彼女の表情を読む能力に長けているフェルナーだが、今の彼女の表情からはなにも感じることができなかった。
無感情からは程遠いことは分かるのだが、それ以上のことは何も推し量ることはできない、そんな表情。
彼女は諦観ともつかぬ笑みを浮かべたまま浴室を出て、バスタオルが掛けられている、技巧を凝らした猫足が特徴的なスツールに腰を降ろす。
「タオルは?」
「お待ちください」
浴槽から上がった彼女に白く柔らかなタオルを被せて、きめ細やかで弾力ある白い肌を伝う水滴を拭き取り、薄い水色のバスローブを肩に掛ける。
水を含んだ黒髪を別の白いタオルで包み込み、柔らかく慈しむように拭き取る。何時もであれば、周りに小間使いが数名おり、会話をしながらなのだが、今日は二人きりで無言のまま。
「終わりました」
「そう。ファーレンハイトに寝室に来るよう伝えなさい」
命じる彼女の表情はまさに花のかんばせと表するに相応しく、語る声は鈴を転がすようであり、陰りなど微塵も感じさせぬものであった。
彼女は寝室に入り、シルクのバスローブの結いを解き脱ぎ捨てる。床に落ちたそれをキスリングが拾い上げ腕に掛けて所定の位置につく。
彼女は振り返らず、硬いヒールの音を立て分厚く錦糸でクラシックな唐草柄の刺繍が施されている赤い天蓋が開いているベッドに腰を降ろし、足を組み靴の踵に手をかけ脱ぐ。
そして入り口に背を向け、両手で髪を掴み左前のほうへとながす。
嫋やかな首筋、まろやかな肩のライン、無駄も不足もない背中、細い腰。呼吸することすら忘れさせるような、美しい裸体を晒す彼女の元に、呼ばれたファーレンハイトがやってきた。
温度も湿度も完璧に管理されている室内だが、彼女の気管支の脆弱さはそれでは補いきれない。湯上がりで裸のままベッドの上にいるなど、自殺行為とまでは言えないが、体調を崩すのには充分過ぎる。
ファーレンハイトはキスリングが持っている彼女が脱ぎ捨てたガウンを手に取り、ベッドへと近づき、肩に羽織らせてから膝を折る。
「お呼びと」
彼女はガウンの襟元に手を添えて振り返り誘う。
「何をしているの? こちらへいらっしゃい」
保湿用のクリームしか塗られていない唇だが、艶めかしく人を惑わせる色香があった。
「……」
彼女の現在の心境が分からないファーレンハイトは、何時ものようにすぐさま命令に従うことができず、乱れたガウンから覗く象牙色の肌を前に、答えもしなければ動きもしなかった。
「いやなの?」
無邪気に問う彼女の微笑みは、それは完璧で ―― ある意味、無邪気な声や口調とは合ってはいなかった。違和というほど大きなものではなく、長年仕えているものしか分からないような差。それが知らぬうちに身ごもれぬ体になっていたことに対する悲しみなのか、伝えられなかったことに対する怒りなのか、推し量れるものはいなかった。
「いいえ。そのようなことは」
ただ尋ねることはできず、延ばされた白く細い腕を恭しく取り彼女に従う。
行為はいつも通りであったが、終わると彼女は突然抱きつき、ファーレンハイトに囁く。
「少しでいいから甘やかして」
寂しさや不安や、諸々の重圧に押しつぶされそうになっている彼女の体を軽く抱きしめ ―― お望みのままにと、彼女が眠るまで言い続けた。
翌朝目を覚ました彼女。臣下の分を弁えているファーレンハイトは、彼女の隣に眠っているようなことはなく一人きり。それが寂しいかと問われれば頷くが、”らしい”とも思えるので嫌ではなかった。
―― 甘やかしてと言ったものの、なにをどう甘やかしてもらうつもりなのか……言った私自身、よく分かっていませんがね
「フェルナー」
天蓋を開くよう、きっといるであろう人物の名を呼ぶ。
「はい、ジークリンデさま」
彼女が予想していた通り、フェルナーは側に控えており、
