風音が空を切る。一筋の光が、軌跡を残して円を描いた。間一髪で避けた刃筋はすぐに目の前に迫っては通りすぎてゆく。何とか回避し続けるものの、いつ切っ先が追い付いてくるか、わからない。冷たい汗が背を伝った。しかしアンが浮かべる表情は笑みであり、周囲から見れば切迫した状況下にも拘らず、どこか涼しい顔をしているように見えた。
その実内心はばくばくと心臓が鼓動を速めており、余裕などありはしなかった。
これが"偉大なる航海(グランドライン)"の、将校と呼ばれる人達の力なのだ。と示威されているかのようだ。世界には猛者が、至る所に在る。改めて思い知らされる。
「っ、」
アンは前方に受け身を取り、刃筋をかわした。体を丸め剣士の後方に回り込むと振り向きざまに足を振る。
(無理、届かない)
アンがそう幅を読んだ通り、リーチの差を見て取った剣士が間合いを開ける。そして次の瞬間には肉薄してきた。その切っ先は紛れも無く、首筋に流れる動脈を的としている。アンとしてもここで切り破られる訳にはいかない。後方に身を引く。が、それは剣士にとってあらかじめ予想されていた動きだった。平らに構えていた剣をそのまま薙ぐ。
(…左右に避けるしか)
ない。
しかし剣士の思惑に乗り気でない無いアンは、そのまま下半身をわざと滑らせ、体を斜めに滑らせる。視線は剣士を見たままだ。そしてちらりと右へと動かす。
剣士はそれをフェイントとした。薙いだ剣先を下方に向ける為、遠心力を借りそのまま振り下ろす。
その数秒間を使わぬ理由など無い。相手のくるぶしへと思いっきり蹴りを叩きいれたのだ。
剣士は前方に吹き飛ぶ。
剣は空を数回くるくると舞い、甲板へと突き刺さった。
だが剣士も伊達に何度も死線を潜り抜けて来てはいない。置かれたままになっていたロープを手に取り、たゆみを取りながらアンへ向かい放った。簡易の鞭であり、視野を狭める障害物にもなる。
アンも立ち位置を把握し、視線の中に入ってくる異物を振り払う。だがその間に剣士は立ち上がり身を低く駆け出していた。
動きがどの野生動物とも違っていた。尋常では無く早い。確実に急所だけを狙ってくる。鋭い刃が何度肌に迫ってきたか数える暇も無かった。
義祖父は木刀での訓練を許さなかった。既に海に出ているのだ。海賊船に遭遇する可能性も高い。ならば実戦に近い訓練をした方がよいだろうと、真剣を使っての模擬となっていた。
状況は見ての通り、アンに分が悪い。
(けれど…)
アンは参った、とは言うつもりが無かった。
何のために兄弟達から離れて、ひとり船に乗ったのか分からない。こんな所で躓いている訳にはいかないのだ。
半身の構えを取る。体は自然体のまま相手を見据えた。そして格闘戦が開始される。
「なかなかのものですね」
「…わしの孫じゃからな」
広い甲板を見渡せる特等席で、ガープは孫娘を見ていた。さすがに山で育っただけの事はあり、先を読ませない動きに柔軟性を感じさせる。何かの流派を手本としているのか、それとも自然と手に入れたのか、変化に富んだ手数には技を見ることが出来た。
先だっての休日に教えた六式の基礎もしっかりと守っている。そこからどう昇華させていくか、が楽しみだった。
これはもしかすれば…もしかするのう。
あやつも無理に連れてくるべきじゃったか。
11歳になったばかりの少女は乗り込んだ初日から、下士官達の訓練に紛れ込んだ。
雑用をこなす下士官達の中に潜り込み、洗い方を教わりながら要領よく、いつももより早く終わらせてしまったという。その後は下士官達が行う体力づくりだ。地味な訓練は誰もが嫌がる。しかし今日は1時間も早い開始だったと聞いていた。その後の終了も時間がおし、上官がわざわざ終わりを宣言したくらいだ。それなのに誰もがもう少し続けてもいいという言が飛び出、なぜか疲れ顔をした者達はひとりもいなかったという。
