咲-Saki- 千里山編〝To the same heights.〟   作:天野斎

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7.『案内』

 ――旧校舎講堂。

 

「……であるからして、我が千里山高校における数十年の歩みは――」

 

 始業式が始まってすでに一時間。まずはじめに、という教頭の前置きを受けて壇上に上った学校長の話しは、終わる気配を微塵も感じさせないまま未だに熱弁を振るい続けている。当初こそ、その話に新鮮味を持って耳を傾けていたおれ自身ではあるが、時候の挨拶に始まり三学期の学校行事各種、三年生への受験の労い、心構えと話が移るにつれて、いよいよ以てうんざりしていた。

 

 ずっと同じ姿勢で座っていたせいか、ひどく背中が痛い。もう何度目になるか、体をほぐす意味も兼ねて、クラスごとにまとめられた列の最後尾から辺りを見渡す。

 千人以上の生徒が文字通りの一堂に押し込められた大講堂。少し息が詰まる気はしたが、その人口密度の高さのおかげか廊下のような肌寒さは感じなかった。壇上を含めた四方の壁は紅白幕で覆われており、格好だけは立派な「式」の様相を呈している。しかし、たかだか始業式にしては少しばかり大げさな気もする。この場に集っている生徒たちも、それを祝う気概は持ち合わせていないだろう。

 

 東向きの天窓からは暖かな陽光の帯が差し込み、その僅かな温もりと校長の話しを子守歌に、静かな寝息を立てている者も少なくないようだ。新学期初日、そうそう冬休み気分が抜けようはずもない。目の前に座っている江口がその筆頭な分けだが。こいつは開会五分で舟を漕ぎ出していた。

 

 背中を小突いてやろうかとも思ったが、もしかしたらこれが、この不毛な時間をやり過ごす先達のコツなのかもしれない。ふとしてあくびがこぼれる。そういえば、おれも今朝はひどく早起きをしていた。それを思い出すと、次第に瞼が重く感じられてくるのが不思議だった。転入初日くらい優等生を気取ってみるつもりだったが、さて、どうしようか。

 すでに回らなくなった頭で逡巡する。そのために、再びあくびがこぼれた。

 

(……まあ、いっか)

 

 先人は良い言葉を残している。人間、諦めが肝心だ。吹けば飛ぶような大義名分を得て、押し寄せる眠気に意識を委ねようとした。そのとき、

 

「――ということを申し上げまして、学校長としての挨拶に代えさせていただきます」

 

 無意識に聞き流していた学校長の話の中で、投げ出されていた思考が耳聡くその言葉を掠め取る。伏せていた顔を上げると、壇上ではすでに校長が軽い会釈とともに踵を返していた。程なく、講堂内が雨音のような拍手で満たされていく。

 

(終わったのか……)

 

 思わず深い溜息をひとつ。それとともに、眠気に霞んでいた意識がはっきりとしてくる。少し遅れて、おれも万感の思いを込めて拍手を送っていた。やれやれだ。

 

 それからしばらくして、拍手の波は自然と収まりを見せていく。そして頃合いを見計らうように、続きまして……と、教頭が再び次第を進めた。

 

 

 ――その後。学校長に代わって、理事長、生徒会長、教職総務、事務、各委員会、生徒指導と、大変ありがたいご高説が二時間近くに亘って続けられた。

 

 ……めげるわ。

 

 

 

 始業式を終えて、まさに『退屈な話』を延々と語り聞かされたおれは、二年一組の教室に戻って行われたLHRの席で、精根尽き果てたように自分の机に突っ伏していた。時折、前の席に座る園城寺がプリントを回しながら振り返って来るが、こっちの心中を多少なりとも察してくれているのか、おつかれ――と、労いの言葉とともに小さく苦笑を浮かべていた。

 

 まさか、たかが始業式がここまで長時間に及ぶとは思うまい。せめて、事前に話のひとつでも聞いておきたかった。まあ、こうなることが分かっていたなら、明日からの転入という選択肢に迷っていたかもしれないが。

 

