部屋の前まで連れてきてもらった彼女は、キスリングの姿が見えたので、下ろしてもらうことにした。
―― 一人で散歩するといって、抱きかかえられて帰ってくるとか……恥ずかしい
「ここで下ろしてください」
「かしこまりました」
大地に足をつけた彼女は、キスリングを手招きする。
その合図を受け、キスリングは駆け出し、彼女の手を掴んだ。その背後からベルタがやや早足でやってきて、ケスラーから日傘を受け取った。
「ウルリッヒ」
「はい。なんでございましょう? お嬢さま」
「ありがとう」
「身に余るお言葉です。それでは失礼いたします」
そしてケスラーは、本来の持ち場へと戻っていった。
出来れば毎日顔を見せて ―― そう言いたかった彼女だが、今まで顔を見せなかったことを鑑み、ケスラーにはラインハルトの部下としての立場があるだろうと、その言葉は胸に閉じ込めた。
部屋に戻った彼女は、疲労から睡魔に襲われそうになるが、夕食を取ってから眠ろうと耐える。いままでは、眠気に逆らう気力もなかったので、昼夜あまり関係なしに眠っていたが、それでは駄目だろうと考えて。
規則正しい生活をし、今までを取り戻そうと決意を固めたのだが、だがあまりにも眠かったので、夕食を早めに済ませ早めに就寝することにした。
夕食は通常の半量で作られているコース料理なので、食が細くなっている彼女でも食べきることができるように、細工されている。
「話? 食事中でも構いませんよ」
前菜を食べ終え、ブロッコリーのポタージュを口に運んでいた彼女は、ファーレンハイトが話したいことがあるので、食後にお時間をいただけたらとの連絡を受けたので、今でも良いと返事をした。
ファーレンハイトよりも先に次の料理である、色とりどりの野菜で飾られている、真鯛のポワレにナイフを入れて口に運ぶ。
「失礼いたします。お言葉に甘えさせていただきました」
―― 書類を小脇に抱えているのは、珍しいですね
「気にしないで頂戴。それで、話とはなんですか?」
軍人らしく後ろ手に組んでいることが多いので、その姿は斬新とまではいかなくとも、珍しさを感じるには充分であった。
ファーレンハイトは居住まいを正し、近いうちに辺境へ向かうことになったので、その途中でフライリヒラート伯領とリヒテンラーデ公領へ立ち寄り、埋葬を済ませたいので許可が欲しいと彼女に告げた。
「そうですね。頼みます」
長いこと親族たちの遺体をそのままにしていたことを、彼女は悪いことをしたとは思ったが、悲しみはあまりわき上がってこなかった。
もちろん悲しいのだが、何もかも捨ててしまいたくなるような、そんな悲しみではなくなったことに気付く。
「”ついで”のような形になってしまい、まことに申し訳ございません」
「気にしないで……ところでファーレンハイト。出発はいつです?」
「六日後の予定です」
「今はとても忙しい?」
「いいえ。ほとんどの準備は終わっております」
”準備は終わっている”が”忙しくはない”とは答えていない ――
ファーレンハイトは彼女の意図に気付き、嘘をつかず、だが本当のことも言わず。
「そう」
「なんでもお申し付け下さい」
運ばれてきた口直しのオレンジソルベに手をつけず。
「明日にでも、フェルナーの見舞いに行きたいのですけれど、大丈夫かしら?」
スプーンを持とうともせず、手を組んで、とても控えめな口調で尋ねる。
「もちろん」
「フェルナーは、もう一般の病室に移ったのかしら?」
「はい。ジークリンデさまが見舞えば、回復も早くなることでしょう」
「そうかしら。それでね、お見舞いに行くの、秘密にしてくれない? 驚かせたいの」
「かしこまりました」
「あと、花束を用意して」
「はい。手配がありますので、これで失礼させていただきます。ごゆっくりお食事をお楽しみください」
ファーレンハイトが部屋を辞してから、一時間以上時間をかけて、半量のフルコースを食べきり、疲れたので、すぐに休む準備をし、
「すぐ寝ると太るのですけれど……」
かなり不本意ながらベッドに横になった。
彼女が肉料理を口に運んでいた頃、『……という理由で』明日、彼女の検診を病院で行うよう、ファーレンハイトが医師に告げる。
部屋の与えられた机で仕事をしていたザンデルスは、
