世界が罅割れた。
ガラスを思いっきり殴りつけたかのように世界に亀裂が入り、瞬く間に割れて砕けた。
そして…………
「おおおおおおいっ!!! ……って、あれ? 教、室……?」
眼前にドラゴンが迫り、踏みつぶそうとしてきた光景からいきなりドラゴン毎、世界が割れる光景を目の当たりにして絶叫していたリーシャは、いつの間にか周囲の光景が見慣れたホグワーツの教室に戻っていることを呆然として確認した。
「…………出て、これた」
「はわぁ。びびったわぁ」
「はぁぁ~~」
リーシャ同様、冷静そうに見えたクラリスや咲耶も、そして方針を示したフィリスも大きく息を吐いて安堵した。
ぐったりと腰が抜けたように床にへたり込み、4人はそろって脱力した。
咲耶、リーシャ、クラリス、フィリス。
4人は無事に現実空間へと帰還を果たしたのであった。
第50話 試験終わった~!!
咲耶がきょろきょろとあたりを確認すると、教室内には受講している生徒たちがあちこちで眠っており、教師のリオンと二人の生徒のみが起きて座っていた。
「あっ! ジニーちゃん! もう戻ってきとったんや!?」
「サクヤ。ええ。一緒に組んだルーナが、すぐに答えを見つけてくれたの」
咲耶たちよりも早くに現実に戻ってきていたのは、一人は咲耶の友人であるグリフィンドールのジニー。彼女は友人だろう、レイブンクローの女生徒と組んで挑んだらしい。
さらさらとした色の薄い金髪の女生徒は、机に腰掛けて足をぷらぷらさせ、どこか茫洋とした感じで虚空に視線を向けて彷徨わせている。
通過した試験のことを聞こうとした咲耶だが、話を続ける前に、突然近くの空間から「パリンッ!!」とガラスの割れるような音が響いて、セドリックとルークの二人がガバリと起き上がった。
「おおぅっ!! てぇっ!!」
「っと! 出れ、た……?」
どんな状態から脱出したのか、ルークは顔からダイブするように壁に顔を打ち付けて痛そうな声をあげ、セドリックは顔を巡らせて周囲を確認していた。
「おっ! セドとルークも起きた」
リーシャは出てきた二人に手を振って話をしに行った。
咲耶はもう一度あたりを確認して、それからリオンの方へと顔を向けた。
「リオン、センセ。今、えーっと……」
「今ので3組目だ。そこのやつらが一番のりだ」
試験突破者の確認しようと尋ねた咲耶に、リオンは顎でジニーともう一人の少女を指して答えた。
「そしたらジニーちゃんたちが最初に戻って来たん?」
「ええ」
感心したように笑顔を浮かべて尋ねる咲耶。ジニー自身も少し驚いている様子で咲耶の質問に頷いた。
咲耶は少し意外な思いで茫洋とした少女、ルーナを見た。
レイブンクローに所属しているということは、頭がいいのかもしれないが、おそらくそれだけではあの幻術空間は脱出できないだろう。
事実、断トツで頭が良いはずのディズ・クロスが未だに脱出できていないのだ。
「なな。ウチ、サクヤ・コノエ! ルーナちゃん、って呼んでええかな?」
ぴょんと跳ねるようにしてルーナに近づいて自己紹介とともに顔を覗き込むと、ルーナはようやく夢から帰還したように焦点をはっきりとさせて咲耶を見つめ返した。
「ルーナ・ラブグッド。いいよ。私あんたのこと知ってる。留学生でしょ。ジニーがよく話してくれた」
ルーナはどこか夢見がちな世界から喋っているような声で頷きながら答えた。
「ルーナちゃんとジニーちゃんが一番乗りか~。ウチら結構苦労して出てきたんやけど、二人はどやって出れたん?」
咲耶はちょこんとルーナの横に腰掛けた。ジニーも反対側に腰掛けておしゃべりに付き合うことにしたらしい。
「ラックスパートが飛んでたんだ」