 しかし、式終了直後こそ皆一様に疲労の色を覗かせてはいたが、今、五十鈴女史の言葉に耳を傾けるクラスメートたちにその気はほとんど見られない。どうやら、千里山高校の生徒としてこれから覚えていかなくてはならないことは、想像していたよりずっと多いらしい。そのことを思うと、少しばかり気が滅入ってくる。大変そうだ。

 

 まあ、新しい学校生活、早く慣れるに越したことはない。確か、今日は始業式とLHRのみの日程で授業は無し、昼には帰宅できる流れだったはず。

 それならば――、と思い至ったところで、五十鈴女史の言葉が自然と耳に届く。

 

「はい。それじゃあ、今日のHRはこれでおしまい。みんなお疲れ様!今日は部活動も全面休部の日だから、用のない生徒は早めに帰ること。明日からは通常授業だから、冬休み気分も明日までには切り替えてきてね」

 

 言葉を切ってクラスを見渡す。きっと、このとき彼女は本当にクラス全員の顔を見直しているのだろう。そう感じさせるだけの意志の籠った視線を受ける。

 

 そして、ふと思い出したように最後に言葉をつけ足した。

 

「……あ、それと竜華。これが終わったら話があるから、ちょっと前に来て」

 

 ――以上!と、朝と変わらない快活な声でそう締めくくった。その溢れんばかりの活力を少しくらい分けてほしい。それから、クラス委員に倣って礼を返す。ありがとうございました――。

 

 それが済むと同時に、教室内のあちこちから思い思いに声が飛び交い始め、次第に元の喧騒を取り戻していく。その音の波に浸りながら、体を反らせて大きく伸びをする。視界の端に五十鈴女史の元へ向かう清水谷の姿が映っていた。

 

 さてと。机の上に散らばっていたプリント類を適当に折りたたんで、脇に掛けてあった鞄に放り込む。しかし、元々の荷物の少なさもあって、いまいち鞄の必要性を感じられなかった。まあ、手ぶらで帰るわけにもいかない。

 

「なぁ――」

 

 不意に前から声が掛かる。顔を上げると、こちらを振り返っていた園城寺と目が合った。

 

「藤見君は、もう帰るんか?」

 

 突然の問い掛けに、反応が一拍遅れる。

 

「ん?……ああ、いや。ちょっと校舎の中でも見ていこうかって思ってる。まだ全然行ったことないところの方が多いからな」

 

 先ほどから考えていたことだ。用のない生徒は早めに帰るように言われたが、まあ、構わないだろう。人が少ない方が自由に見て回りやすいし、注意されたらその場で区切りをつけて帰ればいいだけの話だ。

 

 その答えに、園城寺は口元に笑みを湛えながら、

 

「さっき竜華たちと話してたんやけど、もしよかったら、うちらで校舎の案内とかしたろうかと思うてなぁ。うちらも今日は部活が休みやし、時間もたっぷりあるから。……藤見君さえよければなんやけど、どうやろう?」

 

 尻すぼみにこちらの様子を窺いながら尋ねてくる。思いもよらない提案だったが、それはおれにとっても願ったり叶ったりだ。二つ返事で頼みたいところだが、おれ自身校舎の規模を把握できていないために、それがどれほどの時間と労力を要するものなのか想像できない。

 それに、せっかくの休みに時間を取らせてしまうのも悪い気がする。

 

「こっちとしてはすごく助かるけど、いいのか?正直、自分でもどれだけ時間が掛かるか分かってないんだが……」

 

 すると彼女は、うーん、と視線を宙に泳がせながら、

 

「わたしが入学したときのオリエンテーションやと、見て回るだけやったら……、大体三時間てとこやったかなぁ――」

 

 一年以上前の記憶をたどるように、園城寺の口からぽつりとそんな言葉がこぼれた。

 

 さ――。たったひとつの学校を見て回るのに、三時間……。見て、回るだけで。

 どれだけ広いんだこの学校は!――と、窓を開け放って叫んでやりたかった。彼女たちに頼む以前に、おれのやる気が挫けそうだ。

 

 あ――、と園城寺が声を漏らす。思いがけず、絶句していたこちらの様子に気がついたらしい。少し慌てて言葉を足した。

 

「――せやけど、藤見君も同じ文系やんな。学食とか日常的に使う設備の他に、移動教室の授業と選択科目の特別教室にでも絞れば、お手軽に済むと思うで」

 

