ジークリンデが未亡人になる九年前 ――
リヒテンラーデ侯の所有する邸の手入れが行き届いた庭。大きくはないが、彫刻が見事な噴水。その近くにある蔦で覆われた棚の下、石造りのテーブルと白い椅子。
噴水に降り注ぐ光の照り返しが少し眩しいと ―― 先に席に着いていたジークリンデは思った。
結婚は決まったが、いまだ会ったことのない相手を待つジークリンデ。
彼女は会ったことのない貴族、フレーゲル男爵と、今日この場で結婚するのだが、父親は同席していない。
彼女は詳しい説明を聞いていないが、フレーゲル男爵も父親が立ち会わないので、両者とも後見人だけを立ち会い人にすると教えられた。
「詳しい事情は、のちほど説明する」
忙しいなか、わざわざ時間を作って立ち会っているのであろうリヒテンラーデ侯にそのように言われた彼女だが、勝手に自分の人生を決めておいてその言い分は……そう思ったが、これが貴族というものなのだろうと自分に言い聞かせた。
結婚が決まってから結婚するまで四日間。新しいドレスを用意する余裕などなく、手持ちのものを組み合わせただけ。
父親はジークリンデを不憫に思ったが、当人は別に好きな男に嫁ぐわけでもないので、格好などどうでもよかった。
だが彼女はかつて原作を楽しんだ一読者として、フレーゲル男爵と会うのは楽しみであった。
―― 思えばフレーゲル男爵ってすごい登場人物だなあ。全十巻中、前半の二巻にしか登場していない。それも部分部分だけ。それなのに読んだ人は確実に覚えている。リヒテンラーデ侯は後半にエルフリーデが出てきたから分かるけど、フレーゲル男爵は単体……ロイエンタールやミッターマイヤーと絡みがあったからかなあ。……いや、それにしてもインパクトが大きい。
人格はどうであれ、銀河英雄伝説という物語にとって重要な人物であることは疑いの余地がない。
フレーゲル男爵ほどではないが、なぜか覚えられている人といえば、かの黒色槍騎士兵艦隊の苦労人リヒャルト・オイゲンだろう。
猪突猛進の司令官に、提督と全く同じ思考回路の副司令官。突撃以外の作戦を立案したことあるのか? と思わせる参謀長の下にいる、常識人な副官。
―― あの副官は、誰かの不興を買ってあの人事されたとしか思えない
死亡フラグ回避など抜きにして、リヒャルト・オイゲンに会ってみたいなと、彼女は願っていた。むろんその願いは後に叶い、リヒャルト・オイゲンは原作通りの人生を歩む。
「来たようだな」
抑揚のないリヒテンラーデ侯の声と、騒がしくなる通路。
彼女は立ち上がりフレーゲル男爵とブラウンシュヴァイク公が到着するのを待った。
薔薇のアーチを抜け現れた二人は、軍人の格好であった。フレーゲル男爵は少佐、ブラウンシュヴァイク公はこの頃は上級大将。ふたりとも当然ながら予備役で。
「お前がジークリンデ・フォン・フライリヒラートか」
「初めまして、フレーゲル男爵。ジークリンデと申します」
フレーゲル男爵との初対面は、可もなく不可もなく。少女小説のように出会いは最悪で、そこから……というようなものではなかった。
妨害もなく、心地良い陽射しを受け、ブラウンシュヴァイク公とリヒテンラーデ侯の立ち会いの下、二人は結婚証明書にサインをし、晴れて夫婦となった。
「顔も美しければ文字も美しいのだな」
「お褒めくださり、ありがとうございます。フレーゲル男爵」
思いも寄らないフレーゲル男爵の性格の良さに、彼女は「この人、もしかして、アレか。ペドフィリアか」と警戒したものの、それは杞憂に終わった。
初対面で結婚し、ジークリンデはそこでリヒテンラーデ侯と別れ、身一つでブラウンシュヴァイク公が用意してくれた新居へと向かう。
「お前の部屋はここだ」
二日ほど早く引っ越していたフレーゲル男爵は、邸を案内してくれた。
「ここ、ですか」
壁一面に取られた窓と、小さいながらも緞帳がついている舞台のある部屋。舞台の上には黒いグランドピアノ。
「お前はピアノが得意だそうだな。私に聞かせろ」
フレーゲル男爵は壁沿いに置かれている飾りもののような椅子に腰を降ろした。
彼女はテーブルに積まれている、楽譜を手に取り、ページを捲る。楽譜はゴールデンバウム王朝が成立以後の比較的新しい時代のものが取りそろえられていた。
「かしこまりました。男爵はどのような音楽がお好みですか?」
ゴールデンバウム王朝成立以後の音楽は、軍国をイメージして作られたものが多い。
