時系列:ヘルマプロディートスの恋 第7話
第25層迷宮区の中ボス戦も佳境に入っていた。この巨人タイプの中ボス、ギルティタイタンの2本のヒットポイントバーはすでに赤く染まっている。これを倒せば恐らくボス部屋に通じる扉のロックが解除されるはずだ。
僕はポーションローテーションのため後方に下がっていた。ポーションの効果が表れ、僕のヒットポイントは回復を始めた。
「ポーション飲んだよね? スイッチ行くよ。エッガー!」
僕の代わりに前衛に入っていたコートニーが長い黒髪の隙間から儚げな瞳をちらりと僕に向けた。
「OK!」
スイッチ直前のわずかな時間を使って僕は昔の癖でパーティーメンバーのステータスを確認する。
盾持ち片手剣の前衛はジークリード、レイヴァン、僕の3枚。後衛は斧戦士のマイユ、槍戦士のクイール、そしてスリング使いのコートニー。
パーティーリーダーのコートニーの適切なヒットポイント管理で誰ものヒットポイントが安全圏だ。
「スイッチ!」
鋭い声でコートニーが3連撃を放ち、硬直時間に入った。僕はその時間に彼女の前に入る。
「セイヤッ!」
僕はバーチカル・アークを叩きこんだ。ギルティタイタンの身体に僕の2連撃がV字に刻まれる。
「みんな、ラストアタックはエッガーに取らせてあげて」
後衛に下がったコートニーがみんなに声をかけた。
「OK」
「了解」
「はい」
「あいよ」
それぞれから了承の声が上がり、防御に徹するようになった。
「行くぜ!」
僕はシャープネイルからパーチカル・アークへつなげて一気に勝負に出た。
ギルティタイタンは末期の絶叫をあげて、粉々に砕け散った。
「よしっ!」
僕の目の前にレベル37にアップした事を知らせるダイアログが表示された。
「おめでとう!」
「ありがとう」
僕の両サイドにいたレイヴァンとジークリードから祝福の声をかけられ、僕は二人とハイタッチを交わした。
「おめでとう! これで全員レベルアップできたね」
後ろからコートニーに話しかけられ振り向いた。そこには満面の笑みでハイタッチを求めるように右手を高々と上げたコートニーがいた。
「あ、ありがとう」
僕は一瞬ためらいながらも彼女ともハイタッチを交わした。
彼女はまだ知らない。僕が彼女に対して嫉妬似た憎しみの感情を持っている事を……。
ソードアート・オンラインはナーヴギアが直接脳波を読み取るためか感情が表に出やすい。この感情は知られてはならない。勘づかれてしまってはいい感じになっているこのパーティーの空気を壊してしまう。
僕はあわてて他の事を考えて気を紛らわせた。
「じゃ、マッピングをつづけよっか」
コートニーが明るい声でみんなに声をかけると「おう!」という明るい返事をして彼女を先頭に歩き始める。僕は心にもない微笑みをつくり、その後を追った。
コートニーがジークリードと共にこのパーティーに参加したのは第13層攻略の時からだ。その時は僕がパーティーリーダーだったのだが、第15層攻略のあたりからいつの間にかコートニーがリーダーに収まっていた。
僕はそれが面白くない。元々このMTDで僕はエース的存在だった。それなのに今は一般人――その他大勢と同じだ。こういう状況はここアインクラッドに囚われる直前の自分の姿を思い起こさせる。
十で神童、十五で才子、二十過ぎれば只の人。昔の人は上手く言ったものだ。
まだ、僕は17だけれども、高校に入るまではトップクラスを走っていた人間なのだ。偏差値で言うと60代後半あたりをうろうろしていた。それが、高校に入って学期を重ねるごとに見事につまづいてしまった。
『努力すれば報われる』なんて言うのは大嘘だ。現実の中、僕は重く重く実感する……。
――努力で才能は補えない――
僕が徹夜の勉強でようやく理解できる内容を同じクラスの奴は一目読んだり聞いたりするだけで理解できてしまうのだ。
オマケに気分転換で買ったこのソードアート・オンラインでログアウトできないなんていう馬鹿な事件に巻き込まれてしまった。もう、リアルの僕の人生は終わった。あれから半年経っている。間違いなく同じクラスの連中は進級している中、僕だけ留年だ。ひょっとしたら退学させられてるかも知れない。
