咲-Saki- 千里山編〝To the same heights.〟   作:天野斎

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前回の投稿から時間を掛けてしまい申し訳ありません。

この話も、多くの人に読んでいただければ幸いです。


5.『再会』

 一月七日。今日が千里山高校転入初日となる。朝の通学路の途中、まだ通常の登校時間には早いせいもあるのか、周囲に同じ制服を着た生徒たちの姿は見えない。不意に漏れたあくびを噛みころしながら、雲ひとつない快晴の青空を見上げる。

 先週まで本州に留まっていた強烈な寒波は、行く年に連れられるようにして去っていき、長く続いていた寒さも一時の和らぎを見せていた。

 朝陽の眩しさに目を細め、再び視線を前に戻す。いつしかの交差点に差し掛かっていた。

 

 赤信号に立ち止まり、見覚えのある景色を視界に収める。真白く降り積もっていた雪は融けきり、朝の陽光に照らされたその場所は、以前訪れたときとは異なる朗らかな空気に包まれていた。

 

 そして視界の片隅、ぽつんと立てられたバス停に目が留まる。自然と、あのとき出会った少女のことが記憶に蘇る。ほんの二週間ほど前の出来事が、ずいぶんと懐かしく感じられる。おそらく、正月中の自堕落な生活が記憶の摩耗を早めているのだろう。

 ただ、別れ際に見せた彼女の笑顔が、印象的に思い起こされていた。

 

(あの子の名前、なんて言ったっけ……)

 

 ふとして湧いた好奇心に、埋没した記憶の奥底へ手を伸ばしていく。あのときの少女との会話の一端、それを引っ張り出そうと試みたところで――、

 目の前の信号が青に変わった。思慮に沈んでいた意識が不意に引き戻される。

 

(……まあ、いいか)

 

 まだ慣れない通学路、考え事をしながら歩くのは止めておこう。とりあえず、その好奇心を頭の隅に追いやり、再び学校へ向けて歩を踏み出した。

 

 

 

 ――千里山高校。

 

 千里山高校の校舎は主に、数十年の長い歴史を持つ木造の旧校舎と、共学化による生徒数増加を見越して近年新たに建てられた新校舎に分けられる。

 あらかじめ指示を受けていたように、新校舎の教員用通用口で上履きに履き替え、一路旧校舎の二階、職員室を目指す。新校舎の廊下を歩いていると、運動部の朝練と思しき喧騒がどこか遠くに聴こえてくる。

 

(部活か……)

 

 生徒のいない朝の学校の独特な空気、それはどこの学校でも変わらないらしい。まだほんの数回ほどしか通っていない学校の雰囲気に、少しだけ前の学校に似た懐かしさを覚える。

 

 職員室前の廊下、そこは以前となんら変わることのない静寂に包まれていた。新校舎の生徒たちの喧騒もここには届いてこない。長い廊下に自分の足音だけを残して立ち止まる。今回は迷わずに来られたようだ。

 ひとつ息を吐いてから、職員室の戸に手を掛ける。

 

「失礼します」

 

 挨拶とともに入室する。やはり、まだ時間が早すぎるのか職員室内に教師たちの姿はほとんど見られない。以前来たときは轟々と忙しなく動いていたストーブも、未だに沈黙したままだ。しかし、窓から差し込んでくる陽光のおかげか、室内の空気は以前と比べて遥かに心地良かった。そして、

 

「――ああ、藤見君。おはよう。こんな早くに悪いわね」

 

 この時間から職員室でたったひとり、歴然と積み上がった書類の山に、半ば埋もれるようにしてデスクワークに勤しんでいた五十鈴女史から声が掛かる。その言葉を受けて、真新しい制服のポケットから腕時計を取り出して時刻を確認する。

 

(七時十分……)

 

