聞いたことの無い時計の音で目を覚ました。
振り子が揺れ、時が刻まれてゆく。
ここはどこだろう、と周りを見ませば月明かりに照らし出された室内が見えた。
簡素な部屋だ。必要最小限の物が、ベット周りを中心に手の届く範囲、もしくはほんの少し動いただけで届くように配置されている。
服は…着替えられていた。タンクトップとスパッツという軽装だ。
はて、こんな服持ってたかと首を傾げても、鞄の中に入れて来たのはマキノが作ってくれたTシャツとズボン、ブラウスとスカートとの2組だけしか入れた記憶は無い。
昨日着ていた手作りの海兵服の末路を思い出せば、ため息しか出てこなかった。きっと血糊の関係ですさまじい結果となっているに違いないからだ。
血まみれになるのは、随分と久し振りだった。アンは両手を広げ、視線を落とす。
寝ている間にお風呂も入れられたのだろう。体からほのかに良い香りがしていた。
ふと横を見ればベットには見知らぬ男性が、横たわっている。
向こう側を向いて寝ているため、直接顔は見えない。だが、全く知らない相手では…なかった。かつて一度だけドーン島を訪れ会ったことがある人物だ。周囲には居ない、長身で特徴的な人物だったため、覚えている。
ため息がひとつ、薄闇の中に生まれる。
いつもとは違っていたのは認めよう。
しかし状況が状況だったのだ、としても、随分とまずいことをしてしまったのではないだろうか。と思う。
自身のありさまを思い出せば、たぶんではなくほぼ確実に、横で寝ている男にしがみついたまま運ばれたのだろう。
記憶を手繰(たぐ)り寄せ手で顔を覆った。あれごときで意識を失ってしまうとは、情けない。想像も予想もしていたはずだ。なのに最悪の事態に陥っている。きっと義祖父は落胆しているだろう。最初から期待されている、とは思っていない。アンやエースに海兵になれと強く勧めてくるのは、双子の父、ロジャーの後を追わせない様にしたいのだ。それに世間から上手く隠してはいるが、身内からこれ以上、世界政府に楯突く人物が総出振るのだけは阻止したいのだろう。
頬が熱い。
これは多分にアンの過剰だ。分かっている。
ベットがきしんだ。いつの間にかアイマスクを上げた男がこちらを見ていた。
「…眠れないのか」
「あ、えと」
アンはなぜかそこに正座して姿勢を正した。スプリングがよく効いたそれがやわらかくたわむ。
「おいおい、知らない仲でもないだろうに。そんなに緊張されると困っちまうんだがなァ」
男の言に最初、首を傾げる。確かに全くの見知らぬ他人同士ではないが、それでも数年ぶりなのだ。適度な距離を保っての挨拶から始めて欲しいのが本音だった。
とりあえず、自己紹介、乙?