「らっくすぱーと?」
「うん。頭に入るとボーっとするんだ」
なんだか夢を見ているように、咲耶には見えないなにかを指さして宙をゆらゆらとさせるルーナに咲耶は小首を傾げてハテナを連発し、反対にジニーはくすくすと面白そうに笑っていた。
「すごいでしょ。でもルーナは、あの世界ですぐに本当の世界じゃないって気づいたのよ」
「ほわぁ。リオンの幻術が効かんのや」
ジニーの言葉に咲耶は驚いてルーナを見た。
当の少女はまた焦点の合わないような眼差しで宙からなにかを探し出そうとしているが、
「あの先生変わってるね。モリクウェンディなの?」
「も、もり?」
「モリクウェンディ。ラックスパートを傍に漂わせてるんだって」
ただ残念ながら、あまり会話が噛み合うとは言い難い人物らしく、独特のテンポとイントネーションで話されるその言葉に咲耶は先程からハテナの乱舞が止まらなくなっていた。
よく分かっていなさそうなことは察してくれたのか、ルーナはさして追及を続けることもなく足をぷらぷらとさせ、
「あっ! ハリーとハーマイオニーが起きたわ!」
会話は二人が起きたのを見つけたジニーによって強制終了することとなった。
咲耶もハーマイオニーがガバリと起き上がったのを見て嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「…………」
「おっ。クロスも起きたぜ」
意識が戻り体を起こそうとして、最初に聞こえたのは知人であるリーシャ・グレイスの声だった。
何回殺されたのか分からなくなるほどの繰り返しのはてに、なんとか戻ってきたディズは眉根を寄せて周囲を確認した。
どこからが幻術だったのかは分からないが、おそらく、現実世界だろう教室。
自分の他にはグループを組んでいた生徒が3組。その中の二つは同学年のサクヤたちとセドリックたち。そしてあろうことか残る一組は下級生の女子二人だ。
知らず屈辱を覚えてディズは顔を険しくした。
「よっ! クロスは何が出てきたんだ?」
「何が? ……全員違う障害が出てきたのかい?」
いつもは巧妙に隠している不機嫌さが隙間から漏れ出ていたが、幸いにも声をかけてきたルークやリーシャをはじめ、現実空間に戻ってきたばかりの生徒たちは、それに気づかなかったらしい。
ディズはすぐにいつもの自分に戻してルークたちに問い返した。
「私たちのとこはドラゴンだったわ」
「俺らの方はでけえ蜘蛛。どっちも魔法世界のやつだったみたいで、魔法障壁使ってきやがったんだよ」
フィリスたちの方ではドラゴン、ルークたちの方では正体不明の巨大蜘蛛。
難易度が変わる、というように試験前に言っていたことから考えると、膨大な魔力を持つサクヤが居て、かつ人数が4人と多かった彼女たちの方によりトンデモないものが出てきたと思われる。
ただ
「僕の方は……よく分からなかったけど、やたらと容赦のない怪物だったよ」
ディズはちらりと、現実世界に居る、先ほどまで戦っていた幻の本体を見た。
4人のところに出てきたドラゴンよりも、自分のところに出てきた“怪物”の方が、難易度高いように感じるのは気のせいだろうか。
果たしてあの障害物は、意図して彼のところに現れたのか、本来の彼と比べて実力はどうなのか、気にかかることはいくつかあったが、その真意を推し量ることは今はまだ出来そうになかった。
・・・・・・・・
完全に日が暮れて、宙天に瞬く星々が美しい夜空を飾っていた。
ただ星空を観察するのに惜しむらくは最善とまではいかなかった。空にはところどころに雲がかかっており、銀に光る月はその形を真円に満たしている。
