消灯時間は等に過ぎ、すっかり静まり返っている病棟の一室。
[……で?]
起こされたフェルナーは、やってきたファーレンハイトから彼女に事情を伝えたことを教えられた。そこまでは聞きたかったことなので良いのだが、
「ジークリンデさまが、お前に今すぐ会いたいと」
[私は会いたくないって言いましたよね]
その後が問題であった。
「聞いたような気もするが、お前の希望とジークリンデさまのお望みなら、どちらを優先するか? 分かっていることだろう」
皮膚を移植している最中のフェルナーの姿は、痛々しく、また見る人によっては不愉快さを感じる状態。
薬品とにじみ出す体液が入り交じり、空気清浄機が働いていても、鼻につくにおいがあった。
[そうですけれどね]
だから嫌だと言ったが ―― これが逆の立場であった場合、フェルナーも相手の意思や希望を無視して、彼女を優先するので言えた義理ではない。
「ジークリンデさまは、お前が別の奴に仕えたので、顔を見せなかったと思っておられた」
[私って、どんだけジークリンデさまに信頼されてないんですか]
打ち込んだあと、キーボードではない部分を包帯で覆われている指で、こつこつと叩き、自分自身に対する不快感をあらわにする。
「居るなら絶対に顔を出してくれると思っていたからこそ、だから仕方なかろう」
フェルナーは、彼女がそこまで不安を感じているとは思っていなかったのだ。
[じゃあ、なんですか。ジークリンデさまは、意識戻ってから今日まで”フェルナーの裏切り者”と思って過ごしておられたのですか]
それはフェルナーだけではなく、他の者も同じ。フェルナーが彼女を見限って、他に自分を売り込みに行くとは、誰も考えていなかったので、彼女がそんなことを考えていると聞いたとき誰もが驚いた。
「そうなのではないか」
[そこは否定してくださいよ。ひどい男だな]
彼女は今、治療室に入る前の消毒液に触れても大丈夫か? の、血液検査の結果待ちである。
「ジークリンデさまの精神の安定のためにも」
[分かりました。この怪我に関しては上手く誤魔化してくださいよ。なんなら、本当のこと言ってもいいんですよ]
フェルナーはそのようにモニターに本心を吐露したのだが、
「ちなみに、お前が火傷した理由だが、グントラムさまとローデリヒさまをを助けに伯爵邸に行き、テロリストと遭遇、応戦、負傷の後、火災に巻き込まれたと説明した」
ファーレンハイトはあっさりと、嘘をついていた。
後で説明しようか? 説明しないままで誤魔化そうか? 悩んでいたフェルナーは、勝手に”いい人”にされてしまい、
[Ungaahhhh]
訂正のハードルが上がったことに困り果て、感情にまかせてキーを押す意味し、意味のない文字が表示される。。
「なにを言いたいのか分からんが、まずは落ち着け。一応、お前はまだ意識が戻っていないことにしておいた。いま意識が戻ったことにして、事情を説明してもいいが」
[嫌です。意識不明でいいです]
「では、これは撤去して……お前は、黙って意識不明になっているんだな」
右目からの恨みがましい視線を浴びつつ、ファーレンハイトは意思表示用のキーボードを取り上げて、フェルナーの足下に押し込み隠した。
検査の結果、問題はないと診断された彼女は、キスリングとユンゲルスに伴われてやってきた。
「アントン……」
包帯で至るところが巻かれ、ベッドに横たわっているフェルナーを見て言葉を失う。
「意識はまだ戻っておりませんが、ご心配なく。近日中に戻ると医師が断言いたしましたので」
意識が戻るもなにも、現時点で意識はあるのだが、フェルナーは微動だにせず。
「私って薄情なのね」
フェルナーは目を閉じたまま、彼女の声を聞く。
「どうなさいました?」
衣擦れと踵のない靴が奏でる足音が、フェルナーに近づく。
「このベッドに横たわっている男性が、アントンだなんて……まったく分からない。五年も仕えてくれた相手なのに」
フェルナーは見えるところも、見えないところも、包帯で巻かれている状態。
彼女以外の者たちや、
―― 私も鏡でこの姿見ましたけれど、自分とは思えませんでしたよ。気になさらないでください
フェルナー本人も、姿を見ただけでは”アントン・フェルナー”だとは分からない。むしろ分からなくて当然なのだが。
「この状態ですから、致し方ありません」
彼女のまとめていない髪が、彼女の着衣のシルクに触れた時に奏でられる音が、微かにフェルナーに届く。