突っ込みどころは幾つかあったが、まずは、と丁寧に礼を伝えた。
男とアンでは年の差がふた周りも違う。対象にはならないだろうが、予防線を引いておいたほうが安全ではあるだろう。
叫び取り乱すよりも、華麗にスルーするほうがいいときが、男女関係ではあるのだ。
「…それにしても、ガープ中将がよくわたしの身柄を引き取りにきませんでしたね」
「ああ」
男がけだるそうに仰向けに転がった。
「おれはガープさんに世話になってる。知ってるだろうが、先生と生徒の関係でね」
少なくとも、その師匠の大切なものには手を出さない程度に、道徳心くらいは持ってるつもりなんだが。
視線だけをこちらに投げてくる男にアンはにこりと笑み、それを回答とする。
しかし男はそれを子供時代独自の天真爛漫さだとは捉えなかった。
子供らしくない。
この時、男は直にそう思った。
この年で海兵として軍に入るのだ。祖父であるガープを階級を含め呼ぶのは規律ではあるが、起きたばかりのこの状態で判断できるのは稀だろう。この時分であれば「おじいちゃん」が妥当ではないだろうか。
それに余りにも熟しすぎている気がした。自分のの11歳を振り返れば、はっきり言って人に語れるものではない。生きる為に必死だったとはいえ、誰かに対していつも害を与えていた。
あの環境で育ったからか、あるいはこの年齢にして悟ったか。
どちらにしても『子供』という範疇には収まらないだろう、そう判断できた。そして取り扱いの難しい存在であるとも己の中で付け加える。
「それに、ガープさん。なにやら元帥と殴り合ってたようだし」
「は?」
これには思わず声が出た。
なぜ殴りあう。もしかしなくともふたりの関係には肉体言語が絡むのだろうか。
確かに義祖父は肉体言語派だ。ルフィとの会話も拳骨から始まることが多かった。
最初から痛みを覚えさせられた成果だろうか。成果だとは思いたくは無いが、弟は自分から好んで、村の子に対しても手を出したことは無い。
それだけ、に関しては義祖父に感謝してもいいが、ここでもそれが基本なのかと、少々先が思いやられる気がした。
そして今聞いた、元帥という肩書き。
それはこの本部においての最高責任者だ。
そしてその元帥、とは昼間にあったあの人物に違いない、と思った。
男が語った仏のセンゴクというふたつ名に、かすかな違和感を感じながら、アンは窓の外に視線を投げる。
月が丸かった。
静かな群青色の中に白だけではない光がその周囲に散らばっている。
波にゆれ単独で進む海軍の船の上で見たものよりも、ほんの少し薄い。
それは人が暮らす町がある故だ。人が集うと光もまた必要とされ灯る。
フーシャ村やダダンの家は地上よりも空のほうが明るかったくらいだ。満月であれば夜であっても森を渡っていけた。
山の中腹にある一家からは、堅牢な闇の向こう側に光が上に昇るよう漏れていただけだ。
「夜明けは冷える」
聞こえたのは声と衣すれだった。
ぽかりと開いた場所を男がぽんぽんと叩く。それはまるで小動物を呼ぶかのような仕草だ。
ここへおいで。そう誘われている。
夜気が冷たく肌を刺した。ぶるり、と体が震える。
アンは遠慮がちに、指定された場所へ移動した。
冬ともなれば雪が降るドーン島では、寒さをしのぐため、兄弟共に熱を分け合うようにして眠るのだ。
遠慮がちに指定された場所に転がれば、暖かな布団が肩に掛けられた。猫のように丸くなり、ぎりぎり肌触れぬ距離を保って息を潜めた。
「おれは睡眠が浅いんだ。ゆっくり眠るといい…日が昇ったら起こすよ」
それは手を出さない宣言と受け取ってもよいものか、判断に迷う言葉だった。
しかし体はまだ、眠りを欲している。
眠りが浅いのは辛いね。
つぶやきが声になったかどうかは定かではない。しかし温かさがまどろみに変ったのは確かだった。
眠りの最中、アンは記憶を整理する。
始まりは赤だ。炎よりも深い紅から、静かな青へと秒針が進むまでの、おぼろげな時を振り返る。
紅が大きく広がっていた。ぽたり、ぽたりと滴が黒髪から落ち、波紋を生み出している。
