そして今日最後の授業、歴史が始まった。
みんなが言うにはこの歴史が特に難しく、勉強するのに苦労するらしい。しかし、みんなには今日の授業を簡単なものにする秘策があるとのことだ。
「じゃあ授業始めるぞ。今日は……」
「せんせ~い!!」
慧音が授業を始めようとした時、真ん中の席に座っている男の子が挙手し、作戦が決行された。
「ん?どうした?」
「普段の歴史の授業だと、立花だけ受けてなかったわけだから可哀そうだと思いま~す」
生徒たちの作戦、それは瑠梨だけ途中から聞くことになるのが可哀そうだから、今日は違う授業をしたらどうかというもの。
慧音は腕を組み「う~ん」と悩む。
確かに瑠梨だけは昨日までの授業を聞いておらず、途中から話しても理解できない可能性が非常に高い。1日くらい予習の時間をあげないと生徒たちの言うとおり可哀そうだ。
「よし分かった。じゃあ今日だけ特別に違う歴史のことを話そうか」
慧音が授業内容の変更を宣言した瞬間、教室は歓喜に包まれた。瑠梨は秘策のことだったり、喜んでる周りのことだったりがよく理解できず、その風景をただポカンと見続けた。
「ほら静かにしろ~!!」
慧音の大きな声で瑠梨はハッと我に返る。それと同時に生徒たちも静かになり、慧音は改めて授業を始めた――
授業の中身は最近の異変のことだった。
幻想郷全体に紅い霧が発生した紅霧異変。霧の湖という場所の畔にある紅魔館の主が吸血鬼だそうで、吸血鬼の弱点である日光を奪う異変を起こしたらしい。
幻想郷に春が訪れない事態になった春雪異変。冥界に住むお嬢様が、自宅の庭にある桜を咲かせようと春を集めた異変らしい。
他にも夜が明けなくなった永夜異変、間欠泉とともに地底から怨霊が大量に溢れ出てきた間欠泉異変、四季すべての花が咲き乱れた大結界異変などなど、毎年のように様々な異変が起こっているそうだ。
大結界異変は周期的なものらしいが、その他の異変は基本的に誰かが起こしているとのこと。私は幻想郷のことをよく知らないが、春を集めたり日光を奪ったりと自分勝手な人が多いんだなと思った。
「――それじゃあ今日の授業はおしまいだ。気をつけて帰るんだぞ」
今日の授業が終わりみんな早々と帰り支度をし始める。私は慧音先生に引き留められ、1人残ることになった。
「――待たせたな瑠梨」
教科書を教卓の内側に片付け、生徒たちに解いてもらった問題用紙を脇に抱える。
退屈そうに顔を机につけて足をバタバタ動かしていた瑠梨は、パァッと表情を明るくするとピョンと飛び起きた。
待ち遠しくてしょうがなかったこの瞬間。
『やっと妹紅に会える』
その気持ちが瑠梨の頭全てを占めていた。
「じゃあ行こっ!!慧音先生早く!!」
慧音の服を引っ張って急かす。
「分かった分かった」と微笑む慧音は、さながら子供のおねだりを断り切れないお母さんのようだ。
「ところで瑠梨、私の授業はどうだった?」
慧音はふと気になったことを尋ねる。最近子供たちや歴史本の編集者から「授業が難しい、つまらない」という声が聞かれている。
それを今日初めて授業を受けた瑠梨に、新鮮な意見として聞いてみようと思ったのだ。
「うんっ!!すごく難しかった!!」
「あぅ……そ、そうか……」
期待してた答えは返って来ず、代わりに屈託のない笑顔で心に突き刺さることを即答された。
笑顔で尋ねた慧音の顔はそのまま引きつって固まってしまう。
「でも、幻想郷の歴史は聞いてて面白かった!!」
しかし信じられないような幻想郷の異変の数々は、外の世界から来た瑠梨にとってすごく新鮮だった。
難しいことと、つまらないことはイコールではない。慧音の授業が難しいと感じたのは紛れもない事実だが、同じように面白いと感じたこともまた事実なのだ。
「そうか、それは良かった」
ニコッと微笑み、慧音は瑠梨の頭にポンと手を乗せる。
どんなことでも本心で話してくれることが、慧音が子供を好いている理由の1つだ。こういう笑顔が慧音にとって幸せを感じる瞬間である。
頭に乗せた手をそのままスッと下におろし、瑠梨と手を繋ぐ。
記憶が戻っても、瑠梨にはここに残ってほしい。昨日抱いたこの気持ちがその時だけのものではなく、自らの本心であったことを自覚した。
出会って間もないのにそう思わせるほど、何か特殊な力が瑠梨にはある気がする。
そんなことを思いながら、妹紅の待つ里の出口を目指した――
「妹紅お姉ちゃ~ん!!」
里の出口の壁に寄り掛かって待っている妹紅の姿を捉えると、瑠梨は一目散に駆け出し、妹紅に飛びついた。
「おわっ!?あ、おかえり瑠梨」
「ただいまっ」
妹紅に抱きついたまま瑠梨は満面の笑みを浮かべる。
瑠梨の笑顔を見ると、なぜかこっちまで笑顔になってくる。今日一日悩み続けた瑠梨の記憶のことがどうでもよくなって、ただこの幸せな時間が永遠に続けばいいとさえ思ってしまう。
瑠梨の笑顔には不思議な力がある、それはもう絶対にだ。
この笑顔を見るだけで悩みとか不安が全て吹き飛び、笑顔が乗り移ってくる感じがする。
『笑顔を咲かせる程度の能力』
そんな能力だと信じたい。
「楽しかった?」
「うん!!みんな仲良くしてくれたし、すごく楽しかった!!」
「そっか。良かったね」
妹紅は瑠梨の笑顔を見てそう思いながら、やはり優しい笑みを浮かべた。自分で作るものではなく、自然と浮かんでしまう方のものを。
その笑顔を遠巻きに見る慧音に気づき、妹紅は手を振ってくる。瑠梨の笑顔が妹紅の笑顔を生み、そして妹紅の笑顔が慧音の笑顔を生んだ。
「それじゃあ瑠梨、また明日な」
「うん、慧音先生またね!!」
抱きついていた手を離し慧音の方を振り返る。妹紅と手を繋ぎ、もう片方の手を慧音に向けて大きく左右に振る。慧音もそれに応え、瑠梨が見えなくなるまで手を振ることを止めなかった。
2人が見えなくなった後も慧音はしばらくその場に立ち尽くしていた。茜色に染まる空をゆっくりと見上げ感慨に浸る。
慧音の脳裏に浮かぶのは2人の笑顔。どこまでも幸せそうに笑っている姿がハッキリと浮かんでいる。
妹紅の幸せそうな顔なんて本当に見たことがない。それだけに今が永遠に続けばいいと思ってしまう自分がいる。
でも、それが叶わないことも知っている。だから……少しでも長くこの時間が続いて欲しい。
もう妹紅の幸せだけが自分の幸せではない。2人がともに幸せであってほしい、それが私の幸せ――
「……本当だからな?」
空を見上げたまま一瞬だけ微笑んだ後、竹林の方に顔を向けて呟く。
そして慧音はクルッと背を向け、里に入っていった。