「天蓋をあけて」
「畏まりました」
彼女の命をすぐに遂行する。
朝の眩い日差しと、日の光が似合うかと問われたら、首を傾げたくなる雰囲気のフェルナー。
何時もと変わらないその光景に目を細め、彼女は舌を出し、指さす。
「なんでしょう、ジークリンデさま」
「何時ものように薬を」
情を交わしたあと、フェルナーに求める薬と言えば避妊薬。本来であれば、彼女には必要のないものであり、事実を知った後、欲するものでもない。
彼女はもう必要とはしないだろうと、用意はしていなかった。
「……申し訳ございませんジークリンデさま。すぐに用意して参りますので、少々お待ち下さい」
だがいつも通りそれを寄こせと彼女は命じ、フェルナーはそれに従う。その薬自体、ただのサプリメントで飲んだところで、なんの効果もないのだが。
「お風呂は?」
「用意できております」
「浴槽に薔薇の花びらを浮かせたいわ」
「朝からですか? もちろん構いませんよ。薔薇の種類は? 色は? 何でも命じてください」
「お任せは駄目かしら?」
「それでは、ジークリンデさまが驚くくらい派手にさせていただきます」
「あら、楽しみ」
彼女は欺されることに決めた。
体の変調は知らぬまま、今まで通り過ごす。
―― 今ならアンネローゼの気持ちが分かるような気がする……
関係が変わることを恐れ、キルヒアイスと結ばれることを諦めた、それを語ったアンネローゼの声が、耳の奥で僅かに蘇りそのまま消え去った。
**********
キルヒアイスだが「一命は」取りとめるとの報告を受けた彼女は、とりあえず胸をなで下ろし、
―― 完全な喪服ですと逆上させてしまいそうですから……これで大丈夫よね
ラインハルトが少しは落ち着いたとの報告も入ったので、彼女はできる限り刺激しないよう、だが人として礼を失しないような、全く飾り気のないグレーのローブ・モンタントに、真珠のアクセサリーを纏い、彼の元へと向かった。
昨日の痣を完治させたミュラーの出迎えを受け、アンネローゼが収められている棺の側で呆然としているラインハルトの側へ行き抱きしめた。
ラインハルトは細い腕にも柔らかい体にも反応を示すことはなかったが、彼女は無言のまま抱きしめ続け ―― 二時間後には眠りに落ちた。
それが浅いものであるのは明らかだったが、彼女は少しでも楽になればと、ひたすらラインハルトを抱きしめる。
三十分にも満たず、ラインハルトは目を覚まし ―― その時初めてラインハルトは彼女の体を抱き返した。
彼女の体は華奢で触れると折れてしまいそうな体だが、男に安らぎを与える体でもある。
しばらくラインハルトは彼女に抱きつき、そして彼女の体を離して背を向けた。
彼女は特に問うこともしなければ、お悔やみを述べることもなく、
「いつでも呼んで」
彼女はそう告げて部屋を出た。
「あら、もう夜なの」
室内は分厚いカーテンが掛かっていたため分からなかったのだが、辺りは既に夕闇が降りていた。
”お疲れでしょう”とミュラーが用意した軽食の席に着き ―― 爆破テロやアンネローゼの死などには触れず、最近あったことを語り合う。
彼女は声を出して笑いはしなかったが、必死に彼女の気分を良くしようと頑張り語り続けるミュラーに、笑顔で応えた。
重苦しい空気に包まれている邸内が、彼女の微笑み一つで華やいだ空間に変わり、疲労が幾分軽くなる。
「ジークリンデさま、お時間です」
迎えの隊列が到着したとの報告が届き、彼女はミュラーに手を伸ばす。
ミュラーは一度深々と礼をしてから手を取り、彼女は椅子から立ち上がる。
「ミュラー」
「はい、ジークリンデさま」
「今日もエッシェンバッハ公のこと、頼みますよ」
「お任せください」
「でも、明日は休みなさい。これは私からの命令よ」
「御意にございます」
