「私に渡したかったものが、棺の中にあると考えて間違いなさそうですね」
墓地で墓石に刻まれた文を読んだあと、彼女は邸へと戻った。墓地からそのまま皇族が眠る霊廟へと向かい、皇太子の棺をあけることもできたのだが、彼女は悩んでいた。
―― 皇太子殿下の墓を暴く……できることなら、もう殿下とは関わり合いたくはないのですが……
彼女は好奇心は人並みにあるが、同時に常識も人並みに持ち合わせている。グリンメルスハウゼン子爵が残したものは気になるが、だからと言ってためらいなく墓を暴こうと行動に移す性格でもない。
―― 貴族のゴシップが書き込まれた手帳でしょうか……そうだとしたら、まったく興味ありませんし……
彼女はその遺品が、原作でラインハルトに託され使われなかった、例の門閥貴族の秘密を集めたものではないかと推測し ―― かなり消極的な気持ちであった。
「…………オーベルシュタインを」
考えた結果、彼女はグリンメルスハウゼン子爵の遺品を全て買い取り、その代金を帝室に納め、じっくりと調べることにした。
「手続きをお願いしたいのですけれど」
「畏まりました」
グリンメルスハウゼン子爵の残した謎について、手がかりが欲しい彼らとしても、遺品を丸ごと手に入れ、調査できるのは願ってもないことなのだが、
「それでね、捜して欲しいものがあるの。それもフェルナーとか信用できる者だけで」
「なんでしょうか」
「グリンメルスハウゼン子爵は、門閥貴族のゴシップを書き留めた手帳かなにかを持ってるのではないかと……別に子爵のことを馬鹿にしているわけじゃないのよ?」
邸の中に残っているのではないかと彼女は考え、彼らに捜し出してもらおうとしたのだが、話をしていると、彼らの表情があからさまに曇ったので、おかしなことを言ってしまったのかと焦る。
表情を気取られた彼らは彼らで、必死に誤魔化し ―― とにかく、秘密理に邸内の調査をする運びとなった。
彼女の元を辞した彼らは、
「なんで、うちのお姫さまは……」
彼女の手に渡る筈だった盗まれた品を、ぴたりと言い当てたのだから、彼らとしては困惑するしかない。
「フェルナー。お前が警備に付いていた時、子爵が噂話を書き留めているという噂を聞いたことはあったか?」
「ありません。どこで聞かれたのか、見当もつきません。あなたは、どうなんですか? ファーレンハイト」
「もちろん、聞いたことはない。キスリングにも聞いてみるか……だが」
キスリングが彼女の護衛になったのは、グリンメルスハウゼン子爵が倒れてから。あの枯れ、芸術に造詣も深くなければ、さほど知識人でもない子爵など、すぐに社交界から忘れ去られ、サロンで話題にのぼるとは、考え辛い。
「お二人が聞いたことなく、ジークリンデさまだけが知っているのだとしたら、情報源は皇帝では?」
グリンメルスハウゼン子爵のことならば、皇帝フリードリヒ四世が知っていて、それを彼女に伝えたと考えるのは妥当である。
「かもしれないな」
彼らは情報源に、疑問はあれど一応納得し ―― ファーレンハイトは翌朝、再び宇宙へと戻った。
―― 棺を開けるのは、貴方がオーディンにいる時にしますとは言ったものの……棺開けたくないわ……
彼女はファーレンハイトを見送りながら、自分が簡単に棺を開けられる立場にいることを、ひどく悔やんでいた。
もしも皇太子が埋葬されている棺を開けるとしたら、最低でも宮内尚書と典礼尚書の許可が必要になる。だが、現在の両尚書は彼女であり、極秘で墓を暴くことは可能。
墓に収められているのが、まったく知らない人ならば「ごめんなさい」とは思うが、彼女としても開けられる。
知り合いの場合は、少し抵抗はあるが、やはり我慢して開ける。
だが自分が処刑台に送った相手の墓となると ―― 物理的にはなにも障害はなく、あるのは彼女の心理的な障壁だけだが、それはかなり分厚く高いものであった。
彼女は棺を開ける、開けないの決断は先送りにして、皇太子の埋葬に関しての書類に目を通した。
