ケスラーより帰国前から連絡を受けていたルッツは到着後、ケスラーと共に彼女の実家であるフライリヒラート邸に訪れていた。
執事に案内され、邸の主である彼女の父親の元へ。
通されたのは煙草部屋と呼ばれる小さめの部屋。
煙草部屋とは呼ばれているが、伯爵は煙草を吸わないので、煙草は暖炉のマントルピースの上に飾られているだけの部屋である。
包み込むような背もたれが特徴的な椅子が円を描くように並べられているが、二人とも伯爵と同じ席に着くような身分ではないので、直立のまま話をする。
「よく来てくれた、ケスラー」
呼ばれはしたが部屋にはもう一人 ―― 執事のオルトヴィーンが控えていた。
「お久しぶりにございます、旦那さま」
「またジークリンデの警備を担当してくれているそうだね、ケスラー」
「はい。幸運なことに、ジークリンデさまのお側に仕えられる機会を再びいただけました。この幸運に感謝し、誠心誠意ジークリンデさまをお守りいたすこと、旦那さまに誓わせていただきます」
「ジークリンデも再会を喜んでいたよ。そして、ルッツ」
「はっ!」
「新無憂宮での狩猟、君が手入れしてくれた銃が、一番使いやすかったよ」
「光栄にございます、閣下」
「それで、オルトヴィーン」
呼ばれた執事が通常貴族はあまり使わない、B4版サイズのタブレットを持った執事が一歩踏み出し、画面を立ち上げた。
「はい、旦那さま。ここに」
「ルッツが選んだ銃に合わせて、ジークリンデが選んだドレスだ。どうだね?」
その画面に映し出されたのは、ラインハルトにキスをされた日に着ていたマーメイドラインのドレスに身を包んだ彼女。澄まし顔でルッツが選んだ銀銃を右手に持っている姿。
「お美しい限りです」
白いウッドデッキと、それに絡む緑のツタを背景にした彼女は、注文のつけようがないほど。
「ジークリンデは、このプラチナラベンダー色のドレスも良く似合うであろう」
上機嫌の伯爵にそのように言われたらルッツだが、
「は、はあ」
思わず言葉を濁した。
「似合わないかね?」
「そうではなく、これほどのお美しさでしたら、どのような色でも似合うのではと……小官は思ってしまうのですが」
「ああ、そういうことか。ケスラー、ジークリンデはなんでも似合うと思うかね?」
ルッツの後ろから見ていたケスラーに意見を求めた。
「それに関してはルッツ提督と同じ意見でございます」
「なるほど。面白みはないが、悪い気はしないな」
伯爵自身、このようなやりとりには慣れている。彼女はなにを着ていても似合う。どれほど派手な服装であろうとも衣装に負けることはなく、シンプルな格好でも華やかに。清楚な格好をすればするほど、奥に品のある艶気を秘める。
「君たちを呼んだのは、再会の喜びと銀銃に対しての感謝。それと、エッシェンバッハ侯とジークリンデとの関係についてだ」
ケスラーは当然、そしてルッツはベルゲングリューンから噂を聞いていた。 ―― 帰還兵から事情を聞くよう彼女はファーレンハイトに依頼し、直接情報を集めたのはビューロー。ベルゲングリューンとは同期で、交友のある二人の間で情報をやりとりし、その流れでオーディンでの噂が帰還途中の彼らの耳にも入ることになった。
困り果てていたのは、彼らの上官にあたるキルヒアイスであったが。
「それは……」
「その……」
「君たちを責めたいわけではない。むしろ逆だ」
「どのような意味でございましょう? 旦那さま」
「ジークリンデと君たちの主であるエッシェンバッハ元帥の夫婦仲に関して、どのようなことがあったとしても……君たちは元帥の側につきなさい。聡い君たちのことだから、そんなこと、言わずとも分かっているだろうが」
伯爵とケスラーは十二歳違い。私人としての感覚は、十五歳違いのラインハルトより、年齢が近い伯爵寄りである。とくに幼いころの彼女を知っているので、その心情は強い。
「旦那さまも、お噂を?」
なによりも現場を目撃した証人。
むろん噂を流したのはケスラーではないが、積極的に止めることもできなかった。
「聞いてはいるよ。ジークリンデはもう二度も結婚しているのだが、まだ求婚者が絶えなくてね。彼らが色々と噂を届けてくれるよ。あまり聞きたくはないのに」