「私は軍人だから、やはり勇ましい音楽が好きだ」
「そうですね。では……」
故に何を弾いても、条件に合致する。
それでも一応選びはした。メジャーな曲ではなく、だが有名作曲家の曲で短め。後日フレーゲル男爵が曲の難易度を調べた際に、ピアノが得意と言われるだけのことはある! と、納得できるような曲を選び、彼女は無難に引きこなした。
「おお! 噂以上の腕前だ!」
フレーゲル男爵は立ち上がり手を叩き、ピアノの前に座っている彼女へと近づいてきた。
「お気に召していただけて、良かったです」
「また聞かせてくれるか」
「聞いて下さるのでしたら、いつでも弾かせていただきます」
原作とは似ても似つかぬ、フレーゲルらしからぬフレーゲルに彼女は毒気を抜かれた。
人はよいフレーゲル男爵だが、結婚した場合避けられないのが性交渉。
彼女の中身は成人を越えているが、現在の年齢は十一歳。雰囲気がいくら大人びていようとも、体は子供である。
召使いたちは教育されているため、彼女の身支度を調えているときも表情はなく、今夜フレーゲル男爵と寝るのかどうか? 彼女には判断がつきかねた……が、フレーゲル男爵の寝室に呼ばれたので、覚悟を決めて彼女は向かった。
「来たか」
「お呼びと」
フレーゲル男爵は彼女に付き従ってきた召使いたちと、寝室にいた召使いたちを下げ、二人きりとなり ―― 手招きされたので、ベッドに座っているフレーゲル男爵の隣に座る。
「なにもしないから安心するがいい。そうだな、今夜は私たちが結婚した理由の一つを説明しよう」
肩を抱いて、フレーゲル男爵と彼女が結婚した理由の説明を始めた。
「私はフレーゲル内務尚書の息子で、母はブラウンシュヴァイク公の妹だ」
「存じております」
結婚するまでの四日間で、彼女は覚えられるだけのことは覚えた。その中にフレーゲル男爵が今語ったことも入っていた。
「母は産後の肥立ちが悪く、私を産んで一週間ほどでこの世を去った」
「そう……でしたか」
それも知っているのだが、この場合「知ってます」というのはおかしいだろうと、意図的に途切れさせながら答える。
「私は七歳になったとき、ブラウンシュヴァイク公に跡取りとなるために軍人になるよう求められた」
「ブラウンシュヴァイク家の跡取りですか?」
尋ねるように聞いてはいるが、これも彼女は知っている。
現当主オットーの妻はフリードリヒ四世の娘アマーリエ。いわゆる皇女。
権力を得るために貰った妻なのだが、それは諸刃の剣であり賭けであり ―― そしてブラウンシュヴァイク公は賭けに負けた。
アマーリエは今から四年前、十六歳で非業の死を遂げるエリザベートを出産した。
その際、アマーリエは二度と子供が産めない体になってしまった。女児でも爵位を継ぐことはできるというが、男児が継いだほうがよいというのが暗黙の了解となっている。
普通であれば子供を産めなくなった妻と離婚し、新しい健康な妻を迎えるところなのだが、妻が皇女なのでそう簡単にはいかない。
身分の高い妻は権力を得るために必要だが、その代償は大きい。
アマーリエが健康と引き替えに産んだエリザベートだが、先天的に卵巣がなかった。子供が産めない体ということだ。卵巣以外の女性特有の臓器は全て揃っていたので女児として出生届けが出されたが、ブラウンシュヴァイク公爵家の次代を担うことはできない。
ここまで行き詰まってしまえば離婚するしかなさそうだが、エリザベートについて公爵は認めておらず ―― 触れられない公然の秘密であり、誰も知らないという建前上、やはり離婚はできなかった。
そこでブラウンシュヴァイク公は姉たちの子を公爵家の跡取りにしようと考え、早くに母を亡くしたレオンハルトことフレーゲル男爵を引き取った。
ブラウンシュヴァイク公爵家を継ぐのだから、その類縁と結婚すべきだろうと。
フライリヒラート伯爵家はブラウンシュヴァイク公の類縁にはあたらない ―― 調べた彼女は思い、この結婚に裏があることをはっきりと認識した。
「そうだ」
「ならば私ではなく、もっと相応しい方がいらっしゃっるのでは?」
「私もそう思い、お前との結婚が決まった際に伯父上に尋ねたのだ。すると伯父上は難しい顔をしながら、語ってくれた。この結婚は皇太子が関係していると」
思いも寄らぬ人物の名に、ジークリンデは瞳を大きく見開いた。睡魔が訪れる気配はまるでない ――