リアルの僕の人生が終わったのなら、せめてソードアート・オンラインの世界で名を残すぐらいの事をしなければ。そう考えて今まで打ち込んできた。そのおかげで僕はベータテスターではなかったけれど、努力を重ねてMTDの主力として名を知られるようになっていた。
そんな時だ。コートニーが僕のパーティーに加入してきたのは。
そこで僕は再び痛感する事になる。
――この世界でも、努力で才能は補えない――
コートニーの才能は本物だ。戦闘にスリングなんてふざけた武器を使っているが、その特性を生かした戦い方は僕には思いつきもしなかった。それに、全体を見渡す視野の広さ。そこから来る適切な指示。戦闘効率のそつのなさ。
どれをとっても僕はかなわない事を痛感した。パーティーリーダーの座を明け渡す事になってしまったのは当然の流れだ。
僕も努力した。もう、僕にはこの世界しか残されていなかったから……。
けど、駄目だった。どんなに時間をかけても、やり方を工夫しても駄目だった。
どれほど頑張っても努力で才能は補えないという真実を自分の身で証明するだけだった。
僕は索敵スキルを使いながら先頭を歩くコートニーを複雑な心境で見つめた。彼女は僕のそんな苦労も知らず、僕ができない事を軽々とやってのける。
どうして、この世の中は不公平なのだろう。なぜ、物理の数式のように力を加えた分だけ結果が現れるようになっていないのだ。
「睨みすぎ」
突然、耳元でレイヴァンに囁かれて僕は身をのけぞらせて横へ跳んだ。
(見られた!)
僕はどんな表情をしていただろう? 『見つめすぎ』ではなく、『睨みすぎ』と言われたからには相当ひどい顔をしていたのだろうか。
「大丈夫。ただ、気をつけてね」
レイヴァンは柔らかな笑顔で僕を見てそう言った。
レイヴァンとはほぼゲーム開始時からの付き合いだ。こいつは僕の気持ちを分かってしまっているかも知れない。人の事を言いふらすような男ではないからその点は安心できるが、自分の心を読まれたかもしれないのはあまり面白くなかった。
中ボスが立ちふさがっていた扉を通り抜けしばらく歩くと、僕たちは不気味な大きな扉にたどり着いた。これは間違いなくボス部屋の扉だ。
「これ、ボス部屋だよね」
ジークリードがコートニーの首元を掴みながら言った。
「うん。間違いないね……ってなんで捕まえてるの?」
コートニーが怒気を孕んだ視線をジークリードに送りながら言った。
「また一人でボス部屋に突っ込んで行くつもりでしょ? おかげで24層はひどい目に遭ったからね」
呆れ顔で深いため息をついて、恨みがこもった目を向けた。
「ああ、分かってるよ。もう、あんなことしない」
コートニーは身をひねってジークリードの手を払いのけて睨みつけた。
はた目には一触即発の雰囲気の二人だが、僕たちはもうこの二人のやり取りは飽きるほど見ているから分かる。これは冗談だ。
「えーっと。夫婦漫才はそのくらいにして、ボス部屋の場所が分かったから街に帰ろうぜ」
レイヴァンが爆笑しながら声をかけた。
「そうそう。もう、腹減ったぜ俺!」
マイユが斧を肩に担ぎながらため息をついた。
「「夫婦じゃない!」」
二人は打ち合わせをしたようにぴったり声を合わせて否定の声をあげた。
「はいはい。まだ! 夫婦じゃないね」
『まだ』を妙に強調してクイールが言うと、コートニーはキッとした目を向けた。
「街に戻ろ!」
「うん。そうしよ」
ジークリードが言うと、二人の視線がぶつかった。途端に二人の顔が朱色に染まって固まった。ソードアート・オンラインの世界は感情表現がオーバーになる傾向がある。リアルであれば頬を染める程度だったかも知れないが、今の二人は顔全体が真っ赤になって湯気まで見えそうだ。
「じゃあとっとと帰ろうぜ!」
僕たちはそんな二人を見ながらクスクスと笑って街に戻る事になった。