ガープは書類仕事を終え、副官からの報告を受けた際、方眉を上げた。
禁じはしなかったが、初日でそこまで潜り込むとは思っていなかったのだ。それと同時に、孫娘なら少しもおかしくは無い、とも考えた。これがもうひとりであれば、馴染むというより反発を繰り返し、剣呑な空気が生まれていたに違いない。
そして夕食の鐘が鳴る頃、ガープはその様子を覗きに食堂へと足を向けた。
既に孫娘は海軍への入隊が決まっている。迎えに来る前に先だって、総務へその書類を提出してきた。だが正式に、海軍本部の海兵になるには、本人が本部で朱印を押さねばならない。それに幾人かの同期から、是非会わせてくれとの面会希望まである。
ガープ中将のお孫さん。
『中将』という役職は少なからず、家族にも影響を及ぼす。
親の権力を笠に、傍若無人に振る舞う輩も決して少なくはないからだ。
これは心配、はない。懸念だろうか。
人の中にあってこそその本質が現れ始めている。島では見られなかった、かつての好敵手そのままの雰囲気を感じ取ったのだ。誰もが惹かれて止まない、その豪胆さと懐の広さ。出会う場所が違っていたならば、友になっていただろう。
それに加え、この船に乗った後、船長室で真正面切りにっこりと、孫娘からダメダシをを喰らわされた身としては少々、気になっていたのだ。環境としては余り良い場所で育ったとは言い難い。ダダンは山賊身を貶めてしまったが実の所、情に厚く気立てが良いのだ。生まれながらにして逆境の中にあったふたりには、とにかく親とは同じ方向に向いて欲しくは無かった。だからこそ最も安全で世界政府の目にも触れにくいゴアで、環境を反面教師として理不尽な物事に対し、毅然とした態度を取れるよう導いたつもりだった。
双子の父と赤毛の女性、ルージュは子供たちの成長を見ることなく先立った。
それは双子の、特にエースの心には暗い影を落としている。父の名を知り、父の名を罵倒され、暴力を振るったのだ。誰しも親が、顔を知らなかったとしても、だ。貶められていたなら、表現できない怒りが湧いても仕方が無いだろう。
だがそれが世界だ。
だがそれが父親であるロジャーが成した事実だ。
しかしその行為を子が、引き継がねばならない訳もない。
島に戻り成長を確かめる度、アンはエースと違って最初から落ちついた気性をしていた。物事を客観的に捉え、自分自身と切り離して判断する。逸材だった。
とはいえその身をすぐに海軍本部があるマリンフォードに連れて行く訳には行かなかったのだ。ロジャーが最後に発言した内容に関し、世界政府が過剰反応を起こしたためだ。海軍を使い、徹底的にロジャーの痕跡を探らせ、洗いざらい暴露させていた最中だった。
(よもやアンがエースより内に秘めた怒気が強いとは思わなんだな)
逆鱗に触れなければどうというものではない。
だが一度でもそれに触ればどうなるか。子は親の背を見て育つと言うが、全く以てよく似ている。
しかしその怒りは、孫娘の禁忌、に触れてしまった時、だけだ。
平常の孫娘は聞きわけが良く、まじめで朗らかな子供だった。元々の人懐っこさも幸いして、ほんの数日で新しい環境にも馴染むだろう。そう予想していた。この船にあるのはなにも好意だけではない。無関心も含まれていた。
中将の孫である、と意識しない代わりに、アンに対してもなにも無い。ただの人であり、そこら辺に転がっている小石と変わらない。そんな者もこの船に乗っている。
しかし孫娘はそんな人物達の中にさえ飛び込みそして溶け込んだ。凄まじい適応能力と言わざるを得ないだろう。そしていつの間にか、アンの周りには人が自然に集まるようになっていた。