「見送りは結構。あなたは任務に戻りなさい」
そう告げて彼女はミュラーの前から立ち去った。
最高グレードの地上車に乗り込み、
「全くあたりが見えませんね」
四方を装甲車で固められ帰途に就く。
「不自由をおかけいたします」
「気にする必要などないわ、キスリング。本当に外を見たかったら、あなたを連れて外出すればいいだけですもの」
彼女にそう言われたキスリングは、冷静沈着と評判の彼らしくないほど驚きを浮かべ、
「いつでも命じてください」
お望みのままにと ―― 無意味に軍帽に触れ、照れから少しだけ顔を背けた。
翌日 ――
彼女は昨日と同じく格好に気を付けつつ、だが、アンネローゼは亡くなったのだということを納得してもらうために、膝丈ほどの黒いマリアベールを被りラインハルトの元を訪れた。
その日もラインハルトは何も言わず、だが黙って彼女に抱きしめられていた。
何か言いたくなるまで、こうして側にいようと決めていた彼女だが ―― 一度席を外して、戻ってきたところ、部屋の鍵がかけられており、ラインハルトに拒絶されてしまった。
「エッシェンバッハ公」
彼女は細い指でドアをノックするが、扉が開く気配はない。
「返事を!」
―― 私のような脆弱な人ではありませんので、自殺を図るようなことはないでしょうが……あの状況のラインハルトを一人にしておくのは
扉を更に強く叩こうとしたのだが、キスリングに止められ ―― 代わりに彼が扉を壊すかの勢いで叩きつけ、彼女の声とは比べ物にならぬほど大声でラインハルトに問いかける。
「エッシェンバッハ公。お返事がない場合は、扉を無理矢理開けさせていただきます。この邸はローエングラム公の邸ゆえ、許可はすぐに下ります」
彼女が驚くほどの大声で、早く返事をと叫んだキスリング ―― 扉の前にラインハルトが来た気配は彼女も感じた。扉が開くまで、もうしばらく時間がかかるかと思った彼女だが、拍子抜けするほどすぐに開き、
「あなたが家族を失ったとき、側にいなくて悪かった」
ラインハルトに詫びられた。
深々と頭を下げた彼の表情は分からないが、彼女は傷ついているラインハルトに謝罪して欲しいわけではないので、非常に困惑してしまった。
「そのようなこと」
元気な時に謝罪して欲しかったか? そのような気持ちもなかった。
「あなたは悪くないのだが……帰ってくれないか」
ゆっくりと面を上げたラインハルト。白磁のような肌は更に血の気が失せて、作り物めいて見え、覇気を宿しているアイスブルーの瞳からは輝きが失せていた。
―― これほど生気がなくとも、この人自殺なんてしないと思わせるなにかが……
きっと自分が同じような表情であれば、自殺を疑われるであろうが、ラインハルトにそれは当てはまらないことを確信した。
「帰れとおっしゃるのなら帰りますが、理由をお聞かせください。私でなくとも構いません。ミュラー事情を聞いて」
彼女は昨日軽食を取った部屋でしばし待機する。
「側に誰かがいてくれるだけで、悲しみが癒えることを知らなかった。かつて側にいなかったのに、こうして側にいてもらうのは、申し訳なさに押しつぶされそうなので……とのことです」
戻ってきたミュラーの声に耳を傾け、
「力にはなれていたのでしたら……無理強いはしません。会いたくなったら、何時でも呼んでと伝えておいて」
彼の罪悪感を煽るつもりもなければ、自己満足に浸りたいわけでもないので、彼女は身をひいた。
**********
ラインハルトが立ち直るまで側にいて、できる限り自分の体のことを考えないようにするつもりだったのだが、早々にその計画が頓挫したので、何も考えないようにするために、要らぬことに彼女は首を突っ込むことにした。
「ジークリンデ、お前も来たのか」