街に戻り、パーティーメンバーで食事をとった。その後、コートニーはマップデータの統合のためギルドのリーダー会に向かい、僕たちはそのまま雑談になだれ込んだ。
「にしても、ジークリードはいいよなあ。コートニーさんと夜も毎日……」
マイユが顔をでれっとさせて言った。酒も飲んでいるせいだろう、顔も赤く染まって口調もあやしい。
このゲームでは酒に年齢制限がないので僕も飲んだことがあるが妙に楽しい気分になるし、ふわふわとした不思議な感覚になれる。酒に依存する大人がいるのも理解できた。
「また、その話ですか。マイユさんが思っているような事は一切ありませんから」
ジークリードはうんざりとした表情でため息をついた。そう言えば彼のドリンクはいつもソフトドリンクだ。酔ったところは見たことがない。
「だってさあ」
マイユはグラスを揺らせながらクダをまくのをやめなかった。「サービス初日からずっと一緒なんでしょ? あんなかわいい子と毎日一緒の部屋で……って考えると、うらやましい!」
ジークリードはこういう話は苦手のようで、いつもニコニコしながら黙り込んでしまう。
「これだから、おっさんは困るねぇ」
沈黙で凍りつきそうになった時、クイールが絶妙なタイミングで合いの手をいれた。「じゃあ、お前も彼女を見つければいいんだよ」
「だめだめー。俺の名前でアウトだよ。あーこんな事になると分かってたら、女みたいな名前にしなかったのに」
マイユは頭を抱えて机に突っ伏した。
その様子を見て、クスクスと笑い声が上がった。
「じゃあ、私はこれで」
ひとしきり笑いがおさまったところで、ジークリードは微笑みを浮かべながら席を立った。
「コートニーちゃんの帰りを待たないの?」
マイユが机に突っ伏したまま視線をジークリードにむけた。
「どうせ一緒の部屋で会うじゃん」
クイールがそう言うと、「ああ、そうかあ。いいなあ」と、マイユは再び机に沈んだ。
「こいつの事は気にせずに、帰って大丈夫」
僕はジークリードに手を振った。
「すみません」
ジークリードは礼儀正しく頭を下げた。
「うん。お疲れー」
そんな声に送られて彼は酒場を出ていった。
それからしばらく僕たちはあれこれと無意味な雑談を続けた。
「それにしても、ジークリードって心底、紳士だよなあ」
ようやく酔いが醒めたのか、机に突っ伏していたマイユがそう言いながら身体を起こした。
「でも、あまり男っぽくないよな。なんか力強さに欠けるというか」
「それを言ったら、コートニーちゃんは女っぽくないよな」
「それは悪うございました」
突然現れたコートニーがむんずとマイユの首を掴んだ。
コートニーの服装は男女共通装備であるチュニックにパンツスタイルだ。武装解除してる時の彼女の姿はその美貌を台無しにするほど男っぽいものだった。
「げ、やばっ! ギブギブ」
マイユはギブアップの意思表示で絞め上げるコートニーの手をタップした。
「んー? 与えて与えて? もっと絞めて欲しいのかな?」
ニヤリと微笑みながらさらに絞め上げる。
「ちゃうちゃう! ギブアップ、ギブアップ!」
コートニーに締め上げられ、マイユの身体は宙に浮いて手足をじたばたとさせた。ゲームの中の世界とは言え、線の細い美少女が中年男性の首を絞め上げている姿はなかなかシュールだ。
街中なのでダメージ判定は起こらない事は承知の上なので、みんな笑いに包まれる。
「あれ? ジークはいないの?」
コートニーはマイユを持ち上げたまま僕に聞いてきた。
「少し前に帰ったよ」
ちゃんと僕は笑えているだろうか? そんな心配をしながら答えた。
「そっか」
コートニーはぱっと手を放してマイユを解放した。
「現実だったら死んでたよ俺」
マイユが苦笑しながら首をさすった。
「明日、午前中に攻略会議をやって、午後2時からボス攻略だって。いつもみたいに現地集合でいい?」
コートニーがギルドからの連絡事項を伝えた。
「了解~」
「じゃあ、僕、帰るね。お疲れ様」
「おつかれー」
みんなからの言葉にコートニーはにっこり笑いながら手を小さく振って宿屋から出て行った。