人間の平均的な大きさを男女共通で170としても、アンが首を落とした男は優に200を超えていた。
アンの身長の約2倍、その体の中に流れていたものが出口を得てこぼれ出ているのだ。
体重60kgの成人で約4000mlの血液を全身を流れている。それが全て外部へ出ようとしているのだ。血溜まりにもなろう。
アンは紅の中にあった男の頭を持ち上げる。重かった。
開いていた瞼を濡れた手で閉じると、周囲を見回す。
多くがアンを見ていた。幼い姿が鉄錆びの臭いの中心に立っている。それは異常な光景といえるはずだ。
だがそれをだれも異様としなかった。戦場独特の高揚感が、その場に満ちていたからだ。
恐怖よりも興奮が横たわっている。
瞳を反らさず、アンは全てを見た。見て自分の行いを自身に焼き付ける。
一拍の後、歓声が上がった。硬直から解けたのだろう。
アンは何事も発さず、歓喜の声が渦巻く場所から一瞬にして姿をかき消した。
わき上がっていた声が再び静まり返る。
そして出た声のひとつ、が能力者、のつぶやきだった。悪魔の実を食している、それだけでこの海軍では将校までの道筋がつけられていると言っても過言ではない。
そして名も知らぬ若すぎる海兵が誰なのか、疑問の声が上がった。
少女と一緒に訓練場から駆けつけてきた誰もが知らない。どこの子だったのか。詮索が始まろうとした頃、どこぞに隠れていた将校たちが指示し始める。少女が誰であるかを調べるのは後回しとされたが、ただひとつ、確実に言えるのは、そこに居た幾人の末端が抱く漠然とした、海兵として生きるうえでの恐怖をあらかた払拭してしまっていた、という事だ。
誰もが一度は目指すだろう、正義の味方。
名も告げず、正しい行いをし、無言で去ってゆく。
それが目の前で展開されたのだ。もしかすれば自分も、と望みを持った幾人かが確実にあったのだ。
そしてまた、恐怖も同時に生まれた。嫉妬も然り、だ。幼い子供の皮を被った悪魔。そう影で囁かれ続ける。
本部内でそのような心理が動いているとは露知らず、姿を消した少女はその身を空へ躍らせていた。
願ったのはここではないどこか。けれどこの島の内部、海に接するところ。
他人から見れば、きっと、これは偽善にうつるだろう。
アンはそう思いながらも、そうしたい、と願った行動を止められなかった。
海でしか生きられないと言っていた。仲間は全て海で散り、自分だけが生き残った。海へ、帰りたい。
ならばせめて、この頭部だけでも死に場所と望んでいた海へ、願わくば故郷の海まで流れつけばいいと思ったのだ。
転移した場所は義祖父や仲良くなった船員たちと降りた中央の湾内ではなく、そこから随分と離れた外輪だ。この島で住む軍関係者が暮らす街並みからも十分に離れている。中央から出入りする船が良く見えた。この外輪にも有事の際には船を係留するのだろう。船を留め置くふ頭にもなるよう、簡易施設が見える。
アンは手にしていた頭部を小波が打ち付ける向こう側へと投げた。最初は波間を漂っていた頭部だが、次第に外洋へ流れる潮に乗ったのか、ゆっくり遠のいてゆく。海に届けて、と願った時、何かが体を通過していった。声では無く意思、とでもいうのだろうか。
大丈夫、きっと彼は故郷の海に戻れる。確信めいた何かが、ほんの少し少し心を温めた。
これから始まるだろう日々に、今日のような事があり続けるだろう。
海軍旗を掲げている船に乗る以上、海賊船を見つければ殲滅、拿捕は当たり前となる。
世界は、少なくとも人間が形成する社会では、海賊が絶対的な悪だった。中にはシャンクスのような良い海賊も中にはいるだろう。しかしそれは一部だけだ。100あって1あるかどうかという確立に違いない。
海軍はそんな海賊たちと日々戦っている。
海軍と出会った海賊は攻撃に対し死に物狂いで応戦してくるだろう。死にたくないからだ。
海軍側とて無駄な死傷者は出したくは無い。生きる為に血路を見出そうとする、極限状態の集団に手加減など出来ようはずも無かった。