やや月の灯りが強すぎているが、そんな程度でO.W.Lの最後の試験、天文学の実技試験の予定が変わったりはもちろんしない。
咲耶たち5年生の生徒は、それぞれ望遠鏡を星空に向け、恒星や惑星の位置を星座図に書き入れていた。
生徒たちの間をマーチバンクス試験官とトフティ試験官が歩いて生徒の様子を見て回っている。
高い位置にある天文塔には、先生の歩く音、羊皮紙が擦れる音、望遠鏡の位置と角度を調節する音だけが響いている。
咲耶は望遠鏡を覗き込んで、赤い惑星 ――火星を観測してほっこりと笑みをこぼした。
この試験が終わり、学期が終わるといよいよ夏休み。
精霊魔法の試験では、咲耶と一緒に試験を突破したリーシャたち以外にも、ジニーやハーマイオニー。セドリックやルークやディズやハリー。フレッドとジョージの兄弟。ほかにも全員で30人弱くらいの生徒が研修旅行参加の権利を獲得したことを試験直後に通達された。
人数は全校生徒からすれば少ないと言える人数だが、それでも大切な友達たちと一緒に、旅行できるのは心躍る夏休みになるはずだ。
どこの国に行くのかは咲耶もまだ知らないが、おそらくウェスペルタティアには行くだろう。夏休みの頃と言えば、もしかしたら“あのお祭り”の時期にもあたるかもしれない。
「ウォホン、あと20分。みなさん最後まで気持ちを集中するんじゃよ」
トフティ試験官が軽い咳払いと共に残りの時間を通知した。
咲耶ははっとして、少し逸れていた集中を元に戻して全天の星々を見渡した。
輝く星々が集う天の川がこの空からでも見ることができ、その両岸にまだ近づいてはいないがこと座のベガとわし座のアルタイルを見つけて咲耶はえへらと頬を緩めて星座図に星を書き込んで、
「ぇ……?」
一瞬、視界がぼやけた気がした。
ベガの輝きがアルタイルの瞬きを消してしまう、そんな幻視がよぎったような気がしたのだ。
はっとした咲耶だが、次の瞬間にはしっかりと星座図に書き込まれた解答があり、咲耶は目をごしごしとこすった。
天体観測をする時間帯だ。すでに十分に遅い時間になっており、最近の試験疲れが出たのだろう。
咲耶は自身の解答用紙に間違いがあることに気づいた。
黄道の上にあるのはへび座ではなくへびつかい座だ。へび座にけしけしと訂正を入れた。
残り時間、咲耶は粘るように星を書き足しつつ、最後には解答用紙を見直してうんと満足そうに頷いた。
「うむ、うむ。みなさん。よく頑張ったかな? さあ、羽ペンを置いて、羊皮紙を集めますよ」
時間だ。
マーチバンクス試験官が生徒たちを労うように最後の試験の終わりを告げて、生徒たちは解放されたように羽ペンを置き、歓声を上げた。
中には未練がましく羊皮紙にかじりつこうとしてる生徒もいたが、トフティ試験官に咎められてペンを置いた。
リーシャはぐぐぅっと背伸びをして解放感を露わにし、フィリスはぐったりしたように息を吐いた。クラリスもほぅと溜息をついてから咲耶たちに視線を向けた。
「はぁ。よーやく終わったぁ」
「あ~……これで教科書見なくていいぞー」
「あのねぇ、リーシャ。あー……まあいいわ。流石に私も疲れたわ」
「結果は7月中にでる。魔法世界から帰った時には出てるはず」
結果はふくろう便で7月中に生徒のもとに送られるらしい。だが、丁度そのころには咲耶たちは魔法世界に研修旅行に行っているはずであり、他の生徒よりも結果を知るのが遅くなるだろうとのことだ。
夜遅くの天文塔で、試験終了の安堵の声があがり、
しかし
「あれはなんだ?」
「おい! 禁じられた森の様子が変だ!!」
天文塔から降りようとしていた生徒の一部から不審な声があがり、咲耶たちもその声の方――禁じられた森を見た。