「でも、皆はアントンだと分かったのでしょう? 私は、ここにいる人がアントンだなんて思えない」
「私たちも、所持品やDNAで確認しただけですから」
「でも……でも……アントン、ごめんなさいね。私、あなたが怪我をしているなんて、思ってもいなかったの。だから……見舞いに来てくれないあなたは、きっと私のことを見捨てて、違う人のところに行ってしまったと……。お父さまやお兄さまを助けようとして、大やけどを負ったあなたに……」
彼女は必死に謝った。謝って済むことではないと思いながらも。
―― 絶対、目開けないからな
声から泣いていないことは分かったが、フェルナーにはその表情を見る勇気はなかった。
「ジークリンデさま、そろそろ病室に戻りましょう」
ファーレンハイトが手を取り、できる限り優しく手を引くが、彼女はまだ離れたくないと。
「病室に戻りましょう」
彼女は頭を振って拒否したが、ファーレンハイトが抱き上げると、抵抗はせず。
「アントン……アントン、ごめんなさいね。ごめんなさいね」
治療室から連れ出されるまで、ずっと言い続けていた。
**********
いつ眠りに落ちたのか、彼女自身覚えていないが ―― 翌朝目を覚ますと、すでに準備が整ったファーレンハイトが、椅子に座って彼女をいつも通り見つめていた。
「おはようございます、ジークリンデさま。お早いお目覚めですね」
「おはよう……」
体を起こして、目元をこする。
「もう少し、お休みになられても」
「起きます」
「かしこまりました」
すぐに医師がやってきて、最後の診察を終えて、退院に問題のないことを告げる。
彼女は医師の言葉にほとんど反応は示さなかった。
運ばれてきた朝食に自分から手をつけようとはせず。
「少しは食べませんと。お体が持ちませんよ」
ファーレンハイトが薄く切ったドライフルーツが入ったライ麦パンを差し出した。
「そうですね」
それを両手で受け取って、時間をかけて食べきった。
「もう、充分でしょうか?」
足りていないのは一目瞭然だが、食べる意思がないのでこれ以上は無理だろうと、ファーレンハイトは食事を下げさせる。
「ええ」
ベルタの手により喪服を着せられ、その姿が映る姿見に触れて、しゃがみ込んでしまった。
「喪服着てばかり。もうやだ……」
ベルタはかける言葉が見つからず、背中を両手でさすることしかできない。
彼女の髪をまとめるはずであった美容師が、とても結えるような状態ではないとファーレンハイトに伝えにゆく。
「そうか」
ファーレンハイトは荷物の運び出し忘れがないかどうかを確認してから、彼女の元へ。必死に慰めてくれているベルタに会釈し、
「準備は整いましたか?」
「やだ……もう、やだ」
「そろそろ行きましょう」
黒いベールが付いている帽子を、彼女にかぶせた。
「やだ、やだ……」
それでも、彼女は縮こまったまま動こうとしないので、ファーレンハイトが抱き上げる。
彼女は首に手を回してつかまり、
「喪服やだ、いや」
譫言のように繰り返す。
「ザンデルス、コートを持て」
「はい」
柔らかく重さをほとんど感じないコートを持ったザンデルスが後を付いていく。
「申し訳ございません。黒い服以外、持ってきておりませんでした」
「喪服いやなの……もう、いやなの……」
「反省しておりますので、お許し願えませんでしょうか。帰ったら着替えましょう。何をお召しになります?」
「喪服やだ、喪服やだ……」
「淡いレモンイエローのパフスリーブドレスにいたしましょうか? それとも、プラチナラベンダーのアメリカンスリーブドレスにしましょうか? ジークリンデさまのご希望は?」
「いや、いや……」
どう話し掛けても「いや」としか言わない彼女に、ファーレンハイトは優しく語りかけながら駐車場へ。キスリングがドアの前に立っている、地上車に乗り込み軍病院を出た。
彼女は目覚めたら全てが終わっていた ―― 外を見るのが怖ろしく、ファーレンハイトに抱きついたままであった。それでも、震えが止まらない状態。
向かい側に座っているキスリングも、その震えがはっきりと分かるほど。
しばらくすると震えが止まったが、それは意識を失ったため。
ファーレンハイトは首に触れて脈を取る。
「異常はないようだが……」
「そうですね。提督、看護師だけではなく、医師も常駐させてはいかがですか?」