「……予想はしていましたが、なにも」
書類は当たり障りなく。先に死亡した皇后の、埋葬手続き書類の名前を変えただけという代物。
念のためにと、皇后よりも前に遡ってみたが、やはり名前を変えただけで、全てが同じ様式であった。
「ああ、ここだけは違いますね」
添付されている棺の写真と、それらのサイズを表す数字だけは、違っていた。皇太子なので棺は皇后よりは大きく、だが皇帝よりも小さい。
「でも、これは私でも知っていることですし」
ただそれは、基本中の基本なので、彼女にとってなんら目新しい情報ではなかった。
そこで彼女は、秘密を守ってくれそうな、人物に直接会って話を聞くことに。
「あの老人か。確かに埋葬の際にいたな」
先日、皇太子の埋葬に携わっていたと彼女に語った、ロイエンタールを招き、遺言と経緯を説明した上で尋ねる。
ロイエンタールは真摯に彼女の質問に丁寧に答え、
「老人が皇太子の棺に何かを忍ばせたのだとしたら、頭部だろうな」
置いた場所をも推測してくれた ―― 彼女にとっては、なんら心が軽くなるようなものではないが。
「そうですか」
「開けないのか?」
「覚悟が決まらないのですよ、オスカー」
豪華なスペイン櫛に、それを以上に豪華で手が込んでいる白いマンティージャを被った彼女は、視線をやや俯き加減にして返事をする。
―― きっとそう言われるとは思いました。思いましたけれど……そこまで勇気がないのですよ
「覚悟?」
「なにを託されたのか? 見当も付かないので……恐いのですよ」
「恐いか」
「ええ。あまり良いものとは思えないので」
ロイエンタールは彼女が皇太子の棺を開ける際には、内部になにか変わったことがないかを確認するためにも同席すると。
それは心強かったが、
―― 変わったところがあったら、怖いじゃないですか! ロイエンタール。あなたのような人なら、思い違いなどないでしょうし
同時に変わったところがあったら嫌だとばかりに、彼女はマンティージャを掴んで、ふるふると頭を小刻みに振る。
「怖がらせるつもりはなかったのだが」
「気にしないでください。勝手に怖がっているだけですので」
「気にするなと言われてもな。怖いのならば」
「あなたに抱きつくのは無しですよ、オスカー」
彼女はロイエンタールが言い終える前に、行儀が悪いことだとは分かっていつつ、言葉を重ねて否定する。
「……そうか」
言おうとしていた言葉を潰されたロイエンタールだが、それが楽しく声を出して笑い、グリンメルスハウゼン子爵と皇太子についての話はそこで終わった。
ひとしきりロイエンタールが笑い、彼女が紅茶を淹れ直す。
それを無言で飲み干してから、
「ジークリンデ。お前は、俺の母親とギルベルト・バーデの関係を知っているか?」
少しばかり身を乗り出し、彼女に聞いてきた。
視線の力強さはいつもと変わらず、口調もしっかりとしていたが、どこか投げやりであり、彼の表情に影を作る陰鬱さの正体を垣間見てしまったような気分になる。
「雇うまで知りませんでしたけれど、雇ったら色々な方が教えてくださいました。お節介な方が多くて困りますわ」
「そうか。貴族は本当に醜聞を好むからな」
最後のほうは聞き取れないほどに小さく、誰かに聞かせるためではなく、ただ感情のままに呟いた。
―― そう言えば……原作でラインハルトが、ベーネミュンデ侯爵夫人に困って相談したとき、ロイエンタールが醜聞で排除できると教え……きっと噂を流したのも……身を以て経験していたのでしょうかね
どのように声をかければ良いのかと、言葉を探していた彼女だが、それは必要なくなった。
突如、ロイエンタールがギルベルト・バーデの歌を聴きたいと言い出したのだ。元々破綻気味ではあったが、とある家庭を破壊する原因となった、正反対の立場の二人。
何も知らなければ頼みは聞いたが ―― 彼女はロイエンタールの頼みを聞き入れて、彼と二人でバーデの歌を聴くことにした。
両者とも態度は変わらず、バーデの歌声は朗々と、一切の迷い無く。