―― フェルナー少将だって、ジークリンデさまがおいでになるなら、身繕いくらいしたいだろうに……ま、いっか
聞かなかったことにして、見舞いに付いて行くつもり上官のスケジュール調整に取りかかることにした。
「提督。ジークリンデさまは、何時頃、病院へ?」
「分からん。お目覚めが遅ければ午後になるだろうし、早ければ……血液検査のために食事を抜くことになっているから、出来るだけ早くということになるだろう」
「半日空けて、その分を夜に回すということで、いいでしょうか?」
「そうだな」
「はっ!」
―― 明日は徹夜だなー。嬉しいことだけど……明日の本警備はキスリングか。提督が影武者付きねえ……提督、ジークリンデさまとその他で、態度というか空気が違うから、バレバレのような気もするけど。キスリングも似たようなもんか
**********
”見舞いにきてくれる、異性の友人くらい、いるだろう”
―― いやいや、いませんよ。こんなに連日、違う女性が複数訪れるなんて、まずないです
フェルナーの室内での護衛を担当している兵士が、連日訪れる女性の見舞客を前にして、そう思ったとしても無理はない。
士官学校を卒業した、平民ながら着実に出世しているフェルナー。
その彫りが深く、整っている横顔を見て、容姿と将来性の重要さをかみしめながら、兵士は今日も女性たちに見舞われているフェルナーの警護に全力を尽くしていた。
「もうじき退院なんだってね」
「ああ」
女性たちのほとんどは、フェルナーに入院した理由などは聞かない。
稀に尋ねる者もいるが「言えない」の返事に、誰もがすぐに引き下がる。
そして女性たちは、各自喋りたいことを、好き勝手に話しているのだが、フェルナーはそれが目的でもあった。外の状況がどうなっているのか? 軍人ではない人たちの目線から情報を仕入れていた。
―― 女性だけで身の危険を感じず、遠距離移動ができているから、治安は悪くないようだが
フェルナーが用意していたケーキを頬張っている女性たちに、尋問にならないよう、できるだけさりげなく、欲しい情報を聞き出していた。
そんな中、突如、入り口の扉が開き、
「アントン」
直に聞きたいと願っていた、鈴を転がすような声で名を呼ばれ、その方向を見る。
シンプルで仕立てのよい喪服をまとい、髪を後ろに一本の三つ編みにし、顔半分が隠れるくらいのベールがついたトーク帽を被り、ほんのりと黄色がかったカラーの花束を抱えた彼女が突然現れ ―― フェルナーは瞠目した。
「ジークリンデさ……ま」
見舞い客が驚くのは当然だが、フェルナーの護衛も同じように驚き、室内は一瞬にして水を打ったようになった。
「……あら、先客…………これ、お花。じゃあね、フェルナー」
彼女はフェルナーが寝ているベッドに、水色のリボンが揺れる花束を置き、早足で病室を出ていった。
彼女の声と態度にフェルナーは慌てて、花束を落とさぬよう注意しつつ、ベッドから飛び降りて彼女を追いかけた。
「ちょっと待ってください、ジークリンデさっ……」
扉を開けて外へ出ようとしたのだが、
「病室から出すなとのお達しだ」
そこにはリューネブルクが立っており、病室へと連れ戻された。
「ちょっと、ジークリンデさま!」
突然の出来事に、見舞い客と護衛が呆然としている中、”離せ!” ”離すか!” の攻防が続く。
しばらくすると、端末に通信が入り、強制的に画面が開いて、
『なにをしている。ジークリンデさまがお待ちだ。早く来い』
ファーレンハイトから連絡が入った。
「いま、行く!」
「部屋から出してもいいのか?」
リューネブルクの問いに、もう良いと ――
『構わん。早くしろ。場所は送った』
理不尽なような気もするが、貴族に仕えていたら、この程度の理不尽さは可愛いものである。
ベッドの枕元においていた端末を持ち、スリッパも履かずに部屋から飛び出す。
端末で場所を確認し、最短経路で目的地へと向かった。
彼女は地下駐車場から車に乗って帰るというので(貴族なので正面に車を回して、見送りを受けて乗り込むのが一般的)急いで向かうと、地上車の前にファーレンハイトが、そして地上車中に影武者。
「ご無沙汰しております」
「あ、え。フロイライン・ファ……」
