「こういうの、まったく知らなかったから、助かったわ」
「お役にたてて、まことに嬉しく思います」
彼女はミュラーと共に、郊外にある幼児玩具売店へとやってきて、ミュラーが候補に上げた商品を手に取り比較して、生後七ヶ月前後から遊べる玩具を選んだ。
「先を見越して贈るのですね」
「その年齢に合ったものでもよろしいのですが、ミッターマイヤー提督ご夫妻にとって初めてのお子さんで、提督のご両親にとっても初孫だそうですから、生まれてすぐに必要なものは全て揃っているのではと思いまして」
選んだ玩具は、例え被っても数が増えてより楽しめるようになる品で ―― 兄弟が多いのは本当なのだと、疑ってはいなかったが、彼女は意味もなく感動した。
「この商品は生後七ヶ月から一歳半まで遊べるのですか……。これをもう一つ。フェルデベルト、消毒して持ってきてね」
カザリン・ケートヘン一世の年齢に合致しており、また報告の際、いつもピアノでは飽きるだろうと考えて、購入して持参することにした。
「……は、はい!」
ミッターマイヤー夫妻への出産祝いは、ミュラーが持参し、そこで後日彼女が会いたいことを伝える運びとなった。
ミュラーの下調べもあり、すぐに目的の商品を購入した彼女だが、年齢的に最初から対象外であった商品が気になり、見本品を手に取り興味深く観察する。
―― 地球時代からある玩具ですか……あの頃は、幼児の知育玩具に触れる機会もありませんでしたからね。覚えていたら比較できて、楽しかったかも知れませんけれど
随分と古く由緒正しい商品があることに感心し、その隣に立つミュラーは、軍人としての態度を崩さず、両腕を後ろに回して立っていた。
「ファーター!」
幼い子供の声が響く。店の客層からして、この声が上がるのは珍しいことではないが、飛び付かれた方は驚きを隠せなかった。
「ファ……」
自分の子ではない子が、間違って抱きついてきた ―― のではなく、独身である自分がファーターと呼ばれ、足に抱きつかれたことに。
「ミュラー提督。この件について社会秩序維持局長官立ち会いのもと、事情聴取させてもらおうか。嫌とは言わせねーぞ、閣下」
右後方からミュラーの肩をがっしりと握り、顔を近距離に持って来て、キスリングが死刑宣告をする。社会秩序維持局長官ことラングが立ち会ったら、なにをしていなくとも、有罪極刑、獄中餓死の結末しかない。
「待て、キスリング! 俺の子ではない」
「ファーター……うわあああん」
「泣き出したぞ。酷い父親だな」
「だから違うんだ、キスリング!」
「全く身に覚えがないと言い切れるのか? ミュラー提督かっかあ!」
「それはいいきれ……ちょ! なにを言わせる気だ! キスリングー!」
「ファーター!」
ミュラーの足にしがみつき泣く男の子と、握り潰しそうな程力をこめて肩を掴むキスリング。特定の彼女はいなかったが、まるで身に覚えがないと言われると、そこは健全にして、人並みの性欲を持っていたので否定しきれないミュラー。
この修羅場じみた状況に、彼女は声を発することも、当然動くこともできず。
見本品を持ったまま硬直している彼女とミュラーたちの間にユンゲルスが割って入り、フェルデベルトが彼女を遠ざけようと腕をためらいがちに引く。
ミュラーの足に抱きついてきた子供は、祖父母と共に来店した子で、当然のことだがミュラーの子ではなかった。
「お騒がせして、申し訳ございません」
突然走り出した孫を見失い ―― 騒ぎに気付いた老夫婦が急いでかけつけて、事態は無事に解決した。
店内でこれ以上騒ぐのは迷惑だろうと、店を出て道を挟んだ向かい側の公園へと移動してから本格的に謝罪された。