「その方がいいだろうな。ザンデルス、手配しておけ」
「はい。ジークリンデさまを担当していた、主治医でよろしいでしょうか?」
「それでいい」
**********
「ジークリンデさま、到着いたしました」
肩を揺すられて声をかけられ、ゆっくりと意識を浮上させた彼女は、言葉の意味を考えてまぶたを強く閉じた。
「……実家ですか?」
いつかは確認しなくてはならないと思っている”焼け跡”だが、今の自分に見ることができるだろうか? と。
「いいえ、違います。ブラウンシュヴァイク邸です」
そう言われて彼女はやっと目を開けて、怯えながらも窓から外を見た。そこには、見覚えのある豪奢な白い門と、よく盛大なガーデン・パーティーが開かれていた庭があった。
まったく変わらない景色に、彼女は安堵し、体の力が僅かに抜ける。
「公がどうしても会いたいと」
「分かりました。私もお会いしたいです」
抱きついていた腕をほどき、先に降りたキスリングが差し出した手を取って、彼女は下車して出迎えの召使いたちの間を通り抜けて、ブラウンシュヴァイク公の元へと向かった。
”退院したらすぐに連れてこい”と連日、方々に連絡をしていたブラウンシュヴァイク公。
「まだか! アンスバッハ」
軍病院を出る際に”これから向かいます”と連絡を受け、いまかいまかと待っていた。
「まだにございます」
「事件に巻き込まれているのではなかろうな?」
「装甲車四両を護衛につけ、邸にいたるまでの道に兵を配置しておりまする故、そのような心配はないかと」
「遅い!」
彼女の到着は決して遅くはなかったのだが、ブラウンシュヴァイク公のいらだちは募った。
それから十分もしないうちに、彼女が邸に到着したという報告を受けて、
「ブラウンシュヴァイク公。ジークリンデさまが」
「やっと来たか!」
公の表情がやっと、穏やかさを取り戻した。
久しぶりに会ったブラウンシュヴァイク公に、彼女は喪服をつまみ礼をする。長年培った礼儀作法には一切のよどみはなく、まさに流れるような美しさであった。
「伯父さま、お久しぶりにございます」
「ジークリンデ!」
公は大股で足音を大きく鳴らして近づき、彼女の両肩に触れる。
「伯父さま」
「体調は良くなったか?」
「はい。ご心配をおかけいたしました」
「いやいや、なにも言わんでいいぞ。行くぞ!」
「伯父さま?」
そして突如彼女の手首を掴むと、部屋を出て行こうとした。
「ブラウンシュヴァイク公、どちらへ?」
「なにを言っておる、アンスバッハ。領地へ行くに決まっているであろう。こんな危険なところに、ジークリンデをおいておけるか!」
公は彼女と直接会って、無事でいることを確認したら領地に戻ることになっており、その準備は整っていた。
「お待ちください。ブラウンシュヴァイク公」
そこへ彼女も伴うと、突然言い出した。
「あーうるさい、うるさい! 儂はブラウンシュヴァイク公だぞ、分かっているのか、アンスバッハ」
ブラウンシュヴァイク公としては、突然ではなく、彼女を連れて来るよう命じた日から、そうするつもりであったのだが、他の者たちにとっては、いきなりの出来事。
だが現在の彼女は、ブラウンシュヴァイク公であっても、自由にどこへなりと連れて行くことはできない。
夫の許可なく連れ出せば、誘拐扱いになってしまい、公は罪に問われることになる。
後見人のファーレンハイトが許可を出すことも可能だが、
「退院はなされましたが、まだ医師の定期的な診察が必要です」
「医者など、いくらでも手配できるわ! さあ、行くぞ! もう、怖いことはないぞ、ジークリンデ」
夫であるラインハルトと協議する必要もある。
もっと協議したところで、移動の許可が下りる可能性は少ない。それは公の領地よりも、オーディンにいた方が格段に安全だからに他ならない。
一度彼女を守りそびれたラインハルトは、今度は彼女を守るために、大量の兵を投入した。もう手遅れである感が否めないが、それでも ――
「伯父さま」
腕を引かれていた彼女は立ち止まらず、そのまま公の胸へと倒れ込み抱きついた。
「なにも心配せずともいいぞ、ジークリンデ」
公には全くと言っていいほど悪意はなく、自分が正しいことをしているとしか思っていない。
「あの……ですが」
「早く用意をしろ!」
「落ち着いてくださいませ。ローエングラム伯爵夫人を、許可なく連れ出せば、最悪エッシェンバッハ侯とことを構えることになりますぞ」