 いくらなんでも早すぎる。昨日の夕方、突如として掛かってきた彼女からの電話を取ってしまったことが運の尽きだろう。思わずこぼれたあくびを噛みころしながら、時計を元のポケットにしまい込み、彼女のデスクへと赴く。

 

 ――おはようございます。と、一言簡単な挨拶を返すと、五十鈴女史はこちらが尋ねるまでもなく、この理不尽な登校時間指定の理由を語りだした。

 

「いろいろ説明しておくことが多くてね。今日は始業式とLHRで授業はないんだけど、わたし、放課後は出張が入っててあまり時間が取れそうにないのよ。先延ばしにしておくのも良くないし、それならいっそのこと朝のうちにやっつけちゃいましょう!って閃いたの」

 

 はぁ……と、ため息とも取れないあいまいな返事しか返せない。閃いちゃいましたか……。とりあえず、仕方のないことと呑み込んでおくことにする。

 

「それじゃあ時間もないし、さっそく説明を始めるわね。……と言っても、ここでの説明には限界があるし、細かいところまでは補足しきれないから、その点については後でクラスの誰かに訊いてちょうだい」

 

 どうやらおそろしくアバウトな説明になりそうだ。生徒に任せられることなら、今無理に話すこともないような気がするが。

 そうこうしているうちに、五十鈴女史による千里山高校講座が始まった。

 

「まず、あなたが所属するクラスは文系二年一組。教室は新校舎の二学年教室棟四階にあるわ。担任はわたし、五十鈴遠子よ。改めてよろしくね。ウチの学校では一年から二年への進級時に文理選択によるクラス分けがされているから、二年から三年への進級時にクラス替えは行われないの。だから、今日入ってもらうクラスでそのまま卒業を迎えてもらうことになると思う。まあ、転校生の君にとってはそっちの方がいいかもね……。ウチの校舎は、三年前に新しく建てられた新校舎と、中庭を隔てて以前からある旧校舎に分けられていて、教室棟、体育館、技術系、理系の特別教室は新校舎。講堂、職員室、家庭科目、芸術系の特別教室は旧校舎という区別されているから、移動教室のときは気をつけてね。それと、新校舎の部室棟は主に運動系の部活が入っていて、旧校舎の西側の一棟は文科系部室棟として使われているから。次に、学食の使用方法についてだけど――」

 

 ――それから一時間以上にも渡って、本日0時間目、五十鈴女史の講義は続いた。

 

 

 

「――とまあ、とりあえずはこんなところかしら。さっきも言ったけど、細かい点は説明しきれないから、それは後でクラスの誰かに任せておくわ。何か質問はある?」

 

 延々と続くかに思われた話しに突如として終わりが見える。ずっとしゃべりっぱなしだったにも関わらず、五十鈴女史の表情は依然として軽やかなままだ。そのエネルギー精神には感服するが、生憎と彼女が話してくれた内容の半分程度しか頭に残っている気がしない。いや、むしろ半分でも頑張った方だと自分を褒めてやるべきだろう。

 

 とりあえず、この後おれが向かうべきは二年一組の教室で、学食のおすすめメニューはかにクリームコロッケということか。

 

「大丈夫だと思います」

 

 口から出まかせとはこのことを言う。

 

「よし。それなら、そろそろいい時間ね。HRが始まるわ」

 

 再びポケットを探って腕時計を取り出すと、時刻は八時半を少し回ったところだった。時間の経過を改めて実感する。その間に五十鈴女史は手早くデスクの上の書類をまとめ、クラスへ向かう用意を済ませていた。必要なものを小脇に抱えるようにして立ち上がる。

 

「さあ、行きましょう」

 

 こちらを見下ろすようにして呼び掛けてくる。先生を待たせるわけにはいかない。一度短く息を吐いて気持ちを切り替える。

 

 そして、痺れかけていた足に力を込めて立ち上がった。

 

 

 

 

 

 

  ―― side 怜

 

 

 