 つまり、何も考えずに見て回ったら三時間、いや、非効率に回ればそれ以上の時間と体力を浪費するはめになるということか。しかし、それはあまりに不毛としか思えない。結論として、やはり彼女たちに頼んだ方がよさそうだ。一度短い溜息を吐いてから、再び園城寺に視線を戻す。

 

「悪いけど、頼めるか。……いや、よろしくお願いします。正直、それを聞いたらひとりで回れる気がしない」

 

 彼女たちの親切心に低頭する他にあるまい。すると、くすっと噴き出すような音に続いて、園城寺の声が降ってきた。

 

「気にせんでええよ。困ったときはお互いさまや」

 

 柔らかな笑みを浮かべた彼女と再び目が合った。

 

 ――ありがたい。改めて礼を伝えようとしたところで、不意に彼女の背中に向けて、すでに聞き慣れた二人の声が掛かった。

 

「話は決まったようやな!」

 

 江口が陽気な調子で話に加わってくる。どうやら話の内容は耳に入っていたらしい。

 

「わたしの五十鈴先生からの用も済んだし、二人が良ければさっそく行こか?時間は待ってくれないで!」

 

 江口に続いて、清水谷も背中を押すように声を掛けてくる。その言葉に、教室の時計を見やる。時刻は午後十二時二十分――。

 

「ほな、まずは学食でも行って、購買でなんか買って食べよか」

 

 園城寺の提案に、江口が一際大きな声でさんせー!と応える。おれも、それに頷いて応じてから、

 

「それじゃあ、改めてよろしくな」

 

 この場に揃った、彼女たちの顔を見回して言った。

 

 

 

 再び、園城寺たちに案内されるかたちで訪れた「学生食堂」兼「学生用第一ラウンジ」は、新校舎中央棟二階にあった。他の階よりも高く設けられた天井と、新校舎のワンフロアを丸々使用した広いスペース。そして、真白く統一された壁に、整然と並べられた五十台以上はあるテーブルのせいか、ぱっと見ではその空間の広さを正確に測ることができない。

 

 普段なら、お腹を空かせた多くの学生たちにその帳を開いているだろうフードコートも、新学期初日、しかも午前授業ともなれば到底店を開けることはできないらしい。今朝方話に聞いた、かにクリームコロッケを食べられないのは残念だったが、まあ、楽しみは明日に取っておくのも悪くない。

 

 仕方なく、フードコートに隣接した購買部で惣菜系のパンと飲み物を購入してから、日当たりの良い場所を探して幾つものテーブルの合間を抜けていく。ラウンジ内には、おれたちの他にも食事目的で通っている生徒たちの姿がちらほらあったが、ある程度離れていればお互いの話し声が邪魔になることもないだろう。

 ラウンジ最奥、窓際のテーブルを選んで四人そろって席に着く。

 

 それから、各自で買ってきたものをテーブルの上に並べていく。おれは焼きそばパンとミネラルウォーター。園城寺はサンドイッチとアイスティ。清水谷は梅干しおにぎりと緑茶。江口はカレーパンにスポーツ飲料だ。おれたちが選んだものはてんでバラバラだったが、思い思いにらしい、と言えばらしいのかもしれない。

 まあ、クラスメート歴四時間そこそこのおれが言えるべきことではないが。

 

 ――いただきます。と、隣に座っていた江口が手を合わせるのを見て、自分もついそれに倣う。そして、焼きそばパンの封を切ったところで、徐に清水谷の声が掛かった。

 

「そういえば、藤見君は何で千里山に引っ越して来たん?」

 

 小首を傾げながら問い掛けてくる。そういえば、何でだったっけ……。

 

「平たく言えば、親の都合だな。父親は海外で単身赴任中だし、母親の実家がこっちの方にあったから、そこで暮らす手はずになってたんだけど」

 

 自分自身、ここまでに至る回想に浸りながら口を動かしていく。確かそんな感じだったはずだが、

 

「なってたんやけど……て、今はそこで暮らしてるんやないんか?」

 