―― 胃が痛くなりそう
彼女は席を外したかったのだが、ここで二人きりにして、騒ぎになっては困るので残った。短い歌を歌い終えたバーデが深々と礼をする。
後ろの伴奏者たちの表情も冴えない。
「ジークリンデ。ギルベルト・バーデと二人きりで話をしたいのだが、場所を貸してくれるか?」
―― なんで、自分から地雷踏みに行くんですか、ロイエンタール! ああ、貴方はそういう人でしたね……
彼女はバーデに、話をしてもいいか? 嫌ならば拒否して構わないと告げるも、彼も話しをしても良いと言ったため、彼女は席を外した。
―― 具合が悪くなる
彼女はソファーに横になり、二人の会談が早く、そして何事もなく終わることを願い、その願いが通じたのか、三十分ほどで終わり、ロイエンタールは彼女の礼を言い、手を取って指先を甘噛みし、帰っていった。
「キスされるのより、恥ずかしいのですが」
二人がどのような会話をしたのか、聞きはしなかった。聞きたくなかったという気持ちが大きいが。
精神的に酷く疲れた彼女は、その後、床に入る準備をする。
すると、彼女の領地を巡回していたシューマッハが報告書を持ってやってきた。彼女はそれを笑顔で受け取り、ベッドへと持ち込んで読み、そして領民たちの生活ぶりが撮影されている映像を観る。
彼女がフェザーンで手に入れた、質の良い乳牛により、領民の食料状況が少しだが改善し、余裕が出てきた。
『領主さまにお届けする』
シューマッハにそう言われ、カメラの前に並び、口々にお礼を述べる領民たち。
―― いや、そんなこと、しなくてもいいのですが……
お礼を言われたかったわけではないのだが、だが悪い気はしなかった。
彼らがもう少し暮らしやすい環境になれば良いなと ―― 元気に暮らしている姿を繰り返し観ているうちに、彼女は眠りに落ちる。
その後フェルナーがやってきて、報告書を並べ直し、端末と共に枕元に置き、毛布をかけ直す。
「お休みなさいませ」
小さな声で挨拶をしてから天蓋を閉じて、部屋を出た。
「フェルナー中将」
「キスリング」
彼女に命じられ朝から続けていた、グリンメルスハウゼン子爵の遺品の調査に戻るため、キスリングと警備を交代しようとしていたフェルナーは、
「はあ?」
ジークリンデ・フォン・ローエングラムはフリードリヒ四世の孫である ―― キスリングから、思いも寄らぬ噂を聞かされることになる。
「隊員の八割が、この噂を聞いたと」
「誰から?」
「噂の出所ははっきりとしませんでしたが、妻から聞いたと言う者も、かなりおりました。なんと言いますか、貴族社会ではなく街中で広まっているようです」
この手の噂が広まるのは、まず貴族社会。平民たちの間で先に広まるのは、珍しいというよりあり得ない。
「分かった。ジークリンデさまのことは任せた」
フェルナーは遺品の調査を後回しにし、噂について調べる為に夜の街に出て、事態がおかしな方向に進んでいることを確認し、明け方に邸に戻ってきて頭を抱える。
明らかに意図的なものだと分かるのだが、何を目的としているのか? 誰が首謀者なのか? 見当がつかなかった。
フェザーンでそのような噂が流れていないかどうか? を確認すると、案の定と言うべきか、同じような噂がすでに流布していた。
噂の出所を捜す際、誰がその噂で最も得をするのかを考えると良い ―― だが、今回はそれが当てはまらなかった。
”ジークリンデ・フォン・ローエングラムはフリードリヒ四世の孫である”実はこのこの噂、これだけでは終わらず”―― だから、夫であるエッシェンバッハ公が、近々皇帝として即位する”と続くのである。
かつてフリードリヒ四世の後始末に奔走していたグリンメルスハウゼン子爵が、彼女に遺書を残した ―― 内容は知られていないのだが、彼女にも遺言が託されていたという部分だけが広まる。
その噂の背を押すように、彼女とラインハルトの結婚をフリードリヒ四世が命じたと。これは事実ゆえ、否定のしようがない。