森には灯はなく、だが満月の光によってある程度はその様子がうかがえた。
「!? ディメンターが!!?」
「何が起こってんだ!?」
フィリスとリーシャも驚きに声を上げた。
ホグワーツの城外でシリウス・ブラックの捜索、監視をしているはずのディメンター。その大群がなにを思ったのか、大挙して禁じられた森の上空へと集まり、目的があるかのように一点を目指しているのだ。
以前、クィディッチの試合中に競技場に乱入したとき以上の数のディメンター。
それはゾッとするほどに悍ましい光景だ。
遠く離れた距離をおいてなお、その穢らわしい存在感は子供たちの肌に鳥肌を立たせた。
咲耶の式神、シロが人化の姿をとり、主を守るようにその前へと立った。
「…………」
「なんとっ!!?」
トフティ試験官も驚いて塔の際まで寄って光景を見ようとし、生徒たちはあまりの光景に悲鳴を上げていた。
そして次の瞬間、
「なっ!! 何あれ!!?」
白く輝く何かがディメンターたちが目指していた森の一点から立ち上がり、群がり寄ろうとするディメンターたちを次々に呑みこんでいた。
「氷!? 氷がディメンターたちを捕まえてる!」
10、20……歴戦の魔法使いですらあれだけのディメンターを前にすればその力を失われるだろう。
だが無慈悲な氷はあっという間に空に居たディメンターの全てを凍てつかせ、あたかも大輪の花を咲かせるように氷結させた。
「氷の、花……? まさか!?」
その光景をセドリックたちは見た覚えがあった。
悪しきものを封じる氷の華。その大きさは“去年”のものよりも圧倒的に大きい。
「あれは…………」
知識にない魔法に試験官たちですら唖然としている中、ディズは目を細めてそのあまりにも強力な氷の魔法を目の当たりにした。
「サクヤ、あれって……」
「シロくん?」
リーシャが頬を引き攣らせ、もしやというように指さし、咲耶は前に立ち厳しい顔を見せるシロに尋ねた。
シロは主の問いかけにこくんと頷きを返した。
「あれはリオン・スプリングフィールドの魔法です」
強大な魔力を前提にして初めて詠唱することができる古代の魔法。
広大な範囲、数多の敵を一気に殲滅、封結する氷の魔法。
「
「古代語魔法……?」
今までにセドリックたちが習ったのはラテン語を元にした詠唱だ。
シロの言う古代語魔法とどのような違いがあるかは定かではないが、目の前の光景を見る限りにおいては、桁違いの威力を有していることだけはたしか。
「リオンが戦うてるってこと?」
そしてそんな魔法が行使されたということは、リオンがそれなりに本気で魔法を使ったということだろう。
咲耶は疲れなど吹っ飛んだ顔で、キッと花の咲く地点を見据えてシロに尋ねた。
シロは振り返り、守護する少女を見つめた。
すぐにでもあの男のもとへと駆けて行きそうな顔だ。
ゆえにシロは
「
首を横に振った。
「戦いにはなっていません」
「あれ? そうなん?」
シロの返答に咲耶はぽけっとしたように首を傾げた。リーシャとフィリスも「そうなの?」と言いたそうに首を傾げてシロを見た。
シロは主を安堵させるように微笑みかけると、ぽんと狼の形態に戻って咲耶の方に登った。
シロの言葉に咲耶はすっかり安心したのか、シロをなでなでと撫でながらリーシャたちとともに階下へと降りて行った。
――なぜディメンターを凍らせたのかという疑問はとりあえず忘却して。
一方で、試験官の二人が生徒たちを追いやる声を遠くに聞きながらディズは氷の白薔薇を見つめていた。
伝統魔法では追い払うことしかできないディメンターを封じ込める強力かつ広範囲の氷の魔法。
あの魔法が、精霊魔法の使い手である彼の技であることは間違いないだろう。