ちなみにキスリングたちが、ミュラーの足に子供が抱きつくのを阻止しなかったのは、現時点でミュラーはテロの標的になっていないためである。それと彼女はよく誘拐されかけるが、彼女目的の誘拐、それも美貌を欲しての誘拐のため、傷つけられることはない ―― その為、子供が駆け寄ってきたときも、爆弾を抱かせて標的を殺すような物騒なことはないと、護衛たちは判断した。もちろん彼女に抱きつこうとしたら、その前にやや乱暴に引き留められたであろうが。
「本当に申し訳ございませんでした」
やせ気味で背の高い祖父が深々と頭を下げ、泣き止んだ孫にも謝るよう祖母が促す。
「気にしないでください。それにしても私は、彼の父親にかなり似ているのですか?」
「いいえ。ですが息子、この子の父親ですが、息子も帝国軍の中将でして。いつも軍服姿なので。軍服を見て、勘違いしたのでしょう」
彼女は軍服から着換えたが、ミュラーはそのまま ―― 店内で唯一、将官であったミュラーの軍服を見て、緑色の瞳をした少年は父親と勘違いしたのだ。
「そうでしたか。小さいのにもう階級を見分けることができるなんて、すごいな。そうだ、名前を教えてくれないか? お兄さんはナイトハルトだ。君は?」
膝を折って目の高さを同じようにして話しかけたミュラーに、少年は少しばかり恥ずかしそうにしたが、祖母に軽く背を押されると、名前と年齢をはっきりと言った。
「アウグスト・ゲオルグ……二歳」
―― 父親は息子に軍人になって欲しいと願って付けた名……でしょうね
帝国はゲルマン風の名前ばかりなので、弱そうな名前というのはあまりないのだが、その中でも中々強さが感じられる名前である。
「アウグスト……ゲオルグ。もしかして、ワーレン提督のご子息ですか?」
ミュラーは名前と年齢、そして父親の階級から、同僚の息子ではないかと尋ね ――
「やはりワーレン提督のご子息でしたか。本官は同じ元帥府に属するナイトハルト・ミュラー中将と申します」
予想は見事に的中した。
「出産で……それは……」
ワーレンの息子の母親は、出産の時に亡くなっており、以来、ワーレンの両親が面倒をみているのだと ―― 上着を脱いだミュラーとリュッケ(地上車の運転手を務めていた)が、ワーレンの息子と全力でボール遊びをしている光景を眺めながら、彼女は祖母と話をしていた。
「短い期間でしたけれども、とても優しい義理娘でした」
「お孫さんを見ていると、分かるような気がします」
多忙なワーレンは、たまにしか帰って来ることができず、帰ってきたとしても夜遅くで、息子と遊ぶ時間どころか、簡単な会話をする時間すらないのだという。
父親ではなかったが、軍服姿の男性に父親の姿を重ねている、寂しげな眼差しを前にして ―― そこで、少しだけミュラーが遊びに付き合うことになり、店の前に地上車を回したリュッケも降りてきて、ボール遊びに興じて、そろそろ一時間である。
「ジークリンデさま、よろしいのですか?」
「いいのですよ、キスリング」
それから十分もしないうちに、遊び疲れたワーレンの息子を祖父母へと引き渡し、お礼を述べられ
「おにいちゃん、ありがと、ございます!」
息子は手を引かれ、名残惜しそうに帰っていった。
「ジークリンデさま、……申し訳ございませんでした」
彼女は膝に乗せていた上着を手渡し、ミュラーは受け取り袖を通すと ―― 微かなラベンダーが香る。
「いいのよ、ミュラー。私も楽しかったから。それにしても、ミュラーは良いお父さんになれそうね」
「え、まあ、兄弟が多いので子供と遊ぶのは得意です……でも、残念ながら相手がいないので、父親にはなれそうにありません」
「ミュラーが望めば、相手など選り取り見取りでしょう」
―― 今はそれ程ではなくとも、将来的には、要らないと言っても群がってくるでしょうに
彼女にとってミュラーは苦労はすれど、将来は華々しいものになることは知っているので、それに伴い、理想の女性と出会い、幸せな家庭を築いていくことを、疑っていなかった。