 すると、対面に座っていた園城寺が、口元にサンドイッチを掲げたまま言葉を重ねてくる。

 

「結局、今は実家の近くでマンション暮らしだな。……そういえば、こっちに来る前に母方の祖父さんが体調崩してて、それを踏まえての帰省って話しは聞いてたけど」

 

 しかし――。そうだ、思い出した。何故こんなに自身の引越しに関わる要因についての記憶があいまいなのか。

 だが、目の前の三人はその前の話しを聞いて、何かしら不穏な空気を感じ取ったらしい。しんと静まり返る空気の中、江口が慎重に言葉を選ぶようにして尋ねてきた。

 

「そのじいちゃん、具合はもう大丈夫なんか?……」

「ん?……ああ。引っ越してきてすぐ病院に行ったら、その人なら一週間も前に元気よく退院しましたよ、って看護士の人に笑われてな。その後実家にも顔出したら、もう元気のなんのって。……おかげで引っ越してきた理由の半分を見失ってた」

 

 ありのままに起こったことを話すと、緊張に張りつめていた空気が不意に弛緩する。おれを除いた三人が一様に溜息を吐いていた。おれも溜息を吐きたい気分だ。

 

「……理由の半分て言うたけど、それ以外になんや大事な理由でもあるん?」

 

 清水谷が訊いてくるが、おれはその要因に対する明確な答えを持ち合わせてはいなかった。

 

「母さ……、母親が、いい機会だしこっちに帰ってこようって強く言い出してな。直接理由は聞いてないけど、祖父さんのこともあったし……、父親もそれには賛成だったみたいだから。いつの間にかするすると話が進んで、気がついたら転校の話しが決まってた」

 

 改めて、こうして記憶をたどってみると自分がただの馬鹿みたいに思えてくる。

 

「うーん。なんや理由でもあったんやろか……」

 

 園城寺がぽつりと言葉を漏らす。おれがすでに気にしていないことを園城寺が気に掛けていた。

 

 と、そういえば話しに夢中になっていて未だに昼食が手つかずのままだ。止まっていた手を動かして焼きそばパンを口に運ぶと、甘辛いソースの匂いが鼻腔を擽る。だが、こってりというか、油っこいというか、思いの外味付けが濃いようだ。たまらずミネラルウォーターに手を伸ばす。

 

 すると、真っ先にカレーパンを平らげた江口が徐に別の話題を振ってきた。

 

「せや!前の学校の麻雀部ってどんなとこやったん?地区大会の戦績も訊いてみたいわ」

 

 その問い掛けに、おれは視線を泳がせて思慮に耽る。どんなところか、と言われても特にこれと言って語るべき内容が思いつかない。狭い部室に手積みを要する古い雀卓、あまりに使い込まれ過ぎて擦り減った牌。劣悪な環境としては特筆していたかもしれない。

 まあ、強いて挙げるなら、顧問が少し特殊な人だったというところだが、

 

「そんな期待されても、ありふれた普通の麻雀部だったぞ。正式な部員は四人、おれも地区予選までの半年間はみっちり練習で打たされてたけど、実際は助っ人として入った似非麻雀部員だったし」

「助っ人って……。よう大会にエントリーできたな」

 

 清水谷が苦笑を浮かべながら言う。しかし、それはおれも以前から気になっていたことだ。当時、同じ疑問を顧問にぶつけてみたことがあったが、そんなことはいいから練習しろ――、の一言で一蹴されてしまった。

 そのくせ、公欠届は受理されず、一人放課後に残って補習を受けさせられる破目になったという理不尽は未だに忘れようはずもない。

 

 まあ、おれが非正規部員を名乗っているのも、初めから人数合わせという条件で練習参加を了承していたことと、……なにより、最後まで入部届に判を押した覚えがないというところに帰結しているだけだが。

 それと、

 

「戦績か……。一応、準々決勝と準決勝はなんとか一位通過出来ていたけど、二位との差はどっちも僅差だったしな。他人から見たらあんまりぱっとしないかも――」

 

「なに言うてんねん!」

 

 江口が徐にテーブルを叩いた。それなりに大きな音が鼓膜を打ち、思いがけず言葉が途切れる。はっとして目を向けると、彼女はあの熱を宿した鋭い視線でまじまじとこちらの双眸を覗き込んできていた。そして、その口元には笑みを湛えて、