その後、しばらく飲み会は続いた。なにしろ、ソードアートオンラインにはテレビやネットサーフィンのような一人でやるような暇つぶしコンテンツがない。寝るまでの時間はスキル上げにあてるか、今の僕たちのようにだべって過ごすことになる。
「僕もそろそろ寝るかな」
不意に襲ってきた眠気と共にあくびをして僕は立ち上がった。
「おう。おつかれー」
マイユとクイールが手を振った。
「あ。エッガー」
立ち上がって声をかけてきたのはレイヴァンだった。「明日の午前中、ボス攻略戦の買い出しに行くでしょ? 一緒に行かない?」
「うん。分かった」
特に断る理由もなかったので僕は頷いた。
次の日の朝。ボクとレイヴァンは約束通りボス攻略前の買い出しに街へ繰り出した。
プレーヤーメイドの装備を見ながら必要があれば購入するが、ほとんどはポーションや結晶アイテムなどの消耗品アイテムの補充が目的だ。
「まいどありー。これからもひいきにしてくれよ、兄ちゃん!」
NPC店員が明るくレイヴァンに言った。
「なんか、すごくいっぱい買ってなかったか? また、結晶アイテム?」
僕があきれながら言った。
「たくさんないと、なんか不安でさ」
レイヴァンは笑いながら頭をかいた。
レイヴァンは結晶アイテムマニアだ。普通は転移結晶、回復結晶それに解毒結晶ぐらいしか持たないプレーヤーが多い中、止血結晶、浄化結晶、照光結晶など、役に立つかどうか怪しいものまで取り揃えている。さすがにレアアイテムの回廊結晶までは持っていないようだが……。
「あれだけ持っててよく間違えないな」
「間違えても、エッガーがいるからさ」
ニコリと笑いながらレイヴァンは僕を見つめてきた。
「は?」
「頼りにしてるぜ、相棒!」
レイヴァンは肘をコツコツとぶつけてきた。
「なんだよそれ」
僕はあきれてため息をついた。
「俺は少なくとも、コートニーちゃんより頼りにしてる」
「な、何言ってるんだよ」
レイヴァンの言葉に僕は息を飲んだ。
「長い付き合いだから、それぐらいわかるぜ。っていうか、コートニーちゃんを睨みすぎだよ。あれじゃ、いつかみんなにバレちゃうぜ」
「そんなに睨んでた?」
「うん」
「そっか」
やはり感情を隠し通すのはソードアート・オンラインでは難しい。
それから、僕は黙り込んでしまった。
「エッガー。お前はすごいよ。ベータテスターでもないのにここまで強くなってるのはそうたくさんいないぜ」
「慰めの言葉なんていらないよ。それに、ここまで来るともうベータテスターの優位性なんてないだろ」
突き放すようなとげとげしい口調で僕はレイヴァンを置き去りにして店から出た。
「とにかくさ。俺は頼りにしてる。それは忘れないでくれよ」
レイヴァンは僕を追いかけてきて言った。
「なんで、そこまで僕を……」
「なんでって、友達だからさ」
「友達……」
片言のようにその単語を呟いた。
僕に友達なんていなかった。高校に入るまで身の回りの連中は全員、僕を引き立てる存在であったし、高校に入ってからは僕の敵だった。
「あれ? 友達って思ってたのは俺だけだったのかな?」
僕の反応はレイヴァンの予想外だったらしく、戸惑いながら頭をかいた。
「そっか、友達か……」
それは新鮮な感覚だった。
僕はずっと上を見て生きてきた。けれど、同じ場所から手を携えてくれる仲間がいる。いかに僕は周りを見てこなかったんだろう。とても恥ずかしい思いになった。
「ありがとう」
「な、なんだよ。あらたまって言われると照れくさいじゃんか!」
レイヴァンはにっこりと笑って拳を僕に突き出してきた。「まあとにかく、今日のボス戦も頼むぜ。相棒!」
「おう」
僕は拳を合わせて微笑んだ。意外と心地いい。友達というのはいいものかもしれない。
それから僕たちはポーション補充、そしてプレーヤーの露店めぐりをしてボス戦に参加するために集合場所に向かった。
「では、いきましょう」
落ち着いた声でMTDのギルドマスター、シンカーはボス部屋の扉を開いた。
