そこに記された指示を覚えるために。
深夜の鎮守府の、艦娘用に誂えられた宿舎。常ならば明かりが落とされているであろう時刻に、ひとつだけ、明かりの漏れる部屋があった。
部屋の主である少女は、ランプを頼りに、一冊のノートを読んでいた。大雑把な字で綴られたノートを繰りながら、彼女はそこに記された指示を読みとっていく。指示の内容は多岐に及び、鎮守府内で遣われるべき口調から、果ては歩く際の足運びまで、詳細に規定されていた。
少女はどうやら、机仕事を得意とする者ではなかったらしい。随分と時間を掛け、ノートの頭から終わりまで目を通すと、目頭を指でもみながら、椅子の背もたれに体重を掛け、天井を仰ぐ。
そして、数秒かけて空気を吸い込み、吸った量に見合った、長いため息をついた。
「あー、これ全部覚えなきゃいけないのかー……」
表紙に『覚え書き』と毛筆されたノートを閉じながら、めげるわー、と呟く。すると、ベッドに腰掛けていた少女が苦笑した。
ちら、と目をやると、小柄な少女が微笑んでいるのが見える。
「せやけど、ウチらもフォローするから。完璧にこなさなきゃ、ってことはないと思うよ」
方言混じりの、優しげな言葉が部屋に響く。
椅子に座る少女は更に仰け反ると、半ば背もたれにぶら下がるようにして、背後の少女と目を合わせた。まったくもう、と彼女が苦笑を深めるのを見て、へへ、と悪びれた微笑みを返す。
あまやかな空気が流れ始めたところで、或いはそれを断ち切るように、机に座る少女は表情を引き締め、姿勢を正す。
目線をノートに固定したまま、口を開く。
「……なあ、あんた―――龍驤だっけ? あんたから見て、今のあたしはどう見える?」
言いながら、首から上だけで振り向く。
問われた少女の表情に困惑が浮かんだのを見て、率直に言ってくれよ、と念押しする。ややあって、ひとつため息をつくと、龍驤と呼ばれた少女は、ぽつぽつと語り始めた。
「……新任の艦娘としては、相当よくできてる方やないかな。怯えも緊張もありすぎないし、何より、置かれた状況にパニックにもなってない。同じ状況なら、逃げちゃう子だっているし、中には―――」
そこまで告げると、龍驤は口を閉ざす。その先に続く言葉を予期して、少女は神妙な顔をして頷いた。
ありがとな、と呟く少女に、龍驤はどこか傷ついたような表情をしてから、曖昧に笑った。
「ごめんな。嫌なこと思い出させちまったかな」
「ううん、気にしないで。当然の疑問やと思うよ」
部屋を、沈黙が満たす。
暫くして、薄く、儚げに微笑んで、少女は口を開く。
「……そりゃあ、今だって、何でだよ! とは思うし、納得し切ってると言えば嘘になる。でも、あたしがやらなきゃいけない事なんだろ?」
なら、やるさ―――と、少女は呟いた。
自分に言い聞かせるような声色でも、自暴自棄になった者の口調でもないと、龍驤は感じた。だからこそ痛ましい、とも。
「立派やね。……本当に、立派」
面食らったような少女の顔に、龍驤は懐かしいものを感じた。
そう、彼女は唐突に褒められることに慣れていなかった。あんなに自信家の身振りをしていたというのに、だ。艦載機の搭載数を自慢しながら、いざ提督に褒められた時、調子が狂ったように二の句を継げないでいる様子を、昨日のことのように思い出せる。
―――だが、
「……優しいな、あんた」
返された言葉は、龍驤の予期していたものではなかった。彼女であれば、ここで腕を振り乱しながら照れ隠しに叫んだことだろう。
―――少なくとも、こんな風に、素直に返してくることなんて、なかった。
胸中に浮かんだ感傷を振り切って、龍驤は言葉を紡ぐ。
「……ウチにできるんは、こうやって教えてあげることくらい。根本的な解決なんて、何もしてあげられんよ」
