなのだ。親の七光りを使ってまでその地位に割り込むのか。
人の心とは本当に面白い。
見聞色を得て、アンの世界は広がった。
もしこの能力を生まれ変わる前、あの世界でも使えていたならばもっと上手く、いろんな人たちと付き合っていけたかもしれない。
だが人は今を生きる。
過去は過ぎ去った事実だ。巻き戻すことなど出来ない。しかし、こうして偶に思い出す。
アンにとっては自分が思う以上に、それらは大切な記憶であった。と同時に思い出したくも無い恥ずかしい闇歴史でもあった。
恥ずかしくも苦い、温かくも切ない、もうひとつの記憶と今が重なる。
世界は全て平等では無い。誰かが裕福を堪能していれば、誰かが貧困に喘いでいる。
唯一同じものは時間だけだ。
どうせこの痛みも一過性のものだろう。
だから現在の境遇などどうでもよかった。毎日を、生きている時間を無駄にしないことこそが大切なのだ。
生きているのか死んでいるのか、行方が分からないがサボに、アンが誓った約束だった。
しかしこの傷が完治するには時間を要するだろう、と医療に深く携わっていないアンですらそう思えた。
じくじくと、脳内麻薬で麻痺していた傷口が痛み始めると思い出されたのはなぜかルフィだった。
弟は我慢強い。じっと見て判断を下す。どんな苦境に陥っても、弟は決して自身の境遇を生活環境のせいだと、と逃げ口上には使わなかった。そしてどんな仕打ちをされてもへこたれない不屈さを持っていた。自身の中に絶対的な領域を持っているのだ。
アンが手を差し出しても振り払い、自分の足で立ち上がった。立ち上がってから泣き、アンの腕の中に飛び込んできた。
今更ながらに思い出す。
あの村で弟は、義祖父の手にはすがれなかった。そして村長やマキノに対しても、なついているように見えて、実は最後の一線を跨がせては貰えていなかった。あの村で弟が見せていた笑顔は能面としていた。幼いからといって周囲の状況を察せぬわけも無い。笑顔の裏で、ルフィは全てをふたつに分類していたのだ、と気づいたのはあの島を出てからだった。
自分を中心に広がる円の内側と外側、助けてくれる力とその他のどうでもいい他人、だ。
エースとサボ、そしてアンは嬉しいことにルフィが立つその点の上に縦並びにあった。一番下にエースがあり、その上にサボ、アンが乗って頂にルフィがある。そして助けてくれる数歩外側の円に分類に義祖父やダダン一家、村長やマキノが含まれていた。
確かに村では大勢の大人たちに支えられていただろう。
しかし同年の子供達やそれより上の、そして下の子供達とはいつまで経っても距離が縮まらなかった。
それはなぜか。
両親があってその子がいる。だがルフィには誰もおらず、たった一人だけだ。
羨ましく思わないわけが無い。
弟は誰かの背中をいつも捜していた。繋がれていた手の暖かさを追った。そして見つけた、のだ。エースの背を。
繋がれた手と同じ温かさをその背は待っていた。
どちらも必死だったのだろう。
話せばひとりになってしまう。暗闇の中にぽつんと残される孤独を、ルフィが極端に嫌うのはその経験からだ。最後にひとり残るくらいなら、真っ先に突っ込みにいってしまう。
かわってエースは、といえば。不特定多数の誰かにより全てを否定された続けてきたエースは群れることを嫌ってしまった。最初からひとりであれば、何も変らない。最初からひとりであるのだ。これ以上の孤独は無い。そうしてたったひとり、孤独であろうとだれかれ構わず牙を剥くようになった。
涙を飲み込み、置いていかれまいとした。