あの式神は“古代語魔法”と言っていた。
古の魔法が現在の魔法よりも強力だというのはこちらで学ぶ魔法でもよくあることだ。このホグワーツ城や古代の遺跡にかけられた魔法などのように。
だとするとこれが彼の本気の一端。
古の魔法を操り、すべてを氷に閉ざす強大な力。
いや、それだけではない。
悪魔ですらも寄せ付けない雷の精霊への転身の術法。
雷と氷を操り、体術すらもこなす魔法使い。
――戦いにはなっていません――
つまり、あの魔法使いにとってあれだけの数のディメンターを倒すことは、戦いにすらならないものだということなのだろう。
嬉しさ。ディズの顔に浮かんでいた笑みはその感情をまさに表していた。
・・・・・・・・・
少し時間が遡り、咲耶たちが天文学の試験を受ける前。
全ての試験が終わって、ハリーとハーマイオニーはロンとともにこの後の計画を立てていた。
この日は、彼らにとって試験最終日ということの他にも重要なイベントがある日だった。
バックピークの裁判が何事もなければ今日の予定だったのだ。
もしもハグリッドが裁判がなくなったことを知っていれば、きっとすぐにでも教えてくれていただろう。
だが、ハグリッドからは何の連絡もなく、また昼にファッジと会った時の彼の様子からすると、ハグリッドにその知らせが行っているかは怪しい。
外出を禁止される日没が迫るなか、ハリーたちはハグリッドのもとへと訪れた。
そこには今か今かと、顔を青ざめさせ、体を小刻みに震わせているハグリッドが居た。
ハグリッドは、ハリーたちから裁判がなくなったことを聞くと、はじめは「んなぁはずはねえ!!」と頑なに信じなかったものの、彼を落ち着かせている間に到着した魔法省からのふくろう便で、本当に裁判がなくなったことを知るとスコールのような涙を流してわんわんと泣いた。
その後、なんとかハグリッドを宥めていると、小屋の中から驚くべきもの ――ロンの失われたペットであるネズミのスキャバーズが見つかったのだ。それも以前よりもやせ細り、あちこち禿てはいたものの、生きて、やや興奮した状態で。
一時期は彼の出奔のおかげで仲違いまでした存在だ。
ロンは大喜びになり、ハーマイオニーも心から安堵の表情を見せていた。
一晩で二つ、失われたはずの命と失われるはずだった命が救われた。
奇跡としか思えない夜となる……はずだった。
物語はそこから大きく、彼らの予想しなかった方向へと転がって行った。
小屋から城へとこっそりと戻ろうとしていたハリーたちだが、途中、興奮状態のスキャバーズが、クルックシャンクスと遭遇して逃げ出してしまったのだ。
スキャバーズは禁じられた森へと入り込み、なんとか捕まえたものの、今度は以前からハリーに付きまとっていた黒い影のような大きな犬が飛び出してきて、スキャバーズを捕まえたロンへと襲い掛かったのだ。
大きな犬によってロンはスキャバーズごと暴れ柳の方へと引っ張って行かれ、ハリーとロンにとっては嫌な意味で思い出深い暴れ柳の下を通って、ホグズミードへと向かって逃亡。
ハリーとハーマイオニーも慌ててその後を追ったのだ。
暴れ柳の下にあった通路は、ホグズミード、その中でもホラーハウスとして知られる叫びの屋敷へと通じていた。
そこで起きたことはハリーにとって、一晩では整理しがたいほどに大きな出来事だった。
ロンを捕らえたあの大きな黒犬は、彼こそがハリーを付け狙っていると言われていた脱走犯のシリウス・ブラック、その非合法・未登録の
そして彼らの危機に駆け付けたルーピン先生。その彼もまた、ただのヒトではなかった。彼はシリウス・ブラック、そしてハリーの父であるジェームズ・ポッターと親友だった、“人狼”の魔法使いだったのだ。
