彼女がミッターマイヤー邸を訪れる前 ――
「メックリンガー提督」
「どうなさいました? ミッターマイヤー提督」
ミッターマイヤーはあることを知りたく、メックリンガーを海鷲へと誘った。
いつもと変わらぬ落ち着いた雰囲気の中、二人は席につき、両者とも二杯ほどグラスを空けてから、ミッターマイヤーは本題を切り出す。
「卿に聞きたいことがあるのだが」
「なんでしょう?」
「カヴァレリア・ルスティカーナという曲を知っているか?」
「存じておりますよ」
カヴァレリア・ルスティカーナとは元は小説で、後にオペラとなった作品のタイトル。
オペラも有名だが、間奏曲もそれ単体で相当に有名である。
「妻が買ったアルバムにカヴァレリア・ルスティカーナが入っていたのだが、俺が聞いた曲とは少々違っていてな。俺が聞いたほうが、できが良いというか、聞きやすかったというか。あくまでも個人的な感覚だが、できればそちらも妻に聞かせたいと思ってな。それでカヴァレリア・ルスティカーナのアレンジ曲で有名なものを教えてもらえないかと」
自宅のアルバムに収録されているものではなく、自分が聞いたものを是非とも妻エヴァンゼリンに聞かせたいと考え、音楽に精通しているメックリンガーに尋ねることにしたのだ。
「オペラでお聞きになられましたか?」
かなり漠然とした問いだが、メックリンガーは丁寧に聞き、答えを探ろうとする。
「いいや。俺はオペラは観ない」
「聞いた場所が分かると、手掛かりになるのですが」
「妻は特別にアレンジされたものは聞いたことがないと言っていたし、俺と同じでオペラも観ないので、軍施設内かもしれん。ここで酒を飲みながら聞いたやも」
仄暗い店内を見回し、メックリンガーは海鷲に入店することのできる唯一の女性と、カヴァレリア・ルスティカーナが繋がった。
「ミッターマイヤー提督は、クロプシュトック侯の討伐の際、ジークリンデさまの配下になったことがおありでしたな」
メックリンガーは手に持っているグラスを傾ける。
「ああ」
「その時、ファーレンハイト提督も一緒ではありませんでしたか?」
「一緒であった」
「ファーレンハイト提督と会議を含めて、何度かお話をなさいましたか?」
「何度も顔を合わせたな」
「その際に僅かに聞くことができたのでしょう。ファーレンハイト提督は、小型のプレイヤーを持っていたはずです」
メックリンガーに言われて、
「……ああ! そうだ。あの時に聞いたのだ。俺に気付いてすぐに切ったが」
ファーレンハイトが銀色の小さなプレイヤーを持っていたことを、ミッターマイヤーは思い出した。
「提督はなかなかの幸運の持ち主ですな。ジークリンデさまが弾かれたカヴァレリア・ルスティカーナの”録音”を聞ける者は極僅かです」
「どういうことだ?」
「ジークリンデさまは、録音されて知らない場所で聞かれるのが恥ずかしいという御方でして、滅多なことでは録音を人に渡したりしません。ほとんどの人には”聞いてくださるというのなら、弾きに来ますから”と言って。実際に親しい者から頼まれれば、時間を作って弾いてくださいます。ただファーレンハイト提督は前線に出ることが多いので、聞きたい時に聞けないと言われて、唯一彼にだけ”他の人には聞かせないでくださいね”と録音したものを渡しているそうです」
慌てて消したり、急いで隠したりしたのならばミッターマイヤーの記憶にも残ったであろうが、ファーレンハイトがあまりにも自然に、何ごともなかったかのように握っていたプレイヤーの電源を切り、流れるようにポケットに入れてしまったので、記憶の海に沈んでしまっていたのだ。
「だから……か」
その曲について聞けるような余裕なく、オーディンへと帰還し ―― そのまま雑務に追われ朧気になってしまったのだ。
「提督が聞いたのはアレンジと言うより、弾き手の格の違いでしょう。ジークリンデさまは、もの悲しい曲が、それはお得意ですので」
氷がひび割れて崩れ、グラスに当たり、硬質を思わせる音が手に伝わる。
「そうか。では手に入らないものなのだな」
「手には入りませんが、ジークリンデさまも出産祝いのパーティーに参加なさると聞きましたが。その際に、弾いてもらってはいかがですか? 喜んで弾いてくださることでしょう」