「ジークリンデさまのご意見を否定するのは心苦しいのですが、私は本当に、もてないのですよ」
存在も残酷ならば、言動もかなり残酷 ―― そのことを自覚していない彼女は、腕を伸ばしミュラーの襟元を直す。
「そうは思えませんけれど。もしかして、もてないのではなく、理想が高いのでは?」
「それは否定いたしません」
「ミュラーの理想の女性って、どんな女性なの!」
”あなたです”
一言で理想の女性を説明することができるのだが、言うわけにもいかないのが、ミュラーの苦しいところである。
「歩きながら話しませんか?」
「ええ、いいわ」
彼女はミュラーと肩を並べて、木漏れ日がさし込む、石畳の小径を歩き、公園で思い思いに過ごしている人たちの脇を通り過ぎてゆく。
「それで、私の理想の女性ですが……ジークリンデさまに言われて、いま歩きながら考えたのですが、美しくて淑やかで気立てが良く、一緒にいて安らげるような女性です」
「本当に理想、高いのね」
性格が合う人……程度に考えていた彼女は、ミュラーらしからぬ理想にかなりの衝撃を受けたが ―― その理想も遠からず叶うに違いないと、砂色の髪と瞳を持つ、誠実な青年将校の横顔を見つめる。
「やはり、そう思いますか?」
「ええ。それに年齢とか容姿の好みとか、プラスされるのでしょう?」
「まあ……」
「でも、ある日、突然ミュラーの目の前に現れそうね。その時は逃がしちゃだめよ。その理想に合致する女性なら、多くの男が放っておかないことでしょうから」
―― 本当に気付いていないんだなー。ちょっと、ミュラーが可哀想な気もするが、デートしてるんだから相殺か
キスリングの薄い同情の眼差しを、自称・丈夫な背中で無自覚なまま受け止めつつ、ミュラーは彼女が言うのはもっともだと、現状を噛みしめる。
―― 僅かな未亡人期間に、非常識であろうが告白するべきだった
もちろん彼女が未亡人であった頃に、告白したいなどとは思いもしなかった。傷心を気遣うのは当然だが、もとより身分差がありすぎてそんなことは、最初から諦めて ―― だがそれは、自身に対する欺瞞であった。
本当に諦めているのであれば、理想の女性を聞かれたとき「あなたでした」と答えればいい。答えられないのは、手に入れたいという未練というには情熱的で、欲というにはやや冷ややかな物が胸中にあるためだ。
「はい……。ところで、ジークリンデさまの理想の男性像とは、どのようなものなのですか?」
彼女の好みは一般的に「痩せ気味で背が高く、白銀か灰色っぽい頭髪の持ち主」とされている。言われていことは知っているが最早訂正する気力もなく。
本当は特にそのような好みではないのだが、世間に認知されているので、不本意ながら自分の趣味と認めるしかなかった。
「私ですか?」
ラインハルトは背は高く細身だが、輪郭の柔らかさから、痩せ気味の容姿とは異なる。頭髪は黄金で、これも彼女の好みとは外れる。
また顔の作りに関しては、前夫がフレーゲル男爵で、その頃からロイエンタールの誘いを拒否していたため、容貌に惑わされることはないとされている。
「はい」
「言えるはずないでしょう、ミュラー。私の理想の男性像は夫である、エッシェンバッハ侯です」
この容姿に惑わされない美点のせいで、他の男たちが諦めないというのもある。彼女が面食いであれば、ラインハルトが夫になった時点でかなり多くの男が諦めたであろう。美貌だけならば、ラインハルトのことを嫌っている門閥貴族も認めている故に。だが彼女は容姿ではなく性格を見るとされ ―― 美点が災いになることは、よくあることだ。
「本当に?」