今回の影武者はファーレンハイトの妹。
「念のためにな」
「そうでしたか……前もって連絡くださいよ」
肩で息をしながら、いきなりの訪問について説明を求める。
「ジークリンデさまが、お前を驚かせたいということで」
「あ、そうですか。でも、本人が驚かれてましたよね」
「まあな。それについては、ジークリンデさまご自身から聞け。突き当たりの扉の向こうでお待ちだ」
「分かりました」
「それと……」
ファーレンハイトは車中から紙袋を取り出し手渡す。
「これは」
中に入っていたのは、院内用の靴と軍服。
自分が裸足で走ってきたことに今頃気付いたフェルナーは、軽く感謝し、靴を履いて軍服を羽織り、彼女を見送るようにファーレンハイトとその妹が乗った地上車を見送った。
地下の駐車場を出たのを確認してから、彼女が待っている部屋の扉の前まで行き、深呼吸をしてから扉を開けた。
なにかのために用意されたらしい小部屋。
病院にある予備の椅子が一つだけあり、彼女はそこに背筋を伸ばして座っていた。
「フェルナー」
「ジークリンデさま」
羽織っただけの軍服の端を掴み、彼女の足下に跪く。
「調子はどう?」
「包帯と眼帯が目立ちますが、今日にでも退院できますよ。ジークリンデさま、命じてくださいません?」
フェルナーは顔を上げて、含みがありそうに取られる笑顔を彼女に向けた。
「退院を、ですか?」
「はい」
「私もフェルナーも医者ではないのですから、指示に従いましょう」
「入院しているのも、飽きてたので。残念です」
「まだまだ長引きそうなの?」
彼女は手を伸ばし、まだガーゼがあてられている頬の近くを、手袋をはめた指で軽くなぞる。
「二週間くらい」
上質なシルクのなめらかな感触は、フェルナーに彼女が近くにいるのだと実感させてくれる。
「では、まだ相当悪いのでは?」
「いえいえ。リハビリです。退院してすぐに軍務に復帰するので、その猶予期間みたいなものですよ」
「そうなのですか」
「ところでジークリンデさま、先ほどはどうしたのですか?」
フェルナーの質問に彼女は手を引っ込めて、口元を隠すようにして、視線をそらした。
「見舞いに来たの」
「分かっております。花束、ありがとうございます」
フェルナーは手を床に付けて身を乗り出す。
「……」
「驚いて病室を出ていかれましたが、なにかありましたか?」
「あのね……」
「はい」
「……あのね」
「はい。なんでしょう」
「病室に入ったら、ちゃんとした格好の女の人たちがいたでしょう。彼女たちを見て、自分があまりにも適当な格好だったことに気付いて、恥ずかしくて」
最高級のシルクで仕立てられた黒のローブ・モンタント。頭にぴったりと合った帽子と、長さも適切なベール。ジェットのイヤリングにネックレス。
ほつれのない髪。濃くはないがしっかりと施された化粧。
「……まあ、喪服ですから、そのくらい地味でも」
格好におかしいところはないのだが、見舞いにきていた女性たちが「自身が選んだ、自分に似合う格好をしている」姿を見て、彼女は少しばかり自分を取り戻した。
「でも嫌なの。仕えている主人が変な格好していると、フェルナーも嫌でしょう?」
今の彼女の格好はおかしくはないのだが、
「そうですね……と、しておきますよ」
本人が満足していないのならば……と、フェルナーは一応同意してみせた。
「フェルナー」
「はい」
彼女はフェルナーが羽織っている、真新しい軍服の階級章に気付き、その昇格を喜ぶ。
「あなたも地位が上がったのですね、おめでとう」
「……それは……ありがとうございます」
今のフェルナーは彼女に、本当のことを告げる勇気はなかった。
彼女の精神や体調を慮ってというよりは、自分自身の感情の整理がまだ出来ていないというのが大きい。
「失礼します。ジークリンデさま、お時間です」
小銃を肩から提げたキスリングが、迎えにやってきた。
フェルナーは立ち上がり、”どうぞ”と手を差し出す。彼女はその、まだ包帯が巻かれている手を取り、立ち上がった。
用意された地上車は、いつも彼女が乗る、黒塗りの高級車ではなく、メタリックブルーでやや小さめのもの。
あまり貴族が乗るような地上車ではないのだが、彼女は”護衛の関係で”と言われて、深く考えずに頷いた ―― 彼女には影武者のことは、当然教えていない。