「それが、どうしたというのだ、アンスバッハ」
抱きついていた彼女は、いまできる限りの笑顔を作って、公に懇願した。
「止めてください、伯父さま。お願いです、伯父さま。私から大切な人を奪わないでください。伯父さまが……夫に殺されたら、私はどうしたらいいのですか」
「ジークリンデ」
もう少しで泣き出してしまいそうな笑顔を前に、公の動きが止まる。
「伯父さま、伯父さま。私は大切な伯父さまを失いたくないのです。ですから……お願いです」
嫁いでからこの方、一度たりとも見せたことのなかった悲痛な面持ちに、
「ジークリンデや……」
「私は大丈夫ですから。伯父さま、伯父さま、お願いです」
公は彼女を連れて行くことを諦めた。
公に別れの挨拶をし、
「アイゼナッハ」
領地まで同行し、その後も滞在し警備を担当してくれるアイゼナッハと会った。
「ご無事でなによりです、伯爵夫人。ブラウンシュヴァイク公のことは、お任せください」
アイゼナッハが喋っていたのだが、それが珍しいことに気付くほど余裕もなく、
「お願いね、アイゼナッハ。私、これ以上悲しみたくないの」
そう言い残してブラウンシュヴァイク邸を去った。
病院を出てからブラウンシュヴァイク邸に向かう途中までよりは、幾分落ち着いた彼女は、一人で座席に座った。
「次に向かうのは、エッシェンバッハ侯の元帥府です」
「そうですか」
次に向かう場所を聞いた彼女は、首を傾げた。
「警備の関係上、しばらく元帥府に滞在していただくことになります。家財道具などは、勝手ながらシュワルツェンの邸から移動させてもらいました」
「分かりました……私も狙われているの?」
彼女はうつむき、黒い手袋で覆われた手で、喪服をぎゅっと掴み、肩を震わせる。
”せっかく、落ち着かれたのに”喋った本人であるファーレンハイトが、内心舌打ちしながら、
「念のためです」
「そう……ですか」
心配ごとはないと、言い聞かせる。
「信用できませんか?」
「そんなことはないですよ」
彼女は顔を上げてファーレンハイトに笑顔を向けて言ったのだが、瞳も声も虚ろであった。
元帥府の西側、住居にすべく完全に隔離されたスペースに到着した彼女を、オーベルシュタインが出迎えた。
「お待ちしておりました」
「オーベルシュタイン」
「ジークリンデさまを身の危険にさらしてしまったこと、申し開きの言葉もございません」
「気にしなくていいわ。私は無事ですし」
一階に設えられた彼女の部屋へ。窓や扉の位置は違うが、それ以外は、ほぼ以前と変わらない部屋に連れてこられた彼女は、ソファーに腰を下ろす。
ファーレンハイトは彼女の背後に立ち、オーベルシュタインが説明をする。
「足りないものがありましたら、なんでもお申し付けください」
「分かりました」
「国葬の件についてですが」
「……」
「後にいたしましょうか?」
「いいえ。続けて」
「それでは。明後日、リヒテンラーデ公の国葬が執り行われます。その際、ジークリンデさまに、皇帝陛下の代理で出席して欲しいとのことです」
色々と候補はいたのだが、もっとも”映え”、かつ相応しいのは彼女だということで、この人選になった。
「分かりました」
「事情により、マールバッハ伯も臨席しますが、大丈夫でしょうか?」
「…………」
「お嫌でしたら、遠慮なく言ってください」
「オーベルシュタイン」
「はい」
「准将になったの?」
彼女自身、どうして質問に答えないで、こんなことを聞いているのか? 不思議なのだが、何故か話をそらすようなことを口にしてしまった。
「はい」
だがオーベルシュタインも怒るわけでもなく、肉付きの薄い顔に、その雰囲気とはまるで違う優しげな表情を浮かべて返事をする。
「そう。良かったわね」
「ありがとうございます」
彼女は一度後ろを振り返り、ファーレンハイトを見て、
「……マールバッハ伯のことは、気にしなくても良いわ」
昨日”マールバッハ伯は殺していない”という言葉を信じることにした。
「然様ですか」
「お父さまやお兄さまの葬儀は?」
「その後、別の会場で執り行われるよう手配しております」
「オーベルシュタインが手配してくれたの?」
「僭越ながら」
「あなたが用意してくれたのなら、間違いはないでしょう」
「ありがたきお言葉」
「少し、一人きりになりたいわ」
彼女がそう言ったので、二人は部屋を出ようとした。
「……待って」