「我が家にはアップライトピアノしかないぞ。伯爵夫人はかなりの腕前だと聞いているし、あの一瞬耳にしただけで、俺のような素養のない軍人の記憶にすら残るような曲を奏でる方に、弾かせるのは気が引ける」
「気になるような御方ではありません」
「だが」
「私も是非そのアップライトピアノで、提督のご子息に曲を献上したいのですが」
「だが……」
「腕の良い調律師を紹介させていただきます。ジークリンデさまと曲が被らないように、打ち合わせもしますので」
「そこまで言ってくれるのならば、お願いしよう。それにしても、卿と伯爵夫人とは、ちょっとしたコンサートだな」
「では僭越ながら、私からカヴァレリア・ルスティカーナを弾いてくださるよう、お願いしておきます」
「いいのか? カヴァレリア・ルスティカーナは、ファーレンハイトにだけ弾くのでは?」
「録音に関してだけですよ」
「だが聞いた経緯を説明したら、ファーレンハイトが罰せられるのでは?」
「ええ、まあ。そこは上手く説明することにします。罰せられるといっても、録音を没収されるくらい……大事かもしれませんが」
「大事だろう」
このような流れで、彼女はミッターマイヤー邸でカヴァレリア・ルスティカーナを弾くことになった。それとミッターマイヤーが曲を知った経緯などは、メックリンガーがうまく誤魔化すことに成功した。
ミッタマイヤー邸は家族三人で暮らすには少々寂しいのではないか? と思えるくらいの広さがある。むろん貴族の邸宅と比べれば大したことはないが、平民にしては大きいもの。
この家は官舎ではなく、裕福な造園業者を営んでいるミッターマイヤーの両親が、結婚祝いにと買ってくれたのだと、腕にフェリックスを抱いているエヴァンゼリンから彼女は説明を受けた。
―― 邪魔になっていませんよね
今日の彼女の格好は、スレンダーラインのドレス。自宅は広めだとは聞いていたものの、あまり広がっても、引きずっても、ふわふわしていても邪魔になるだろうと考えての選択である。
色はモスグリーン。チュール素材で胸元から腰までコードレースで飾られている。
ミッターマイヤー夫妻と挨拶を交わし、同じくお祝いに駆けつけたミッターマイヤーの部下との挨拶を聞き……
―― バイエルラインは辛うじて分かりますけれど、あとは……あとは……ごめんなさい。原作最強の勝ち組集団だというのに
バイエルライン以外は記憶の片隅にもなかったことを詫び、彼女は家の内装に合っている、木目調で猫足タイプ、凝った彫刻が施されている譜面台が目を引くピアノの前に立った。
「メックリンガー推薦の調律師に来てもらったので、音の狂いはないと思いますが」
彼女は鍵盤を軽く叩き、音色を確認してから背もたれのない座り、希望された曲を奏でる。
「では弾かせてもらいますね」
彼女とメックリンガーの二人が弾き終えた後に続く人はなく ―― ただ一人、彼女に疑問をぶつけてきた人物がいた。
「とーてってーててー、とーてってーてて……みたいなリズムです」
「それ以外に覚えていることはありますか?」
バイエルラインである。
彼は以前聞いたことのある古典音楽のタイトルを知りたいと、彼女に話しかけてきた。上官に似た質問であるが、上官とは違いタイトルが分からないので口でリズムを刻むしかなく、
「とてててーとてててーとてててー」
それが全く意味をなさない ―― 彼の同僚にはそうとしか思えなかった。
「ばか!」
同僚のドロイゼンが口を封じて遠ざけようとし、
「申し訳ございません。こいつ、軍が恋人という変わりものでして」
同じく同僚のジンツァーが”こいつのことは気にしないでください”と、彼女に頭を下げる。
本来であればもう一人、ビューローが居るはずなのだが ―― 彼だけは運命が変化しブラウンシュヴァイク公の私軍に属し、ファーレンハイトの部下になっていた。四人の中で彼だけがフォンの称号を持っていたため、貴族軍に引き抜かれたようである。
「いいえ。気にしないで。私が楽しんでいるだけですから」
「ならばよろしいのですが」
ミッターマイヤーがドロイゼンに離せと指示を出し、
「他に覚えていることは?」
「高い音と低い音があって、怖い感じで」
自由になったバイエルラインは、ますます自由な返事を返す。