 

「僅差の接戦の中でも死力を尽くしてトップを勝ち取る!それが一番面白いんや!」

 

 意気揚々とそう宣った。言ってやった、と鼻息荒く得意げな表情を浮かべる江口を、おれはしばらく呆けたまま見つめていた。辺りの静寂が耳に痛い。

 すると、小さく吹き出すような短い音がふとして止まっていた空気を震わせる。気がつくと、それはおれ自身の口から洩れていた。

 

 やはり、分かるやつには分かるのだ。

 

 一様にきょとんとした三人の顔を見渡してから、改めて言葉を重ねた。

 

「そうだな……。そっちの方が面白いよな」

 

 口の端に笑みを浮かべながら、彼女のその言葉に頷く。それに江口はせやろー、と満足げな表情で応えて見せた。

 

「そんで、決勝はどうなったん?」

 

 続けて、園城寺がその口にサンドイッチを詰め込みながら話の先を促してくる。どうでもいいけど、行儀悪いぞ。

 

「残念ながら、決勝戦は優勝校の次鋒と中堅の馬鹿ヅキもあって副将前半戦でトバされた……」

 

 何気なく平静を装って返す。しかし、あれは仕方がない。実力差がそれほど開いていたようには思えなかったが、度重なる高打点のツモ和了りで削られ続けた。十二分に実力を出しきれたかといえば、決して頷くことなどできなかっただろうが、おれたちがやってきたのは〝麻雀〟だ。そういうこともある。

 結果だけを見れば、優勝校の一人浮きだった。

 

 視線を戻すと、目の前に座る園城寺が言葉に詰まりながら、多少なりとも落ち込んでいる様子が見て取れた。訊いてきた本人が落ち込んでどうする。気づかれない程度に小さく息を吐く。

 

「まあ、おれは最後まで楽しくやれたし、試合結果にも初めから納得してる。それに、さっき園城寺たちもそれを立派な成績だって言ってくれたろう」

 

 ――だから気にするな。と、言葉を選びながら言う。

 

 それに、園城寺は一度困ったような笑みを浮かべて小さく頷くと、次第にその表情からも翳りが消えていく。やれやれだ。

 

 どうも園城寺は、当人が気にしていないことにまで、無為な気をまわし過ぎる帰来があるらしい。次からは気をつけよう。

 

「さて、そろそろええ時間やし、学校案内に出掛けよか?早うせんと日が暮れてまうかも」

 

 清水谷が冗談めかしてそんなことを口走った。日が暮れるまで?はは、まさかな……。とりあえず、急いで焼きそばパンの最後の一口を放り込む。

 

「最初はどこから見るん?」

 

 園城寺が清水谷に向かって尋ねる。

 

「うーん……。まずは、このまま新校舎から回ってこか。上の階に上れば他の校舎の立地も分かりやすいやろうし。数の多いとこから済ませてこ!セーラと藤見君もそれでええか?」

 

 お任せするわー、と隣で江口がひらひらと手を振っていた。おれも似たような心境ではあったが、今回はこちらから面倒事を押し付けてしまっているのだ。しっかりと頷いてから、任せる、と一言添える。

 

「ほな、行こか!目標は、二時間以内に全教室回るでぇ!」

 

 掛け声とともにこぶしを突き上げて、清水谷が勢いよく席を立った。

 

 あ――、やっぱり、それくらい掛かるんですね……。

 

 

 

 ――結局。園城寺たちによる千里山高校校舎内散策ツアーは、当初目標に掲げていた制限時間を大幅に超過した午後四時、日が傾きかけた西日の射し込む旧校舎内で、ようやく終わりを迎えていた。

 

「――結構時間掛かってもうたなぁ。他に回ってないとこはもうないんか?」

 

 玄関口に設けられた木製の長椅子に腰掛けながら、園城寺が声を掛けてくる。それは、この一時間ほど幾度にもわたって繰り返されてきた問答だ。答えるのはおれではない。その都度、清水谷と江口が決まってふと思い出したように、聞いたことのあるような無いような教室の名前を口にするのだ。

