食後、彼女とミュラーはサッカー観戦をするためにスタジアムへと向かった。
そのスタジアム内にはホテルや、他の施設も充実している、国内でも有数の高級スタジアム。帝国国内で”高級”と銘打たれるためには、門閥貴族の評価はもちろん、彼らに気に入ってもらえるかが重要である。
「ここは私が年間契約しているボックス席で観戦しますよ。もちろん、代金を支払う必要はありません」
「ですが」
それでは罰になりません ―― ここにいたるまでも、特に罰らしい罰がなかったこともあり、ミュラーは是非とも、チケット代くらいは支払わせてくれと申し出る。
彼女と比較してしまえば、悲しいほどに貧乏人のミュラーだが、帝国軍の大将ともなれば、年間契約は無理でも、当日のチケット代くらいは支払える。
「私はチケット代がいくらなのか分かりません。大将の給与も分からないので、適当なことは言えませんわ」
―― いや本当は知ってるんですけれど、割高といいますか……。こういうい所でお金を使うのは、貴族の仕事ですから。給与は大事にしなさい、ミュラー。お金は大事よ
帝国では高給取りだが、領地持ちの門閥貴族からすると微々たるものでしかない額を知っているので、彼女は拒否する。
「確かに私の給与では、このボックス席の使用料全額は支払えませんが、チケット代程度でしたら」
そんな会話をしていると、いつもの案内係がやってきた。
係員に案内されて、彼女は契約しているボックス席へ。彼女としては、何度も足を運んでいるので、案内など必要ないという気持ちが過ぎるも、
―― 門閥貴族を、案内しない訳にもいかないのは分かっていますとも
案内をしなかったことで、門閥貴族が負傷したり、迷ったりすると後々、責任を押しつけ合うよう面倒な事態が発生する可能性もあるので、無責任に経路を知っているから案内は要らないとは、言えないのである。
いつも通りの案内を聞きボックス席に到着し、椅子に腰を下ろしてから、いつも通りにスタジアムの関係者の挨拶を受けて ―― 全員が下がったところで、彼女は運ばれてきたマンゴーの生ジュースを飲んで一息つく。
「毎回、こんなに丁重に扱ってくれなくとも良いのですけれど」
誰かに向けてということではなく、まだ試合の始まっていないフィールドを眺めながら呟いたので、誰も返事はしなかったが、”皇族が足を運ばれて、そうは行かないでしょう”全員の意見は一致していた。
彼女は立ち上がり、窓に手をあてて、一般席を見下ろす。
「本当は私も、すぐ側で観戦したいのですけれど、選手が気になって試合にならないから、この内側が見えないボックス席で観戦するように言われているのです。彼らもプロです、そんなことはないでしょうに。ねえ、ミュラー。そうは思わない?」
彼女としては間近で見たいのだが、誰もそれを許してはくれない。スタジアムやチームの関係者も、彼女が足を運んでくれるのは光栄だが、ピッチ脇で観戦するのだけは、お願いですので……状態。
「残念ながら、それに関してはジークリンデさまのご意見には賛成できません」
彼女の美しさに大失態を犯した男としては、否定するわけにもいかず。
「あなたまで…………まあ、いいわ。座りましょう」
彼女は椅子に再び腰を下ろす。
スタジアム側に、前もって二人分の席を用意しておくよう指示していたので、当然もう一席あるのだが、ミュラーは座ろうとしない。
彼女はミュラーが座るべき椅子と、彼女が座っている椅子の間にあるテーブルから、飲みかけのジュースを手に取り、少しだけ舌を出し、ストローを噛むようにして、
「私は座りなさいと命じましたよ」
座らないと許しませんわよと、重ねて言う。
「はい」
ミュラーは彼女の命令に従い、隣の椅子に座り、試合が始まるまで会話を楽しんだのは良かったのだが、
「私を見てどうするのですか? 観戦なさい」
試合が始まっても、彼女のほうを向いたまま。彼女は試合観戦し、会話は途切れているのにも関わらず。
「え、ああ。私のことは気になさらないで下さい」