「アン、六式を使ってみい…!!」
周囲からざわめきが起こった。後方に立つ副官、ボガードも片眉を上げる。
聞こえてくる言葉を正確に把握したアンは、ちらりと祖父が立つ方向へ意識を向けた。
心臓が悲鳴を上げている。命をかけた戦いでは無かった。ただの手合わせに過ぎない。だがこうした緊迫した空気の中に居続けていると、否応にも感覚が研がれてゆく嫌な感じがした。本物の刀を使っているとはいえ、本当の命のやり取りではないのに、だ。
森では食うか食われるか、だった。己の命を狙う存在に対し、容赦などありはしない。
心を通して声が聞こえる。
うん、そうだね。
アンはそこから自分の中ですとん、と落としこめる答えを見つけた。
殺生が無いからだ。演習として、ただ力を揮っている。
殺意が無いだけでこれほどまでに違うのかと、思わず笑みを浮かべてしまった。
ずっと違和感があったのだ。自分達は明日を生きるために毎日命をひとつづつ狩っていた。そこには死、が必ずあった。
ここで口にする食事は誰かが、獲ってくれた物、だ。感謝は忘れてはいなかったが、それでも意識としては軽くなってしまう。
人はなにかの命を踏み台にして、毎日を生きている。それなのに、ここには、曖昧さだけがあった。訓練、という枠組みの中に甘えてしまっているのだ。
アンは身構えるのを止めた。一所懸命になる必要などなかったのだ。
自分の目指す場所をそっと思い浮かべる。
剣士も最初の考えを訂正せざるを得ない状況となっていた。ガープの孫とはいえ、まだ11歳になったばかりの少女が相手だ。すぐに音を上げるだろうと思っていた。中将が如何に常識から外れているからといって、その孫までが普通では無い、などと思わないだろう。斬るつもりなど無く、もし刃を振りかぶったとしても寸止めすれば良いだけの話と軽く考えていたのだ。
しかし中将は言った。六式を使ってみろ、と。
その小さな体で、体を苛めぬくと言う言葉すら生ぬるい、鍛錬を積んだ所で使い手になれるかどうかすら分からない体技を、使いこなす事が出来るのか。
カチャリとつばが鳴る。
動いたのはアンだった。剣士の眼前から一瞬で姿を消す。剃だ。後方に現れた姿を捉え、剣士は取り押さえようと手を伸ばす。しかし掴んだのは残影だった。既に姿は横手に回り込み手のひらを脇腹に添えられている。後方へ剣士は飛び退くが懐に飛び込んできた小さな体が、みぞおちに拳を突き上げる方が若干速かった。
体重の割には重い一撃が腹部にめり込む。鉄塊を拳に纏わせつきあげたものだと気付いた時には、仰向けで人垣の中に沈んでいた。
「ご指南ありがとうございました」
ぺこりと一礼したアンはにこりと笑みを浮かべる。周囲によってその身を起こした剣士は、大事ない、と手を貸した若い海兵達へと告げる。
手加減されていた、と剣士は歯がみする。
中将が六式を使えと言った後、少女の変化に気付かなかったのが敗因だった。もしこれが戦場であれば、例外に漏れず、この世から去っていただろう。肋骨もひびは入っているだろうが、折れてはいないようだ。
「御苦労じゃったの、ゆっくり休め」
ガープは倒れた剣士を労い、その他の海兵達へ訓練へ戻ろうよう言い渡すと孫娘を呼ぶ。
仲が良くなった海兵達にもみくちゃにされていたアンが義祖父の声に応えた。そして輪の中から抜け出、揺れるコートの後へ続く。その際にひらひらと揺れる手のひらを向けられた剣士は完敗だと肩をすくめた。
向かったのはガープの部屋だ。着くや否や、アンはベッドへ放り投げられる。
「寝ておれ」
義祖父はそう言って、踵を返し出て行った。
「おじいちゃん?」
アンは首を傾げ、そして数秒の後にくすくすと笑った。
義祖父なりの気遣いだったのだ。