 ――息切れがする。二年教室棟の四階、自分の所属しているクラスを目指して、ひたすらに階段を上っていた。

 学年が一つ上がり、今の教室に通い始めてもう一月だ。三学期になった今でも、目の前に続く階段をしんどく感じてしまう。元より自分の病弱な体質を自覚してはいるが、せめてもう少しくらい体力をつけたい。

 

 と、今さらそんなことを愚痴っていても仕方がない。それに、今日は普段よりもいくらか足取りが軽い。一度息を吐くとともに後ろ向きな考えを払拭して、再び階段に足を掛けたところで、ひとつ下の踊り場から声が掛かった。

 

「怜、おはよう!」

 

 下へ続く階段を覗き込むと、竜華が長い黒髪と息を弾ませるように駆け上がってきていた。

 

「おはよう、竜華」

 

 いつもと変わらない何気ない挨拶を返すと、それだけで竜華の顔には満面の笑みが広がった。肩を並べて再び階段を上っていく。そして、ふと隣を歩く彼女から鼻歌が聴こえてくることに気がつく。どうやらいつにも増して機嫌が良いらしい。けど、その理由には察しがついている。

 すると、こっちの心情を知ってか知らずか、開口一番に例の話題を振ってくる。

 

「いよいよ今日やね。あの男の子が転校してくるの」

 

 ――うん。私自身、それを心待ちにする気持ちも少なからずあったと思う。ただ、その気持ちを感情的に出して喜ぶのは、私にとっては少し気恥しい。平静を装って答える。だが、それさえ竜華にはお見通しだろう。私のつれない返事を気にした様子もなく話しを広げていく。

 

「どこのクラスに入ってくるんやろなぁ。うちらのクラスになれへんかなぁ」

 

 私よりも竜華の方が期待を膨らませているようだ。

 

「うーん。文系クラスならそれもあるやろうけど、うちの学年は文系だけで五クラスもあるさかいなぁ。あんまり期待せん方がいいかも……」

「そないにいつも現実的に考えとったら来る運も逃げてまうで!……まあ、怜らしいって言えばそうやけど」

 

 逆に、感情的な期待を抱く考え方はロマンチストな竜華らしい。しかし、私の中にそのような少ない可能性に期待する気持ちが全くないわけではない。現在、文系二年五クラスの人数は均等に割り振られている。単純に考えればどのクラスになっても不思議ではない。

 

 でも、お礼を伝えるだけなら直接彼のクラスまで赴けばいいだけの話し――、になってしまう。そう思って、自分を納得させていた。

 

「怜?……」

 

 竜華に名前を呼ばれて、不意に顔を上げる。いつの間にか、二年一組の教室に着いていた。

 

 

 

 教室内に入ると、すでに半分近くの生徒たちが登校してきているようだった。何人かのクラスの子たちが挨拶をしてくれる。その声の一つひとつに応えながら、自分の席へと歩を進めていく。

 

 窓際の最後列、自分の席についたところでほっと息つく。隣の席では鞄を置いた竜華がコートに手を掛けていた。これは二年一組担任であり、麻雀部顧問の五十鈴先生による采配だ。ちなみに同じクラスのセーラの席も竜華のひとつ前と、これまた近い。

 私をいつでもサポートできるようにと、三人で話し合った結果らしい。クラスのみんなも快く了承してくれていた。

 

(そういえば……)

 

 ふとした違和感を覚えて教室内を見渡していく。いつもなら、朝クラスで誰よりも早く登校しているはずのセーラの姿が見えない。今日は、新学期初日ということで朝のミーティングの予定も入っていないはずだ。どうしたのだろう。

 

「セーラ、まだ来とらんみたいやけど……」

 

 隣に立っていた竜華も同じことを考えていたらしい。少なくともセーラが体調を崩すなど想像できない。だからこそ、今ここに彼女がいないことが気掛かりだ。教室に設置された時計はすでに八時半を回っている。

 

「心配やし、一度電話してみた方がええかな」

「掛けてみるわ!」

 

 竜華が自分のケータイを引っ張り出そうと、机に掛けていた鞄に手を伸ばした。そのとき――、

 

 ――バンッ!