雄叫びをあげながら攻略組は次々とボス部屋に突入した。
暗かったボス部屋に明かりが灯され、部屋の隅々まで明らかになる。一番奥に巨大な椅子があり、そこに鎮座していた双頭の巨人が雄叫びをあげて立ち上がった。
迷宮区で見てきた巨人よりはるかに巨大で、その体躯にふさわしい暴虐的なハンマーを両手に装備していた。
双頭の巨人がこちらに向かって走ってきた。
「おいおい。ヒットポイントバーが五本もあるぜ」
レイヴァンが僕の隣でゴクリとツバを飲み込んだ。
「我々MTDが攻撃を受け止めます。そのほかの方は周りから攻撃を!」
シンカーの声にそれぞれの気合が入った雄叫びで返事があった。
MTDの左翼三隊は左からコートニー、シンカー、マサ。右翼三隊はダンコフ、キバオウ、コーバッツで構成されている。ダメージを受けても十分にスイッチで回していける陣容だ。
唸りを上げて巨人が右の戦槌をマサのパーティーに振り下ろした。
それほどスピードはない。マサのパーティーメンバーは余裕で躱した。地響きを上げて、戦槌は誰も巻き込むことなく地面にめり込んだ。
「ぐあああああああ!」
双頭の巨人の攻撃を完全に躱したはずのマサのパーティーメンバーが悲鳴を上げた。
「こんなことって!」
コートニーが信じられないといった叫び声をあげた。
僕も目を疑った。戦槌を避けたマサのパーティーメンバーのヒットポイントが一気にイエローゾーンに入り、今もなお減り続けているのだ。
なにが、どうなってるんだ? 範囲攻撃? 命中してないのにイエローまで減るって事は直撃を受けたら一撃死してしまうのか?
僕は呆然とその光景を見つめた。
「シンカーさん! マサさんを下げて、他の隊を前に!」
コートニーが鋭い声をシンカーへ飛ばした。
やはり、彼女は僕より優れている。このような状況にも関わらず、最善の手段を求め指示を出している。
「はい。マサさん。下がって! 私たちが前に」
シンカーが後追いで指示を出した。
そんな時、巨人が雄叫びを上げて右足を振り上げた。
「みんな下がって!」
一体何をするつもりだ? そう考えた時、コートニーの鋭い指示が飛んだ。
戸惑いながらパーティーメンバー全員が後ろに下がった。
巨人が右足を振り下ろすと大音響とともに地面が大きく揺れた。まともに立っている事もできず僕は転倒した。
周りを見るとボス部屋に入った攻略メンバーのほとんどが転んで床に這いつくばっている。
僕の目の前で巨人が左戦槌を転倒して無防備な状態を晒しているマサのパーティーに振り下ろした。
悲鳴も聞こえなかった。ポリゴンの破砕音すら叩き潰されたようだった。そして、その周りにいたシンカーとダンコフのメンバーのヒットポイントがイエローに落ちて行く。
左戦槌が持ち上げられると、そこにいたはずの人間の姿はなかった。
「こんなの……めちゃくちゃだ」
さすがのコートニーも絶句しているようだった。
「うああああああああ!」
恐慌をきたしたコーバッツのメンバー3人が転移結晶を使った。「転移! はじまりの街!」
転移結晶に反応して、双頭の巨人はその3人に右戦槌を振り下ろした。
転移結晶による転移は瞬時には行われない。数秒間、無防備になる。双頭の巨人はそれを狙っているのだ。こんなAIは今まで搭載されていなかった。
戦槌の直撃を受けた3人は転移結晶の輝きと共に粉砕された。
巨人は雄叫びをあげて、再び右足を振りおろし大地を揺らした。そこから再び殺戮の嵐が吹き荒れた。
コーバッツのメンバーが二人、さらにシンカーのメンバーが二人。命を散らせた。
これが、死……。
思い返してみると、僕は人の死を見せられたのは今回が初めてだった。
最前線に立っていたとはいえ、ヒットポイントに余裕を持ってポーションローテーションしてきたし、ボス戦でもダメージコントロールをしっかりしていれば死ぬことはないと高をくくっていた。
一撃で死んでしまうモンスターなんて馬鹿げている。そうだ。茅場は僕たちを生きてここから出す気がないのだ。こんな奴と戦うなんてできっこない!