心を閉ざし、置いてゆこうとした。
今ならば、もっと深く理解できる。
あのふたりを、残しては逝けない。
掴んだ手のひらの温かさを手放すくらいなら、どんなに体が傷ついても構わない。なぜなら治るからだ。しかし心はそうはいかない。一度挫けると、二度目が怖くなってしまう。手を伸ばそうとして、躊躇し、迷い、失敗したときのことを考えて結局は指が折れたままになってしまうのだ。
その点、ルフィは頑張った。
逃すまいと歯を食いしばった。そして見事、弟は兄と姉を手に入れた。
少年はアンに言ったのだ。
「我が友となれ」と。
だからアンは目を反らさない。真摯な瞳に誓った願いを違わない。
友となる、と約束を交わしたのだ。
海兵としての決まりごとなど、どうでもいい。アンはここに世界を知りに来ただけだ。海兵という職業にこだわりがあるわけではない。アンにとっては友との約束が優先されるべきであった。
その結果がこれ、だ。だから体を痛めすぎたと反省しても、後悔などしていない。折れぬ心に顔を歪ませた天竜人に、してやったり、という気持ちのほうが強いだろう。
この強がりもきっと、そのうち恥ずかしい闇歴史に押し込まないといけないだろうが、別段構わないと思った。
唯一、怒っていいのは兄弟たちだけだ。
もしこの心内を誰かが知ったならば、こう云われるに決まっている。
我を通すな、と。
だがアンはその言葉に、こう返すだろう。
「上手に世を渡って生きたいわけじゃないの。ひねくれながら、太く生きたいと願ってる」と。
だからどうという事でも無いのだ。ただ多少、血が不足し、体内で折れた肋骨がなにかの臓器に突き刺さっている他は。
誰もが動けなかった。
アンが受けている仕打ちは、海兵達にとって理不尽なものだった。
しかし聖にとっては日常であった。家畜よりも劣るそれの命を奪う行為に、意味など見出しはしない。しかもわが息子を、下々民と同じ空気に触れさせたこの下郎が腹立たしかった。どんなに鞭打ったとしても溜飲が下りない。
天竜人には天竜人の矜持があるのだ。
それをこの畜生は破らせた。背に負うのは良い。だがその体に何度触れたのか。
言語道断だった。
屈辱だった。
デイハルドは家に落ちてきた一粒の珠だ。手に入れたとき、ようやく底辺から這い上がれるのだと歓喜した。だが現状を振り返ればどうだ。実の血を引く息子は今の生活に不服はないと、向上心無く遊び呆けている。
選ばれた血筋とはいえ、まだ上があるのだ。手を伸ばせば届くところに頂があるのに、息子は目指そうとしない。正妻も己を飾ることだけに執心で、もっと美しいものを持ってこいと日々ねだってくる。だが手に入る等級も家の格に見合ったもの、であるのだ。頂の一家に黒の真珠が届けられたなら、ルナルディ聖の手には白の小粒が届くだろう。それを不服とするならば、上にあがるための手を貸せ、そう何度伝えても、あなたひとりでするザマス、いつの日かのためにこの身を磨くのが先決ザマスと取り付く暇も無い。
ルナルディ聖にとってデイハルドは一筋の光だった。
それを下々民ごときに汚されてしまった。
選ばれた人である天竜人が穢されたのだ。黙っていろ、と言うほうがおかしいのである。
「よくも、よくも下々民の分際で…!!!」
聖がアンの頭蓋骨を勢いよく踏みつけた。小さな体がしなる。
多くの下々民の如く、同じように泣いて許しを乞うのならばまだ可愛げもあるだろう。しかしこの海兵は銃で四肢を撃っても、鞭を振るわれ肌がうっ血し切れたとしても、声ひとつ上げはしない。
なぜだ!