噂の内容は、総合すると”彼女がラインハルトに襲われかけた”というもの ―― なまじ現場にいたケスラーは訂正することができず。
「そうでしたか」
すべて正しいわけではないが、まったくの作り話というわけでもない。
「だがエッシェンバッハ侯はあれで充分だ。殴るわけでもなければ、不自由な生活をさせているわけでもない。親が言うのもおかしいが、ジークリンデより不幸な結婚生活を送っている者は多数いる。それに比べたら……できれば幸せになって欲しいが、難しそうだし、望みすぎなのだろうが」
「閣下、なぜ小官たちにそのようなことを」
「だが私もあの娘の父親なのでね、どうしようもなく困っていたら、少しだけ手を貸してやって欲しいと願ってしまうのだ。私が知っている侯の部下は君たちだけなので、直接話しておきたかったのだよ。……ああ、メックリンガーも知っているが、彼とは会う機会が多いので。まずは君たちに」
彼女の父親にそのように言われ、二人とも「できる限りのことはいたします」と約束し、邸を辞した。
「旦那さまもお人が悪い」
執事が窓から外を眺めている伯爵に、苦笑いを浮かべて先程の会話の感想を述べた。
チェーン付きの眼鏡のフレームを右手で押し上げ、
「私の先ほどの工作なぞ、リヒテンラーデ公閣下に比べたら、可愛いものだと思うが」
斜めに執事を見ながら言い返す。
「五十ちかくになって、ご自身のことを可愛いなどと言える人は、まず可愛くはありません」
あのように言えば、彼らの心がぐらつくことを分かって、伯爵は言葉を発したのだ。
二人を選んだのは、直接会ったことがあるので、性格が大まかにだが分かっているため。もう一人、メックリンガーのことも知っているが、彼は他の貴族と交流があるので、伯爵自身が言う必要もない。
「そうかね。それにしても、あの部下たちを見ていると、エッシェンバッハ侯がまっすぐな性格であることが分かるな、ダールマン。上官に似てまっすぐな性格だ」
ダールマンとはオルトヴィーンの以前の姓。
「そうですな。主への忠誠心と、か弱い女性に対する騎士道に挟まれて、さぞや苦労することでしょう。なにより未婚ゆえ、女性に対する幻想も強いでしょう。ましてお嬢さまは幻想を体現したかのような存在ですので、彼らはお嬢さまに傾倒することでしょうな」
二人の会話はドアがノックされたことで途切れ ――
「旦那さま、リンダーホーフ侯爵が、是非とも夕食に招いて欲しいそうです」
執事は従僕からの伝言を伯爵へと伝えた。
伯爵はリンダーホーフ侯爵の名を聞き、細い眉をややつり上げ聞き返す。
「それはそれは、またどうして?」
「本日、お嬢さまはこちらに泊まるそうです。どこかでその情報をつかんだのでしょう」
リンダーホーフ侯爵家は言わずと知れた銀河帝国の名門。
十五代皇帝エーリッヒ二世(止血帝)が、皇帝になる前に名乗っていた爵位。現リンダーホーフ侯爵は、その止血帝の血を連綿と受け継いでいる。
「彼もあきらめない男だね」
そんなリンダーホーフ侯爵は、帝国の門閥男性貴族の例に漏れず、彼女のことを気に入っていた ―― リンダーホーフ侯爵本人は、愛していると言い切るのだが、娘が彼のことをなんとも思っていないことを知っている伯爵と、既婚者を口説いた男を遺伝的な父に持っていた執事は、この種類の男が好きではなかった。
むろん当人を前にして、そのような素振りを見せることはないが。
「お嬢さまがローエングラム伯を継がれたことで、ますます運命を感じているようです」
「ロマンチストなことだ。まあ、ご招待しなさい。名門の侯爵だ」
「かしこまりました。それでは準備に取りかかります」
リンダーホーフ侯爵が彼女に感じている運命とは、エーリッヒ止血帝に従いアウグスト流血帝を討つ軍を率いた三提督の一人が、コンラート・ハインツ・フォン・ローエングラム伯爵であったこと。
ローエングラム伯爵を継いだ彼女と手を取り合えば、リンダーホーフ侯爵家からまた皇帝が ――