死ぬのは嫌だ!
「みんな、固まって。回復優先。回復結晶とハイポーション、すぐ使えるようにして。ケチらずどんどん使うんだよ!」
コートニーが鋭い声で指示を飛ばした。
戦う気なのか? 冗談じゃない。こんな奴と戦えない!
僕は転移結晶を手に取った。
「え?」
レイヴァンが目を丸くして僕を見た。
「ごめん」
僕は恐怖心で声が震えていた。「転移! はじまりの街!」
転移結晶が砕け、僕の周りが光に包まれた。
転移結晶に反応して双頭の巨人が僕を睨みつけて戦槌を振り下ろしてきた。
僕はここで死ぬのか? 嫌だ! 嫌だ! 嫌だ!
転移結晶が発動して何も行動できない僕は震えながら巨人の戦槌を見つめるしかなかった。
「受け止める!」
ジークリードが雄々しく叫びながら刀身をソードスキルで輝かせた。
まさか、あの重い戦槌をパリングするつもりなのか? そんなの無理だ!
「うん!」
コートニーが槍を握りしめてジークリードの隣に立った。「みんな力を貸して!」
「おう!」
マイユ、クイールそして、レイヴァンが僕を守るために巨人の戦槌に立ち向かった。
周りの風景が光の中に溶けていき、やがて見慣れたはじまりの街の風景が浮かび上がった。
(生き延びた……)
僕は震える足を引きずりながら二、三歩踏み出すとバランスを崩してその場に倒れ込んでしまった。痙攣したように全身が恐怖で震える。
僕のアインクラッド攻略はここで終わった。
ボス部屋から逃げ出してから数時間後、僕はギルドメンバー表を見た。
コートニーの位置は見たことがない街名が表示されていた。という事はあの双頭の巨人を倒して次の層に進んだという事か……。あんな化け物をどうやって倒したというのだろう。
やはり、僕は彼女に敵わない。恐怖に囚われ逃げ出した自分が嫌になった。
僕はコートニーにメッセージを送った。ただ一言『ごめん』と……。
送らなかった方が良かったかも知れない。けれど、何もしないのも気が引けたので、これでいいだろう。
僕はギルドメンバー表で他のメンバーの無事を確認した。
(レイヴァン……レイヴァンの名前が……)
ギルドメンバー表を確認していた僕の指が震えた。
レイヴァンの名前が非アクティブの状態になっていた。普通のゲームであればログアウトしているという事だ。しかし、このソードアート・オンラインは普通のゲームではない。ログアウトというのはこの世界からの退場。すなわち死を意味している。
その薄暗くなった名前を見ても僕は信じられず黒鉄宮のかつて≪蘇生者の間≫と呼ばれていた部屋へ走った。
教会の大聖堂のような厳粛な雰囲気の≪蘇生者の間≫に僕は入った。
高さは150センチほど。幅は20メートルはあるだろうか。その表面にプレーヤーの名前がアルファベット順にぎっしりと刻まれている。これにソードアート・オンラインに囚われた全プレーヤーの名前があるのだ。
『Leyvan』その名前には冷酷に線が引かれていた。
信じられない。つい数時間前に僕と話をしていたのだ。
『頼りにしてるぜ、相棒!』
とニコリと笑った姿は僕の頭に焼き付いているのに、もう二度と会話をすることができない? そんな馬鹿な話があるか。
僕はその名前をそっと撫でた。死亡した日時と原因がポップアップした。
死亡原因は打撃属性ダメージ。時間を見ると僕が逃げ出して間もなくの事だと分かった。
『あれ? 友達って思ってたのは俺だけだったのかな?』