聖は思い通りにならぬそれに気が苛立っていた。こんなことは初めてだった。どんな我慢強い畜生でも、傷め続けると音を上げた。助けてくれ、なんでもする、だから、と命乞いしてきた。だがこれはなんだ。情けなど求めず、生意気にも聖を見上げ、笑むのだ。
それは聖の知らないものであった。
---------これは危ないものだ。残してはならない。
「人間にしておくのも歯痒い、どうしてくれようかのう」
「……」
頭部をぐりぐりと地面に押しつけるように足を動かしながら、ルナルディ聖は思案する。
戻ってきた末子が奴隷にと望んだのはこの海兵だった。オークションや市でもよい素材を取り出して貰ったにも関わらず、全く見向きもしなかったのにも、だ。何が良いのか全く分からなかった。特にその、反抗的な黒の目が聖には汚らわしく写る。
ああ、なるほど。
太い唇が笑みを形作る。
すぐにでも連れて帰りたい。聖はそう願った息子の機転を評価した。地上であれば世界政府との盟約によってこの下々民を数時間で手放さねばならないだろう。海兵という身分の下々は天竜人がどう足掻いても手に入れられない存在であったからだ。どういう手順を踏むのかは不明だが、今までの慣例からしても聖地に例え持ち込めたとしても数日で返還されている。
だがしかし、その数日で十分であった。
海軍所属者をここで召し上げる前例を作れば、これからの遊戯にも幅が広がろう。
ルナルディ聖は途端に気分を良くした。
頂の家にも恩が売れる算段がついたのだ。
先日、嘆願を押し切られるようにして下さなければならなくなった件があった。それは魚への恩赦だ。それを行なったのは、聖の階級よりもふたつ上の家だ。しかしその恩赦を頂に立つ家が良く思っていないのは承知していた。
家の格を上げる好機であった。この機を逃すまいと黄猿に向かい、今すぐにこの下々民を聖地へ輸送するよう命じようと唇を動かそうとした。
動かそうとして目を見開いた。飛び出てもおかしくないほどの衝撃だった。
「…お父上様、その足を下ろして下さい」
人垣を割り、介抱されていた次代の天竜人が歩みを進めて来た、のだ。優雅に父の前で一礼する。
そしてルナルディ聖は驚愕した。用意しろ、とすぐに命じたはずだった。
なぜならば息子は下々民と同じ空気を吸わないようにするためのシャボンを身につけてはいなかったのだ。それどころか聖地で暮らしているそのままを晒し歩いている。
だが人垣を作っていた海兵はなぜか見とれていた。幼いながらも威厳ある姿に、息を飲む。
「おお…もう体は良いのかえ。清めはまだ済んではいないようだが…許そう、この父に触れることを許してやるえ」
両手を差し出す父に一瞥し、デイハルド聖は道を開けるよう指示する。
「お父上様、これは僕のものです。なにをなさるか」
「そうであるの、そうである。愛しのルナルディ、お前の代わりに"しつけ"をしておったところだ」
汚らしいものを見るように、あからさまに嫌な表情を浮かべる。
しかしその息子は、父の制止も無視し膝を折りアンに触れた。
「ヒィィィィィ、何をなにをするえ!」
息子の所作に気でも触れたかと父は後ずさる。
全く、成すがままにされおって。逃げれば良かったものを。
小さなつぶやきを拾った海兵達が耳を疑う。
「すぐに手当てをして貰う。今しばらく我慢せよ、死ぬな、命を聞き届けぬなら今ここで殺してやろう。どうだアン?」
父の悲鳴すら気にせず、少年は言葉を続ける。
「了解、しました」
弧月を描いた唇から、赤を吐き出した後、アンは優しく微笑む。それは己の身を案じてくれた、聖に対する礼であった。
「認めさせる。案じるな。お前は僕の物だ。心して休め。我が命に備えよ」
半狂乱に近い状態に陥った父に一瞥したデイハルド聖は海軍に命じる。
「勅命だ。この者の命を救え。その灯を消してみろ、今ここにいるお前達全ての命は無いものと思うがいい。さあ、行け!」
身勝手な言い分だった。しかしその言により、海兵達に動く機会が与えられる。
担架に載せられたその横にデイハルド聖が再び歩み寄った。
「これは僕がお祖母様より賜った、大切なものだ。必ず返しに来い」
小さく頷くアンの胸に、身に着けていたビーズアクセサリを置いた。それは天然石で作られ、素朴だが色鮮やかな玉が並んでいる。
「お前が来るまでに、此方は掌握しておこう。聖地へ招待してやる。喜べ」
赤が手につくのも構わず、聖はそれを握らせた。
