様々な準備に取りかかっていた彼女は、式典にかけてよい妥当な予算額を調べるために、「前回の予算を参考にしたい」と希望した。
周りに気を使わずあまり派手にやると、元帥間の関係に亀裂が生じることも考えられるので、大体が前例にならう ―― 元帥間にはすでに修復しがたい亀裂が生じているが、これ以上の溝が生まれないようにするためにも。
前回の予算を参考にしたいと希望したのは、あまり古いと物価や単価が違うので。
彼女の希望通り、前回の予算であるラインハルト関係の書類が並べられたところで、メルカッツがそれらしい祝いごとを何もしていないことを知った。
メルカッツが就任した当時、彼女は表現は悪いが廃人だったので、その辺りのことはまったく分からなかったのだ。
時期が時期なので(彼女はまだ内乱中だと勘違いしている)、後回しにしたとしても致し方ないが、その後に就任したファーレンハイトが先に慣例の行事を行うのは、どうなのだろうと。
「フェルナー」
「はい、なんでしょう」
「祝賀パーティーは内乱が終わるまで、開かないほうが良いのかしら?」
メルカッツが内乱終了まで控えているのだとしたら、それに倣うべきではないかと尋ねる。
「えーあーそうですねー」
彼女とラインハルトは授与式で顔を合わせるが、その場で話すわけではない。顔を合わせてからのパーティーが重要なのだから、後回しにするわけにもいかない。
「どうしたの、フェルナー。なんでそんなに歯切れが悪いの?」
書類を提出した時から、こうなるような気がしていたフェルナーは”隠しカメラ”に背を向け、彼女を隠すようにして、彼女が好まない話題を用い、開くよう上手く話を進めてゆく。
「メルカッツ閣下がなぜパーティーを開いていないのか? 事情を探ってきましょうか? まあ、大体予想はついていますが」
「なにが原因だと、フェルナーは予想しているのですか?」
「予算の問題じゃないかと思うので。メルカッツ閣下は元帥になられたの急でしたし、元帥昇進と同時に尚書就任ですから、それなりの規模のものを開く必要があるでしょうが、あの方、そう裕福でもないので。もしかしたら資金集めなどをなさっているのかも知れません」
「……」
「夫人や令嬢のドレスや装飾品も、それに相応しいものを用意しなくてはなりません。ジークリンデさまなら、規模と予算から、どのような格好をするのか? それには、どの程度かかるのか、おわかりになるでしょう」
彼女は他人の家の台所事情の話題は苦手なので、このような金銭的な話題を組み込むと、すぐに引くのが「常で」あった。
だが今回は少しばかり違った。
―― たしかコルネリアス一世は一人一人ではなく、まとめて元帥位を授与したことがありましたね。ということは……
コルネリアス一世についてはしっかりと学んでいた彼女だが、かの皇帝から元帥位を授与された者たちの、就任パーティーが合同で行われたどうかについてまでは知らなかった。
―― 先例があったほうが、誘いやすいですから
「夫人と令嬢の二人にお世話になったお礼ということで、合同でどうかしら?」
「それは、良いかもしれませんね」
彼女が引き下がらなかったのはフェルナーとしては意外だったが、世話になった人への恩返しも忘れない彼女なので、意外の中にも納得できるものがあった。
「ただ誘うのではなく前例があったほうが良いと思うのよ。だから、コルネリアス一世の頃の、式典の予算をあたって、複数の元帥がまとめて式典を行っていたかどうかを、調べてちょうだい」
彼女個人は前例などは気にしないが、メルカッツは古風な人間で、新しいことを好むような性格ではない。
彼女が誘えば無下には断らないだろうが、当人の就任を祝う場なのだから、できるだけ意思に沿いたい。だからこそ先例を求め、それを踏襲するような方法をとることにした。
「それでしたら」
このやり取りをメルカッツに説明すれば、例え前例がなくとも、断られることはないだろうとフェルナーは考えた。
「行ってなかった場合は、説得は難しそうですけれど」
「ジークリンデさまが頼めば、嫌とは言わないでしょう」
「相手、メルカッツ元帥よ? かなりの堅物なのよ」
「ジークリンデさまが、そう思われているのでしたら、それで宜しいのですが」
―― 宜しいって……なんですか
「典礼省も絡むわよね。私からの委任状があったほうが、良いかしら?」
釈然としなかった彼女だが、いつまでもその話題を語り合っている場合ではないので、話を切り上げた。
「もちろん」
「待ってなさい。いま用意しますから」
彼女は座っていたソファーから立ち上がり、窓際に置かれている机のほうへと移動して、公的なものに使用できる、質の良い白い紙を置き、インクの蓋を開け、ペンを走らせる。
委任状は慣れているのですぐに書き終える。