「ええ。お邪魔でしょうけれど、同席させて、ロイエンタール」
彼女が自分の体について知ったとの報告は受けていないが、状況から知ったであろうと推測していたロイエンタールだが、
「邪魔なものか。お前が居るだけで場が和む」
彼女が普通に話し掛けてきてくれるので、自分も知っていたとは言わなかった。
「事故の調査報告の場を和ませていいのですか?」
形のよう眉、けぶるような睫、通った鼻筋、涼しげで憂いのある目元、柔らかな曲線を描く頬、可憐でありながら艶やかな唇。どれもこれも美しく、微笑むとより一層輝くき上品に華やぐ。
「ああ」
ロイエンタールはしっかりと黒髪を纏めている後頭部に手を回し、やや厚めの切りそろえられている前髪に隠れた額に軽く口づける。伴われているベルゲングリューンは、その程度でお止めくださいと願ったが、彼女の凶悪さはその願いを簡単に打ち砕く。
彼女は触れられた箇所を指で触れ、小首を傾げた。その仕草は可愛らしく ―― 容赦なくロイエンタールを煽った。それこそ三十の男であろうとも、自制がきかなくなるほどに。
護衛やら事故調査の責任者やらが間に入り、漁色家を彼女から遠ざけ、キルヒアイスの両親が乗っていた民間船の事故についての、詳細な調査が行われた。
これは当初はラインハルト側が担当していたのだが、爆破テロにより状況が変わったので、彼女の配下であるファーレンハイトが指揮を執り、
「久しぶりね、ビューロー」
『お久しぶりにございます、オラニエンブルク大公妃殿下』
ビューローが現場の調査に赴いた。
彼の調査と報告は完璧で、その場にいた者たちのほとんどは、苦もなく調査報告を聞いていたが、彼女はあまりよく分からず、休憩の都度ファーレンハイトに質問していた。
「もっと勉強しておくべきでした」
「本来でしたらジークリンデさまには必要のない事柄ですよ」
―― 私が馬鹿なのか、周囲の人たちが頭いいのか……両方よね
訳の分からない数字の羅列に頭を悩ませつつ、彼女は報告を聞き終え、
「爆破テロの可能性が高い、というわけだな」
『はい、司法尚書閣下』
これで終わりですとファーレンハイトに言われた彼女は、ビューローを労わねばと、その心地良い声と理性を蕩かす笑顔で彼を褒めた。
「ビューロー」
『なんでございましょう、オラニエンブルク大公妃殿下』
「提督たるあなたに相応しい仕事ではなかったでしょうが、あなたが調査してくれて本当に良かったわ。褒美として次は華々しい会戦を用意するわね」
彼女側にいる者たち全員、ビューローの表情を見て”相変わらず悪魔でいらっしゃる”と思ったとしても仕方のないことである。
通信が切られ、近況などを語り合った中、ベルゲングリューンが珍しく、親交のあるビューローの先ほどの態度を茶化す発言をし、二人の関係が良いことを知り、彼女は微笑ましく見つめた。
―― そういえば、ベルゲングリューンがラインハルトに抗議の自決をした時、必死に説得していたのはビューロー……だったかしら。そんな気がしてき……たしか、この二人ってキルヒアイスの副官か幕僚か……そんな感じ……あら? 何かしら嫌な感覚が
彼女は漠然と、言いしれぬ感覚にとらわれたが、つかみ所がないそれを、上手く語れずアドバイスを求めることもできず、次の目的であるアンネローゼの邸へと向かった。
アンネローゼの邸は、主が失われたため、静まり返っており、空気もどことなくよどんでいた。
彼女は室内を隈無くみて周り、数は少ないが宝飾品や現金を、自分の名で銀行の金庫に預けるよう指示し ――
「これ、キルヒアイスから貰った蘭かしら」
清潔で飾り気のないテーブルクロスを掛けられたそこに置かれていた蘭の鉢、そして窓から差し込む明かりで伸びた影を眺め、ため息をついて世話を専門の者に任せるよう指示を出して、その場を立ち去った。