靴を脱ぎ、ベッドへとうつぶせに寝転がる。
出航時。
ルフィが泣いていた。
誕生日ケーキは宴に参加した皆で美味しく食べ終わり、それぞれが家路についた頃、アンは約束を果たしてくれた義祖父の手を取り、海軍への入隊意思を告げる。
破顔するガープの笑顔には安堵が刻まれていた。やはりこの身に流れる血を憂いていたのだろう。
その後は久しぶりの家族団欒だった。
エースは絶えずむすっとしていたが、お風呂も大きな掌でごしごしと洗われ、温かな湯船の中で水を掛け合う。そして久しぶりに家族4人で大きなベットに横になった。
枕を取り合い、布団を奪い合い、最終的には祖父の大きな体の上が3人の定位置だ。3人の体重が乗っても豪快な寝息を立てる祖父は健在だ。
ルフィは兄弟を得るまで、ここでひとり暮らしてきた。村長を始めマキノや村人達が世話をしてきたと言うが、広い部屋の中、ぽつんと居るのは寂しかっただろう。アンに手を引かれていたとはいえ、弟は始め、この家へ入るのを嫌がったのだ。
大丈夫。姉はそう言い聞かせ、弟を抱きしめた。
ひとりになるのは、嫌だ。
不安げな弟の表情に、アンはその頬を伸ばす。
「大丈夫。わたしも、エースも、サボも…居る。ひとりじゃない」
エースはアンの言葉を、すぐ側でじっと、聞いていた。
朝食はマキノの店で済まし、港へと向かった。宝払いはいつのも事だ。マキノも笑顔で紙を受け取っていた。
港へ続く一本道では、誰もが無言だった。兄弟でアンの手を握り締める。
行って欲しくは無い。
唇をかみしめたふたりの口元が、言葉を飲み込む。
船は既に出航準備を終え、帆を下げる時を静かに待っていた。
「アンが、アンが行っちゃう、エーズゥゥゥ」
「泣くな!おれが一緒に居てやる。アンは必ず帰って来る、だから泣くな!男だろ!!」
手のひらがただ離れただけなのに、こみ上げてくる寂しさに涙が浮かぶ。
ルフィは自分の心に正直だ。双子にとって、ルフィは泉であり太陽だった。ふたりが上手く表現出来ないものを、代わりにしてくれる。
「アンお前もだ! 泣くな!」
行くって決めたのはおまえだろ。
エースは額を突き合わせ、弟に言い聞かせていた視線をアンに投げ、指さす。
杯を交わすと、兄弟になれるんだ。
どんな事があっても、例え離れ離れになっても、この絆は切れる事は、ない。
ずっと、繋ぐ。
ただそれだけの事が、どれほど心強いか。旅立つ瀬戸際に立ち、改めて分かる。
だからサボは足を踏み出せたのだ。
「うん!行って気ます!!」
ほんの少し、離れるだけだ。心は絆は繋がれたまま、体だけがすぐに触れ合える距離では無くなる。
それにアンには瞬間移動という心強い力があった。空間を繋げばいつだって、抱きしめ合う事が出来る。
だから、孤独ではない。
…そして邂逅の夢は終わる。瞼がゆっくりと開けば、窓からは青が見えた。ゆっくりと体を起こす。
横に寝ているはずのエースとルフィの姿が見えないことに、はて、と首を傾げた。そして慣れない揺れに、船に乗っているのだと思い出す。
義祖父が寝ていろ、と気をかけてくれたのだ。
ちゃんとご飯食べてるかなぁ。
ちゃんと傷の手当ては出来てるかなぁ。
喧嘩して無いかなぁ。
ダダンおばさん達にちゃんと説明してくれてるかなぁ。
想いの先は兄弟達に向かう。
寝台から降りると、机が目につく。山と積まれた書類を見ると、この船に関する資材関係の帳簿から訓練度合いを示した各部署からの報告書など、てんでばらばらになって置かれていた。
頑丈な机に腰をおろし、何気にまとめてみる。
こういう分配は、卒論を書く先輩達の資料をまとめる手伝いをしたこともありお手の物だ。
クリップを引きだしから見つけると、とめてゆく。