「私のような貴族の子女は、政略結婚に使われるものですから、理想は不必要なのです。あなたは恋をして、愛する人と結婚してね。ミュラーに愛されて結婚できる人は幸せね」
高い理想と自分が同一の存在であるなど、よほどの自惚れ屋でもない限り思いつくことはない。
「ジークリンデさま」
「なに? ミュラー」
「なんでもありません」
「そうですか。ああ、ミュラー。あなたにお願いがあるのです」
「なんでございましょうか?」
「エッシェンバッハ侯が私に下さると言われた新造艦のことなのですが……私になにかあったら、その新造艦は、あなたに引き取って欲しいのですけれど」
―― そもそも、あれはミュラーが受け取るものですし
「なにをおっしゃるのですか!」
だが彼女の言葉を聞いたミュラーは、大声を上げて否定する。この場合の”なにか”は死、あるいはそれに準ずるものであることは、容易に想像がつく。
「……」
「声を荒げて申し訳ございません。ですが……」
大声に驚き足を止めた彼女の表情を見て、ミュラーは自分が仕えた相手が、彼女の敵になる可能性があることを実感した。
「……謝るのは私です。ええ、そうね」
「私もエッシェンバッハ元帥の部下ですので、その……元帥閣下はきっと。……信頼なさってください」
「ええ。心配しないで、ミュラー。私は最後まで夫に従いますから。夫を裏切るようなことも、売るようなこともいたしません。安心してください」
―― 私は裏切りませんけど、大伯父上は裏切るのですよ。なんか……詐欺師の言い逃れみたいな感じですけれど
「もちろん信じております。……」
彼女がもっとラインハルトに、世間一般的な愛情を受けていたならミュラーも信じることはできた。だが、まるで別れが訪れることを知っているかのように、ラインハルトは彼女に一切触れない。
「少し早いけれど、食事に行きましょう、ミュラー」
「はい」
ラインハルトの彼女に対する”処遇”について、本当に信頼できるか? 自問自答したミュラーだが、答えは出せなかった。
**********
彼女はケンプの家族と会う場所に「旗艦」を選んだ。夫人は好まない可能性もあるが、息子たちは旗艦を見学できたら喜ぶであろうと、またミュラーもそれは良案だと同意した。
父親の旗艦であるヨーツンハイム、ラインハルトの旗艦ブリュンヒルトの二つのうちどちらか、選ばせて見学する許可を取ってから、彼女は先に一度足を運んで、下見しておくことにした。彼女も名のある旗艦には興味があるのだ。
―― ヨーツンハイム破壊しても……。ケンプはガイエスブルク要塞を破壊しないと、助けられないような……ファーレンハイトに連れていってもらう訳にもいきませんし。いきなりガイエスブルク要塞爆破したいと言っても、できるものでもありませんし
その見学の案内はミュラーが買って出てくれたのだが、それは必要なくなった。
「閣下」
「どうした? ドレウェンツ少佐」
「キスリング少佐より連絡がありまして……ローエングラム伯爵夫人の旗艦案内は、別の方がするので必要ないとのことです。エッシェンバッハ元帥閣下、自らご案内するそうです」
ケンプの息子たちが選ぶとは思えないが、念の為にという名目でブリュンヒルトの見学も申し出たため、ラインハルトの元に即座に書類が上がり、彼は当然目を通して彼女に事情を尋ねた。
そして理由を聞き「ミュラーにあまり迷惑をかけるわけにもいかない」と ―― ラインハルトの意見に彼女も納得して、二人でブリュンヒルトとヨーツンハイムの下見という名目の見学へ向かうことになった。
「そうか……仕方ない……いや、お二人の仲が縮まるのは、よいことだ……」
ミュラーは自分の感情がこもっていない白々しい声を、傍観者のように聞きながら書類に目を落とした。
「閣下。その代わりと言ってはなんですが、ワーレン提督が先日のお礼をしたいと」
「あ、ああ……そうか」