車に乗り込んだ彼女は、窓を開けて、
「フェルナー」
「はい」
「なにか、あっても、なくても、連絡を入れてね。待ってるわ」
ケスラーには言えなかったが、ラインハルトの部下ではないフェルナーならば、言ってもいいだろうと。
「はい。ジークリンデさまが、要らないって言い出すくらい、連絡入れます」
彼女の向かい側に座っているキスリングが会釈し、窓が閉じられる。
そして地上車はフェルナーを残して、駐車場から去っていった。
見えなくなってからフェルナーは、彼女が手袋で触れた辺りを触り、病室へと戻った。
「まだいたのか」
病室には見舞いにきた女性たちが居た。酷い言いようだが、フェルナーは女性たちに対して、いつもこのような態度なので、誰も気にはしない。
「フェルナーって、貴族さまに仕えているのね」
「まあな。どうした?」
彼女の登場でフェルナーがローエングラム公爵夫人に仕えていることを知った女性たちの一人が、非常に困っていることを相談した。
「……孔雀ね」
事情を聞いたフェルナーは、脳裏で”どうするか”を考えながら、情報を集める。
「どうにか、ならない?」
その話の内容なのだが、女性が住んでいる辺りに邸を持つ貴族が、飼育していた動物を放置したまま逃げてしまい、その動物が敷地から出てきて、近隣住民が非常に困っているとのこと。
貴族が飼っていた動物なので、簡単にいかない。
「何件かお屋敷があるんだけど、どのお屋敷の孔雀なのかも分からなくて」
間違って傷つけてしまったりしたらと思うと、襲われても払いのけることもできず、逃げるしかできない。
治安は悪くないのだが、その地区は危険が増えたような状態。
フェルナーは住所を聞き、近くにある邸の所有者を確認したが、
「たしかに厄介だな」
どれも賊軍には与しておらず、内乱になりそうなので、慌てて領地に逃げ帰った者たちばかりであった。
賊軍ならば問答無用の財産没収という名目で、孔雀や”角が長くて足が細い、ぴょんぴょん跳ぶやつ(後日、トムソンガゼルと判明)”などを捕らえることもできるが、連座で軽微な罰を受ける程度の貴族では、勝手に財産である動物を殺処分することもできない。
なにより問題なのは、ユリアンがフェザーンで「野良犬が太っている」と言うあたりから分かるように、銀河全土において、街中にいる野良犬や野良猫などを捕らえて危険を排除するような組織はない。
「すぐに連絡することになるとは」
街中の害獣を捕らえて、処分するという認識のないフェルナーだが、貴族が飼っていた動物を放置しておくわけにもいかないだろうと、彼女に連絡を入れた。
『どうしたの? フェルナー』
約束通り、連絡くれたのね ―― 笑顔になった彼女を前にして、表情が緩みかけた。
「実はお願いがありまして」
『なに?』
「お名前を貸していただきたいのです」
フェルナーの依頼に彼女は”きょとん”として、ほっそりとした指で自分をさす。
『ジークリンデ?』
「違います。私がジークリンデを借りて、どうするんですか。そっちではなく、貴族としてのお名前と軍人としての地位です」
『いいですよ』
「簡単に貸さないでくださいよ。まずは理由聞きましょうよ、ジークリンデさま」
『ひどいわ、フェルナー。信頼しているから、何も聞かずに貸すのに』
「光栄ですけれども……」
フェルナーの考えは、彼女の名と役職で、貴族が残していった動物を捕獲する部隊を組織しようというもの。
『門閥貴族の不始末ですから、門閥貴族である私の名で処理する案件でしょう』
事情を聞いた彼女は、名を貸すことを再度承認した。
「本当はお手を煩わせたくはなかったのですが、貴族の財産関係になりますと、私ではどうすることもできなくて」
美術品や宝石類、調度品ならば引き取り手はあるが、生き物となると、そう簡単にはいかない。
『本来なら、私が先に気付いて、フェルナーに指示を出すべきことですから。進言してくれて良かったわ。教えてくれた人にも、お礼を』
「かしこまりました。それでは、失礼いたします」
この語フェルナーはオーベルシュタインに連絡を入れ ―― 見舞いにきていた女性の一人が故郷に帰ると、動物たちは完全に姿を消していた。