生来からの妖である狗族とは異なり、人狼という“種族”は一種の呪いによってその個体を増やす。
その呪いとは噛むこと。
ルーピンのような“人狼”に噛まれたヒトは呪いを受けて変質し、人狼という種族へと強制的に転生してしまうのだ。
そのことを知らされたハリーの動揺は大きかった。
なにせ人狼と言えば、彼らイギリス伝統の魔法族とは敵対関係にある種族といっていいほどの闇の魔法生物なのだから。
だが、事態はまだ安寧を許さなかった。
脱走したシリウス・ブラックの狙いは、ハリー・ポッターではなかったのだ。
いや、ある意味ではハリーだったと言えるだろう。だがその目的は真逆、シリウスは親友の息子であるハリーを助けるためにアズカバンを脱走したのだ。
そう、その場にいたもう一人のアニメ―ガス、かつてシリウスに殺されたと言われていたピーター・ペティグリューこそが、親友を裏切った張本人であり、シリウスが殺すことを定めた人物だったのだ。
そのことをハーマイオニーの猫であるクルックシャンクスは分かっていたのだ。スキャバーズが怪しい“人”であることを。
途中、変事を察知したスネイプによって場がかき乱されることとなったが、ハリーとハーマイオニー、そしてロンの選択によってスネイプは気絶させられることとなった。
そしてルーピンとシリウスの呪文によって本性を暴かれたペティグリューは、みすぼらしくハリーたちに命乞いをし、かつての友に殺される寸前で、ハリーによってその命を救われることとなった。
ハリーは父母の仇の命を絶つことよりも、父の親友たちがこの愚かしい小男の命の罪を背負ってしまうことを厭う選択をしたのだ。
そして…………
「ハリー、その……ピーターが、あの男が捕まるということがどういうことなのか、わかるかい?」
叫びの屋敷からの帰り道で、ハリーはシリウスからとある話を受けていた。
「あなたが自由の身になる」
「そうだ……しかし、それだけではない。誰かに聞いたかも知れないが、わたしは君の名付け親でもあるんだ」
「ええ。知っています」
ハリーの父、ジェームズの無二の親友であったシリウス。
彼はジェームズの花婿付添い人をつとめたほどに信頼されていて、二人を知る誰もが、二人はまるで兄弟のようだと思っていたのだ。
「つまり、ジェームズとリリーが――君の両親が、わたしを君の後見人にと定めたんだ。もし自分たちの身に何かあればと……」
シリウスの震える声が、ハリーの耳に痛いほどの緊張感を伝えていた。
「勿論、君がおじさんおばさんとこのまま一緒に暮らしたいと言うのなら、その気持ちはよく分かるつもりだ。だが……もしよければ、考えてくれないか。その、わたしの汚名が晴れて、もし、君が……別の家族が欲しいと思うのなら……」
痛みは、ハリーの期待に踊る心臓の鼓動の跳ねる様な動きとも同じだったのかもしれない。
シリウスの言わんとしている言葉の続きに、ハリーの心は大きく震えていた。
「えっ!? あなたと暮らすの?」
「むろん、君はそんなことを望まないだろうと思ったが……ただ、もしかしたらと、そう、思ってね……」
「とんでもない!! 勿論、ダーズリーのところなんか出たいです!! 住む家はありますか? 僕、いつ引っ越せますか?」
数時間前まで、この人を本気で殺したいと願っていた。
親友でありながら父を裏切り、殺した男だと思って。
だが彼は、例えハリーに憎まれていると分かっていても、それでも親友の息子のために命を賭けて守りに来てくれたのだ。
「そうしたいのかい? 本気で?」
「ええ、本気です!」