数時間前のレイヴァンの言葉が僕の心を切り裂いた。
レイヴァンが死んだのはきっと僕のせいだ。
僕は――レイヴァンを裏切った。恐怖に駆られて逃げ出した時、レイヴァンの事など考えてもいなかった。
レイヴァンは僕の事をどう思っただろうか。僕を恨みながら死んでいったのだろうか。
「ごめん……ごめんレイヴァン……」
胸が締め付けられ、あふれてきた涙が止まらない。全身の力が抜けて僕はその場に崩れてしまった。
僕は初めて得た仲間、友達をたった数時間で失ってしまったのだ。
それから僕はMTDを抜け、一人でアインクラッドをさまよった。
そこで僕は気づいた。もう戦闘が出来なくなっている事に。
怖いのだ。はじまりの街周辺にいるワームを相手にしても震えが来て戦えなかった。
対戦するモンスターが威嚇の雄叫びをあげるたびに第25層の巨人に無残に殺されていった仲間たちが頭をよぎると恐怖心に全身を支配されて動けなくなってしまう。レベル差があって死ぬわけがないと頭で分かっていても駄目なのだ。たった1発のソードスキルを叩きこめば楽勝なのに、それすら出来ない。ソードスキルを立ち上げようとしても震えが来てキャンセルされてしまうのだ。
(もう、僕は駄目だ)
僕ははじまりの街のベンチに座ってため息をついた。
はじまりの街周辺のモンスターすら倒せないのではお話にならない。
最前線でも通用するこの装備も今となっては滑稽だ。僕にはもう必要ない。売り飛ばしてしまおう。
僕は暗澹たる気持ちで地面を見つめた。
所詮、僕は只の人以下の存在だったのだ。才能は無く、勇気も無く、たった一人の友達の期待にすら応えられなかった。
そのくせ、ただ自尊心が肥大化した醜い男。それが僕だ。
もう、何もできない。僕はまるで生きる屍だ。かといって、外周から飛び降りて自殺する気概も無い。ただただ漫然と日々を過ごすだけの存在。NPCと同じ――いや、極言すればそこらに転がっているオブジェクトと一緒だ。ただ、そこに在るだけの存在……。
不意に頭を殴られたような衝撃が走った。
(な?)
辺りを見渡すと僕の頭に落ちてきたと思われる黄色い果実が音を立てて地面を転がっていた。大きさはヤシの実ぐらいだろうか。僕はあわててそれを拾い上げると上を見上げた。
そこには街路樹があった。よく見ると葉陰に手にしている物と同じ果実が実っていた。
今まで全く気付かなかったが熟すと下に落ちてくるのか。
僕はその果実を口にしてみた。
(うまい!)
久しぶりの食事だった。
もう、これでいいや……。僕はこの果実だけで生きて行こう。そのうち攻略組が第100層に達してゲームクリアをするか、外部から救いの手が差し伸べられるだろう。
自己満足の名誉心、贅沢な虚栄心など求めなければ、命を危険にさらして戦う必要もない。
向上心がない人間、底辺の男などと言われようがどうでもいい。
だって僕は最低の人間なのだから。
僕は何のために生きているの?
ホント、僕はくだらない只の人以下の存在だ。
次の果実の落下を待って、僕はうつろな気分で街路樹を見上げた。
こうして、原作2巻の朝露の少女に出演というわけです。
友の思いを胸にリベンジする事も放棄して、自分のためだけにただ生きる。
それなりに優秀な人なのに、死の恐怖と友達を裏切ったという自責の念が彼の心を壊してしまいました。
次回はずずずいっと飛んで24話のティアナさんが主役です。