―― キスリングもいますし、護衛はたくさんいるから、心配する必要などないのに
彼女はミュラーが自分の方を見ているのは、フェルナーやファーレンハイトと同じく、身辺に注意を払っているからだと解釈した。彼女は美しさだけではなく、つれなさにかけても帝国一である……とは、何時も彼女に素気なく対応されるロイエンタールの言葉。
「もう……」
美しい自分から目を離すことが出来ないなどとは、微塵も思っていない彼女は、柔らかなドレスをふわりと舞わせるように立ち上がり、ミュラーの背後へと回って、砂色の髪を梳くように指を差し込み、両手で頭を押さえて、ピッチを向かせたまま固定する。
「さあ、試合を見なさい」
手で頭を固定されるだけでも緊張ものだが、
―― 疲れるから、この位いいですよねー罰だもんねー
彼女は肘をミュラーの肩に乗せて、体も近づける ―― むろん、押しつけたりはしていないのだが、触れそうで触れない絶妙な位置で、顔もかなり近い。
吐息がミュラーの頬に掛かるような真似はしていないが、
「ちなみに、この耳の上辺りって、マッサージされると気持ちいいのよ。こんな感じ」
「ちょっ、ジークリンデさま、おやめ……あわ……」
細い指が髪を擽り、皮膚を撫でる。
「痛い?」
「痛くはありません。くすぐったいだけです」
楽しげにミュラーの頭皮を弄ぶ。
「ジークリンデさま」
「なにかしら? キスリング」
「どうぞ試合をご観覧ください。ミュラー閣下は小官が」
彼女を座らせ、キスリングがミュラーの頭を鷲づかみ、彼女に笑顔を向けつつ、腕に力を込める。
ミュラーがこちらを見ようとしたら、それを阻止する程度の力を込めていると思っていた彼女だが、実際はそんな生やさしいものではなく、背中の筋肉の動きから「俺たちの隊長、大将の頭蓋を砕くつもりなのか」 ―― 隊員は思ったが、とうの隊長の上着の切れ目の間から、ちらりと見える元帥杖が、きっと全てを上手く纏めてくれるのだろうと、彼ら本来の職務である彼女の護衛に専念することにした。
「……(キスリング、もう少し)」
「……(もっと力込めろってか? ミュラー)」
ちなみにキスリングが装備している元帥杖は、彼女も一瞬だが見たものの、
―― なにかの見間違いでしょうね
元帥杖な筈がないと、すぐに否定し、試合観戦に意識を向け、帰るころまでにはすっかりと忘れ去った。
ミュラーは頭をキスリングに固定されたまま ―― 試合は延長戦へ。それでも決着がつかず、PKまでもつれ込んだ。
試合終了後、観客全員退場し、スタジアムから離れてから、彼女とミュラーはボックス席を出た。
「もうすっかり暗くなったわね」
屋根付きのピッチだったこともあり、外へ出た時、予想以上に外は暗く、風はかなり冷たくなっていた。
最後にと、彼女はミュラーを地上車に乗せて、新無憂宮の外苑へと連れて行き、大判のマフラーを首にしっかりと巻き、湖の周りを散策する。
「格好悪いですけれど、許してくださいね、ミュラー」
首の辺りが人前に出るには相応しくない、埋もれるような状態になってしまったが、
「そんなことは、ございません。寒いのでしたら、無理せずに」
「散策をしないという選択はありません」
彼女はそれでも歩くのだと行って聞かず。
「畏まりました」
―― ミュラーと会った後に、風邪をぶり返したら、大変なことになりそうですから
雪がうっすらと積もっているベンチの前で立ち止まり、キスリングを呼び寄せた。彼の手には、昼に立ち寄った店で買ったシナモンロールが入った袋。
彼女は一個取り出させ、両手で持って立ったまま食べ始めた。
キスリングが大急ぎで、ベンチの雪を手で払いのけ、
「おかけになって下さい」
言うものの、彼女はベンチの雪を払いのけてくれたことには感謝したが、そこにミュラーを座らせるよう命じる。
ミュラーは命じられるまま、冷えているベンチに腰を下ろして待った ―― 彼女が何をしようとしているのか、まったく分からないが、待ってと言われたからには、待たなくてはならない。