「ほとんどの書類、おじいちゃんがサインしたら済むようにはなってるけど…」
アンは最近、世界へと目を向ける事が多くなっていた。以前の暮らしと比べている訳ではないが、全てがちぐはぐなのだ。技術レベル的にあるべき物が無く、その技術が進歩する上で、必要な過程を踏んでいないのにも拘らず、どうしてこれが存在しているのかと訝しめる機械があった。
ぺろり、と剥がしたこの付箋もそうだ。
糊、単体だけならわりと簡単に作る事が出来る。だが紙と紙の間に、粘着剤をつけ、形を整え束にまとめられている、というこの部分が難しいのだ。元々からあれば、あっても別段おかしくは無い品だ。しかしこれが出始めた時、誰もが便利な道具が出来た、と思っただろう。
それを使い、不備がある個所を示してゆく。
「起きたか」
ふと視線を上げると湯気立つコップを持って、義祖父が入って来た。その正体は久しぶりに嗅ぐコーヒーの香りだ。町や村では一般的な飲み物だが、不確かな物の終着駅(グレイターミナル)やダダンの家ではそうそうお目にかかれる嗜好品では無かった。前者では匂いの問題もあり、後者ではコーヒーより酒が選ばれていた、
「ほう。分かるのか」
ミルクを多めに入れてきた方の取っ手を、アンへと向ける。それに礼を伝え、口につけた。ほろ苦く、そしてほんの少し甘い。
「まとめただけ。おじいちゃんのサインが必要なの多いもん」
アンは大きすぎた椅子から立ち上がり、机の横に立った。替わりにどかりと椅子に寄りかかったのは義祖父だ。そして仕分けられた書類を手にする。
「ここのページ、多分数量の記載が間違ってる。ずれてきてるから、チェックして貰ってみて」
バラバラ過ぎて見る気も失せていた雑多な書類仕事が、すっかり、殆どと言ってよいほど片付いていた。
どこで手習いした、とは聞かない。
フーシャ村にある、ほぼ在るだけの家には手作りの本棚が幾つも据えられ、様々なジャンルの書籍が所狭しと並んでいるのを見ていたからだ。帰郷の際にも幾つか持ちかえっていたものの、蔵書となっていた量は、ガープが想像していた以上に増えていた。
村長から本を借り、全て読みつくすと次は町の古本屋を梯子していたらしい。余りにも買った本が大漁で持ち運べない時は、村長宅に輸送ペリカンが何十羽も群れになって押し寄せて来たのも一度や二度では無いと聞いている。
こりゃわしの船で預かった方がいいかもしれん。
海軍学校卒では無い場合、配属は基本、その人物を迎え入れた艦が受け持つ。支部で有能そうな人物がいれば、振り分けられた四方の艦で引き取る事もままある。
しかしアンの場合はガープの他、配属を希望している人物がいた。
「ところでおじいちゃん、行き先変わったの?」
「急にどうしたんじゃ」
いや、だって。なんとなく?孫娘にも明確な理由が分かっていないようで、難しい顔をして考え込んでいる。
ガープは肘をつき、孫娘を見る。
確かに、つい先ほど進路の変更を指示してきた所、だ。本部より行き先変更の通達が来、舵を切ったばかりだ。
船は数十分前、東の海から凪地帯へと入り、風の力を蓄え自動航行を可能とした動力へも切り替わっている。
本部の科学者が数名、年年にもわたり繰り返してきた思考錯誤の試作品第一号だ。
しかし寝入っていた孫娘が、この部屋の外から漏れ聞こえる声から情報を得たとは考えにくい。
"偉大なる航路(グランドライン)"はコンパスが全く役に立たない海域でもある。この事実を知らずに航路に入る輩は後を絶たないのは、の情報を知っている者達が少ない、という現状があった。
別段海軍がその情報を伏せている訳ではない。
それぞれの海に住む多くの人々が、偉大なる航路(グランドライン)に入る為の情報を必要としてない、のがひとつの原因と言えるだろう。