人が人を裁く為に、人が人を殺める。
そう時間は掛からない。両手が真っ赤に染まっても、気にもしない日々がやってくるだろう。
修羅の道、といえばそうだ。
もうひとりの自分とも言える、エースが海賊になると言い、それを止められない時点で未来への選択は限られてくる。
突き進もうとしているのは、茨の道なのだ。覚悟は、終わった。
アンにはここに来た目的がある。エースと共に、海原へ出るのだ。だから足手まといにならぬ為の力を得に来た。止めたい未来がある。それを阻止するまで、なにがなんでも死ぬわけにはいかなかった。
「……今頃になって」
体が小刻みに震えていた。
しばしの刻を置き、心に体が追いついたのだ。
己が行なった行為を正当化するつもりはない。確かに奪った、のだ。
罪悪感を投げ捨てた。躊躇いも破り捨てた。
アンの中で、何かが淡々としていた。
森でたくさんの命を狩っていたからだろうか。それに対し、答えは否、だった。
落ち込んでいるわけではなかった。行為を悔やみ、嘆いているわけでもない。
ではコレはなんであるのだろう。
喜びであるのか。そんなはずは無い。即座に否定する。命を奪っておきながら、歓喜するなどもっての外だ。
昔ドラマで殺人を犯した人が血がべったりとついた手を見て、狂気の叫びを上げていたシーンを思い出す。その後、胸を押さえて、犯人がおう吐していた。
自身にその兆候はない。
なんだか他人事のようだった。
紛争が世界のどこかで起きていて、緊張が高まって来たと報道が伝えても、どこか遠い世界で起きている自分には関係の無いと意識を反らせる話とよく似ている。戦争の写真展に行き、悲惨さを目にしても、その後、友達と平気でレストランに行き食事をしていた、そんな感じだ。
ああそうか。
ゴアの貴族達も、ごみ山の事を、こういう感じにしか思っていなかったんだ。
他人の身に起こっている間は、どんなことでも陳腐にしか見えない。
こうして該当者側になってみて初めて隔たりを知るのだ。
チリリン。
聞こえてきた自転車の鐘にどこからだろうと視線を揺らす。きらきらと輝く青の中をを自転車が走っていた。思わず凝視する。
すごい!
その姿を見た素直な感想がそれだった。
器用にタイヤが通る部分だけが凍り、車輪を走らせている。
堤防も兼ねているその場に座り、アンは自転車を見ていた。海の上を走れる、便利な機能を持つ自転車を借りられるなら、気晴らしにポタリングしてもいいかもしれない。そんな事を考えながら、空を見上げた。
海と同じ色をした空には、真っ白な雲が浮かんでいる。
今の状況だけを切り取れば、穏やかな午後をのんびりと過ごしているようにも見えるが、姿が姿だ。服に染み込んだ朱も乾いて酸化し、黒く変色しはじめている。
歩いて戻るのが億劫だった。
行き先も告げずひとり勝手に飛んだ先で、義祖父に迎えに来て欲しいなどわがまま以外の何ものでもないが、まさしく指先すら動かすのも面倒だ、と思えるほど体が憔悴しきっていた。
耳を澄ませば波の音の狭間に、ざわめきが挟まれる。方向からして本部のほうだろうか。また、何かが起きたと考えるのが妥当だが、行くという選択肢が現れなかった。引きずって行って貰ってもいい。とにかく動きたくなかったのだ。
「…あらら。こんな所に誰がいるのかと思えば…えーと誰だったっけ」
自転車を止め、男がゆっくりとこちらに歩いてくる。
海から堤防までの絶壁もなんのその、氷の坂道を作り登って来たらしい。なぜすべりおちなかったのはさておき、自然系の能力者だと気付いた。男はアンの傍に暫く立っていたが、数分しないうちに疲れたと、その場に横たわる。
陽気はぽかぽかと暖かい。
レジャーシートを敷き、お弁当やお茶を持って魚釣りでもしていたなら、どんなに良い一日と思えただろう。
ため息がアンの許し無く発生する。
「…心の整理は…つきそうかい」
初めて、だったんだろう。そう男の声が背から聞こえてきた。
男には関係の無い話だろう。しかしアンはむか、とした。言葉が荒立つ。