担架が動き出す。意識の向こう側がえらく騒がしい。呼びかけに応えるのも億劫だった。霞み始めていた目に、大きな手が映った。
付き添いで黄猿が歩いているのだろうか。
握りしめられただろう手のひらには爪が食いこみ、色を変えている場所があった。
「ごめん…なさ…い」
傷を負った内部からの出血により、喀血する。
「ゆっくりやすみなさいねぇ。ちゃんとお仕事したんだよ、偉い偉い」
船から駆け付けた医師が気道を確保しながら、応急処置を施してゆく。どこもかしこも傷だらけだった。体の中も外も、ある意味生きているのがおかしいと言える状態といえる。
「すまん…おれがお前を待てばこんなことには…」
声をかけてきたのは同じ班の仲間だった。
担架に乗せられたアンは鞭打たれていた時と打って変わり、消えてなくなりそうなほど憔悴した様を見せている。あの気丈さはなんだったのか、と思わず首を傾げたくなるような変りようだ。
しかし当のアンにしてみれば、もういい大丈夫だ、と聖の言を受けた後である。気も抜けるだろう。
「気にしちゃ、だめ。約束・・・を、守れて、なっ、無かった、わたしが悪いの」
話は後にしてくれと、軍医が駆け寄った海兵を押しのけた。
「怖いねぇ」
医師達に部下を任せ、残った部下達に振りかえりながら人の悪い笑みを浮かべる。
この短時間の間に一体何があったのか。黄猿は見送る担架を見、次いでその場に残っていた幼き天竜人を見た。
デイハルドはその視線を一瞥すると、
「黄猿、父上の具合が良くないようだ。介抱を許す。一度宿に戻ろうぞ」、とそれだけを告げた。
手に付いたそれを拭うこともせず、多くに傅かれる天竜人が一度だけ背を振り返る。
何があったのか。本来ならば聞き取り調査せねばならない問題であった。が、天竜人のもの、となったらしき少女に詰問などできようも無いし、する必要もなくなるだろう。
ボルサリーノは喉の奥からこみ上げてくる感情を抑えながら、職務を全うする。
「さぁて、キミ達。さっさと後片付けしちゃおうか」
ホテルに戻った後、デイハルドは天竜人が外出する際の姿に戻った。
今以上に父を刺激しないように、との配慮であったが既に限界を突破していたらしい。なんとも低い沸点であるのだろう。
父は息子に向かい、感情のまま叫んだ。それを息子は淡々と受け止める。
そして半狂乱に陥った父に代わり、下々民へ天竜人としての器量を見せたのだと説明した。
「恐怖や権力で平伏させるのは簡単です。ですが獣にも劣る下々民に慈悲を与えるのも世界貴族としての寛容とは思われませんか」
鞭ばかり与えていては、畜生といえ主人に歯向かってくるだろう。聖地ではそうさせないための投薬であるが、ここは下々がひしめく地上である。苦ばかりを与えていては、主としての威厳も損なわれる、とデイハルドは父に囁く。魚への恩赦もそうであったではないか。
実際的に魚によって被害を出していた、世界各地の王達から天竜人への献上船も、とある家紋がある船だけ被害が少なくなっているのだ。天竜人としては不愉快であるが、この行為により下々が心から父を平伏するきかけになるのだ、とも付け加える。
「おお…さすがだえ。愛しいデイハルド」
父は我が子の手を取った。ルナルディ聖が長を務める家は20ある天竜人の中でも底辺に位置している。階級は最低の5だ。世界貴族とひとまとめにされているが、貴族間でもその格による優越と差別があった。
デイハルドがひとりの際に会った人物は階級4の家柄である。なので彼、を追っていた海兵を剥ぎ取ることが出来た、というわけだ。
さらにビーズを渡した理由について、あの海兵を聖地に自ら来させるための道具とするため一芝居をうったのだ、そう肩をすくめれば、なんと頭の良い子だろう。そう言って父は息子を抱きしめた。
これが父であるのか。
なんとも幼稚で他愛の無い。
デイハルドはその腕の向こう側で薄く笑む。たかが7歳児の、必死に考えた言い分を、頭から信じている。
我が養い親ながら、稚拙だ。そう断じるのは人として非常にむなしい行為でもあった。
海軍所属者が任務中に聖地へ召し上げた前例はない。仕事外でこのシャボンディに来ていた海軍所属者を連れて上がった事が何度かあっても、本部や聖地役人からの申請で恩情を出さねばならなかった。
無理に連れてこられた場合、司法に則って返さねばならない。だが自らの足でやって来たならば、そこに留まるとするなら、法には触れないのだ、と父に再度囁いた。