 

 一際大きな音を立てて教室後方の戸が勢いよく開け放たれた。

 

「やっと着いたぁ!」

 

 その声に驚いたのは当然私たちだけではなく、クラス中の視線がそこへ集まる。

 そこには、机と椅子の一式を両腕で抱えたセーラの姿があった。よく見ると赤ら顔を浮かべ、肩で息をしている。

 

 しばらくの間、床に置いた机一式に上半身を突っ伏して息を整えていたセーラだったが、徐に顔を振り上げると、よいしょっ――と、気合を入れてそれを持ち直し、私たちの席まで近づいてくる。

 私の席のひとつ後ろ、開いていたスペースに机を置くと、セーラは盛大に息を吐いた。

 

「っぷはぁぁ。もうダメや……」

 

 力を使い果たしたように、再びその机に突っ伏す。だが、今度は中々起き上がろうとはしない。その間もクラス中の視線はセーラに向けられているのだけど。思いもよらない静寂が教室を包み込む。

 と、そこでようやくその沈黙を破るようにして、竜華が口を開く。

 

「あの、セーラ。その机どうしたん?……」

 

 クラスみんなが一様に抱いていた疑問だ。その言葉に、セーラはもう一度深く息を吐くと、徐に顔を振り上げて教室前方を指さしながら言い放つ。

 

「あれや、あれ!」

 

 わたしも振り返ってセーラの示した先、黒板の片隅に視線を移す。そこには――、

 

『セーラへ。朝のHRまでに机一式を技術室から運んでおいて。必ず!』

 

 小さいメモ書きにそう書かれていた。あれは五十鈴先生の字だろうか。黄色いチョークで目立つように囲われている。

 

 麻雀部に所属する私たち三人はクラス担任が麻雀部顧問ということもあり、部活のこと以外にもクラスの仕事や手伝いなどを任されることがある。それらのほとんどは荷物運びや連絡の伝言などの雑多なものだが、それが力仕事となると五十鈴先生はセーラを名指しすることが多い。

 確かにセーラは自他ともに認める力持ちだと思う。しかし、同じ校舎内とはいえここから技術室まではさすがに遠い。一度階段を一階まで下りて、長い廊下を抜け、再び上り直すだけでも一苦労だ。それに机一式という大荷物が伴えば、普段から元気が取り柄のセーラといえどもバテもするだろう。

 

 苦笑を浮かべて声を掛ける。

 

「あはは……、これはきっついなぁ」

「待っとってくれたら、うちらも手伝ったのに」

 

 ようやく息も落ち着いたらしい。突っ伏していた上半身を起こしながら返してくる。

 

「別にこんくらいなんでもない。それに、おれに任された仕事やからな」

 

 口元に得意げな笑みを湛えてそう応える。せやけど疲れたぁ――と、今度は背を倒して大きく伸びをして見せた。

 セーラらしい答えだ。竜華も同じことを思っていたのか、そんなセーラの様子を見て二人で小さく笑い合った。

 

「でも、良かったなぁ。怜」

 

 セーラが先ほどとは違う、心底楽しそうな笑みを浮かべて話しを振ってきた。

 

(良かった?……)

 

 何のことか分からず呆けていると、その様子を眺めていた竜華が目を見開いてぱんっと手を叩く。

 

「せや!やったやん、怜。ウチのクラスに机が一コ増えるっちゅうことは……」

 

 ちゅうことは――と、竜華の言葉を頭の中で反芻したところで、二人の言っていることに一つの考えが思い至る。

 

「転校生がウチのクラスに来るっちゅうことか――」

 