彼女がその考えを聞かされたら ―― 勝手にお願いします。私を巻き込まないでください。皇帝を狙う男はラインハルトとロイエンタールだけで充分です。トラーバッハ星域会戦再びなんて嫌です ―― 目眩を起こして倒れるであろうが。
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彼女の父親であるフライリヒラート伯爵と、ケーフェンヒラーの血を引いていないのに男爵を名乗っている執事に、まっすぐな性格だと言われたルッツとケスラーの二人は、伯爵邸を辞してから、自動運転の地上車内で、ため息しかでないような会話をすることになった。
「本当のところは、どうなのだ? ケスラー准将」
「名誉と考えると言いたくはないところだが……噂を信じられても困るからな」
距離を隔て、間に何人もの人が介した噂だけを聞いていたルッツは、真実を知っているケスラーに本当のことを教えて欲しいと頼んだ。
「元帥閣下が伯爵夫人に、無理強いをした噂まで立っている」
彼女の父親の耳に入っている噂も、この類いのものである。
もっとも帝国では夫婦間の強姦は成立はしないので、問題視されるような出来事ではないのだが ――
「卿の誠実さを信じて、言わせてもらうと……現場に遭遇した小官としては、その噂はほぼ事実だと言わざるを得ない」
「まさか……いや、卿を疑っているわけではないぞ」
ケスラーは彼女から聞いた行為の理由と、その時の彼女の状態をできる限り感情を込めず説明した。
「浮気したかどうか確認しようと指で……これ以上はさすがに言えんが、翌日、小間使いが出血に驚いて噂となった。間違っていないので、訂正のしようがない」
彼女が”ラインハルトですから”で許したことだが、軽微な出血をも伴っており、事態は悪い方向に進んでいた
「傷のほうは?」
「たいしたことはないとおっしゃっていたのだが」
「私生活に口を出すわけにはいかないが、警備担当の卿としては辛いところだな」
ナイフを持った女が、玄関付近に潜んでいても発見されないような元帥邸の警備ならばまだしも、ほとんどの貴族を敵と見なし、姉の安全に細心の注意を払っているきめ細やかな警備 ―― その状態で”あれ”は、警備する側にとって辛いものである。
「小官は伯爵夫人の幼い頃を知っているので、肩入れしてしまう部分があるのは分かっているのだが……それを差し引いても」
「自宅ではなくご実家に帰ってもらうというのは?」
「それはそれで、噂を後押ししてしまうような」
情報操作などが不得手な二人には、どうすることもできなかった。
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彼女が実家に帰ったその日、キルヒアイスが帰宅し、ラインハルトはその間の出来事を語り ―― 彼女に対しての行動は語らなかったが、すでに知っていたキルヒアイスに問われ、気恥ずかしさから怒り気味に事情を説明した。
聞き終えたキルヒアイスは、無力感に襲われた……が、そのまま沈黙していているわけにもいかなかった。彼はラインハルトを公私共に支えることを誓った男である。
そこでラインハルトの気分を害さないように、できなかったことや、どのような状態ならば、巧く接することができそうかを尋ねた。
その結果、ラインハルトは「できるなら格好は男に近く(構造がまったく分からないので、脱がせられない)髪はできるなら短めで(複雑にまとめていると、どのように扱っていいのか分からない)が良い」となった。
男装で短髪 ―― 要するにヒルダである。
聞き終えたキルヒアイスは「それを求めたら、間違いなくほとんどの提督が敵になります」と、惨憺たる気持ちで助言をするしかできなかった。
ヒルダは本人が好きであの格好をしているので受け入れられているだけであり、あれを貴族女性に求めると反感を買うことになる。とくに求められた女性よりも、周囲の男性から。
帝国の男は本人たちが思っている以上に保守的である。特に外見に関しては。
ラインハルトがルドルフの銀河帝国を打倒することに賛同できても、妻に髪を短くするように求めることに関しては麾下の提督の九割は同調しない。