シナモンロールを食べ終えた彼女は、ハンカチで口元をおさえてから、座っているミュラーの両肩に手を添えて、右口の端に軽く口づけた。
「シナモン嫌いなのよね」
嫌いなものを食べた口でキスされるのは、嫌だろうから罰になると。”昼食中”に思いつき、行動に移したのだ。
「……」
「罰はこれでおしまい。また今まで通りに接してちょうだいね」
彼女はそう言い残し、外苑のベンチにミュラーを残して帰っていった。
ミュラーがそれから何時間、その場にいたか? 定かではない。
**********
彼女は本気で罰のつもりでミュラーを連れ歩いた訳だが、彼女以外の誰もこれを罰と感じた者はいなかった。
むしろ褒美なのだろうと ―― ミュラーは既に大将の地位にあり、平民はこれ以上の地位に就くことはできない。
この辺り、ほとんどの平民は枠組みと分を弁えているので、誰も違和感を持ちはしなかった。
だが今回の攻防戦で、よく戦い勝利に多大な貢献をした。そんなこれ以上地位が望めない平民のミュラーに、与えられた褒美なのだろうと解釈をした。
水族館でショーを楽しみ、昼食を取り、サッカー観戦をし、新無憂宮の外苑の散歩。
これを罰と言われても、素直に納得する者はいないだろう。
**********
―― なんという接待。それも下手ときては……言ってはいけないのでしょうけれど
彼女はカザリンが将来軍事を学ぶことができるよう、女性皇族として軍事について学んでいた。その一つとして、艦隊戦術シミュレーションを体験していた。
自分で艦隊を設定できるタイプのシミュレーションで、それらも自分で入力しなくてはならないのだが、専門に習ったわけでもない彼女には、入力コードは暗号にしか見えない文字と、訳の分からない数字の羅列にしか見えず、
「フェルナー。入力できる?」
「もちろん出来ますよ。こう見えても、士官学校卒業してますから」
”こんな感じの艦隊を作ってみたい”と書いたメモを作って、フェルナーに頼むのが精一杯であった。
メモを受け取ったフェルナーは、抽象的なそれを形にすべく、艦隊戦の専門家であるファーレンハイトや、彼の参謀のブクステフーデと話し合い、彼女の希望に添いつつ艦隊戦ができる入力コードを作成する。
その頃彼女は、入力を投げ出した分、指揮程度は聞かずにできるようにしなくてはと、邸にあるシミュレータで指示の出し方などを勉強した。
対戦当日、なんとか付け焼き刃で基本操作を覚えた彼女は、軍務省の敷地内にある研修棟へと赴き、ミッターマイヤーの部下、バイエルラインと対戦する。
バイエルラインは彼女に勝ってはいけないが、ぼろ負けしてもいけないのではと考えて、ぎりぎりで負けようとしているのだが、
―― これが、世に言う敗走している振りですか……私が見破るくらいですから、その……私が下手なのは分かりますけれど、必死に敗走しようとしている姿が痛々しい。ごめんなさい、バイエルライン。……アッテンボローなら、もっと上手に敗走してみせるのかしら。でも私相手に上手に敗走して見せるのは、アッテンボローがラインハルトに戦場で勝つのより難しそう
ずぶの素人どころではない、至純なる素人である彼女相手に、違う意味で苦戦していた。
「お前たち、何をしている!」
そこに様子を見に来たミッターマイヤーが、部下の行動を叱責する。
「誇り高き大公妃殿下に、なんたるご無礼を。失礼な真似をするな!」
頭のてっぺんから足の先まで、見事なまでの武人である彼は、軍事を学ぼうとしている彼女相手に、手を抜くとは何事だと ―― 実際は手抜きして勝ったほうが、よほど楽。
むしろ苦労に苦労を重ねてバイエルラインは負けようとしていたのだが、負けるという行為自体が、手を抜き失礼にあたると、
「部下の失態は、上司である小官が」
お詫びに自分が全力でお相手させていただくと、ミッターマイヤーが申し出てきた。
―― バイエルラインの接待シミュレーションも、あれでしたけれど、ミッターマイヤーの本気も困るわ……
だがすぐに決着がつくだろうと考えた彼女は、その申し出を受けて、フェルナーに少しだけ先ほどの編成を変更するように指示を出す。