「バイエルラインのばか!」
「お前、もう口を慎め!」
「いいのよ。バイエルライン、このような感じかしら?」
彼女は微笑みを浮かべているエヴァンゼリンに会釈してから、再度ピアノの前に腰を降ろし、記憶を総動員し見つけ出した曲を弾いてみせた。
「それです!」
バイエルラインが喜びの声を上げ、
「おお!」
周りにいた同僚や部下、上官などが感嘆の声を上げる。
「ベルガマスク組曲のパスピエですな」
一人すぐに曲名がわかったメックリンガーが、長髪を払いながらタイトルを語った。
バイエルラインが知りたかった曲のタイトルは、パスピエ。作曲者はクロード・ドビュッシー。
パスピエはメックリンガーが語った通り、四曲からなるベルガマスク組曲の終曲にあたる。
ただ組曲の三番目の『月の光』があまりにも有名なため、パスピエの認知度は今ひとつ。
曲のタイトルも一番目が前奏曲で二番目がメヌエット、三番目が月の光で四番目がパスピエと、三番目の優遇度は半端ない。
パスピエそのものは、軽快さが特徴。旋律も聴けば”ドビュッシーらしい”と納得するものである。
「ドビッシューですか」
「いいえ、ドビュッシーです」
「ああドビッシューでしたか、済みません」
―― えーと……ドビュッシーですよバイエルライン
曲名は分かったが、なぜかバイエルラインはドビュッシーがドビッシューになってしまい、
「お前もう、喋るな!」
「小官たちが、しっかりと教えますので。本当にご迷惑をおかけいたしました」
こちらも再びドロイゼンとジンツァーが、口と動きを封じて必至に謝った。
「間違うかもしれませんけれど、聞いてくれる? バイエルライン」
パスピエを弾き終え、フェリックスの柔らかい頬の感触をしばし楽しみ、後日に繋がるようエヴァンゼリンに挨拶をして、彼女はミッタマイヤー邸をメックリンガーと共に辞した。
彼女はあとは帰宅するだけだが、メックリンガーがこれから元帥府に戻ると聞き、少々遠回りになるが送ると申し出た。
「お手数をおかけいたします、ジークリンデさま」
平民だが貴族との付き合いに長けているメックリンガーは彼女の顔を潰すような真似はせず、すんなりと誘いに乗る。
「いいえ。少し散らかっていますけれど。出して、キスリング」
忙しい彼女は車中で縫い物をしており、手編みのレースに青いリボン、それとサファイアの入った篭が座席に置かれていた。
「それは、義理姉になる方への?」
帝国でもサムシングフォーの言い伝えは残っており、彼女はサムシングブルーを用意させてもらうことにした。
「義理姉さまにも作りますが、こちらは別の人用です。シュタインメッツって知ってるかしら?」
彼女が編んだレースと、サファイアで作るガーター。
「はい、存じております。彼の妻になる方への贈り物ですか」
「ええ」
「なかなか見事なサファイアですな」
「フェルナーに用意させたので、はっきりとした金額は分かりませんが、私があまり安い宝石を贈るのも……」
彼女も平民の平均年収から考えると、相当な高額な商品になるとは思ったものの、彼女の門閥貴族としての立場というものもある。
「そうですな。伯爵夫人ともなると、それなりの品でなくては格好がつかないでしょうな。花嫁がたは、さぞお喜びになることでしょう」
「喜んでもらえるのは嬉しいのですが、それ以上に幸せになっていただきたいものです」
「ええ」
その後、ミッターマイヤー邸での出来事や、音楽について話し ――
「海鷲には足を運びましたか? 私でよろしければご案内いたしますが」
高級士官専用ラウンジにピアノがあり、立ち入ることの出来るものならば、誰でも自由に弾くことができるとメックリンガーが説明をする。
「誘ってくださってありがとう。私も興味はあるのですが、やはり海鷲は男性のみの場所だと思うのです。将校の地位にあるとはいえ、女性である私が足を踏み入れて良い場所ではないと」
彼女は出来る限り貴族女性の範囲内に収まり、悪目立ちしないように暮らしているので ―― 悪くはない方向で、それはそれは目立っているが ―― 究極の男社会である軍隊の、高級士官専用のラウンジには訪れるべきではないと。