むろんラインハルトもそのようなことを求めたりはせず「当然だ。欲求に負けて伯爵夫人に、そのような格好を求めるなど、あってはならないことだ」自信満々に言い返してきた。
―― それはそれで、問題なのですが
宇宙を征服するのとはまた違った、前途多難な事態となっていた。
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数多の男に求愛され、その中に高確率で皇帝の座を狙う者が含まれていたり ―― 黙っているのに、国を混乱させてしまう彼女……の護衛であるキスリングは、同期のザンデルスに連絡を入れた。
「ザンデルス。俺だ」
『どうした? キスリング』
「忙しいところ悪いんだが、ジークリンデさまが」
忙しいのが分かっているなら、連絡なんて寄こすな……言いかけたザンデルスだが、
『ジークリンデさまがなにか?』
彼女が関係しているとなると、事情は違う。
「演習に発つお前たちを見送るとき、軍服を着ていこうとしているのだが……止めさせたほうがいいよな」
『あー別に構いはしないけど……でも、やっぱり……』
軍は貴族と同じく階級社会。上の階級の者が、下の階級の者に頭を下げるなどあり得ない。
「でも俺、説得できる自信ない」
だがそのあり得ない状況が確実に起こるので ―― 回避すべく、キスリングは副官に連絡を入れた。当のファーレンハイトに言ったところで、なんの解決にもならないことは分かっているための措置。
『そんな時はフェルナー准将だ』
「引き留めてくれるか? けしかけそうな気がするんだが」
他のことならば、けしかけて楽しむフェルナーだが、彼女が関わると笑えるくらいに常識的になる。
『フェルナー准将で無理なら、あきらめよう』
「あきらめていいのか?」
『珍しいもんでもないし。誰も気にしないってのが、本当のことろだ』
少将に対して腰が低い大将 ―― キスリングから連絡を受けたフェルナーは「分かった、説得してみよう」と返事をし、連絡をもらった翌日に彼女の執務室を訪れた。
彼女は軍服ではなく、ドレスに着替えていた。着替えた理由は、いつものことだが皇帝カザリン・ケートヘン一世に汚されたためで。
デザインはまさに中世のお姫さまを思わせるドレスで、ガウンのような部分がワインレッドで、内側はオフホワイト。その境を大小さまざまな群青色のリボンが飾っている。
「少将の格好をして大将に頭下げさせたいというなら、止めはしませんが」
説得をしているとは思えぬ態度でフェルナーは話しかけた。
「突然なに? フェルナー」
「演習を見送るとき、軍服を着てくるんじゃないかなと思ったので、忠告に参りました」
「忠告ですか。……その忠告は受け取りますが、最初から大将に頭を下げさせようなどとは、思っていませんよ」
「はいはい。分かってますとも。でも見ることができますよ。ファーレンハイトはいきなり態度変えろといわれて、変えられるような性格じゃないの、ジークリンデさまはよくご存じでしょう」
軍人ならできるのでは?
言いかけたが、彼女自身、自分のことを正式な軍人だとは思っていないので、軍人扱いされないことを受け入れられるが ――
「……ええ」
あまり褒められない状況であるのも分かる。
フェルナーはさらに身を乗り出して、彼女に顔を近づけて
「見て面白いものなら止めませんが、意外性もなにもないので、つまらないのですよ。賭の対象にもなりはしませんし」
”止めたほうがいいですよ”と ―― まっすぐ”着ないでください”と言われても受け入れる彼女だが、言う方がひねくれているので少々遠回りになる。
「意外……分かりました、軍服は着ていきません」
「分かってくださって、このフェルナー、嬉しく思います。ついでに希望としては、粧し込んで来てください」
「わかりました。じゃあ、目一杯おしゃれしていきますから」
「期待してますよ」
話が終わったフェルナーは”要らない”と運ばれてきたコーヒーを拒否し、手を振って執務室を後にする。
「あ、フェルナー」
「なんでしょう? ジークリンデさま」
「ところで、演習はどこの艦隊と?」
「フォン・ビッテンフェルトの艦隊とですよ」
―― なんか……攻撃的な演習ですね……被害甚大?
