沈んだ体は、泥の上。水の底。暗闇に滲む微かな明かりは、遥か、彼方。それは、海上に浮かんだあの頃。深く明るい青に染まった、天涯のそれにも何処か似た――なんて。
今更。水面の上になど、何の執着があるものか。私の体は泥の闇。日の光も、月の光も届かぬ、海の底。最早、何も。私を縛り付けるものなどは、在りはしない。在りはしないのだ、と、言い聞かせ続けることで、この、薄っぺらな、微小な、取るに足らない、喜びも、嬉しさも、哀しみも、あの頃、確かに感じた恋心も、愛も、希望も理想も未来も友情も夢も彼への想いも描いた幻想も、何もかも、何もかも抜け落ちたこの心を以って。大海を駆け敵を討ち、彼と共に過ごした日々の記憶さえ有れ。何があれ程に、愉快に感じたのか、と。一つ、疑問を抱いた所でその答えなど、幾ら汚泥を掻いたところで見つかりはせず。あるのは唯、共に過ごした彼との記憶、恋心と呼べるかも分からぬほどに小さな。彼への思い。
失ったことへの喪失感。空いた心の穴へと流れ込む破壊の愉悦、一瞬の快楽。我らが、我らこそが大海の覇者。支配し、遊び、弄び。最初から、最後まで。この戦が終わるまで嗤い続ける者なるぞ、と。
不可思議ながらも、愉快な文句。喜悦の言葉は海を染め。黄泉戦は、海上に浮かぶ。生きた艦隊、彼女らの元へ。眩しき光を見ては、成る程。懐かしみを感じる程度の心はまだ、この冷たい肉の奥底に埋まったままであるらしい。
笑う、笑う。表情の一つさえ変えず、しかし、皆々。我らが深海棲艦は、笑みに溢れて彼女らの前に。
が。
その中で、一隻。私の笑みは、何処へ。濁った瞳に映るは、何ぞ。
彼女らは。そう、彼女達は、嗚呼。彼女達に他ならず。記憶を辿れば、すぐ、ソコに。私が、私だった頃の、朧気に残る、最後の記憶、記憶の欠片……
――皆、と。
思わず開いた口から溢れ出す、海面のそれより冷たい水。零れた水は、空気を震わすことなど無い。私の言葉は、伝わらない。
深海棲艦達の目に、光が灯る。旗艦は、私だ。お前達は、後ろに着けと。彼らを下がらせ、私は、また。
――皆、と。
上手く、声が出ない。言葉を忘れたか。否。言葉など要らぬ世界に長く、身を浸し過ぎたに過ぎぬ。声は、声は出るはずなのだ、が。
砲口は、火を放つ。弾丸の走る先は、他でもない、私で。
狙われたのだ。何故か。私が敵だからだ。彼女らも、また。だが、しかし。
私は、私だ。共に戦った。彼女らと一緒に。なら、この言葉が通じれば――
「
あれ。
「
やっと。やっと発した言葉は、しかし。思いと反した、私の物ではない言葉。なんで。どうして。
「
違う。違う。違う違う違う違う違う。
「
逃げ出した癖に。私を置いて。
朧な記憶の、霧が晴れる。私は、何故壊されたのか。何故敗れたのか。記憶が蘇る。砕けた私が、沈み行く瞳が。最後に映したのは。
逃げ行く、彼女たちの後姿。私は、そう。盾に、囮に、たった
海の、底へ。
「
そうだ、私は。彼女達に、見捨てられ――
響く慟哭、灯る炎。叫びは、空を揺らし。体の震えは、海を揺らし。
溢れ出るは恨み、辛み。吐き出すは憎しみ。抑えることの出来ない怒りは。抱きしめた所で、体から、瞳から零れ、海面へと、落ちて。激情を乗せたその雫は。
やけに、紅く。
叫びは、彼女らに届いたろうか。叫び散らした、この言葉は。呪いは。例え、喉が裂けようと。彼女らに向けて。
許すことなど、出来ようものか。彼女らは、何の苦しみも、哀しみも無く、喜びも、嬉しさも、胸に宿した恋心も、愛も、希望も理想も未来も友情も夢も。何もかも、何もかもを、抱えたままで。のうのうと、生き続けているなんて。
彼の隣で。彼の元で。彼と共に。彼と話、彼と触れ合い、彼の、彼の、笑顔を見ながら。
私には叶わぬその未来に、彼女らは、彼女らは彼女らは彼女らは――否。彼女達、だけではない。傷付き、破損し。疲れ果てた、私を。無視し、進撃の命令を下したのは、そう。お前に、他ならない。
私を沈めたのは。殺したのは。私を置いて、私を忘れ。生き続けているのは、お前なのだ。
「……
呪詛を投げる。目の前に浮かぶ鉄塊共に。その向こうに、彼の姿を、お前の姿を思い浮かべて、呪詛を投げる。
「
伸ばす腕。砲身は既に。彼奴等に向けて。
沈めねばならない。沈めるのだ。沈め。沈めてやる。今、私が、欠片も残さず――
波の音さえ掻き消して。叫びは。罵声は、殺意は、空を、海を、世界を震わせ。
もう。この胸には、何も無い。最後に残った、あの。儚い小さな恋心さえも、何処か。雫と共に、海の底へ。恨みに駆られ。憎しみに呑まれ。残された私は。
奴らへ、全ての思いを吐き出さんと。今、全砲門に恨みを乗せて。
その。華奢な、柔らかな肉々へ。止め処無く溢れ出す、この、怨嗟を撃ち出した。