「そんなの、誰だって無理さ。状況が状況だもんな。そっちじゃなくてさ、あんた、さっきの質問、わざと曲解してくれただろ?」
心臓が止まったような錯覚を、龍驤は覚えた。
―――ああ。時々見せるこの聡さに、直截な物言い。
納得と郷愁とが、龍驤の胸を満たす。確かに彼女は変わっていて、でも、彼女は彼女で―――。
「さっきの質問、な」
「……ああ」
「やっぱり、違う。違うけど、それでも―――それでも、おんなじや」
「提督ーぅ! おっ久しぶりー……ってうわっ! なーに抱きついてんだよっ!」
明朝。提督室に乗り込んだ少女は、部屋に入るなり、初老の男性に抱き締められていた。
……足音を聞いて、待っていたのだろう。常ならば執務机に座ったまま来客を迎える彼も、今日ばかりは席を立ち、自分から扉の前に佇んでいた。
「……なんだよ、泣いてんの? ほらほら、両脚ともちゃんと付いてるだろ? オバケじゃないし、艦怨念でもないって―――」
嗚咽を激しくする彼の姿に、言葉は最後まで告げられなかった。
制服の胸を涙で濡らされながら、少女は優しく抱擁を返す。すまない、すまない、と何度も繰り返す彼に、無事だったんだからいいじゃん、と微笑みながら告げる。
見上げた泣き顔をしっかりと見つめて、少女は、
「ほら、もう泣かない。……あたしはこの通り、帰って来たんだからさ」
最初で最後の、そして最大の嘘を、吐いた。
劇的な再会―――と先方が認識しているであろう逢瀬から、数分後。
自分の部屋で机に突っ伏す、少女の姿があった。
「……あー。わかってたつもりだけど、結構クるなー、これ」
言いながら、何度も読み込んだノートを開く。彼女が彼女として振る舞うための方策が所狭しと記述された、今は亡き少女の忘れ形見。
彼の口調から読み取れた彼女への信頼と、―――このノートから読み取れた、彼への親愛。その両方を侮辱しているのではないかという想いが、彼女を責める。
だがしかし、賽は投げられた。今更、自分は轟沈した彼女ではありません、などと言えるものか。
「―――こんなの書いとくほど、心配してたんだもんな、提督のこと。読み書き、得意じゃなかったろうに」
決して書き慣れているとは思われない歪な文字と、それに見合わない大量の記述とが、書き手の心情を雄弁に物語っていた。いつか自分が沈んだ日のため、自分と同じ―――しかし記憶を持たない艦娘に彼が絶望しないため、蓄積された虎の巻。
ボディタッチの仕方や食事そのものの癖まで記されているのは、それほどまでに彼女が提督と親しかったことの証左だろう。
「それでも、演じ切るしかない……よな。ま、任せてよ。意外とあたし、やるんだぜ?」
そう呟いて、ノートを閉じる。
席を立って振り返ると、龍驤が立っていた。
「出撃や。……整理、付いた?」
気遣わしげな龍驤に、少女は悪びれた笑みを向けると、
「ああ。―――軽空母、隼鷹! 出撃する!」
高らかに、宣言した。
在りし日の光景を幻視して―――いや、と龍驤は首を振る。自分まで、過去を透かし見ることはすまい。逝ってしまった彼女と、今ここに立つ彼女と。二人ともが、大切な友なのだ。
「初出撃やね。気張っていこう!」
「おうっ!」
どちらからともなく掲げた手を、高く打ち鳴らす。
そして、少女たちは海へ出る。
作者がこの二人をペアで運用していたため、龍驤さんの出演となりました。飛鷹さんごめん。
「解体は装備の解除で、艦娘は生身に戻る」って話をどこかで聞いて、ああ、残酷な設定がひとつ消えた、と安心したものですが、新規ドロップ/建造まわりの歪さだけはどうしても付き纏ってくるように思います。どう設定を解釈しても、つらい。
8/19:原作を「艦これ」から「艦隊これくしょん」に変更。