それに昨今、偉大なる航路(グランドライン)へ入ってくるのは海賊達ばかりになっている。
知られていない事、がある意味振るい分けになっているようだった。
なにも知らない彼らが幸運にも航路に入れたとしよう。しかし流れる海流も、風の流れすら一定の方向を保ってはいない海だ。コンパスだけでは対処が出来ず、途方にくれるだろう。そして同じ場所をくるくると回り続け、新たな島に上陸することなく果ては無人船となり浮かび続ける。故に、海賊達からは"偉大なる航路(グランドライン)"は海賊の墓場とも呼ばれていた。
唯一この航路で舵を取る方法は、各島々を繋ぐ指針を辿る他ない。
その道具を『記録指針(ログボース)』という。しかしこの指針では、島に到着する度次々と行き先が書きかえられてしまう為、ひとつ前の島に戻ろうとしても出来なかった。
永久的に磁場を記録する『永久指針(エターナルポース)』だけが唯一固定した道標といえるだろう。
「本部に直行するはずじゃったが、途中W7へ寄る」
ふうん。
アンは気の無い振りを装うが、内心は心臓がバクバクと鼓動を打っていた。夢を過信しない、与えられた情報を鵜呑みにするものか。そう思い決めたが、今までその夢に何度も助けられて来ている。
昨日見た夢は最初から現実味を帯びていた。しかも以前お世話になった面々が首を揃えて捕らわれていたのだ。
久しぶりの予知夢、そして先ほどの邂逅夢、なにか、の合図と思っても良いだろう。
そしてアンは考える。シャンクスを助けられた時と、大火事の時と何が違うか、を。
それは圧倒的な量だ。
大火事はひとりで何とか出来るレベルを、越えてしまっていた。全てを救えるなど、思い上がりも甚だしい。けれど自分はそれをしようとしていたのだ。
もしも、の話になるが、向かう先をエースだけとし、友達ともあそこで別れ向かっていたならどうなっていただろう。そこでサボの話を聞いていたならば。
熱に浮かれていたとはいえ出来るならば全員を。手が届かないならば知っている者達だけでも。
とは甘い考えだった。
知っている者達ですら、手が足りなかったのだから。それにより、大切な兄弟をひとり失っている。
だから自分の力量をまだまだ足りない、と認めた。精一杯背伸び出来る範囲も把握する。
これからは基本的な力量を底上げし、何とか出来るレベルをより広くしてゆくことだ。
定められた方向を変えるには幾つかの方法がある。真正面から力ずくで行おうとすると押し寄せる何十倍もの重さに耐え、いなさなくてはならない。けれど物事とは、人と人がさまざまに何かを積みあげた結果ともいえる。ならば組み上げる最中に細工をしこめばどうだろう。ほんの少し根元を揺り動かすだけで先は広がる。ただし、長年にわたる仕込みが必要なため、即席で行うのは難し過ぎた。
ならば暗躍はどうだろう。
上手く手を後ろか回して、物事を上手に片づけていた友人が脳裏によぎる。
手際がいいというか、謀略家の域に入っていたような気もするけれど。
アンは向こうで生活していた時も、余りそう言うモノには関わっていなかった。というよりか、関わらないようにしていたという方が正解だ。教授達が勢ぞろいする手前、どうしても、という場合を除きお断りしていたのだ。どんな関係でもさらりと流してしまう。飄々とした人だとも噂されていたのも知っている。
出来るの?自分に問う。
違うでしょう?
問い掛けてきた自分に笑む。
出来ないと決めつけない。やってみないと分からない。動かないと始まらない。
諦めの悪さには自信があった。諦める事を、諦めたくらいなのだから。
船の航路はぶれず、水の都へと至るだろう。
「トムさん達元気かなぁ」
小さなつぶやきは楽しげな響きを含み、風に乗った。