「最後尾につく戦艦に、機雷と指向性ゼッフル粒子ですか」
疾風ウォルフが敵艦隊の最後尾と接触するシーンを覚えていた彼女は、少しでも相手に損害を与えるべく爆破トラップを用意するよう指示する。
「そう。私が率いる艦隊なら、足が遅くても怪しまれないでしょう」
そんな装備をすると、戦艦の機動力が損なわれ警戒されるのだが、そこはど素人の彼女の指揮。遅くても誰も疑わない。
「まあ、そうでしょうね。ちょっと待ってください」
”普通はそんなこと、しませんよ”と思いつつ、コードを入力した。
そしてミッターマイヤーと対戦するわけだが、ミッターマイヤーは彼の持てる能力の全てをぶつけてきた。
その有様は、シミュレーションであっても怖ろしいほど。
―― 素で怖いわ……これ、戦場で絶対に会いたくない……あ、でも罠にかかった
軍人には予想できないほど、とろとろしている彼女の艦隊の後方に、ミッターマイヤーの艦隊が勢いを落としきれずに突っ込んできたので、そこで彼女は後方の艦を爆破し、幾つかを巻き添えにすることに成功する。もちろん、実際の戦場でやったら、味方の乗組員も爆死するので、とてもできない行動だ。
ミッターマイヤーは彼女のトラップに少々驚きはしたが、それで艦列を乱すようなことはなく、ものの三十分もしないうちに、彼が完勝した。
シミュレータから出た彼女は、自分に圧勝したミッターマイヤーに拍手を送る。
「さすが疾風ウォルフね」
「お褒めに預かり光栄です。それにしても、大公妃殿下の罠には驚かされました」
「本気の疾風ウォルフですもの、通常の輸送艦隊よりもまだ遅い艦隊後方に、すぐにたどり着くのは分かってましたわ」
―― ああ、良かった。バイエルラインは接待だと思っていましたけれど……万が一と思うと。私に負けるようなのが、帝国の一線級ではかなり心配ですから
彼女はバイエルラインたちにも言葉を掛けてから、メルカッツに会うために研修棟を出ていった。
その後ミッターマイヤーは、バイエルラインと、彼女との対戦に際し、相談を受け負けるべきだと提案し、作戦立案に協力したジンツァーとドロイゼンに、再度注意をした。
「二度とあのような、無礼な真似はしないように」
ミッターマイヤーに散々叱られた彼らの一人が、どうしても聞いておきたいことがあったので、この機会にと意を決して尋ねた。
「閣下。一つ、よろしいでしょうか?」
「なんだ? ドロイゼン」
「なぜ、我らだったのでしょう? ファーレンハイト元帥でも宜しかったのでは?」
むしろ、自分たちに振られたのが驚きだと ―― 彼女との対戦に関するミーティングの際に、この話題は何度も出たが、彼らは理由らしい理由が思い当たらなかった。
「ああ、それか。俺も気になって、直接聞いたのだが、ファーレンハイト曰く”シミュレーションであろうとも、大公妃と戦うつもりはない”とのことだ。大公妃殿下に向ける刃は、例え仮想でも存在しない。そう言われたら、受けぬわけにはいかぬであろう」
ミッターマイヤーの説明を聞いた彼らは、ファーレンハイトの顔を思い浮かべ、あの面で……と思ったが、心に留め声にするような者はいなかった。
「ところでお前たち。俺が疾風ウォルフと呼ばれることもあると、大公妃殿下にお教えしたか?」
先ほどシミュレータから出た彼女は、ミッターマイヤーのことを疾風ウォルフなる異称で呼び、彼が率いる艦隊は非常に高速で動けることを知っていることを、彼に告げたのだが、通常で考えると、彼女が知っている筈がない。
「いいえ。エッシェンバッハ元帥からお聞きになられた……のでは?」
「エッシェンバッハ公が、俺の用兵を大公妃殿下に語るなどありえんな……バイエルライン、もしも恋人ができても、絶対に艦隊戦など語るなよ。ほとんどの女は、興味がないからな」
自分が敬愛する上官の用兵なんぞを、恋人に熱く語り出したら、引かれるからそれだけは注意しろと ―― 彼女がどうして「疾風ウォルフ」を知っているのか、結局彼らには分からなかった。