「…だったら、どうだっていうんですか」
「どうも…ならねぇはなァ」
そう、どうにもならない。もうすでに命を貰ってしまった後なのだ。戻す事は出来ない。
「ちょいとこっち向きなさい」
少し首を動かして後ろを伺うと、男がじっとこちらを見ていた。
バツが悪かった。誰に言われなくとも分かっている。自分自身が行なったことであるのに、初めから終わりまで納得が出来なくて、膨れているだけなのだ。
出来るならば放っておいてほしい。そっとしておいて欲しい。
方向を変えると、大きな手が頭を掴んだ。そのまま男の胸に顔が押し付けられる。
「なにすんの!!」
力任せに両腕を張り、密着を阻止して顔を上げる。
「気を張るのも疲れるもんなんだ。…ちょっとは休みなさい。胸くらいは貸してやるから」
知っているのだ。この人は知っている。
アンはほんの少し、腕の力を緩めた。
心の中に沸いてくる、この理不尽さを、この人は知っている。そして何があったのか。それすらも知っている。
だから尋ねてきたのだ。心の整理はつきそうか、と。
ああ、と思う。
はやりあの騒ぎは、予定されていたものであったのだ、と。
そうでなければおかしすぎるのだ。ここは世界に散らばる全ての海兵を取り仕切る本部である。
アンでは全く歯が立たない、実力を持つ猛者たちが駐屯していないはずが無い。
あの命は、当て馬にされたのだ。
歯がゆかった。
それと同時に、どうにも出来ない無力さが腹立たしかった。
本物の英雄(ヒーロー)であれば、颯爽と仕組まれた対戦を見破り、ある意味見世物を作り上げた誰かに対して高々に宣言するだろう。
「お前たちの計画など、お見通しなのだ!」と。
しかしアンはそれが出来なかった。やろうと思っても、出来ること、でもない。
もどかしくて、悲しかった。
「泣け。ここにいるのはオレとお前だけだ」
男は心に溜まる鬱屈(うっくつ)の厄介さをこれでもか、というほど身にしみて理解している。
肩を並べた幾人もの仲間が、それによってひとり、ふたりと脱落しその背を見送ってきた。自身もそうだ。
少女に会うのはこれで2度目となる。
今でこそダラけきった正義を掲げる男であるが、以前は燃え上がる正義を信条としていた。
とある事柄による親友の死を引きずり続けていた男を気遣い、ある時、先生であるガープが里帰りの際、生徒であるクザンを誘ったのだ。絶対的正義に疑問を持っていた当時、その申し出は一条の光ともいえた。
軍務ではない船旅は初心を思い出させ、正義の意味を深く考える機会となったのだ。信念の方向性を変えられたのはこの旅があったからに他ならない。
そして出会った少女に深い感銘を受けたのだ。悩みを打ち明けたのではない。たわいない会話だった。
だが少女が可愛らしく首をかしげ、真面目な顔をして言った。
「それって、ひとつでないと駄目なのかしら」
ほかに並ぶものがないもの、何事にも比較されないこと、対立を絶した存在を絶対、と証する。
しかし物事ひとつ取り上げても、人によって解釈が違う。音によっても意味が違ってくる。
クザンは目から鱗が落ちた気分だった。物事を多方面から見られるようになっているにも拘らず、決められた一方方向からのみを頑なに見続けていたのだと気づかされたのだ。
変えてはならないのではない。縛られず変りながら、状況にあった判断を下す。その基本となるのが己の中にある正義だ。人々を守りたいという良心だ。
そのきっかけをくれた少女が、今にも海へ身を投げ出そうとしているように見えた。
儚かった。今にも消えてなくなりそうな幻に似ていた。
本部がガープの孫娘に資質を問う試験を用意しているのは知っていた。
用意されたのは獣であったはずだ。敵に向かい立ち向かえる勇気と、その判断力などを見る為に用意したものを使ったのではなかったのか。
酷なことをする。
クザンはちらりと本部の建物に視線を向けた。
幾ら人手不足とはいえ、幼い少女に行なう仕打ちではない。ただ裏を返せば、それだけ多くに期待されているのだろう。