インクが乾くまでの間、インクの蓋をしめ、引き出しから白い封筒を取り出す。
最後にブロッターを押し当て仕上げをし、三つ折りにして封筒へと入れ、蝋封しフェルナーに渡した。
それを受けとり大至急調査したフェルナーは「合同で行われたことがあります」と、資料をつけて報告する。
それを元に、彼女はまずファーレンハイトに連絡を入れ、合同になってもいいかどうかを尋ねた。
ファーレンハイトは了承し、今度はメルカッツの元へと足を運び提案した。
フェルナーが前もって報告していたこともあるが、メルカッツはすんなりと彼女の提案を受け入れた。
そうと決まれば、家族の装飾品なども用意しなくてはならない ―― メルカッツの夫人と娘のベルタには世話になったので、それらも彼女は自分が持ちたいと申し出る。
さすがにメルカッツは、少しためらったものの、自分では購入資金はともかく、良い業者や良い品を見分ける自信もないし、妻や娘にもそのような素養が備わっているとは言い切れないので、彼女に頼むという形で、彼女の申し出を引き受けた。
彼女はメルカッツ夫人とベルタにドレスを仕立てるため用の数種類の布、様々なデザインのドレスに合う宝飾品を大量に用意し、軍人会館で待つ。
当初、彼女はメルカッツ邸に足を運ぶつもりだったのだが、自分が置かれている状況を考えて、自宅訪問は諦め、メルカッツ夫人とベルタを招くことにした。
完全に欺されている彼女と、彼女がそこまで欺されていることは知らない夫人とベルタ。二人はメルカッツから、ラインハルトの話題には触れないようにと、事前に言われていたので ―― そうでなかったとしても、二人は彼女に言わなかったであろう。
そういった女性特有の機微は、女性である二人のほうが余程長けているので、必要のない忠告であったが。
軍人会館を訪れたメルカッツの妻子は彼女の好意を素直に受け、布をもらい、ネックレスなどの宝飾品を借り、会話に花を咲かせ、貴族の夫人関係で厄介なことがあったら、できる限り協力します ―― そんな会話をし、二人は軍人会館を後にする。
この当時の彼女の生活は軍人会館と新無憂宮の行き来だけ。
被害があちらこちらに及ばぬようにするには当然のことなので、軍人会館は警備もしっかりとしているので、彼女としては不満や不安などはなかった。
そんな彼女の安心とは裏腹に、彼女が滞在している部屋は盗撮されていた。
”その報告を聞いた時のフェルナー大将の表情は、怖ろしいというのが相応しい表情でした。人があれほど怒ることが出来るとは、知りませんでした。顔色が変わったとか、青筋が浮かんだとか、睨みつけるなどの、分かりやすい怒りの表現は一切ないのに、とにかく怖かった”
リュッケの回想録には、そう書かれている ――
最初に異変に気付いたのは、専任護衛のキスリング。
彼は彼女の部屋に危険物などはないかを、毎回確認するのも仕事の一つで、丹念に部屋に異変がないかどうかを見回り ―― もともと勘が良いということもあるが、なにか言葉では言い表しがたい違和感に気付いた。
この違和感がなんなのか?
キスリングはしばし悩み、その元を捜して、ついに盗撮用の機器が扉に埋め込まれていることを発見した。
巧妙に隠されていたというよりは、最初からこのような目的の為に作られた盗撮用の扉と表現したほうが正しい構造で、発見したキスリングの鋭さは賞賛されるに値するものである。
盗撮機器は二十四時間作動しているものではなく、なにか特定のタイミングでスイッチが押され盗撮を開始し、同じくタイミングを見計らい人間が切るタイプで、通信を拾う調査機では発見し辛いものであった。
キスリングは報告するためにも、ある程度の情報が必要だとして、彼女の護衛であることを最大限に生かし、どのタイミングで電源が入るのかなどを調査した。
その結果、彼女が一人の時は作動しないが、フェルナーが彼女とは別行動を取って戻ってきた時や、オーベルシュタインが訪問した時、ケスラーが彼女の様子を見に来た時などに起動し、後者の二人の場合は軍人会館を後にすると停止。
フェルナーの場合は、そのまま護衛につくので、彼女の就寝時間近くまでは撮影されている ―― この状況から画像のみで音声は拾われていないことが分かる。
彼女の日常を探るというよりも、彼女が誰かと面談し話している内容を探っているらしいと判断し、ユンゲルスとリュッケに事情を説明し、カタリナが訪れた際、フェルナーにその場を預け、三人で不審人物がいないかどうかを調査した。
軍人会館は普通の住宅のように、建物が隣接していないため、会館周辺をうろついていると目立ち過ぎるので、会館にいたる道路周辺に潜んでいると考えて、通じている三つの道を調べ、会館に向かう地上車が見渡せ、あまり目立たない場所を幾つか目星をつけ、カタリナの訪問と帰宅時におかしな動きをしている物がいないかを探し、それらしい人物を発見し居場所を特定してからフェルナーに報告した。