男尊女卑が常識である帝国では、後継者の婿が皇帝に立つことになっても、多少は首を傾げる者もいるだろうが、大方が受け入れる。
これで婿が、箸にも棒にもかからないような人物ならば問題だが、容姿端麗、頭脳明晰、常勝の若き元帥ともなれば、何かを言えば嫉妬であり、身の程知らずと誹られる。
「噂というものは、その噂で誰が最も得をするのかを考えれば、自ずと答えが出ると言われている。では、今回の噂で誰が利益を得るのか? それは、エッシェンバッハ公ラインハルト。閣下、貴方です」
突如、渦中の人物となったラインハルトは、オーベルシュタインの面会を受けていた。
「私はそのようなことは、断じてしていない!」
ラインハルトは正々堂々と正面からゴールデンバウム王朝を打倒し、新王朝を興すのが目的であり矜持である。
その彼にとって、妻が皇帝の庶子であることを理由に、皇帝の座を求めるなど ―― 噂であっても腹立たしいことであった。
「閣下に異心がないのでしたら、正々堂々と否定なさるべきだと進言いたしますが、簒奪の意思はおありでしょう。そしてその意思は、武力を持って叶えると」
「……」
「私が閣下の部下でしたら、戦いによって得るという考えを全否定し、親族が死に絶えた妻を妃に立てて皇帝の座につくことをおすすめしますが、幸いかな、私はあなたの部下ではない」
「そうだな。それで、この噂をどうするつもりだ? 放置しておけばおさまる類いのものではなかろう」
人の噂も七十五日というが、この噂は放置しておけば、七十五日後にラインハルトは、ゴールデンバウム王朝第三十八代皇帝に即位していなくては、収まらないほど ―― 正確には彼女の夫が即位していなくては収まらない、だが。
また彼女がフリードリヒ四世の孫という噂は、ラインハルトにとって非常に不愉快であった。自分の妻が、憎むべき男の孫など噂であっても耐えがたい。それが自分が好きな相手なら尚更。
「キルヒアイス、ミュラー両提督が、イゼルローンで捕らえた捕虜を使わせていただきたい」
「どうするつもりだ?」
「捕虜名簿の中に、ワルター・フォン・シェーンコップがおりました。念のために撒いておいた噂を、こちらも一気に広めます」
リッテンハイム侯が起こした内乱が終わってから、シェーンコップがリヒャルトの落胤であるという噂を流す ―― オーベルシュタインは以前語っていた通り、その噂の元をばらまいていた。
「それで、どうする?」
この噂はカザリンが遠縁であることが、一つの要因で、血は皇帝に即位した者に近いほうが良いとされる。
「閣下と落胤で、覇権を争ってください。その間に、噂の出所と、目的を調査します」
フリードリヒ四世の落胤の娘と、リヒャルト皇太子の落胤。より近いとされるのは後者、シェーンコップとなり、平地に乱を起こす原因となる。
「見当はついているのか?」
「まったく……と言えば嘘になりますが、まだご報告できる段階ではありません」
オーベルシュタインはフェザーンを疑ったものの、確証は得られていない。
「そうか。そのワルター・フォン・シェーンコップだが、私の敵対者になれるのか?」
「彼の力量次第ですが、ローゼンリッターの隊長ですから白兵戦の能力はかなりのものでしょう。暗殺されぬようお気を付けください」
ともかく「近々ラインハルトが即位する」という噂は、当事者たちには寝耳に水であり、誰も望んでいない状況であり ―― この噂に乗せられてしまったら最後、企んでいる第三者に良いように使われかねない。
むろんラインハルトは、そのような謀略に対抗できる自信はあったが、前述の通り、噂その者が腹立たしいので、出所をどうしても掴みたかった。
そこでラインハルトはキルヒアイスに、捕虜を全てファーレンハイト艦隊に引き渡すよう命じる。
「私がフリードリヒ四世の孫……噂にしても酷すぎます」
噂を聞かされた彼女はオーベルシュタインに言われ、噂の調査を一任し、グリンメルスハウゼン子爵の遺言についての調査は、一時中断することになった。