なによりここは帝国。女性一人でラウンジで酒を飲むのは、みっともないと言われる行為であり、かといって知り合いの男性将校を連れて飲みに出るのは、もっと忌避されるべき行動である。
「そうですか。ご一緒できないのは残念ですが、とてもジークリンデさまらしいお答えで、このメックリンガー、感動すら覚えます」
「大げさですよ」
それに高級士官専用とは言うが、元帥であるラインハルトと共に行くのも憚られる。なによりラインハルトは、カウンターでグラスを傾けるような性格ではない。彼女としてもラインハルトと二人きり、もしくはキルヒアイス付きで海鷲で酒を飲むなど、軽い拷問にして、ちょっとした尋問である。
**********
彼女や部下たちが帰宅したあと、ミッターマイヤーは愛息の寝顔を見つめていた。
エヴァンゼリン手作りの寝具の中で、気持ち良さそうに眠る息子を見つめる眼差しにしては、やや重く沈んだものであり、その雰囲気は背中しか見えないエヴァンゼリンにも伝わった。
「どうしたのですか? ウォルフ」
フェリックスの様子を見に来たエヴァンゼリンが、やや声の音量を落として尋ねる。
「ん……伯爵夫人のことなのだが」
「どうなさいました?」
「以前伯爵夫人の部下となって、討伐に赴いたのだが……あの頃と、表情が変わらないのが気になってな」
「旦那さんが亡くなられたのですよね」
「ああ。もう再婚されているから……」
エヴァンゼリンがミッターマイヤーの背中にそっと寄り添い、首をふる。
「そんなに簡単に割り切れるものではないと思います。たとえ貴族女性であったとしても」
「そうだな」
ミッターマイヤーには彼女のやや諦めてしまってような表情が、ラインハルト関係の噂と相まって、討伐を命じていた時よりも痛々しく見えたのだ。
*********
キルヒアイスが捕虜であった帝国兵を伴い、オーディンへと無事帰還した。
帰還兵たちが故国の地を踏みしめ喜びを噛みしめているころ、彼女はシュトックハウゼンの申し開きを聞き ―― 特になにかを質問することもしなかった。
事前に得た情報は彼女の予想通り、司令官もろとも撃ち殺そうとした士官がいたが、それを拒み ―― それらの説明を聞いていた彼女は、シュトックハウゼンの必至の弁明に黙って耳を傾けた。軍事に疎い彼女にできることは、分からずともしっかりと聞くことだけ。
彼女にはなんら決定権はなく、皇帝にシュトックハウゼンの言葉を伝えることもなく、そのまま三長官たちが決めた罪状が下された。
最初から決まっていたことを行っただけ。
全てが終わり控え室へと戻った彼女は、ソファーに体を預けて目を閉じる。
最近給仕が上達してきたフェルデベルトが彼女の前に、白地に紺と金でオリエンタル意匠の図柄が描かれた、把手のない丸みを帯びたカップに注がれた、生姜と蜂蜜入りのホットミルクを置く。
彼女は両手で包み込むようにして持ち、二度ほど息を吹きかけてから口を付けた。本当に冷えたわけではないのだが、先程のやり取りと、自分が取った態度で、体の芯が凍えているような感覚に彼女は囚われていた。
「陛下に報告しなくともいいですよね、シュトライト」
無言のまま半分ほど飲み干してから、控えていたシュトライトに意見を ―― 求めるというよりは、断定する口調で。
「必要ないかと存じます」
シュトライトに後のことを任せ、ホットミルクを飲み干し、忙しい中、時間を作って来てくれたファーレンハイトに労いの言葉をかけ、本来の業務へ戻るように告げる。分からないことがあったら、なんでも聞いてくれるよう言い残して、ファーレンハイトは副官と共に彼女のもとを辞した。
人が減った室内で、空になったカップに視線を落とす。
―― 今日はラインハルトと顔を合わせたくないですね……
今日遭遇した出来事 ―― ラインハルトの判断は間違っていないし、彼女態度にも問題はないが、そのような理屈では割り切れない感情が沸き上がり、胸のあたりが焼けつくような不快感に覆われていた。
「今日は自宅ではなく、実家に帰ります」
「かしこまりました」
気持の整理を付けるために、彼女は実家へ帰宅することにし ―― 連絡を受け取ったラインハルトも安堵した。ラインハルトも彼女と同じく、シュトックハウゼンのことで、彼女と顔を合わせることが、表現しようもない気持を持て余していたのだ。