 思いがけず息をのむ。確かに、その通りだ。まさか竜華の言うとおり、本当に同じクラスになるなんて――。

 二週間前の出来事がふとして思い起こされる。

 本当に、不思議な縁だと思う。

 

 すると、不意に竜華がぽつりと呟いた。

 

「ひょっとしたら、五十鈴先生の采配なんかも……」

「五十鈴先生?……」

 

 何故そこで一組担任の名前が出てくるのだろう。

 

「なんや、五十鈴先生にもあの話しとったんか?」

 

 セーラが頭の後ろで手を組みながら尋ねてくる。

 

「うちはなんも話してへんけど……」

 

 不慣れな転校生をサポートできるように見知った生徒のいるクラスに割り振る。それはおかしなことではないけど。

 

「ちゃうちゃう。多分怜とのこととは関係あれへんよ。実は、わたしがあの男の子に会うた後、五十鈴先生からちょっとだけ話しを聞いてなぁ。その内容が――」

 

 そのとき、竜華の言葉を遮るようにして、始業を告げる鐘が鳴り響いた。教室の時計に目を向けると、時刻は八時四十分を指している。朝のSHRが始まる。席を離れていた生徒や、廊下に出ていた生徒たちが自分の席に戻ろうと、教室内が一時の喧騒に満たされる。

 それに竜華はひとつ溜息を吐くと、

 

「はぁ、時間かぁ。この話はまた後でやな」

 

 確かに、ほどなく五十鈴先生もやって来るだろう。続きは気になったが、今は仕方ない。話しを途中で切り上げて、私たちも自分の席に着く。

 

 教室内の喧騒はまだ収まっていない。でも、それらの音がどこか遠くに聴こえていた。

 

(なんや、ちょっと緊張してるんかな……)

 

 目を伏せると、机の上に置いていた白いマフラーが目に留まる。それを一度手に取って、ゆっくりと息を吐く。そして――、

 

 

 

(これ、やっぱり返した方がええかな――)

 

 

 

  ―― side out

 

 

 

 

 

 

 ――教務室を出て、五十鈴女史と適当な雑談をしながら歩き続けること五分ほど。幾段もの階段を踏み越えてようやく新校舎の二年教室棟四階、二年一組の教室の前に立つ。相変わらず無駄に広い学校だ。

 

 そして、隣に立って出席簿と配布物の最終確認を余念なく行っていた五十鈴女史が、よし!という掛け声とともにこちらを振り返って言う。

 

「それじゃあ、クラスのみんなとご対面といこうかしら。わたしに続いて入ってきて」

 

 彼女のその言葉を受けて、否応なく自分の中で緊張が高まっていくのを感じる。短い息を吐いて、気持ちを切り替える。その様子を見て取った五十鈴女史はわずかに笑みを浮かべると、踵を返して教室前方の出入口の前に立つ。

 

 だが、引き戸に手を掛けたところで、彼女はもう一度振り返って言葉を重ねた。

 

「――君にとって、この千里山高校での一年が、何よりかけがえのないものになることを願っているわ」

 

 真っ直ぐに合わされた視線を逸らすことができない。五十鈴女史の言葉が人気のない廊下に静かに響く。

 すると、その声を聴きつけたのか、自然と教室内の喧騒が収まっていく。

 

「場が整ったようね。それじゃあ今度こそ、行きましょうか」

 

 真新しいステンレスの戸が軽快なスライド音とともに開かれた。

 

 

 

 

 

 

  ―― side 怜

 

 

 

 ――生徒たちの喧騒が静まっていく。教室内の空気が変わるのを感じて、伏せていた顔を上げる。

 途端に、教室の前方の戸が軽快な音を立てて開く。開けたのはもちろん、担任の五十鈴先生だった。彼女は一度、後方へ振り返って目配せすると、改めて教壇へと進んでいく。そして――、

 