違う性質の艦隊と演習したほうが良いのでは? 彼女は思ったが、
「そうなの」
「では失礼いたします」
むろん言うことはなかった。
ともかく、このようなやり取りを経て、出発当日 ――
正規軍の場合は部外者は戦艦が間近にある状況で見送ることはできないが、貴族の私軍となると事情は異なり、ただひたすらに広い強化コンクリートに覆われただけの軍港に停泊している戦艦の側まで近づくことができる。
銀の双頭鷲の紋章が中心に描かれている黒みの強い灰色の戦艦 ―― 貴族の私軍であってもゴールデンバウムの紋が描かれている ―― そして黒と紺の間のような色合いの軍服が行き交う空間に、アプリコットピンクのドレスを着た彼女。
オーガンジーをふんだんに使った、ふんわりとしたプリンセスライン。少し引きずる長さで、ソフトタイプのパニエが、ドレスの色に合った膨らみを作り出していた。
袖は五分だが、袖口がレースで飾られており見た目は九分丈ほど、いわゆるバゴダスリーブ。
そしてショート丈の手袋。こちらの袖口は小さな赤珊瑚とダイヤモンドが縫い付けられている。
目を引く艶やかな黒髪はまとめず、銀とダイヤモンドのバレッタタイプのブローチで飾られた、ピンクアイボリーのボンネットを被っている。
そして精巧な意匠のヴェルメイユのイヤリング、首元を飾るのは五連の真珠のチョーカー。
「粧し込んできていただけたら、とは言いましたよ。でも、限度というものがあるでしょう」
彼女の格好に、フェルナーは頭を抱えた。
本気で粧し込んできてくれるであろうとは思っていたが、これほどまでとは考えてもいなかった。
「ジークリンデさま本気だな……誘拐されても文句は言えない、を体現していらっしゃる」
本気を出して着飾ってきた彼女は、難しそうな顔をしているフェルナーとファーレンハイトに近づき、
「なにかあったのですか?」
深刻な事態でも起こったのかと、やや上目遣いで透き通るような翠の瞳を向けてくる。
「問題は……もう無事に処理し終えました」
「ご心配をおかけして、申し訳ございません」
「そうですか。それなら、良いのですが。フェルナー、しっかりと着飾ってきましたよ。どうです?」
彼女は両手でスカートをつまみ”ふわり”と一回転して見せる。
軽いオーガンジー素材が風をはらみ、癖のない黒髪も同じように舞う。青空を背に身軽で重さを感じさせない動きは、天使が空に帰るかのような仕草に見え ―― フェルナーとファーレンハイトが彼女の肩に片手ずつ乗せて視線をそらしてため息を吐く。
「……似合ってません?」
彼女としては褒めて欲しい訳ではないが、露骨に疲れたような態度をとられると気にはなる。
「逆ですので、お気になさらぬように」
「お似合いですよ、似合い過ぎて困るくらい」
「……」
彼女としてはなんとも釈然としない賞賛を受けから、演習へと向かう主要な将校に「頑張ってきてね」と声をかけて歩き、最後にファーレンハイトと並んで歩き ――
「新しい録音ですよ」
いつも通りに彼女が弾いた曲を録音したプレイヤーを、ファーレンハイトに手渡す。
「ありがとうございます。いただいてすぐに失礼ですが、今度パスピエを希望してもよろしいでしょうか?」
「……ドビュッシーのベルガマスク組曲のパスピエですか?」
「はい」
「どこで知ったの?」
ファーレンハイトは音楽の素養がないことを、彼女はよく知っている。元は彼女の護衛でもあったファーレンハイトは、彼女がピアノ講師から習っている際に、当然ずっと部屋の隅で待機していた。
教師が帰ったあと、当時仲良くなろうと必死だった彼女は「どう? 結構筋が良いと褒められるのよ」と話しかけたところ「初めて聞く曲なので、分かりません」と返されて ―― なかなか話題が見つからなかった頃の出来事である。
「ミッターマイヤー提督のご自宅で弾かれたとか」
その頃から比べると、信じられないような変化だが ――
「本当に、誰から聞いたのですか」
「あちらこちらから情報が。どのような曲かは知りませんが」