人事が許すなら、引取りを希望していた。
指導者としては敬意を払えるが、親としての資質はゼロに近かったからだ。
自分の身の上もそう変らなかったがしかし、放置も甚だしい状況だった。家を持たず、独身であるクザンに口出しは出来なかったが、村人の好意が無ければ立ち行かない生活を幼子達はしていたのだ。
くぐもった声が聞こえ始めた。
涙は心を洗う役目も持っている。男とは違い女は感受性が強い生き物だ。理性よりも感情を優先する。
しかしこの幼子は男の考えに近いものを持っていた。
それはまるで、成長し社会の理不尽に触れ、どう道筋をつければ上手く事が運んでいくか、を模索しているようにも思える。
全てを生活環境に絡めるわけではないが、変った毛色をしているのは間違いない。
泣いてもいい。声が静かに降ってきたのを境に、目頭が熱くなり始めた。
初めて命を奪ったとき、傍らに居てくれたのはエースだ。
温かな体をしていた。息を止め、その皮を剥いだ。どこに刃を入れていいか分からず、あっという間に体に血がまとわりついた。それでもアンはエースと共に肉の塊を取り出した。
死後硬直が始まった肉は硬く、ゴムのようでまずかった。しかしそれを吐き出すこともしなかった。
双子が生きる為に奪った命だ。それを咀嚼し、己の肉に変えねば殺した意味がなかった。無駄な死、にはしたくなかったのだ。
不確かな物の終着駅(グレイターミナル)で多くの物言わぬ屍が転がっていた。
淘汰されただけ。運が無かっただけだ。
そこに居を構える命はそう言って諦める。そうしなければ生きていけなかった。捨てられた地とはいえ、そこには人の営みがあり、関わりがあったからだ。
あふれ出た流れはそのままに、声だけは出すまいと必死にこらえる。
男に死を与えたのはアンだ。他の誰でもない。奪ったのはアンなのだ。
これから無差別に命を奪う事もあるだろう。対峙して、望まぬ命も狩るだろう。
正義の名のもとに、死を下す組織が海軍だ。お墨付きを貰っている、死への送り人と言っても過言ではない。
うぬぼれでもいい。
イザドーという男は、アンであったからこそその命を差し出したのだと。そう思うことにした。
そして泣き疲れ、そのまま意識を落とし。
そして朝に至る。
勝手に使っても良いと言われたカッターシャツの腕をまくり、ボタンを止め、膝の辺りで結んで簡易のワンピースのようにして立つは台所だった。
しょうゆがあり、冷蔵庫にコンロまでもが完備だ。
義祖父の部屋ではあえて無視したが、生活必需設備が揃っている。ただそれだけのこと、が嬉しかった。これを夢見る心地と言う以外に、なんと言うのだろう。
アンは両手を握り、誰にともなくありがとう、と何度も叫びたい気分だった。
原始的な生活が基本にあれば、どこでもサバイバルが可能ではある。
しかし。世界の文化レベルが歪(いびつ)でおかしいとしても、この感動はひとしおだった。
酢も塩もある。
冷蔵庫の中には少々しおれてはいるが、レタスも丸ごと鎮座し、卵も紙袋の中に山盛りにある。
この大量の卵をどうやって食べているのかと聞けば、ジョッキに割り入れ、毎朝飲んでいるという。
一緒に飲むかと言われたが、昨日のお礼もあるから朝食を作らせてほしいと願い、立った。
「さて、久々に腕を振るいましょうか」
朝になれば起こして貰える約束をしていたはずが、どうにも寝心地が良かったらしい。両名共に飛び起きた時にはすっかり明るくなっていた。出勤の時間を聞くと、残るは1時間余りだと言った。アンは手際良く料理を作ってゆく。
冷凍庫で凍っていたパンにバターを塗りチーズを乗せトースターへ。ハムは重ねフライパンの上へ、両面に小麦色がつけばその上に卵を落としてふたをした。レタスはぬるいお湯につけておき、しゃきしゃきとした触感に戻せばあとはちぎるだけとなる。コーヒーが好みだと言っていたので、豆を引きコーヒーメーカーへセットすれば終わりは間近だ。
電力が何処から供給されているとか、誰が機械を作ったとかはもう、面倒なので考えない。