「ふーん」
その報告を聞いたフェルナーの表情が、リュッケ曰く”その報告を聞いた時のフェルナー大将の表情は、怖ろしいというのが相応しい表情でした。人があれほど怒ることが出来るとは、知りませんでした。顔色が変わったとか、青筋が浮かんだとか、睨みつけるなどの、分かりやすい怒りの表現は一切ないのに、とにかく怖かった”というものであった。
誰がどのような目的で設置したのかを調べるのは重要だが、それよりも早く、扉を付け替えなくてはならない。
「同じデザインの物はないな」
今度は彼らが直接扉を購入し、自分たちの手で取り付けることにしたのは良いが、既製品で同じような扉が見つからなかった。
作らせるのは簡単だが、その間、盗撮され続けることになる。
有無を言わせず取り替えてもいいのだが、似たようなデザインがないので、取り替えたことに彼女も気付き不審を覚えるかもしれない。できるだけ、彼女にはそのような危険が迫っていたことは伝えたくないという、いつもの彼らの心理が働き ――
だが意外なことで、扉は取り外されることとなった。
その原因は、彼女自身。
「バナナを一房、持ってきて」
「畏まりました」
式典の準備を楽しみつつ、忙しい日々を送っていた彼女は、その日、バナナを一房、部屋へ持ってくるよう召使いに命じた。
―― シュガースポットが出てるのが欲しかったんですけれど、食べるとは思ってないから仕方ありませんね
急ぎ用意されたのは、形の良いシュガースポットなど浮いていない、滑らかな黄色のバナナ。命じられた方は、室内の飾りにするのだろうと考えて、形の良い物を届けた。
部屋で一人きりになった彼女は、房から一本バナナをもぎ取り、部屋を見回し隠れる場所を捜す。
実は彼女はバナナを食べようと考えて、持ってくるよう命じたのだ。
バナナを食べたいと言えば食べられるのだが、それは皿に載せられ、ナイフとフォークを使って食べなくてはならず、皮をむいて噛みつくような食べ方は、貴婦人はしてならない。
だが彼女は「人はいつ死ぬか分からないから、食べたいものを食べたいように食べます!(ただし、体重は気にする)」と一人決意をし、その手始めとしてバナナを選んだ。
―― ナイフとフォークじゃなくて、かぶりつくのです!
だが誰もいなくとも、何となく気になったので、隠れる場所を捜し、
「あーここが良いかも」
彼女は盗撮機器が仕掛けられている扉を目隠しして、壁との隙間に入り込み、完全犯罪を目指すため、手袋を脱ぎ、おもむろにバナナの皮をむく。
―― ちょっと固めだけど、気にしない!
喜び勇んでバナナにかぶりつき、久しぶりの気安さに頬を緩ませ、二口目を頬張った。その時。
「お嬢さま……お嬢さま? どちらにいらっしゃいますか?」
彼女の様子を見にやってきたケスラーが、彼女が見当たらないので声をかけた。事前に連絡のあった来訪だが、隠れていた彼女は驚き、口に入れていたバナナを思わず飲み込んでしまい、青い顔をして扉と壁の間から出て ――
ケスラーの応急処置により、彼女の気道に挟まったバナナの欠片は、口から転がり出て、事なきを得た。
「驚かせてしまって、申し訳ございません」
彼女が喉をつまらせた原因が、自分にあると知ったケスラーは、自害しかねない勢いだったが、彼女がなんとか思いとどまらせる。
その後、席を外すよう言われてキスリングや、式典の準備をしていたフェルナーが戻ってきて、
「なんで、そんなことしたんですか? ジークリンデさま」
「……したかったことは、しようかな? と思ったのよ、フェルナー」
「突然どうなさったんですか?」
「ほら、人生っていつ終わるか分からないから、したいことはしておこうかな……と思ったのよ」
「それで本当に人生終わらせかけてどうするんですか」
フェルナーは彼女の肩に軽く手を乗せて、安堵の表情を浮かべる。
「……」
その表情に、彼女は自分がとても悪いことをしてしまったような気がした。
「まあ、何をなさっても宜しいですが……危険なので、室内の扉は撤去いたします。宜しいですね?」
ケスラーがやって来ていたので、盗撮機器が起動しているのは確実なので、見ているであろう相手に説明するかのように、彼女の言い聞かせるよりも、相手に伝えるために、口をはっきりと動かした。
「ええ。もう二度と扉と壁の間で、物を食べないと言っても、信じてくれないでしょうから」
「そんなことはありません。ジークリンデさまのお言葉、このフェルナーは全て信じます。ですが、扉と壁の隙間で、居眠りしないとも限りませんので」
―― フェルナーさん、ジークリンデさまのこと、よく分かってるなー。きっとジークリンデさまは挟まる
こうして扉は撤去され、彼女に直接害が及ぶ物はなくなった。