「分かりました。帰還したら聞きに来なさい。それまで練習しておきますから。だから演習で負傷などしないでね」
「はい。ジークリンデさまも……陛下にはお気をつけて」
カザリン・ケートヘンの激突により、彼女が倒れそうになっているのは、ファーレンハイトも聞いている。
「ええ」
皇帝に倒れ込んではいけないと、必死に堪える彼女にカザリン・ケートヘンは容赦なく縋りつき、結局護衛たちが彼女を支えることになっている。
「出過ぎとは思いますが、侍従武官長の職、辞されたらいかがですか?」
「陛下のことは大丈夫ですよ。とても楽しいから」
「それは存じております。私がもうしたいのは、シュトックハウゼンの件のようなことが、この先もあるかもしれないので、それらがジークリンデさまのお心の負担になるのではないかと」
「……落ち込んだの、ばれてました?」
シュトックハウゼンはあの後、即日処刑 ―― 分かっていたことだが、落ち込まずにはいられなかった。
「はい」
なぜ分かったのかなどは一切言わず、短い返事で返され、
「心配してくれてありがとう。でも大丈夫よ。心配してくれる人がいる限り、私は耐えられるわ」
彼女は腕を伸ばしファーレンハイトの頬に軽く触れる。
持ち上げられ袖が重力に沿って落ち、白い腕があらわになった。
「その一人に数えられているのでしたら、光栄です」
「もちろんよ」
「陛下のお側はいかがですか?」
「陛下にお会いするたび、とても楽しくて……今更言っても仕方のないことですけれど、子どもを産んでおけば良かったと後悔しています。本当に情けないことですが、子どもがいてくれたら……」
彼女は手を下ろし、小さく頭を振る。
「返答に窮しますが、ジークリンデさまは、まだまだお若い。私に言えるのはこのくらいです」
故人はともかく、現在の夫が微妙なラインで止まっていることを知っている以上、無責任なことを言うわけにもいかず、ファーレンハイトは言葉を濁した。
「……ねえ、ファーレンハイト」
「はい」
「なかなか言い出せなかったのですけれど……あなたはもう、ブラウンシュヴァイク公に仕えなくてもいいのですよ。仕えたい相手がいるのでしたら、そちらに移ってもかまいません」
”ラインハルトに仕えてもいいのですよ”――という思いから出た言葉だが、
「いままで受けた恩を、まだ返せてはおりません。それらを返すことができたと、自分で思うことができるようになりましたら、身の振り方を考えます」
受けた恩には報いると、微笑み軽く彼女に頭を下げた。
「私としては、もう充分だと思うのですけれど、そこまで言うのでしたら。でも何かあったら、あなたの思うがままに決めてね」
―― 義理堅いのですね……
彼女は覚えていないが、原作では皇帝の権威云々はともかく、禄を食んだゴールデンバウム王朝に対する恩義を果たすべく、貴族連合側についた男である。
この世界ではゴールデンバウムというよりは、彼女に対する恩義に対し忠誠を持って応えている状態で、ラインハルトに従う余地はない状態。ラインハルトが彼女をもっと丁重に扱えば、変わるかもしれないが。
「提督」
彼女に一礼しザンデルスが”時間です”と告げにやってきた。
「そろそろ出発の時間ですので」
「行ってらっしゃい」
「すぐに帰って参りますので、ご安心ください」
彼女は”きっとファーレンハイトがいない時に、私は粛正されて流刑にされてしまうー”と言って困らせていたことを思い出し、
―― そんなこともあったわね
なんとも懐かしい気持ちになった。
背後から吹く風に、舞う黒髪を押さえ、
「それに関しては……ファーレンハイト。あなた、いつも言っていたではありませんか。私を守るのは夫の役目であって自分ではないと。だから……大丈夫、エッシェンバッハ侯は宇宙艦隊司令長官ですもの」
心にもないような、だが”そうであったら嬉しい”という複雑な感情を込めて口にした。
「そうでしたね。自分が言ったことを忘れるとは、お恥ずかしい限りです。では、行って参ります」
そして彼女は、フェルナーたちと共に見送った。