虐待と言って差し支えない扱いを受けているダーズリー家よりも、父が信頼した親友と暮らしたい。命をかけてくれた恩人とともにこれからを過ごせるのだという喜びをハリーは満面の笑みで応え、シリウスもまた逃亡生活でやつれ汚れた顔を輝かせて喜んだ。
そして一行 ――クルックシャンクスを先頭にして、ペティグリューを逃がさないようにつながった状態のルーピンとロン、気絶したスネイプを魔法で運んでいるシリウス、そしてハリーとハーマイオニーが順番にホグワーツへと帰還した。
あたりは漆黒の闇に包まれており、灯りといえば遠くに見えるホグワーツの光だけだった。
空にかかる雲はまばらだが、“満月”の光を遮っていた。
そう、
「ぅぐ、ぁああ、がぁああ!!」
「! マズイ!!」
人狼の本性を暴き立てる無慈悲な銀月の光。
城へと歩いていたルーピンが突如として、苦悶の声をあげて蹲り、事態を察知したシリウスがハリーたちを庇うように前に出た。
「ルーピン先生!!?」
ハリーたちが悲鳴を上げるようにルーピンに声をかけるが、ルーピンの意識は瞬く間に獣の欲望に呑みこまれて掻き消え、姿は見る間に温和そうだった人の姿から獰猛な狼人間のそれへと変貌していた。
ハーマイオニーの顔が青ざめ、杖もなく拘束されたままのペティグリューは「ヒーヒー」と悲鳴じみた声を上げていた。
なにせペティグリューは直前までルーピン自身と繋がるように拘束されていたのだから。突然、真横に人狼が出現した状態だ。
その隣にロンという少年を引き連れたまま。
「ロン!!」
「ハリー下がるんだ!!」
ハリーが慌てて前に飛びだそうとしてシリウスがその体を抱き留めるように両腕で抱き留めて背後にかばった。
人狼は人間に敵対し、害する存在だ。
今学期のルーピンはスネイプの調剤していた脱狼薬という薬を服用することによってなんとか意識と理性を保てるようにしていたのだが、あまりにも火急な事態だった今日はそれを服用していない。
人に襲い掛かることを本能に刻み込まれ、噛むことによって自らの仲間を増やしていく本能。
シリウスは意を決して、アニメ―ガスになり、人狼を抑え込もうと力を込め、
――「こんな月の綺麗な夜に。随分と面白そうなことをやっているじゃないか」――
場違いにも愉しげな声が空からかけられた。
その声が聞こえた瞬間、完全に人狼となっていたルーピンはビクンと反応して脅えたように頭をもたげ、隣に居るペティグリューにもロンにも噛みつこうとしなくなっていた。
そして、漆黒の空から、闇のように黒いマントをはためかせた金色の髪の魔法使いが降り立った。
「スプリングフィールド先生っ!?」
「ほう。知らん顔が一つ二つあるな」
見る限りにおいて、箒も杖もなく、空から緩やかに降りてきた魔法使い。
ハーマイオニーが安堵と驚きがない交ぜになった声を上げた。
あろうことか魔法使いは人狼の真横に立った。一見すると無防備な姿で。
「先生!? 危ない!! ルーピン先生が!!?」
ハーマイオニーが悲鳴のように警告を発するが、薄く笑うスプリングフィールド先生は、まるで子犬でもあやすかのように人狼へと手をかざした。
噛みつく!! かと思われた人狼は、しかし魔法使いに攻撃を加えることもなく頭を垂れた。
「ふん。身の内の獣を御することはできんが、野生の本能だけは残っている、か。無様なものだなリーマス・ルーピン」
唖然とするハリーたちの前で、人狼は脅えるように金髪の魔法使いの足元に傅いた。
人狼の獣としての本能が、目の前の存在に抗うことを脅えるように。
人狼を大人しくさせた金の魔法使いは、気だるげに周囲を見渡した。
「さて、質問だ。知らん顔が二つあるが……どちらがシリウス・ブラックだ?」