存在している恩恵を、素直に受け入れることに、する。
大きめの皿にパンを半分に切ったものと、ハムエッグ、野菜を添えて出来上がりだ。
冷凍庫に牛乳までが凍らされていたのには目が点になったが、何かに使うのだろうか。見なかった事にした。
食卓用のテーブルに醤油さし、即席マヨネーズ、それぞれの皿とコーヒーを置けば完成だ。
兄弟たちであれば、前菜にしかならないが普通サイズの胃の持ち主であれば、これくらいで大丈夫だろう。
アンはささっと後片付けをし、隣の部屋で転がり続ける男を呼びに行く。
「出来ましたよー、えっと…」
青雉と呼ばれる男の名は、余り表へ出ない。二文字のふたつ名はコードネームだ。歴代を遡っても、色と動物を組み合わせたそれを冠とする。
「……名前、そういや言ってなかったな」
のっそりと現れた長身が本名を放ちながら席につく。
クザン。そう呼べばいい。
言われ、それはなんと言う名の地雷なのかとアンは無言で訴える。
海軍本部最高戦力の一角である総監を呼び捨てなど出来るはずもない。だが押し切られてしまった。
一夜とはいえベッドを共にしたのに、名を呼び合えないとはいかがなものか、と権すらちらつかせながら迫られては頷くしかなかったのだ。
心の片隅では、ほんの少しだけだが、この申し出が有り難かった。なぜなら義祖父以外の庇護者が出来た、とも受け取れる。ガープ中将はどちらかといえば破天荒な御仁だ。共に戦った戦友とはいえ、センゴク元帥とガチバトルを行なうなど普通は考えないだろう。
味方が多いに越したことはない。少なくとも英雄の孫という肩書きはそれだけでやっかみを生みかねないからだ。親の七光りだと卑下もされるだろう。負けるつもりは無い。無いが身を守る為に予防線を張っておくほうが、何かと後々が楽になるのだ。そしてさっさと実力をつけ、相手がぐうの音も出せないほどの地位まで駆け上がればいい。
アンも座席に座り、パンにかじりつく。
両者無言で朝食を終えた後、アンは後片付けを行なった。
そして血濡れの制服の在りかを聞き、そっとその場へ足を運ぶ。
「やっぱり、だめっぽいな」
洗剤に浸してもらっていたとはいえ、手作りしてもらった制服はすっかり血で汚れていた。
この染みはちょっとやそっとでは落ちないだろう。染み抜きを試みてもよいが、経験上、どれだけ洗濯を重ねても、生地が痛んで着れなくなる確率のほうが高い。残念ながらこの制服は処分せざるをえなかった。
元の白に戻らない。まるでこれからの未来のようだと、アンは苦笑した。
となれば、問題はどうやって義祖父の下へ帰るか、になる。
制服が無ければ本部に入れないだろう。今身につけている服では、入り口で追い返されかねない。
それともあれか。月歩で義祖父の執務室まで駆け上がればいいのか。
「なにしてんの」
服を目の前に思考を続けていたアンの背に、クザンの声がかかる。
「どうやって帰ろうかと」
「心配しなくていい。ちゃんと抱いてってやるから」
「……え?」
アンは言葉を失った。恐れ多くももう一度、と聞き返してしまったくらいだ。
そこまでして貰うのは気が引けると言えば、ついでだ、と言い捨てられてしまう。
どうせ行き先は一緒なのだ。言うことを聞け、と。
クザンの発言は、間違ってはいない。ただ受け取り方を間違えると、とんでもないこと、になりかねない。
本人はまったく気にしていないようだが、アンとしては十分に警鐘物件ものだった。
だが。しかし。
言い訳を考えるが、事実、靴すらない状態でどうやって歩けるのか。素足で道を行き、怪我をしない保証は無いのだ。
いつもの義祖父のように、無理矢理であれば嫌だ、と否定も出来る。しかもクザンのように明確な理由を示されてしまったなら、断りきれなかった。
どうもこの人物との相性がよいのか悪いのか、判断をしかねた。
結果、数十分後の未来、どこにも逃げる場所が無いと知っているにも関わらず、肩に担がれ、海軍本部の最高権力者の前に放り出される事、となる。