 開かれた戸から、先生に続くようにして教室に入ってくる一人の男子生徒。その姿を見て教室内の空気が少しざわめき立つのが聴こえてくる。教壇に上がり、五十鈴先生と並ぶようにして立ち止まる。彼の視線が私たちクラスメートに向けられていた。

 

(あの人や――)

 

 あのとき出会った男の子。本当に、また会うことができた。

 

「はーい。みんな静かに」

 

 五十鈴先生が手を叩いて教室内の浮ついた空気を引き戻す。

 

「おはよう、みんな。それから、明けましておめでとう。最近は少しだけ暖かくなってきたけど、とりあえずは新学期初日、一人の欠席もなくクラスのみんなが揃っているようで安心したわ」

 

 彼女らしい、気持ちの良い声が教室内の隅々にまで響き渡る。しかし、私自身がそうであるように、クラスみんなの好奇心は全て彼女の横に向けられている。正直、話しの内容は右から左だ。

 そして、彼女もそれを察していたのだろう。ひとつ短い息を吐くと、

 

「はいはい。それじゃあ、配布物とか細かい連絡事項は後回しにして、みんなお待ちかね。転入生の紹介に入ろうかしら。藤見君、お願い」

 

 ――はい。五十鈴先生の言葉に短く返すと、彼は改めて教室全体を見渡しながら声を張る。

 

「昨年末に新潟からこの町に引っ越してきました。藤見弥彦です。雪に囲まれた田舎育ちなので、まだ都会の生活に不慣れなところも多いですが、一年間よろしくお願いします」

 

 そう締めくくって頭を下げる。それとともに教室内から徐々に大きな拍手が巻き起こる。よろしくなぁ――と、所々で歓迎の声も上がっていく。

 

 私も、彼の挨拶に例外なく歓迎の意を込めて拍手を送っていた。以前話したときより少し硬い印象を受けたが、彼も緊張しているのだろうか。そう思うと、つい先ほどまで自分も緊張の只中にいたことが可笑しく思えて、ふと笑みがこぼれる。

 

 そして、自然と教室内の拍手が収まったところで、五十鈴先生が再び手を打ち鳴らす。

 

「はい。藤見君、ご苦労様。一年間っていう割とあっという間な時間だけど、藤見君も、それにみんなも、改めてよろしくね。それじゃあ藤見君の席だけど……、怜!」

 

(……え)

 

 不意に名前を呼ばれて反応が遅れてしまう。

 

「は、はい」

 

 少し遅れて、椅子を蹴るようにして慌てて立ち上がる。

 

 と、そこで初めて、こちらに目を向けた彼と視線が交差する。私の姿を見て、彼が驚きに目を見開くのが分かる。やはり、私のことを覚えていたのだろうか。

 とは言え、いきなり格好悪いところを見せてしまった。顔が火照って熱くなるのを感じる。

 

「藤見君の席はあの子のひとつ後ろね。さっきも言ったけど、分からないことがあったら周りの子に訊くようにして。……て、藤見君?」

 

「あ、はい……。了解です」

 

 一瞬怪訝な表情を浮かべて、彼と私を一瞥する五十鈴先生だったが、すぐに気を取り直して先を続ける。

 

「はい。それじゃあ藤見君も怜も席について。HRを始めるわ」

 

 緊張の糸が解けるように、ふっと足から力が抜ける。先生に言われた通り、私は意図せず着席していた。そして、彼の方も教壇から降りて自分の席、つまりは私のひとつ後ろの席へと歩を進めて来る。

 

(えと、やっぱり、わたしから声を掛けた方がええんかな。お礼も言わなアカンし……)

 

 いくつもの言葉が頭に浮かんでは消えていく。

 

 そうしている間に、彼が私の机の前までやってくる。そのとき、再び彼と視線が重なった。

 

 

 

 今、私が彼に伝えるべき言葉。それは――、

 

 

 

 

 

 

「――その節は、お世話になりました」

 

 

 

 

 

 

 




最後まで読んでいただきありがとうございます。

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