 

 いつの間にか、他に回っておくべき教室は――、という園城寺の台詞が、他に回っていない教室は――、に変わっていることに気づいたときには、さすがにツッコんでやろうかと思ったが、突き詰めれば彼女たちの厚意に水を差すことができなかった。

 

 おかげで最後の方は如何に効率的に回るとかそういったこととは無縁に、同じところを行ったり来たり、校舎内を右往左往する破目になってしまった。

 しかし、どうやら今回こそはこれで打ち止めらしい。

 

「おれはもう思いつかへんで。竜華はどないや?」

 

 うーん、と腕を組んで必死に考え込んでいた清水谷が徐に顔を上げる。

 

「うー……、ダメや。もう出てこうへん。なんやまだいっぱいあった気がするんやけどなぁ……。なんか悔しぃ」

 

 しょんぼりと肩を落として小さく呟いた。物騒なことを言うのはやめてほしい。清水谷が何かしら閃く前に話題を逸らした方がよさそうだ。

 

「けど、三人とも、本当にありがとな。おかげで、思っていたより早く学校に馴染めそうだ」

 

 千里山の高校の校舎がこれほど広いとは思っていなかったが、それにも増して、一日でここまで見て回れるとも思っていなかった。一人では日を改めるどころか、数日は掛かっていたかもしれない。

 それに、図書室での本の借り方や学食の食券の買い方など、実際に使用してみないと分からない多くの補足も先んじて受けることができた。彼女たちのおかげで得られたものは想像していた以上に大きかった。

 

 何かお礼のひとつもするべきだろう。その旨を三人に伝えると、

 

「そんなんええわぁ。わたしかて、えろう世話になってもうてるんやから」

 

 真っ先に反応したのは園城寺だった。その整った眉をハの字に下げ、かぶりを振って遠慮してくる。どうやら以前の出来事を引きずっているらしい。それを言われるとおれも強くは言えなくなる。というか、この先ずっとそのことを引き合いに出していくんじゃないだろうな。

 今から走ってジュースの一本でも三本でも買ってこようかと逡巡していると、そこへ江口が口を挟んできた。

 

「んなこと気にすんな。うちらも藤見の話し聞かせてもろうて、楽しかったで!」

 

 本当に、心底楽しそうな笑顔で真っ直ぐに言ってくる。

 

「同じクラスで席が近いもん同士のよしみやん。なんも気にすることないで」

 

 そばに立って様子を見ていた清水谷も、後ろ手を組んで満面の笑みを浮かべていた。

 

 視線を戻すと再び園城寺と目が合った。口元に小さく笑みを含んで、一度こくりと頷く。その三人の表情に、思いがけず毒気を抜かれていた。

 そういえば、以前コートを貸したときも、今朝マフラーを受け取らなかったときも、自分が意志を通してそうしていた。今回は最後まで、彼女たちの厚意に委ねてみるのもいいかもしれない。

 

「そっか……。ありがとな――」

 

 改めて、三人の顔を見ながらお礼を伝えた。

 

 

 

 ――すると、

 

 

「せや。ひとつだけ、藤見君にお願いしたいことがあるんやけど――」

 

 

 徐に、清水谷がそう口にする。

 それから、自分のスカートのポケットに手を伸ばすと、中にあるものに手を探っていく。その様子を、おれだけでなく園城寺と江口を含めた三人がきょとんとした表情で見つめていた。

 

 そして、彼女がポケットから取り出したものを見たとき、園城寺と江口がはっとしてほぼ同時に目を見開く。

 

 それは鍵だった。一見するとなんの変哲もない、アルミ製のタグが取り付けられた少し古い型の鍵だ。

 それがどうかしたのか。訝しげに様子を見ていると、清水谷はタグのチェーンに指を通して胸の前に吊り下げて見せた。

 

 

 その鍵につながれていたタグが、不意に、清水谷の手に振られてゆっくりと回る。

 

 そこには、こう書かれていた。

 

 

 

 ――「千里山女子麻雀部・部室」。

 

 

 

「――半荘二回。打たへんか?」

 

 

 

 

 




最後まで読んでいただきありがとうございます。

次話投稿をお待ちください。

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