残念ながら父はあの海兵を好いてはいない。だがそれでよかった。好かれてはデイハルドの決心が鈍ってしまうからだ。
その後父の勧めに従い、奴隷を購入した。
聖地マリージョアでは奴隷を所有することが、社交界入りの証となる。
活きのよい奴隷はやはり、オークションに限ると父親の言に黙って頷いていたが、要は巡り合わせだ。小さな人間屋にこそ息を潜めた強者が居る可能性もあるだろうと、半ば遊び感覚で投げたコインが転がった手近な店に入ってみた。
大きな展示用に設えられてた硝子越しに、10ほどの奴隷が陳列されている。その中からデイハルドはひとりを指さした。
「お父上様、これにしても構いませんか」
選んだ種は人で性別は男、名をランという。
「そんな軟弱そうな奴隷でいいのかえ。あれのような大きさや、ほれ、そのメスなど良いと思うがのう」
「初めての奴隷ですから。潰しが利く方がなにかと」
捨て値で売られていた男を引き連れ、聖地へ戻るゴンドラへ乗り込む。
一度背に乗って見ると良い、と言われ、試してみるが座り心地は最悪だった。
わざわざ奴隷に乗ってのろのろと移動する理由が判らない。
悪しき風習と聞いたが、こんなものは邪魔以外の何物でもないだろう。
生まれたときからこれが普通とされていた。疑問や拒絶の感情は無いが、絶対的に必要かと言われたら、そうでもない。
友となった者の背で聞いたいくつもの話は、デイハルドにさまざまな先見を与えた。
世界の体制が根元から崩されてしまえば、真っ先にその憎悪が向けられるのは世界貴族であるのは明白だ。父を初め、マリージョアに住む誰もがこの世がひっくり返るなど、考えた事もないだろう。受け入れ難い事実だが、確かに時が経ちすぎているのだ。胸の中に横たわる危機感を無視するには余りにも条件が揃いすぎていた。
だが聖地は緩慢な怠惰が満ちている。
地上に住む人間達にとっては鬼畜の所業だと言われる行為が横行している場所だが、そういう事までもしなければ退屈過ぎるのだ。世界を支配し続け、それ以上の高みが無い場所に立つという苦痛もある、という事だ。
停滞ほど面白みに欠ける世は無い。だからデイハルドは学問へ逃避した。
しかしデイハルドは世界を転がす最初のひと駒を手に入れた。
ならばせざるを得ないだろう。これからの未来、退屈こそが最大の楽しみと言えるような、過度な時を過ごさねばならなくなるだろうからだ。
デイハルドは奴隷から降りる。
鎖を奴隷の背に乗せ、手ぶらで歩き始めた。
よつんばいの男からなぜ、という声がつぶやかれた。
「生きる目的を失い自暴自棄になっている奴隷には必要無いだろう」
男は天竜人とはいえ、子供に言われるとは思ってもいなかった。
「理解したか。お前に生きる理由を与えてやろう。海原に出たいと願うなら、そうだな、機会もあるだろう。それまで僕を守れ。そうすれば面白いものも見せてやれるだろう」
立て。立って我とは違う目線でこの先を見て知らせよ。
デイハルドは振り返らない。鎖が立てる音が聞こえたからだ。
デイハルドは運命的な出会いを果たした。
何もかもが虚ろで色あせていた世界が、たった数時間のうちに輝かしいまでに彩(あや)なした。
ならばこのまま色鮮やかなまま、初めて自らの物にしたいと欲した存在の為、世界を遊び場とするのも楽しそうだと思ったのだ。
「さて、どれからにするか」
男は見上げる。立て、と命じた自らの主人となった天竜人を見た。
小さな主人だ。多くの投薬によって考えることさえ制限された奴隷は意のままに従う事が多い。
男もそうだ。毎日食べる食餌の中に、飲む水の中に、思考を低下させる薬剤が混ぜられていた。
餓死を選んでも良かっただろう。だが男は死が怖かった。何度試しても最後には餌に口をつけていた。
だから全てを諦めた。願いも望みも、生きることすらも。硝子の向こう側を見ながら、このまま朽ちても構わないと思い込んだ。
実際、あと数日でそうなっていただろう。
底値になった奴隷はとある施設に送られ人体実験の材料とされるのだと、店主自ら語るからだ。
売れ残らないように、お客様にせいぜい媚を売るんだな。そうしなければ、本当に豚の餌ににされちまうぜ?
耳の奥で店主の声が繰り返される。だが男は外に出た。
運命というものがあるならば、こういうことをいうのだろうか。
どこにでもお供しましょう。望まれる目ともなりましょう。この命は、主に捧げます。
自然と男は頭を垂れ傅(かしず)いた。